4.始まりの日
食事が終わり、片付けようと食器を重ねていると
「あ、僕が片付けるから、おじさんは座ってて良いよ!」
今までなら「お前は客人なんだから大人しく座ってろ」と言っていたところだが、トラは今日から家に住む事になった、いわば家族みたいなものだからな。素直に甘えさせて貰おう。
「そうか、じゃあ頼む」
「うん!」
トラは嬉しそうに応えると食器をキッチンに持っていき、洗剤を付けて洗い始めた。
――おいおいそこまでしてくれるのか? こりゃ楽で良いなあ。
「ありがとな、トラ」
感謝を伝えるために声を掛ける。
「全然、これくらいはやらないとね!」
そう返事をくれた。 実にいい子だ。
その後、定番の皿割りイベントもなく、無事にすべて洗いおえて戻ってきた。
「ごくろーさん」
そう言うと、トラは嬉しそうにはにかんだ。
◇◆◇
その後はソファーに移動し、並んでなんとなくテレビを見ていた。
ソファーは3人がけできる程度の広さで、俺とトラの間には大人1人くらいは座れそうな距離がある。
「あ、そうだ。トラ、明日空いてるか?」
トラと逆側の肘掛けに頬杖を突きながら尋ねる。
これから女として生活するためにも、サイズの合う女性用の服が必要だという事に気付いた。なんせ今の俺にはこのワンピースが一張羅で、とはいえ毎日コレを着て生活するわけにもいかないだろう。それに男物のシャツはサイズが合わなすぎて着られないし。
「え、別に空いてますよ。何かあるんですか?」
不思議そうに俺を見るトラに対し、少し意地悪そうに言った。
「じゃあ買い物行くから付き合ってくれ。――当然、女物の服な」
「はい。――って、えええ!!?」
トラは素っ頓狂な声を出し、驚いた。
「そりゃそうだろ、なんだ? トラは俺に男物の服を着ろとでも言うのか?」
「い、いやそうじゃないですけど。でも僕、女性の服売り場とか行った事ないですよ」
「安心しろ、俺も――無い」
自信満々に応える。
「全然安心出来ないじゃないですか!?」
「だいじょうぶだって、堂々としてればな。ま、俺は女だけど」
おたおたと不安がるトラを見るのが面白く、思わずクックックと笑みが零れた。
「あ! 笑うなんて酷いですよおじさん! 僕が変質者扱いされるかも知れないんですよ!?」
「いやスマンスマン。俺に付いてくれば兄弟か彼氏くらいには見られるだろ。だから心配すんなって」
「――え!? ……あ……いやいや、えええ!?」
「なんだその反応、そんなに嫌なのか?」
さっきまでと違う動揺ぶりに、俺と一緒なのがよっぽど嫌なのかと心配になる。
「まあトラの隣を歩くのが本物の女の子じゃなくて申し訳ないけどな」
「いえ! そういうわけではなくてですね……!!」
なんだかトラの顔が紅潮していて、今度は何事か考え込みだした。何を悩んでるのか分からないが、こういう時はそっとしておくのが一番だろう。
「じゃあ風呂入ってくる」
トラからの返事は無い。考え事に集中しているのだろう。しかし……そんなに女性服売り場に行くのが嫌か……もしくは俺と行くのが嫌か。……そりゃ嫌か、だよなあ。
◇◆◇
部屋に戻ってタンスを開けて下着を取り出す。男の時に穿いていたトランクスだ。一応足を通してみるが、やはりデカい。
別に男の時に太っていたわけでもなく、むしろ筋肉自慢の中年だったはずだ。だとしてもこのウェストの細さは、違いはなんだ。女の子、小さすぎだろ……。
仕方なしにキャリーバッグから換えの女性用下着を取り出した。あらためて見ると、こっちはこっちで小さいな……。
その小さく白い塊と、昼に着ていた小さめのTシャツと短パンを抱え、風呂場へと突入した。
身体と頭を洗い、浴槽に浸かった。
あの狭いと感じていた浴槽が広く感じる、といっても全身を伸ばせるほどまでの広さではないけど、足を伸ばし、肩まで浸かる事が出来るだけでも十分な広さだ。
あらためて思うけど、いつもの生活空間に戻って来るとサイズ感の違いというものを如実に感じる。視線の低さはもちろん、キッチンの高さ、椅子のサイズ、コップの大きさ。以前と同じ量が注がれているはずなのに随分と大量に感じた。
