最悪の瞬間に転生した件
【重大な注意事項】
本作品は完全なフィクションです。実在の人物名や歴史的事実を扱っていますが、実際の歴史とは大きく異なる架空の物語です。特定の国家や人物を貶める意図はなく、「もしも歴史が違っていたら」という仮想を娯楽作品としてお楽しみください。実際の歴史認識については、歴史書や資料をご参照ください。
目が覚めると、俺は畳の上に正座していた。
「……は?」
周囲を見回す。古めかしい和室。障子から差し込む柔らかい光。そして目の前には、軍服姿の男たちが居並んでいる。重苦しい空気。張り詰めた緊張感。
鏡が目に入った。そこに映っているのは——東條英機の顔だった。
心臓が止まりそうになった。いや、待て。落ち着け。これは夢だ。絶対に夢だ。
「東條、どうした。顔色が悪いぞ」
隣に座る近衛文麿が、怪訝そうにこちらを見ている。近衛文麿。教科書で見た顔だ。本物だ。これは夢じゃない。
脳内に大量の記憶が流れ込んでくる。俺は——田中徹。平成生まれの高校教師。専門は日本近現代史。昨日、車に轢かれて——。
そして今、俺は1941年10月16日、東條英機として内閣総理大臣に就任する直前の御前会議にいる。
「では、議題に入る」
枢密院議長の声が響く。
「現在、帝国は米国による石油禁輸措置により、極めて厳しい状況に置かれている。ABCD包囲網により、資源の供給路は完全に断たれた。このままでは、半年後には石油が枯渇する」
周囲の男たちが神妙な顔で頷く。
「陸軍は対米開戦を主張している。海軍は慎重論を唱えているが、時間的猶予はない。東條、貴殿は陸軍の代表として首相に推挙された。いかがお考えか」
全員の視線が俺に集中した。
この瞬間、俺は理解した。ここで「開戦やむなし」と答えれば、歴史は元の通りに進む。1941年12月8日、真珠湾攻撃。そこから4年間の地獄。ミッドウェー海戦での敗北、サイパン陥落、東京大空襲、沖縄戦、そして広島・長崎への原爆投下。
310万人の日本人が死ぬ。
冷や汗が背中を伝う。手が震える。だが、ここで躊躇するわけにはいかない。
「諸君」
俺は声を絞り出した。
「拙速な開戦は避けるべきと考えます」
室内の空気が一変した。ざわめきが広がる。
「東條!貴様、何を言っている!陸軍の総意は——」
「待て」
俺は手を上げた。
「私は陸軍の代表として、冷静に状況を分析した結果を述べている」
俺は東條英機の記憶を必死に探る。軍事データ、諜報情報、全てが頭の中にある。
「確かに米国の石油禁輸は我が国を追い詰めている。だが、開戦した場合の勝算を冷静に計算したか?」
俺は資料を取り出した。東條の記憶にあった軍事報告書だ。
「米国の工業生産力は我が国の10倍以上。鉄鋼生産量は年間8000万トン、我が国は700万トン。航空機生産能力は年間5万機、我が国は5千機程度。造船能力も圧倒的な差がある」
数字を示すと、室内の空気が変わった。皆、知っていたはずだ。だが、誰も口に出さなかった。
「石油備蓄は現在約800万キロリットル。これは平時で2年分、戦時なら1年半で枯渇する。南方の油田を占領したとしても、タンカーを護衛する海軍力が不足している。米国の潜水艦に輸送船を沈められれば、石油は日本に届かない」
「だが、座して死を待てというのか!」
参謀本部の将校が怒鳴った。
「いや」俺は静かに、しかし強く言った。「外交による解決を模索すべきだ」
「外交だと?米国は我々に中国からの全面撤退を要求している!満州すら放棄しろと!」
「ならば段階的な妥協案を提示する」
俺は立ち上がった。
「中国での駐留軍を部分的に削減する。まず華北から一部を撤退させ、誠意を示す。同時に仏印の駐留軍も段階的に縮小する。これを米国に提示し、石油禁輸の部分的解除を交渉する」
「それで米国が——」
「受け入れるかは分からない」俺は正直に言った。「だが、やらずに開戦するよりは遥かにマシだ。開戦すれば、我が国は必ず敗れる。それは軍事的な事実だ」
室内が静まり返った。
「同時に、英国との関係改善も図る」俺は続けた。「チャーチル首相は対独戦で手一杯だ。太平洋での紛争拡大は望んでいない。英国との個別交渉の余地はある」
「ソ連は?」
「日ソ中立条約を強化する。スターリンは独ソ戦で疲弊している。日本が北進せず、シベリアの脅威にならないなら、条約の強化に応じるはずだろう」
俺は会議室を見回した。
「つまり、米国を孤立させる。英国、ソ連との関係を改善し、米国が対日強硬策を維持するコストを上げる。そうすれば、米国内の穏健派が台頭する余地が生まれる」
「しかし、陸軍のメンツは——」
「メンツか」俺は厳しい目で将校を見た。「メンツのために何百万の国民を死なせるのか?東京が焼け野原になり、広島と長崎に新型爆弾が落とされ、一瞬で数十万人が蒸発する。それでもメンツが大事か?」
新型爆弾——原爆のことだが、詳細は言えない。だが、ニュアンスは伝わったはずだ。
「東條総理」
近衛が口を開いた。
「貴殿の分析は理解した。だが、米国が交渉に応じなければ?」
「その時は……」俺は唇を噛んだ。「その時は、やむを得ない。だが、全ての外交手段を尽くしてからだ。今、この瞬間に開戦を決定する必要はない」
長い、長い沈黙。
やがて、海軍大臣が頷いた。
「海軍としては、東條総理の方針を支持する。我々も開戦には慎重であるべきと考えていた」
一人、また一人と、賛同の声が上がった。もちろん、全員が納得したわけではない。特に陸軍の強硬派は不満そうだ。だが、東條英機——陸軍のトップ中のトップ——が言うことには、逆らえない。
「では、東條総理の方針で進める」
枢密院議長が宣言した。
「外交による解決を最優先とする。ただし、期限は設ける。2ヶ月だ。2ヶ月以内に米国との交渉に目処が立たなければ、再度協議する」
2ヶ月。12月中旬までだ。歴史では12月8日に開戦している。それまでに何とかしなければ。
会議が終わり、俺は一人、廊下に立った。
「やった……第一関門は突破した」
だが、これはまだ序章に過ぎない。本当の戦いは、これからだ。
窓の外、秋の空が広がっていた。あと2ヶ月で、この空の下で戦争が始まるはずだった。それを止める。絶対に。
「待ってろ、日本の未来。俺が絶対に守ってやる」
俺は拳を握りしめた。
東條英機として転生した、歴史教師・田中徹の戦いが、今、始まった。




