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境界線 -r15-  作者: あい
境界線

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11/24

十三日目:重なり合う空白

奥様が社員旅行へ。重なり合ったお互いの「空白」。近所の目があるからとためらう私に、彼は「うちに上がってください」と手を差し伸べます。


(朝:光の中の「正解」を見送る)


 十三日目の朝、窓から差し込む光は春の力強さを増し、部屋の隅々まで容赦なく照らし出していた。


 カーテンの隙間から外を覗くと、隣のガレージで車が動き出す気配がした。そこには、斎藤さんと奥様の姿があった。

 日曜日の朝、夫婦揃ってお出かけ。それは、この静かな住宅街において、最も正しく平穏な「幸せの形」に見えた。

 昨日、あの闇の中でビールを片手に同じ火花を見つめていたのが、まるで遠い夢の中の出来事のように感じられる。


 斎藤さんは運転席に座り、奥様を助手席に乗せて軽やかに通りへと消えていった。

 夫が出張に出てから、今日で六日目。一人きりの家は驚くほど静かで、私のリズムを乱すものは何一つない。

 けれど、あの車が角を曲がって消えていくのを見送った後、私は少しだけ深い、名もなき溜息を吐いた。


 午前中は、溜まっていた事務作業を淡々とこなした。

 朝のルーティンとしてパジャマはすでに着替え、日中の自分として机に向かう。一度袖を通した服はすぐに洗うのが私のルールだ。

 昨夜、彼と一緒に過ごした時の服もすでに洗い終え、今は春風に揺れている。

 けれど、心の中にある「昨夜の余熱」だけは、どうやっても洗い流すことができないまま、私の内側に居座っていた。



(昼:裏庭の密やかな誘い)


 時計の針が正午を回った頃、私は凝り固まった身体をほぐそうと裏庭へ出た。

 日差しは温かく、タバコの煙が春の空気に白く溶けていく。いつもの定位置に腰を下ろすと、ガレージに車が戻ってくる音がした。


 「――高石さん、お疲れ様です」


 フェンス越しに現れたのは、いつの間にか帰宅していた斎藤さんだった。

 彼は午前中の「夫」の顔を少しだけ和らげ、いつもの穏やかな表情でそこに立っていた。


 「お疲れ様です。お出かけ、早かったんですね」


 「ええ。少し用事を済ませてきただけですから。……実は、家内が今日から四日間、社員旅行に行くことになりまして。今、駅まで送ってきたところなんです」


 斎藤さんはどこか晴れやかな、それでいて少しだけ共謀を求めるような瞳で私を見た。

 私の旦那は明日帰ってくる予定だったけれど、彼の奥様は今日から数日間不在になる。

 お互いに「一人」になるタイミングが、パズルのピースがはまるように重なった瞬間だった。


 「ところで、高石さん。もしよろしければ、お昼でもどうですか?」


 唐突な、けれど昨日からの流れを汲むような自然な誘い。

 私の心は一瞬、期待に揺れた。けれど、すぐにこの「辺鄙な場所」特有の、近所の目が脳裏を掠めた。

 駅から歩いて三十分もかかるこの住宅街では、誰がどこで何をしているか、驚くほど筒抜けだ。


 「……いいですね。でも、外で食べるのは、ちょっと近所の目もありますし……」


 私が言い淀むと、斎藤さんは「ああ、そうですね」と頷き、明るい声で提案した。


 「それなら、Uberで何か頼みましょうか。うちに上がってもらって、そこで食べれば、誰の目も気にしなくて済みますし」


 その提案は、あまりに合理的で、そして何よりも私たちの関係をさらに一歩深めるものだった。

 私は二つ返事で「お願いします」と答え、再び彼の家の玄関へと向かった。



(午後:琥珀色の沈黙と、週末への約束)


 二度目となる斎藤さんの家。

 奥様を駅まで送り届けたばかりの静かなリビングには、彼女が今朝までそこにいた名残……丁寧に生けられた花の香りや、整えられたクッションの端々に「夫婦の日常」の気配がまだ色濃く残っている。


