26.自覚
海からの帰り、自宅に近い駅でトラと一緒に降りる。
改札を出た後、ふと今晩のご飯をどうするか考える。今日は少し疲れたし、帰りにスーパーに寄って買い物する元気は……ないかな。うん。
「今晩は……あり物でいいか?」
「……うん、問題ないよ。――今日は僕が作ろうか?」
「ダ~メだ。トラに任せたらインスタントラーメンになるだろ」
「え~、野菜炒めくらいなら僕でも作れるって……多分」
「いいから、飯は俺に任せておけ。余計な心配すんな」
そんなやりとりの後、トラがいつものように俺に手のひらを差し出してきた。俺もいつものように手を重ねて、トラと手を繋ぐ。
手を握られた瞬間、心臓の鼓動が早くなり、嬉しさと同時に今まで感じたことのないような恥ずかしさを感じて、思わず手を払ってしまった。
「あっ、ごめん。……えーと、たまには手を繋がない日があっても良くないか?」
自分の手のひらをじっと見て、キュッと小さく握りしめた。
別に手に変化があったわけじゃない。変化があったとすれば、それは俺自身だ。トラに対する心の変化で、手を繋ぐという行為が別の意味を帯びた。
これはもう、保護者としてじゃない。異性として――”女として”、トラを意識してしまっている。
今まで同様に保護者としての俺と、新しい感情との間で葛藤がないかと言えば、それはある。だけどそれは冷静になった時であって、今ではトラと向き合っている時は新しい感情が大きくそれを上回ってしまっている。
今だって保護者の視点なんか一切なく、ただトラを意識しすぎて今更になって恥ずかしい気持ちが先走ってしまっただけだ。
「悠木……」
トラは寂しそうにぽつりと呟いた。
「そんな声出すなって。別に嫌で手を放したわけじゃないんだから」
「……分かった。そっか、そうだよね。落ち着く時間が必要だよね。でも、僕から離れないでよ」
そう言って俺を抱き寄せ、肩同士が触れそうなほどに近づけた。
もしかして、トラは何か勘違いをしているのかもしれない。昼間のことで俺の心が傷ついたとか、それで身体的接触を嫌ったと、そう思ってるのかも。
だとしたら、肩が触れ合いそうなほどに近づけるのはどうかと思うけど、不安なトラにとってはこの距離が譲歩なのだろう。
「悠木は僕が守るから、僕のそばなら安心できるようにするから」
トラはそう言って微笑んだ。
俺の緊張や不安を取り除くように、優しく、包み込むような暖かさを感じさせる微笑みだった。
……正直、昼間のことは思い出したくない。でも、それ以上に――昼間のトラが心に刺さって抜けない。あの時のことを思い出すだけで、心臓が早鐘を打ち、舞い上がりそうなほど心が浮ついてしまう。
「ああ、任せた」
とはいえ、このトラの微笑みは極上だ。言葉がうわずってないか、火照りが顔に出てないか、気持ちがバレてやしないか、そんなことを思いながら返すのがやっとだった。
◇◆◇
我が家に到着し、玄関内に入った。
いつもならここでハグをするところだけど……今はまずい。というか、なんで今までこんなことを平然とやってきたんだ俺たちは。
「今日は……止めとこうか」
「……そうしてくれると助かる」
半分本当で、半分ウソを吐いた。
恥ずかしさで拒絶したい気持ちと、抱き締めて欲しいと思う気持ちの半々だ。残ったほんの僅かな理性という名の保護者の存在がトラの言葉を肯定した。
だけど、恥ずかしいといったところで、その根源はトラへの好意だ。抵抗できないほどに強く抱き締められたら、拒絶は反転し、トラを求めてしまうに違いない。
手を放した時もそうだ、トラが強引にでも手を繋いでくればきっとそれを受け入れていただろう。
一度の拒絶は、もっと強く自分を求めて欲しいから――。
……最悪だ。
俺がいちばん嫌ってた“面倒くさい女の思考”そのものじゃないか。
自分ではもっと素直な性格だと思っていたんだがな……。
こんな思考をする時点で、俺の心はもう、少なくともトラの前では女になってしまっているんだ。そして、その心も、トラに奪われてるんだろう。
きっと、今日のできごとが決定的だった。女としての自覚と、トラを男として、異性としてはっきり意識し、頼もしく格好いいと思ってしまった。
もう、認めるしかない。
◇◆◇
認めたからといって、すぐに関係性が変化するわけじゃない。
あり物で晩御飯を作り、いつものように一緒に食事をし、いつものようにソファーで隣に座った。
