その3 ヘイトスピーチ規制法にまつわる詭弁
極北の自覚は無きにしもあらず
でも物書きだからね、仕方ないね
地方選挙に編集者(≒言論人)が立候補したと聞きました。
ヘイトスピーチ規制条例に反対するとの公約で。
「おっ」と思って調べたところが、「そういうことじゃないだろ」と。
私からすると、まあそういうオチだったのですが。
排外主義的・差別主義的な意味合いではなく。
私は「ヘイトスピーチ規制法・条例」に賛成しきれないんです。
排外主義的・差別主義的な意味合いではなく。
ヘイトスピーチと言えば、例えば「〇〇人は(合理的な理由ではなく、〇〇人であるという理由を以て)日本から出て行け!」みたいな言説であろうかと。
正直、嫌いですよこんな言説。
なんちゅうか、品が無い。一線超えてる。
やめてもらいたい。
それでも、と思うのです。
「ヘイトスピーチを、『法によって』『規制する』」と言うからには、ですよ?
――ある言説を、ヘイトスピーチであると「判断する」のは「誰」ですか?――
その疑問が生ずるのは必然ではないですかね。
そして生まれた疑問は発したくなる、逆ねじにねじ込みたくなる。
それが物書きのサガじゃありませんかねと。
ヘイト、その判断基準は何ですか?
国際条約を出してくる方多いですけど。
ヘイト、その判断権者は誰ですか?
行政ですか? 第三者委員会ですか?
ヘイトだと「決めつけられた」側が納得しなければ?
最終的には裁判所で判断するんでしょうか。
どこまで行っても――国際社会だろうが国連だろうが――それ、つまるところ「権威・権力」平たく言って「お上」じゃないですか。
「規制法」の名において網かけする限り、そうならざるを得ないはず。
どうなんです、それ。
嫌だなって感じる方、けっこう多いと思うんですよ。根拠はないけど。
表現の自由に関する限り、日本は(おそらく世界的に見てもトップクラスに)自由度が高いです。
立法が表現規制にわたる場合、審議はメチャクチャ慎重です。
なぜか。
「お上」による規制を簡単には許さないと、国民(市民)が社会が、のみならず国家に権力までもが、そういう気概を保ち続けているからです。
その所以、こればかりはほぼ断言できると思います。
100年前の治安維持法と引き続いた戦時体制への反省によるものです。
権威・権力・お上によって「不適切」とされたあまたの言説が、その発信者が弾圧されたからです。
批判を許さぬ体制の暴走により国が破綻したから、国民が苦しんだからです。
二度と勘弁と、当時の国民が――私たちの先人が――思ったからです。
表現の自由に対する強い保障。
これまさしく、いわゆる左派・リベラルの皆さん言うところの、「先の戦時体制に対する痛切な反省」に由来するものじゃないですか。
その伝統を否定するのですかと。させてたまるかという話ですよ。
事はヘイトに限りません。いわゆるエロにSNS、そちら系でも同じです。
「まあねえ、必要性もわかるけどねえ? それでも表現規制は……なんかマズイ気がする」と。心のどこかでそう思っている方の割合はそうとうに高いはず。
この意識こそが先人の残した遺産であり、我々が守っている信念であり、後世に繋ぐ意志でしょうに。
国際社会が何言ってこようが知ったことかと。
それこそ日本列島ではノーカンですよ。
他国が何言ってこようがと言えば、それこそ核廃絶・戦争反対でしょうか。
ほか大空襲追悼、侵略への反省、差別反対。
由来は同じ。すべて「戦争への反省」です。
「戦争への反省」を将来へ繋いでいこうとする信念をお持ちの人ほど、「ノーモア治安維持法」「表現規制は絶対に許さない」「言論をお上が評価してはならない」という姿勢を示さなくては、そこは平仄が合わないんじゃありません?
「表現者にしてヘイトスピーチ規制法に賛成する」人に、あえて申し上げます。
スタンスと権衡、その問題もあろうかとは思いますけれど……。
考え直しては、いえ一考だけでも、してみてはいただけませんかと。
つい80年前まで、表現者は沈黙を強いられていたじゃありませんか。
「お上」が定めるところの「不適切」。それがどこまで広がりゆくか、知ってるはずじゃないですか。
自分の手足を縛られる未来を想像してはもらえないでしょうか。
核廃絶、戦争反対、大空襲追悼、侵略への反省、差別反対。
いま「正義」とされているそれらの言説が、小さな社会の変化によって、権力のさじ加減しだいで、「不適切」とされかねない。
言論を「お上」が評価するとは、そういうことではないでしょうか。
「ならばお前はヘイトスピーチを許すのか」と問われれば、「否」と答えます。
「あまりに愚かな、発言者自らを貶める質問はやめてください」と応じます。
いいかげんレッテル貼りが効くご時世でもあるまいに。
「ある言説をヘイトスピーチだと判断するのは、『個人』(リベラルふうに言うならば、『市民』)であるべきだ」
「国だの自治体だの、なんなら裁判所だの、条約だの国際社会だの。およそそうした『お上』に容喙させるべきではない」
「だから『規制法』のかたちで網かけするのは好きじゃない」
そういうことを言いたいんです。
だから私はヘイトスピーチ規制法・条例に賛成しきれないのです。
排外主義的・差別主義的な意味合いではなく。
じゃあヘイトスピーチを防ぐにはどうするんだって?
まずは、ある言説がヘイトスピーチか否かを判断する必要がありますよね。
ただしそれは、その段階からして、個人が判断すべきものでしょう。
他人に極めつけられて良いものではない。
「あれはヘイトだ、ヘイトに決まっている。それを許容するお前は差別主義者だ劣等民族だ非国民だ。政府に処罰してもらおう」そんな言説、戦前の言論統制と何が違うんです?
表現の自由を享受し維持する市民による、「反ヘイトスピーチ言説」に対する多くの・無言の・強烈な反感を生むばかりだと、いつになったら気づくんです?
あれはヘイトだと、個人において判断されたならば。
その対応も個人に委ねられるべきでしょう。
反対の声を上げる、あざ笑う、風刺する。顔を背け耳を塞ぐ、子供を諭す、友と語る、SNSで反対をつぶやく。
そうすることで、個々人ができる範囲で、ヘイトスピーチの目的を達成させないように努力する。
「市民」社会ってそういうものじゃないんです?
だからこそ、表現者は一抹の自制心を忘れてはならぬとも思うのです
規制をさせぬために、表現の受け手を追い詰めることのないように