ハル・ノート
1941年11月26日。
その日は、静かに訪れた。
「総理、ワシントンから緊急電です」
秘書官が蒼白な顔で飛び込んできた。
「米国から、正式な覚書が提示されました」
俺は電報を受け取った。読み進めるうちに、顔から血の気が引いていくのが分かった。
ハル・ノート。歴史通りだ。
「中国および仏印からの全面撤退」「満州国の否認」「日独伊三国同盟の実質的破棄」
これは——事実上の最後通牒だ。
「総理……」
秘書官が心配そうに見ている。
俺は深呼吸した。落ち着け。歴史を知っている俺には、これが来ることは分かっていた。問題は、ここからどうするかだ。
「緊急閣議を招集しろ。それから、軍部の主要メンバーも呼べ」
1時間後、首相官邸に主要メンバーが集まった。
「諸君、米国からハル・ノートが提示された」
俺は内容を読み上げた。室内に怒号が響く。
「これは屈辱だ!」
「我々を属国扱いするつもりか!」
「開戦だ!今すぐ開戦すべきだ!」
俺は手を上げて静寂を求めた。
「待て。冷静になれ」
「冷静に!?この内容で冷静でいられるか!」
「いられるさ」
俺は強く言った。
「いや、いなければならない。今、感情で動けば、米国の思う壺だ」
俺は地図を広げた。
「これを見ろ。ハル・ノートの内容は確かに厳しい。だが、これは米国の『最終案』ではない。『交渉案』だ」
「交渉案だと?」
「そうだ。米国は我々に最大限の要求を突きつけた。だが、これで交渉が終わったわけではない。我々が対案を出せば、交渉は続く」
「対案など——」
「ある」
俺は資料を配った。
「これを見てくれ。『日米暫定協定案』だ」
資料には、俺が徹夜で作成した提案が書かれていた。
「中国南部からの即時撤退。北部からは5年計画で段階的撤退。仏印からは即座に全面撤退。満州国については、国際監視下での自治政府化を検討。三国同盟については、軍事条項の凍結」
「これでは——」
「これでも大幅な譲歩だ」
俺は遮った。
「だが、ハル・ノートの要求よりは遥かにマシだ。そして何より、これなら国内の理解を得られる」
海軍大臣が口を開いた。
「しかし、陸軍は納得するでしょうか」
俺は参謀本部の将校たちを見た。彼らは苦渋の表情を浮かべている。
「諸君」俺は静かに言った。「俺は陸軍の人間だ。陸軍を愛している。だからこそ聞く。開戦して勝てるのか?」
沈黙。
「南方作戦は成功するだろう。だが、その後は?米国の工業力、物量に対抗できるのか?2年、3年と戦争が続いたとき、日本は持ちこたえられるのか?」
塚田参謀次長が重い口を開いた。
「……持ちこたえられません。我々も分かっています」
「ならば」俺は全員を見回した。「今は耐える時だ。屈辱に耐え、外交で活路を見出す。それが日本を救う唯一の道だ」
「だが、米国がこの暫定協定案を拒否したら?」
「その時は……」俺は言葉を選んだ。「その時は、再度検討する。だが、今この瞬間に開戦を決定する必要はない」
外務大臣の東郷茂徳が発言した。
「私は東條総理の案を支持します。まだ外交の余地はある」
一人、また一人と、賛成の声が上がった。もちろん、全員が納得したわけではない。だが、東條英機という存在の重みが、場を抑えていた。
「では、この暫定協定案を米国に提示する。同時に——」
俺は別の資料を取り出した。
「英国、ソ連、そして中国にも、それぞれ働きかけを強化する。米国を外交的に孤立させる」
「米国を孤立?」
「そうだ。米国内にも反戦派はいる。『なぜ日本と戦争しなければならないのか』という声だ。我々が譲歩案を示し、かつ他国が日本支持に回れば、米国は強硬策を維持できなくなる」
俺は立ち上がった。
「時間稼ぎだ。1ヶ月でいい。いや、2週間でもいい。その間に状況を変える」
閣議は俺の提案を承認した。だが、会議が終わった後、近衛が俺を呼び止めた。
「東條君。本当に大丈夫なのかね」
「分かりません」俺は正直に答えた。「でも、やるしかない」
「君は変わったね」
「え?」
「以前の君なら、こんな柔軟な外交はしなかった。何があったんだい?」
俺は苦笑した。転生したとは言えない。
「……目が覚めたんです。このままでは日本が滅ぶと」
近衛は複雑な表情で頷いた。
「頼むよ、東條君。日本を救ってくれ」
