31.すれちがい
「ただいま~」
玄関で濡れた靴を脱ぎながら、家の奥へ向けて言う。
「おかえり」
後ろのトラがそれに応える。
先に家に入った者が「ただいま」と言い、後ろの者が「おかえり」と言う。いつの間にか俺とトラの習慣になっていた。
それにしても靴がぐっしょりと濡れていて脱ぎにくい。服だってまだ乾ききってないし、下着は当然のように濡れたまま。冷えた身体のままじゃ風邪を引いてしまうだろうし、単純に濡れた衣服が肌に張り付いて気持ち悪い。
早くシャワーでも浴びて着替えたいところだが……。
トラを見ると俺ほどではないけど濡れている。雨にも濡れたし、ずぶ濡れな俺を抱き締めたからというのもあるだろう。……やはり大人として、トラに先に入るように促すべきか。
「先にシャワー浴びたほうがいいよ。僕のせいで、ずっと雨に打たれて冷えてたし、風邪引くから」
機先を制するように言った後、俺の手を両手で包むように握った。
「ほら、手もこんなに冷たい。早く入らないと」
……確かに、トラの手はとても温かい。それはつまり、雨に濡れたトラの手ですらそう感じるほどに、俺の手が冷たいということでもある。夏だというのに雨と濡れた衣服で、体温は奪われていた。
だけど、それは俺だけじゃない。トラだって濡れているじゃないか。
「分かった。じゃあシャワー浴びるとするよ。だけどお前も濡れてるだろう? なんなら――一緒に入るか?」
逆にトラの手を両手で包み返す。少し上目遣いで、少し意地悪そうに。
「――え!? なっ! 何言ってんの!! 冗談は止めてよ!!」
「なんだよ~、昔はよく汚れ落としに一緒にシャワー浴びてただろ~、別にいいじゃないか~」
まだトラが小学校低学年だったころはドロだらけになった格好でうちに来て、服を洗うついでにシャワーを浴びて帰ったものだ。俺としても小さい子供に一人でシャワーを浴びさせるのは色々と不安なので、一緒に入って洗ってやったっけ。
「あ! あれは昔のことで! 今とは全然違うでしょ!?」
「そこまで拒絶されると傷つくなあ――そんなに嫌なのか?」
からかうような調子から一転、悲しげな雰囲気を出してもう一度上目遣いでトラを見た。
「いや!? ちがっ!? そうじゃなくて!! ……もう! いいから早く入ってきなよ!!」
トラに強く背中を押され、追い立てられるような勢いで捲し立てられた。……仕方がない。一人でシャワーを浴びるか。
「なんだよ、冗談に決まってるだろ。真に受けすぎだって。……はいはい、しょうがねえ、先に浴びてくるから待ってろ」
トラに背を向け、両手を広げてやれやれ感を出した。
だけど正直、トラとなら一緒にシャワーを浴びてもいいと思ったのは本当だ。だけどそれを冗談か、からかうみたいにしてしまうのは、俺の情けないところだ。本当に、勇気が出ない。
――どうしたらもっと、素直になれるのだろう。
◇◆◇
シャワーを浴びると、全身が温まっていく。細くなっていた血管が広がり、指先まで体温が戻っていくのが分かる。
生き返るような気がして、頭がクリアになっていく。
頭の先からシャワーを浴びつつ、目をつむっていると、今日起きたことが走馬灯のように流れた。
雨の中待っていたこと、寂しさの中にトラが来て抱き締めてくれたことなど、一気に感情が溢れ出した。
思わずしゃがみ込み、自分の両肩を抱き締める。
「良かったぁ……」
遅れてきたトラを攻める気には全くならなかった。それよりも、寂しさの限界を迎える前に来てくれたことの方が大事だった。
ただ、来てくれた、嬉しい、暖かい、良かった。というトラへのポジティブな想いだけが自分の中に残って、それが心をポカポカとさせ、高揚感を増させていた。
つまり、今、幸せを噛み締めていた――。
◇◆◇
浴室から上がり、髪を乾かすのを後回しにしてトラを呼ぼう、とリビングに向かい廊下を通過するとき、その先を見て我が目を疑った。驚いたことに、トラは靴も脱がずに玄関で突っ立っていたのだ。
「おいトラ! なんでまだ玄関にいるんだ!?」
「悠木だって、ちゃんと髪は乾かさないと」
平然とそんなことを言う。そんなことはどうでもいい!