毎日見慣れた風景が、視点が下がるだけでまるで別物のようだった。
――完全に、女の子の身体なんだな。
視線を下げると、大きな2つの膨らみがあり、その先には有ったモノが無い。36年慣れ親しんだモノが無いというのは、随分な喪失感だった。――だが慣れとは恐ろしいもので、もう気にならなくなったけど。
今じゃ女性物の下着を着ける事に対してもさして抵抗感も無い。TSして3日後には慣れてしまった。所詮はただの衣服、いつまでも恥ずかしがるのが変というものだ。
というわけで風呂から上がり、身体を拭いて下着をはいた。そしてTシャツに短パンを身に着け、ドライヤーで髪を乾かす。長い髪だから時間がかかるのはしょうがないけど、この作業だけは手間を感じてしょうがない。
自分の長い髪を手に取り眺めた。綺麗な毛先だ、それにきめ細かくて艶もあり繊細に見える。看護婦共には長くて綺麗な髪が羨ましいと言われた、確かに綺麗ではあるがこれでは面倒なだけだな。
――よし、暇が出来たら切るとしよう。
乾かし終え、髪を後ろで束ねる。
トラに風呂に入るよう、併せて洗濯物は籠に放り込んどくように伝える。
さっきまで着ていたワンピースは明日もまた着るので出来るだけ皺が付かないようにハンガーに掛けておいた。
さて、これで一通りの事は終わったな、とリビングのソファーに身体を沈める。心も身体も落ち着いたら急に疲れと共に眠気が襲ってきて、時計を見ると夜10時、寝るにはまだ早い時間だ。だが眠い。
――うん、少しだけ仮眠をとろう、少しだけ、な。
と自分に言い聞かせて、目を瞑った。
◇◆◇
「おじさん! こんなとこで寝ちゃ駄目ですよ! おじさん!」
身体が揺さぶられる感覚にぼんやりと目を開ける。
そこにはトラがいて、何事かを俺に言っている様子が伺える。
「おうトラ、今日はどうしたんだ? 遊びにでも来たのか?」
「何寝ぼけてるんですか。眠いならちゃんと部屋で寝て下さい」
言われて目が覚めた。そういえばさっき眠気に襲われて少しだけ仮眠を取るつもりだったんだっけ。
「今何時?」
「11時です。僕ももう寝ますから、ほら、行きますよ」
……11時、少し早いような気もするけど、まだ眠いし、寝るか。
眠りから覚めて間もない身体をフラつきながら起こし、立ち上がってトラの後を付いていく。
しかし、如何せん寝起きの身体は上手く言う事を聞いてくれず、ふとした拍子にバランスを崩して前のめりに倒れようとした。
「――あっ……!」
倒れる。そうは思ったが身体に力が入らず踏ん張れない。ぼんやりと、こりゃ無理だ、と呑気に思った瞬間――。
「危ない!!」
咄嗟にトラが俺の身体を支えた。
まるで俺を抱えるように抱きとめられ、転倒を防いでくれた。寝惚け眼の俺には、それは大きな毛布にでも包まれたかのような暖かさを感じられ、安心感があった。
「おじさん! 大丈夫ですか!?」
支えるトラの手が震えているのが分かる。顔を真っ赤にし、俺を落とすまいと力が込められているのだろう。
自分も、転びそうになったせいか、鼓動が早くなっているような気がする。それに、人に支えられるという経験は子供の時以来だ。その相手が小さい頃からよく見知ったトラともなれば、その成長ぶりがとても嬉しく感じられる。
悪くないぞ、この感覚。
「ん、ああ、大丈夫。……ッ、よし!!」
だからといって、トラに頼ってばかりじゃいけない。俺はこの家の主で、トラの支えとなるべき存在なのだから。
気合を入れ直す事と眠気を覚ます意味で、自分のほっぺたを両手でパチンと叩く。これ以上トラに迷惑は掛けられない、と自分に喝を入れる。
「今度こそ大丈夫。うん、あとは自分で歩けるから」
そう言って、トラの手から離れてトラより先に階段を登り、自分の部屋のベッドに飛び込むと、そのまま強烈な眠気により、すぐに眠りに落ちた。
その時の俺は、まだ自分が身に起きた事を素直に感じられていなかった。




