その1 国葬を巡る詭弁
3年経ちましたし、冷静になれる部分もあるかなって
元内閣総理大臣を国葬すべきかという問題が生じたことがありましたけれど。
ひとつ分からなかったことがあります。
亡くなられた元総理、保守的な立場の方ではなかったかなと。
教育勅語とか好きでしたよねと。
支持者の方もそちら側だったかと記憶しているのです。
それを前提としますとですね。
「いわゆる漢文」読みの私(隙自語)としては。
直観的に「いや、それおかしくね?」と感じるわけでありますよ。
風呂の掃除中に思わず塩素吸い込んで「エンっ」てせき込んでしまうぐらいの違和感を覚えた記憶があります。
だって。
臣民が「国葬」すなわち「君主の格式で葬儀を行う」って。
それ「大逆」あるいは「不敬」ですよ。君主の格を侵しているんですから。
……80年前の感覚、ふっるいふっるい価値観。そこから言うての話ですが。
内閣総理大臣がどれほど「えらい」ものだとしても、その方がどれほど偉大な業績を挙げたものとしても。
内閣総理大「臣」であるからには、「君」に対置され一線引かれる存在です。
同じ扱いをしてはいけないんですよ。
……ふっるいふっるい価値観から言えば。
国葬してほしいほど敬愛していた、そのお気持ちにケチつける気はありません。
人を尊敬する、何かに熱くなる、主張表現せずにいられない、尊いと思います。
私だって物書きの端くれですもの、そういう思いは否定されてたまるものかと。
ただその、「ひいきの引き倒し」になりかねないんじゃないかなって。
「いわゆる保守」の立場に身を置きつつ、政治家の国葬を主張することは。
この問題、例えば中曽根・宮澤世代だったらもっと早くどこかで止まっていた、静かに立ち消えた話じゃないかと思わずにはいられなかったのです。
戦後80年(当時は75年でしたか)ってこういうところなのかも。
戦争うんぬんももちろん大きいですけれど、その周りの・それ以前のあれやこれやと申しますか。
結果として国葬にはなりませんでしたが、それで良かったんじゃないかなあと。
どう言いますか、それが「丸い」。そう思わずにいられません。