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4.ギヨーム殿下とルシアン殿下

 わたくしがルシアン殿下と結婚して離宮に来てから一週間ほど経ったころ、庭を散歩していると、ルシアン殿下の声が聞こえた。

 女性の悲鳴も聞こえる。


「お助けください! どうか、お許しください!」

「ギヨーム兄上、これ以上罪を重ねるのはおやめください。彼女は家に戻してあげてください」

「何を言う! お前の意見など聞いていない!」


 ばしんっと何かを叩く音がして、びくりとわたくしが体を震わせると、乳母がわたくしに駆け寄ってくる。この離宮の庭と他の庭を隔てる生け垣の隙間から覗けば、倒れているのはギヨーム殿下の方だった。


 黒髪に赤みがかった紫の目のルシアン殿下に対して、ギヨーム殿下は焦げ茶色の髪に焦げ茶色の目をしている。髪の色が濃い方が王家の血を強く引いていると言われているので、ルシアン殿下の方が王家の血は濃いのだろう。

 身長もルシアン殿下の方がギヨーム殿下より高かった。


「おれを殴ったな! 生意気な!」

「ギヨーム兄上のしていることは間違っています。未婚の令嬢を無理やりに王宮に連れ込むなど……」

「うるさい! お前はおれに従っていればいいのだ!」

「兄上? ぼくと剣を交える気ですか?」


 腰の剣に手をやったギヨーム殿下に、ルシアン殿下がゆっくりと自分の腰の剣に手を添える。ルシアン殿下は引き締まった筋肉質な体付きで、十二歳のときに近衛兵に勝てるくらいの剣術の腕を磨いていた。ぶよぶよと太って動きの鈍そうなギヨーム殿下が勝てるはずはない。


「ちっ! お前の乳母を犯したときに、もっと手酷くしてやるんだったな!」


 王族とはとても思えない口汚い言葉でルシアン殿下を傷付けるギヨーム殿下に、わたくしは息を飲んだ。

 ルシアン殿下のそばには乳母がいないと思っていた。

 乳母は貴族にとっては家族も同然で、女性ならば結婚するときにも連れていくし、乳母としての仕事が終わった後では侍女長になってもらうこともある。

 ルシアン殿下の離宮にはルシアン殿下の乳母はいなかった。


 ギヨーム殿下に乱暴されて王宮を追われたのだとすれば、何の不思議もない。


「大丈夫ですか?」

「ありがとうございます、ルシアン殿下」

「馬車を用意させています。そちらまでお送りしますから、家に帰られてください」

「ですが……またギヨーム殿下のお召しがあるかもしれません」

「できるだけ遠くに逃げてください。今のぼくにはそれしかできない」


 悔しそうにしているルシアン殿下が、恭しく令嬢の手を取ったとき、わたくしはそんな状況ではないのに胸が痛んだ気がした。

 ギヨーム殿下に無理やり連れて来られた令嬢を助けただけと分かっているのに、ルシアン殿下はわたくしに向けるより優しい目をしている気がする。笑顔こそ見せていないが、わたくしといるときよりも表情が柔らかい気がする。


 傷付いた令嬢を怖がらせないようにという配慮なのだろうが、わたくしは胸が痛んでそれ以上二人を見ていられなかった。


 屋敷に戻ったわたくしに、乳母がそれとなく便箋と封筒を見せる。

 心配しているであろう両親や兄に手紙を書けということなのだろう。


 何を書いていいか分からない。

 ため息をついていると、花瓶の花が目に入った。


 花瓶の花はわたくし付きの侍女が取り換えてくれている。枯れそうになったら次の花が運ばれてくるのだが、それも全部かつてルシアン殿下がわたくしに持って来てくれた花たちで、枯れるのすらもったいなくて、わたくしは替えられた花の花びらを乾かしてポプリにしていた。


 両親への手紙には、わたくしの胸の痛みは隠して、今日のことを書いた。

 ギヨーム殿下の無体を止めていたルシアン殿下。ルシアン殿下はやはり兄王子たちをどうにかして、この国を建て直そうと考えているのだろう。


 手紙にはポプリも入れた。


 この手紙がルシアン殿下の力になってくれるといいと思いながら。


 ルシアン殿下のお気持ちはまだ分からなかったが、わたくしは信じたかった。

 ルシアン殿下が変わりなく崇高で、真面目で、正義感を持ってこの国を建て直そうとしているのだと。

 それをできるのはルシアン殿下しかいない。


 その日の夕食もルシアン殿下はさっさと食べてしまって、外出することはなかったが、自室にこもってしまった。

 わたくしは侍女に用意をさせて、お茶とお茶菓子をルシアン殿下の部屋まで運んだ。

 ドアをノックするときに勇気が必要だったが、ノックしてしまえば、ルシアン殿下の声が聞こえた。


「誰だ?」

「わたくしです。リュシアです」

「リュシア姉様……」


 驚いたようにルシアン殿下がドアを開けてくれて、わたくしは銀のトレイの上のお茶とお茶菓子をルシアン殿下に差し出した。


「連日夜遅くまでお出かけで、お疲れなのではないかと思って。甘いものを少し食べると、よく眠れるといいます。それにこのお茶は、実家から持ってきた安眠を促すお茶なのです」

