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30.待ち合わせ

「先に行ってるからなー。トラ~、遅れるなよ~!」 


 玄関で靴を履きながら、リビングにいるトラに声をかけた。


「え、もう行くの!? 流石に早いんじゃない?」


「適当に時間潰すから大丈夫だって! じゃ、お先ー!」


 玄関を閉める時、トラはまだ何かを言っていたけど耳に入らなかった。

 正直に言おう。俺は今、すごくドキドキして、すごくワクワクして、なんだかフワフワしている。デートの時間が待ち遠しくて堪らない。家でじっと我慢しているなんてできない。


 昨日の夜に悩みに悩んで選んだこの勝負服、結局小夏(こなつ)ちゃんたちと買い物に行った時に最初に選んだやつ。白地に黒のオフショルボーダーニットに白のギャザースカート。

 夏らしく涼やかで、肩も出てるけど、やりすぎじゃない。


 これを早く着て、目的地に早く着いて、トラと早くデートがしたい!

 だから予定の時間より1時間早く家を出たけど、適当にぶらぶらしてれば時間なんてすぐに過ぎていくはずだ。


 無意識のうちに、心と同様に足も軽やかになり、スキップをしていたことに気づいた時は、流石に少し落ち着こうと思ったけど。

 だけどまあ、うっきうきのまま、電車に乗り込んだのだった。


◇◆◇


 公園の時計を見上げた。ここは待ち合わせの場所、西口前公園の時計の下。

 うん、流石に約束の時間まで30分もあるのは早く着きすぎた――。


 いや、予定では色々な店をふらっと見て回って時間を使おうとは思ったんだけどね? だけど、なんというか、デートが楽しみ過ぎて殆どの店の前を素通りしちゃったんだよね。

 ……いくらなんでもちょっと浮かれすぎな気もするけど、なんとなく分かってきた。

 男の時とはデートにかけるものが違う。男の時は無難に、変な格好じゃなければそれ良かったからだ。

 だけど女の子は違う。いわゆる勝負服、好きな男に見せるための、自分を魅せる格好。褒めて欲しい、可愛いと言って欲しい、そんな想いが男の時とは比較にならないほどある。恥ずかしくない格好、だけでは全然足りなくて、気に入られたいのだ。


 ……そして今の俺は、正直、自信がある。トラならきっと褒めてくれるだろうし、どぎまぎしてくれるに違いないと確信している。

 昨日鏡の前で自分の姿を男の視点で見て、あらためて自信というものが芽生えてきた。

 俺は可愛い! 間違いなく!

 そもそもそうでなくても、トラは俺のことが好きなんだから、もっと自分に自信を持っていいはずだ! ただ昔からの関係で、俺を好きになったはずはないだろう。


 で、そうやって自信がついたら、もう早くデートがしたくて堪らないわけだ。1秒でも早く、デートがしたいし、この姿をトラに見せたい。


 ――まあそういうわけで、30分も早く着いたってわけだ。

 とはいえ、トラだってデートを楽しみにしてるはずだし、俺みたいに早く来る可能性だってある。俺が家を早く出たことも知ってるから、遅く来ることはないだろう。


◇◆◇


「――ん?」


 ポツ……ポツン……。

 時計の下で待っていると、頭になにやら当たる感触があった。手のひらを広げたら、そこに何かが落ちてきた。――雨だ。

 あれ? 天気予報、今日雨だっけ? そんなことを考えていると、次第に雨の勢いが増してきた。

 

 慌てて小さなバッグを頭上に掲げて雨を防ぎつつ、少し離れた場所にある電話ボックスに飛び込んだ。この時代、いたるところにある電話ボックスで一時的な雨宿りは、よくあることだった。