その夜、俺は一人執務室に残った。
暫定協定案を米国に送る。だが、それだけでは足りない。
「グルー大使に直接会おう」
ジョセフ・グルー駐日米国大使は、知日派として知られている。彼なら、話が通じるかもしれない。
翌日、俺はグルー大使を官邸に招いた。
「東條総理。お招きいただき光栄です」
「グルー大使。単刀直入に申し上げます」
俺は暫定協定案を手渡した。
「これが日本の最大限の譲歩です。これ以上は、国内をまとめられません」
グルーは資料を読み、深いため息をついた。
「東條総理。私個人としては、この案は合理的だと思います。しかし、ワシントンが受け入れるかは……」
「分かっています。だからこそ、貴方に頼みたい」
俺は身を乗り出した。
「この案をワシントンに強く推薦してください。米国にとっても、日本との戦争は得策ではない。太平洋で消耗すれば、対独戦に支障が出る」
「チャーチル首相は日本との開戦を——」
「チャーチル首相は、表向きはそう言っています。だが、本音では太平洋の安定を望んでいるはずです。英国は既に、私との間で秘密交渉を進めています」
グルーの目が見開かれた。
「英国と?」
「ビルマルート問題、香港の扱い。譲歩できる部分は譲歩すると伝えています。英国が日米の仲介に動けば、状況は変わる」
「……東條総理。貴方は本気で戦争を避けたいのですね」
「当然です」俺は強く言った。「日米が戦えば、双方に莫大な犠牲が出る。それを避けたい。私は軍人ですが、無意味な戦争は嫌いです」
グルーは長い沈黙の後、頷いた。
「分かりました。ワシントンに強く進言します。ただし、約束はできません」
「十分です。ありがとうございます」
グルーが去った後、秘書官が報告に来た。
「総理、英国から連絡です。チャーチル首相が、日英米三国会談の可能性を示唆しています」
「本当か!?」
「ただし、米国の同意が前提です」
「構わない。これは大きな前進だ」
さらに報告が続く。
「中国の重慶政府から、非公式な返答がありました。段階的撤退案について、前向きに検討するとのことです」
「ソ連は?」
「モロトフ外相が、日ソ不可侵条約の強化に合意しました。北樺太の採掘権延長と引き換えに」
全てが動き出している。まだ確定ではない。だが、可能性は見えてきた。
12月初旬。
歴史では、今頃は真珠湾攻撃の準備が最終段階に入っているはずだった。だが、この世界では違う。
「総理、連合艦隊司令長官の山本五十六大将がお見えです」
「通してくれ」
山本五十六。真珠湾攻撃を立案した人物だ。彼は何を言いに来たのか。
「東條総理」
山本は敬礼した後、静かに言った。
「私は、総理の方針を支持します」
「……山本大将」
「対米戦は、やるべきではない。私はそう考えていました。だが、開戦が既定路線になりつつあった。それを覆したのは、総理、貴方です」
山本は深く頭を下げた。
「海軍を代表して、感謝します」
俺は複雑な気持ちだった。歴史では、この山本五十六が真珠湾攻撃を成功させる。だが、それは彼が望んだことではなかった。
「山本大将。もし、外交が失敗したら——」
「その時は」山本は真剣な目で言った。「海軍は全力で戦います。だが、今は外交を信じましょう」
「ありがとうございます」
12月6日。
歴史では、この翌日に真珠湾攻撃が行われる。
俺は官邸で、米国からの返信を待っていた。グルー大使を通じて送った暫定協定案への回答だ。
「総理、ワシントンから電報です!」
秘書官が駆け込んできた。
俺は電報を受け取り、読んだ。
「……これは」
内容は——米国政府は暫定協定案を「検討に値する」と評価。ただし、さらなる詳細な協議が必要。日米高官級会談の開催を提案する——。
「やった……」
俺は思わず声を上げた。
「やったぞ!戦争を止められる!」
秘書官も、護衛も、皆が歓声を上げた。
まだ確定ではない。高官級会談で合意に至るかは分からない。だが、少なくとも、12月8日の開戦は避けられた。
俺は窓の外を見た。
東京の夜。この街は焼かれない。広島も、長崎も無事だ。310万人は死なない。
「まだ終わりじゃない」俺は自分に言い聞かせた。「これからが本当の戦いだ」
だが、最悪の未来は、確実に遠ざかっている。