「ありがとうございます、リュシア姉様。ですが、お気遣いなく。ぼくは大丈夫ですから」

「少しだけお部屋に入ってもいいですか?」


 女性からこんなことを言うのははしたないと思われるかもしれないが、わたくしはルシアン殿下と十年の付き合いがあるし、結婚していて妻なのだ。ルシアン殿下の部屋に夜に入ってもおかしくはない。


「散らかっているので……」

「気にしません。お茶を飲む間だけです、お願いします」


 断ろうとするルシアン殿下にわたくしが強く言えば、ルシアン殿下は渋々部屋に通してくれた。

 部屋は全く散らかっていなかった。机の上は山積みの書類があったが、それくらいで、簡素だったが部屋は片付いていた。

 ルシアン殿下の部屋に入って驚いたのは、わたくしの部屋と変わりない広さで、同じように簡素で質素だったことだった。

 ソファは古くてクッションがないと座るとお尻が痛い。


 ソファのテーブルにトレイを置くと、ルシアン殿下がティーカップを手に取る。甘い花の香りのするお茶は、安眠効果があるというものだった。


「昼間にルシアン殿下がギヨーム殿下と争っているのを見ました」

「見ていたのですか!?」

「ルシアン殿下がギヨーム殿下に手籠めにされそうになっている令嬢を助けたところも」


 それに関しては触れられたくないのか、ルシアン殿下が視線を彷徨わせている。

 それでもわたくしはルシアン殿下に続けて言った。


「ルシアン殿下はギヨーム殿下とデュラン殿下を諫めようとなさっているのでしょう? わたくしにできることがあれば……」

「いけません、リュシア姉上……」


 わたくしが言った瞬間、ルシアン殿下の表情が変わった気がした。

 普段はわたくしに対しては優しい雰囲気を纏っているのに、周囲の空気が凍り付くような気配になる。


「わたくしも王子妃です。できることはしたいのです」

「ダメです、リュシアお姉様!」


 がたっとルシアン殿下がソファから立ち上がった。

 見上げるように大きな体にわたくしは怯んでしまう。


「ルシアン殿下?」

「ギヨーム兄上にも、デュラン兄上にも決して近付いてはなりません!」


 ルシアン殿下らしくない荒々しい様子で手首を掴まれて、厳しい口調で言われて、わたくしは狼狽えてしまう。

 これまでかわいく優しいイメージしかなかったルシアン殿下が、急に怖い大人の男性になってしまったような気がしたのだ。

 ルシアン殿下の大きな手では、わたくしの手首など簡単に折れそうだった。


「わたくしも、王子妃なのです……ルシアン殿下のお力になりたいのです」

「結婚など、するのではなかった」

「ルシアン殿下!?」

「お話は終わりです。リュシア姉様、おやすみなさい」

「ルシアン殿下!?」


 無理やりに立たされて部屋から追い出されてしまって、わたくしはへなへなと廊下に座り込んでしまった。


「結婚などするのではなかった……ルシアン殿下は、結婚を望んでいなかった!?」


 幼いころから知っている優しいルシアン殿下が急に知らない大人の男性になったようで怖かったし、掴まれた手首は痛かった。それ以上にルシアン殿下の言葉にショックを受けて立ちあがれないわたくしを、様子を見に来た乳母が支えてくれて部屋まで連れて帰ってくれた。


「ルシアン殿下は、わたくしと結婚したくなかったのです」


 認めてしまうと、涙があふれてくる。

 年の差はあるけれど、わたくしはルシアン殿下のことを好ましく思っていたし、このままルシアン殿下が成人すれば愛情あふれる家庭を築けるのだと信じていた。

 それなのに、ルシアン殿下は全く違うことを考えていた。


「わたくしは、望まれていなかった」


 両手で顔を覆って泣くわたくしに、乳母がおろおろとしてハンカチを差し出してくれる。乳母のハンカチは無地の白で、初めて出会ったときにルシアン殿下が貸してくれたハンカチを思い出させた。

 あの日から十年も経ってしまった。

 ルシアン殿下は、完全に変わってしまったのか。

 まだ縋りたい気持ちが残っている未練がましいわたくしは、涙が止まらなかった。

読んでいただきありがとうございました。

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