「トラはまだ家にいるかな、っと……」


 傘を持ってきてもらおうと家に電話をかける。まだ家にいてもおかしくない時間だ。――だけど、呼び出し音は鳴り続けて、トラが家から出ていることが分かっただけだった。


「もう出かけた……か。そりゃそうだよな」


 トラのことだから、俺を待たせまいと心配して、早く家を出た可能性もある。問題は、家から出てしまうとお互いを確認する術がないことだ。携帯電話が今ほど当たり前じゃないこの時代は、家から出たら連絡手段がほとんど無かった。

 とはいえ、トラがいつ来るかも分からないままで、雨の中、時計の下の待ち合わせ場所で待ち続ける勇気はなかった。折角の勝負服は、できるだけ濡らしたくない。


「……しょうがない、5分前まではここで様子見するか」


 誰に聞かせるわけでもないのに、言い訳のような独り言が口から出た。


◇◆◇


 待ち合わせの5分前、遠くに見える時計の近くにトラが現れた様子はなかった。

 西口前公園は雨宿りできるような場所がほとんど無く、この電話ボックスは数少ない場所の一つと言えた。

 そして、ここから出るということは、それは雨に打たれ続けることを意味していた。

 雨の勢いは少し衰えを見せていたけど、それでも5分も打たれ続ければずぶ濡れになることは想像に(かた)くなかった。


「何やってんだよトラ……」


 トラへの文句を一言だけ口にして、大きく、長い息を吐き出した。

 自分の姿を上から下まで見る。と言っても鏡があるわけでもないので、上から見下ろすだけだけど。


 はぁ~~~~。

 ともう一度、今度も長い、諦めのような溜息を吐いて、覚悟を決めた。


 この電話ボックスで時計のほうを見ながら待ち続ける選択肢もあるだろう。だけど、それはトラから見ても同じのはずだ。トラも同じように雨宿りしながら時計のほうを見ていたら、お互いに永遠に待ち続けることになる。

 それなら、俺が動いたほうがいい。トラを雨の中待たせるのは、俺が嫌だと感じるからだ。


「トラ……信じてるからな」


 勢いよく電話ボックスの扉を開け、雨に濡れながら、待ち合わせの時計の下まで歩いた。

 ――時計を見上げると、待ち合わせの時間まで、あと3分だった。


◇◆◇


「ボーン……」


 時計が11時になったことを教えてくれた。

 雨脚は弱まり、だけどしとしとと降り続けて、俺を濡らし続けている。


 約束の時間。見回したけど、トラの姿は見えず、雨の中、公園には俺1人だけだった。


 トラが約束の時間に遅れるなんて、普通じゃありえないことだ。

 そうだ落ち着け。きっとすぐにやってくるに違いない。電話に出なかったってことは家を出ていたってことだ。それに急な雨だったんだ、傘を取りに帰って遅くなってるだけかもしれないだろう?


 少し遅れてるだけ。次の電車から降りて、傘を抱えて走ってくるに違いない。折角トラが来ても俺を探して彷徨うことになるのはまずい。

 だから、俺がここで待っていないとな。


 ――そうやって待ち続けて、20分、30分と時が過ぎた。


 折角の、気合を入れた勝負服も、上から下まで全身ずぶ濡れで、身体が重い。何人かの心優しい人が声をかけてくれたけど「人を待ってます」と断る声が震えていて、その度に、恥ずかしさが湧いてきた。