 その空間に、日中の装いに整えた私が座っている。

 主の一人が欠けたばかりのその場所にいる事に、私は昨日よりも少しだけ強い緊張感を覚えていた。


 注文を終え、食事が届くまでの間。私たちは昨日淹れてもらったあのコーヒーの余韻について、そして昨夜のビールの冷たさについて語り合った。


 「昨日のお洋服、とってもかわいかったですよ。……あ、もちろん、着ているご本人が素敵だからこそ、なんですけどね」


 斎藤さんが不意に、少し茶目っ気のある表情でそう言った。

 私は一瞬言葉を失い、顔が熱くなるのを感じた。

 服を褒められるのも嬉しいけれど、「本体あなたがあってこそ」という言葉の裏側に透ける彼の本音のようなものが、私の心の奥を優しく、けれど激しく揺さぶった。


 やがてインターホンが鳴り、届いた食事をテーブルに広げた。

 店で食べるよりも、ずっとリラックスした空気。私たちは昨日までの「朝の数分間」という枠を飛び越え、ゆっくりと食事を分かち合った。


 「……美味しいですね、これ。家で一人で食べるより、ずっと」


 私の言葉に、斎藤さんは深く頷いた。

 「本当に。……僕も、家ではいつも一人か、あるいは義務のような食事が多いですから。こうして誰かと向き合って食べるのは、久しぶりかもしれません」


 その言葉の裏側に、彼が抱えている孤独が見えた気がした。

 私の家も同じだ。家のことはすべて私がやり、誕生日さえ忘れられてしまう日々。

 そんな中で、この隣人が私と同じ空虚を抱え、それを埋めるための時間を私と共有している。


 ふと、斎藤さんが思い出したように口を開いた。


 「……明日、ご主人が帰ってこられるんですよね」


 その問いに、私は手元にあるカップを見つめたまま、少しだけ声を落として答えた。


 「それが……ちょっと延長したみたいで、週末まで戻ってこなくなりました」


 部屋の中の空気が、一瞬で熱を帯びるのを感じた。

 明日終わるはずだった私の「空白」が、唐突にその寿命を延ばしたのだ。

 斎藤さんの目には、驚きと、それから隠しきれない小さな悦びのような光が宿った。


 「……週末まで、ですか」


 彼は私の言葉をなぞるように、低く呟いた。


 「それなら。……週末、近くにある温泉にでも行きませんか。意外と静かで、ゆっくりできる場所があるんです」


 日常のすぐ隣にある、けれど私たちにとっては禁断の場所。

 「近くにある」という言葉が、逆に逃げ場のない親密さを物語っているようで、私の耳元で熱を持って響いた。


 「近く、ですか……。行きましょう」


 その約束を交わした瞬間、私たちの間の空気は、昨日花火をした時よりも、もっと密やかで、濃密なものへと変わった。



(夕暮れ:境界線の向こう側へ)


 彼の家を出て、自分の家に戻る短い道中。

 一度着た服を、私はすぐに洗濯機へ放り込んだ。たとえそれが、大好きな彼に褒められた大切な服だとしても。清潔であることを、自分を守るためのルールとして貫く。


 洗濯機が回る音を聞きながら、私はリビングに座った。

 明日終わるはずだった静寂が、あと数日、私のものとして残っている。


 夜。入念にバスタイムを終えた私は、彼が「かわいい」と言ってくれた、あの毛玉一つないお気に入りのパジャマに袖を通した。

 鏡の中の私は、いつもの自分よりもずっと目が潤んでいて、頬が微かに上気している。


 (……温泉。近くに、こんなに楽しみな場所があったなんて)


 週末までの数日間、私はこのパジャマ姿の素の自分を抱きしめながら、彼と交わした「近くの温泉」への約束を、何度も何度も反芻することになるのだろう。


二人で囲む配達の食事。夫の出張が週末まで延びたことを伝えると、彼が提案したのは、近くの温泉への……誘いでした。


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