「……悠木」
「なんだ?」
膝枕かと、いつものように甘えてくるのかと思って聞いてみると、いつもと違う答えが返ってきた。
「たまには悠木に甘えて欲しいと思って。今日は僕が膝枕するよ」
そう言って、いつも俺がやるようにトラは自分の太ももをぱんぱんと叩いて誘ってきた。トラとしては傷ついているはずの俺に何かしてあげたい、という気遣いなのだろう。以前の俺なら間違いなく断っていた。”男の硬い太ももは嫌だ”とか言っていたかもしれない。だけど別に傷心でもない今の俺にとって、それは間違いなく魅力的な誘惑に思えた。
「まあ……たまには甘えてやるか」
表面上はいつもどおり、しょうがねえなあ、という雰囲気を出しながらも心では浮かれつつ、トラの膝枕に頭を乗せた。その膝枕は程良い硬さで、トラの匂いに包まれて、妙に落ち着かないのに――心地いい。
いつのまにか俺は、トラの膝枕で眠ってしまっていた。
「悠木。……そろそろお風呂の時間じゃない?」
「ん……。あ、ああ……。寝てたか、俺」
「もうぐっすりと。可愛い寝顔が見れて眼福でした」
「――そ、そんなお世辞どこで覚えた!?」
トラに不意打ちをくらい、顔を隠しつつ起き上がった。恥ずかしい姿を見せてないかと、よだれを垂らしてないか、髪が乱れてないかなど、身の回りを確認したが、よだれも髪も、ついでに服も乱れてはおらず、胸を撫で下ろしたのだった。だが、念のために聞いておかねば。
「何か……した?」
「何も? ずっと眺めてただけ。……信じてよ」
トラは両手を上げて、手をぷらぷらとさせ、何もしてないとアピールした。
「分かった……信じる」
逆の立場なら――。
俺ならきっとトラの髪やほっぺたを触っていただろう。いや、今の俺ならそれ以上のことだって――。いやいや、信じると言ったんだから、トラを信じよう。
……それに、トラにならそれくらい触られたって、別に嫌な気持ちにはならないだろうし。
◇◆◇
自分の風呂が終わり、トラが入ってる間は、自分の心を見つめ直す時間となった。
認めたからといって、保護者としての俺が消えたわけじゃなかった。これまでの積み重ねがあるからこそ、俺にとってトラは特別な存在なのだ。むしろ、認めたことによって、今までのように反発しあうことなく、保護者としての感情が強くなり、それ以上にトラへの好意が強いだけとなった。
過去のトラに対する可愛いという感情に、保護者視点とは別視点が追加されただけ。今まで同様に頼って欲しいという気持ちは変わらない。
今までの俺は、男の保護者としての存在が、女として恋心を持ち始めた俺を押し留めていた。だけど今ではもう、男とか女とか関係なく、保護者と恋人、ただ二つの関係だけの存在となり、それは共存している。
保護者として見守り、恋人として一緒にいたい。ただそれだけ。
そんなことを考えていると、風呂上がりのトラが団扇を持ってリビングに入ってきてソファーに座った。さすがに夏の湯上がりで暑いのか、1人分の距離を空けて、つまり以前のようにソファーの端と端だ。
「あっつー」
トラは団扇で服の内側から扇いでくつろいでいる。俺は言おうと思って言えなかった感謝の言葉を今、言おうと思った。
「なあトラ……今日はその……助けてくれてありがとな」
なんとも歯切れが悪い。ありがとうと言うだけなのに、なんでこんなにこっ恥ずかしいのか。
「いや……むしろ、僕の方こそごめん。悠木をあんな目に合わせてしまうなんて、恋人として失格だ」
トラの返す言葉は大体想像できた。謙遜か謝罪。だけどその中に”恋人として”という言葉が混じることは想定外だった。心臓が大きく跳ね上がり、鼓動が早まるのを感じた。
「もう二度とあんなことが起きないようにする。悠木は僕が守るよ。……僕の小さいころに見守ってくれてたようにね」
またしてもトラは俺の想定を超えた。恋人としての俺だけじゃなく、保護者としての俺の両方に対し、高揚感を与えてくれる。優しく心を撫でられるような、甘く、心地良い感触だ。
今の俺にとって満点以外の何者でもない言葉。
気づくとトラの隣まで移動していて、そのままトラに抱きついた。
「ありがとう、トラ。――頼りにしてる」
トラは優しく、抱き締め返してくれた。
――トラが、好きだ――
言葉にはできなかった。口にしたら今の関係が壊れて、別のものに変わってしまいそうで。まだ口にするだけの勇気がなかった。