 トラが約束を守らないなんて、……ありえないことだ。きっと……何かがあったに違いない……。

 だから……またなきゃ。


 ――そう思うけど、……自信がなくなってきた。

 ずっと雨に打たれてると、心が弱くなってくる。……すごく情けなくて、みっともなくて、寂しくて、そしてそれを自覚すると……涙があふれた。

 涙が出たことを認識したら、声もこぼれた。まるで女の子のように、めそめそと、しくしくと。

 心の中では、まるで小さな子供のように、嫌だ嫌だと、じたばたと、寂しさのあまり、駄々をこねて、泣いていた。


 ――そんな時、正面からギュッと抱き締められた。全身ずぶ濡れの身体を、力強く、包むように。


「遅くなって――ごめん!」


 聞き覚えのある声、いや、聞きたかった声。――トラだ。


 遅いと怒るより、なんでと怒るより、なによりも最初に――安心した。

 これだけ寂しい思いをさせたのに、まるでその反動のように、大きな心の安らぎを感じた。


 安心するということは、気が抜けるということでもあり、抑えていた感情が一気にあふれた。恥も外聞(がいぶん)もなく、トラに抱きついて、声をあげて泣いた。

 収まるまでしばらくの間、トラは自分も濡れるのも構わず、ただ優しく抱き締め続けてくれた。


◇◆◇


「もう大丈夫だ、トラ……」


 トラから離れながら涙を拭いた。といっても、濡れているのか涙なのかは分からなかったけど。


「うん……」


 トラも身体を離し、こちらを心配そうに見ていたけど、あらためて謝罪をした。


「悠木をこんな風にしてしまったのは僕の責任だ。言い訳はしません。――ごめんなさい」


 トラは深く頭を下げた。


 本当なら、俺は怒ってもいいだろう、トラに怒りをぶつけても許されるだろう。トラはそれをされるだけのことをしたと思うし、本人もそれを理解してるから言い訳をしない、と言ったのだろう。


 確かに言い訳をして欲しいわけじゃない。だけど、だからといって遅れた理由を何も説明しないのは、それは違うと思った。ただ事実を、何故遅れたかを知りたいだけ。こちらだって心配もしているんだ。家からは出たはずなのに、30分も遅れるなんて、普通じゃない。きっと何か理由があるはずで、それを聞きたいだけだ。


 それに――トラに抱き締められたら、寂しさと一緒に怒りもどこかへ消えてしまった。……はは、チョロすぎだろ、俺。


「違うだろ、トラ」


「――え?」


「確かに言い訳や嘘なら聞きたくない。だけど、遅れてしまった理由は、それが”本当の理由”なら、聞きたい。ただ謝られても、俺は納得しない」


 気付けば、いつの間にか雨はあがっていて、青空が広がりつつあった。

 少しの沈黙の後、トラはようやく口を開いた。


「実は――」


 聞けば、家のほうは早く雨が降り出していて、待ち合わせ時間の30分以上前には傘を持って家を出ていたそうだ。そして、駅までの途中、雨で足を滑らせ挫いた老婆を見かけて、背におぶって家まで送ったらしい。

 なんとベタな……と思わなくもなかったけど、トラの言うことだ、信用するとしよう。それにトラらしいエピソードとも言えるじゃないか、むしろ誇らしい気すらする。


「ん、分かった。――じゃあこれは大きな貸しだな。ちゃーんと返してもらうからな」


「うん。じゃあ僕も悠木が満足するまで、時間をかけても返していかないとね」


 この言葉の意味は、なんとなく分かった。そして今の俺には、それを受け入れられるような気がしていた。


「時間をかけても――か、まあ、うん。頑張れ」


 意味が分かっていても、どう思っていようとも、それを素直に返せるかは別なのだけれども。


「うん。……悠木、この後どうする?」


 この後……といってもこんなに濡れてたらデートを続けるのは無理だ。夏だから乾くのは早いだろうが、それを待ってはいられない。さてどうするか……。


「決めてないなら僕も濡れてるし、帰ろっか? デートはまた今度にしよう」


 見れば確かにトラも俺と変わらないくらいに濡れてる、というか、俺が抱きついていたせいなんだけど。

 でも確かに、1人だけ濡れてれば人目も気になるけど、トラと一緒ならそんなに気にならない。そうだな、そうしよう。


「だな! 帰ろう!」


 にっこりと微笑みあい、お互いに全身濡れたまま帰ることにした。

 デートはできなかったけど、自分の中の変化をハッキリと感じることができた。後は、最後の一歩を踏み出す勇気が出れば……。

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