「俺はこの後乾かすからいいの! そんなことよりお前だ! ……まさかずっと待ってたのか!?」
「うん。このまま上がると部屋が濡れるしね。だから悠木が上がるのを待ってた」
そんなことを気にしていたのか……とはいえ、濡れたままリビングで待つわけにもいかないか。だとしても靴も脱いでないのはどうかと思うぞ。
ちなみに俺は普通に濡れたまま自分の部屋から着替えを取ってきたんだけど……。当然、床はこの後拭くつもりだ。
「分かった。バスタオル持ってくるからそれで足を拭いて上がれ。靴を脱いで待ってろ」
「ありがとう」
俺が言い終えるのを待っていたように、トラはようやく靴に手をかけた。
ったく。俺がまっすぐリビングに行って、その姿を見ないで声だけかけてたらどうするつもりだったんだ。待てをさせられてる犬じゃないんだぞ。
浴室に積んであるバスタオルを持っていくと、靴と靴下を脱いでいたトラに渡した。トラはバスタオルで足を指の間までしっかりと拭いて、それから着替えを取りに階段を上がっていく。そして着替えを抱えて階段を降り、そのまま浴室に入っていった。
それを見届けた俺は、リビングでソファーに座り、持ち出したドライヤーで髪を乾かし始めた。
◇◆◇
ようやく髪を乾かし終えた頃、トラがリビングに現れた。
「廊下、拭いておいたよ」
「あ! わりい、助かった」
後で拭くつもりだった、俺が濡れた足で歩いた跡をトラが拭いてくれたようだ。
そのままトラはソファーに座った。だけどそこはいつもの隣じゃなく、一つ空けた場所だった。
そして、トラは頭を下げた。
「今日は本当にごめんなさい! せっかく悠木から誘ってくれたのに、大事なデートを遅れてしまって、それだけじゃなく、雨の中で待たせるなんて! 悠木に何を言われても仕方のないことをした!」
突然謝り始めた。
いや、本人はいたって真剣だ。というか、傍から見ればそれはそうだろう。恋人を雨の中待たせるなんて、絶対にしちゃいけないことだと、俺だって思う。逆の立場なら同じように頭を下げてただろう。
「――ぷっ!」
だというのに、思わず吹き出した。
そんなことは微塵も、全然考えてもいなかったからだ。ましてやトラが悪いなんて、今の俺は考えられなかった。
確かにデートは大事だ、リベンジは間違いなくするつもりだ。だけどそれは次の機会でいい。雨で濡れたことは、トラが来てくれて、抱き締めてくれたからチャラだ。……まあ、そう考えるのは俺だけだろうけど。
そういうわけで、気にしてなかった俺からすれば、そんなふうに謝られると思ってなくて、俺は吹き出してしまった。
「……え?」
俺が吹き出したことで、トラは頭を下げたまま、怪訝な反応を返した。
「いや悪い。そういう意味じゃない。――トラ、顔をあげて、もっとこっち来てくれ」
「……うん」
トラは恐る恐るといった感じで顔と身体を起こし、俺に近づいた。
両手を広げて、極力怯えさせないように、安心させるように優しく――抱きついた。
「俺はそんなこと、微塵も思っちゃいない。むしろトラが来てくれて感謝しかしてないんだから、気にするな。――まあ、ちゃんと謝れたのは偉いけどな」
そう言って、背中をぽんぽんと叩いた。
「……」
トラは無言だった。――ただ、身体が震えていることが俺には伝わっていた。
「安心したか?」
そう言うと、トラは抱き締め返してきた。
「悠木はああいってくれたけど、それでも不安だった。あんなことをしてしまったから、絶対に許されないと思ってた……!! 悠木はいつもどおりに振る舞ってたけど、僕は謝らないと気がすまなかったんだ!! 考えれば考えるほど、雨の中の悠木が頭から離れなくて、自分を許せなかった……!!」
そうか。
俺は「救われた」と思ってたのに、トラは「罪」だと思ってた。
同じ雨の中にいたのに、見えてた景色が違ったんだな。お互いを想うからこそ、すれ違いが生まれたんだ。
「自分を責めるな。――トラ、ありがとうな」
「!! ……うん。ありがとう、悠木」
トラの抱き締める力が増した。感極まって加減ができていないのか、痛いくらいだ。
「お、おいトラ……少しきついぞ」
「あっ! ご、ごめん! ぐすっ」
「なんだトラ、泣いてるのか? しょうがないやつだな」
そんなトラの頭を撫でてやると、嗚咽を漏らして泣き始めた。俺はただ静かに、優しく頭を撫でてやるだけだった。
しばらくして、泣き止んだトラは身体を離した。
「……もう大丈夫」
「しかしそんなことを気にしてたとはな。……もしかして、負い目があると思ってたから一緒のシャワーを誘っても断ったのか?」
気分転換するように、トラをからかう。
「ちっ! 違うよっ!! あれはそうじゃなくて――」
「ははっ、冗談だ冗談。ちょっとからかっただけだ」
「はぁ――。そんなことだろうと思った。勘弁してよもう」
冗談……ね。
「――別に一緒に入っても良かったんだけどな」
聞こえるか聞こえないかくらいの小さな声で言うのが、今の俺の勇気だ。その程度の勇気しか、ない。
「――っえ!? 今、なんて!?」
「なんでもなーい。――ほら、そろそろ外で食えなかった昼飯の時間だぞ、手伝え」
ソファーから立ち上がり、キッチンへ向かう。いつも通り……いつも通り……よし。
「はーい。……気のせい、かな?」
トラも立ち上がり、遅れてキッチンへ入ってくる。
本当はデートで外食のはずだったお昼ごはん、だけどいつものように家で二人で作って食べるなら、それでいいじゃないか。そう思った。




