20.前触れ
「よし、行こうか」
玄関で靴のかかとをしっかりと収めて身体を起こし、玄関先で待つトラに声をかけた。
俺が玄関から出るとトラは鍵を締め、それをポケットに突っ込んで小走りで俺の隣へと並んだ。
「……悠木」
トラの声でそちらを向くと、そこにはトラの手のひらがあり、顔の方を見上げると正面を向いたままのトラの頬が紅潮しているのが分かった。
――これは多分、手を繋ぎたい、という意思表示だろうか。
まあ別に、それくらいなら構わないが――。
と、俺は恥ずかしそうに手を差し出すトラの意を汲み、自分の手をそこに置いた。すると俺の小さな手は、大きな手に優しく包み込むように捕らえられたのだった。
そのサイズ感と暖かさは、俺にいくらかの安心感を与えてくれる。
結局トラは、恥ずかしいのか一度も俺の方を見ないで、教室に入るまでお互いの手は繋がれたままだった。
◇◆◇
その日の休憩時間、小夏ちゃんが俺の席へとやってきた。その頬は綻んでおり、何事か言いたげな表情だった。
そのまま自分の口に手を立て、俺の耳元で小声で言った。
「ね。ね。”ご褒美”あげた? どうだった?」
”ご褒美”……膝枕は昨晩にしてあげたばかりだ。まさか何度も要求されるとは思ってもいなかったけど。
「ああ……。昨日晩御飯食べ終わってから”ご褒美”をあげたよ」
「――えッ!?」
小夏ちゃんは俺の言葉に声をあげ、慌てて両手で口を塞いだ。
耳に近い位置だったので少し耳が痛い。
「……まさか何度も要求されるなんて思わなかったけど、ちゃんと”ご褒美”にはなったんじゃないかな」
「ええッ!! ……それって……それって……ッ!!」
顔を真っ赤にさせ、小夏ちゃんが口を両手で押さえたまま、息荒く呼吸を繰り返していた。
たかが膝枕をしただけだというのに、やけにリアクションが大きくないか?
……まあ普通の関係なら膝枕も余りしないか。だとしてもだ。
そんな事を考えていたら、落ち着きを取り戻した小夏ちゃんに教室から引っ張り出された。
廊下を少し歩き、教室から距離を空けて人気が少ない場所まで来たら小夏ちゃんに両肩を掴まれた。
「それで、どうだった? 何回も求められたんだよね。悠木ちゃんは初めて!? どうだったの!?」
やけに興奮し早口でまくしたてる感じで聞いてくる。
初めてだの、どうだった、と言われても……膝枕にそんな感想を求められるとは思わなかった。
「いや別に……普通? 特に何も? ――あえて言うなら……安心感?」
『普通』『何も』と言った瞬間の小夏ちゃんの顔は、明らかにがっかりというか、想像してた反応と違う! とでも言いたげだったが、安心感、の部分で僅かに頷きを返していた。
「悠木ちゃん、本当に『何も』!? 初めてなんだよね? そんな事ある!?」
相変わらずの早口、だけど事実は変わらない。
「うーん……確かに初めてのはずだけど……」
「うそーっ!!」
やけに初めてにこだわる小夏ちゃんを見て、違和感を覚えた。もしかして”ご褒美”の内容が小夏ちゃんと俺とでは違う行為を想像しているんじゃないだろうか。であればこのズレも納得が行く。
小夏ちゃんが”ご褒美”と言っていたのは何だったか……思い出せない。
「だって、初めての『キス』なんだよね!?」
「――えっ!?」
今度は俺が声をあげる番だ。
「そんな事言ったっけ!?」
「言った!! 覚えてないの!?」
そういえば、小夏ちゃんがそんな事を言ってたような……気がする。”ご褒美”にキスはどうか、と。そして、それに対して俺は何をするか伝えてない事も思い出した。それなら勘違いするのも納得だ。
「えーっとね、ごめん。”ご褒美”は膝枕をしてあげる事にしたんだ。流石にキスはちょっと……」
その応えを聞いた途端、小夏ちゃんは膝を折り曲げ、がっくりと項垂れた。
「え~、そんな~。教室に入った二人を見た時に絶対何かあったと確信したんだけどなー」
どうやら誤解は解けたようだ。
「でも膝枕を何度も求められるって、それって絶対さ、南川くんはそろそろだと思ってると思うんだよね」
「そろそろって……」
「キスする日はもうすぐそこ、って感じたんじゃない? いやー、楽しみだなー」
何を楽しみにしてるんだこの娘は。残念だけどそれはない。
俺たちはあくまでも恋人のふりであって、本当の恋人同士じゃない。トラもそれを分かってるはずだし、どこまでもふりの延長線上のはずだ。
「もういっそ、強引に迫ってくれたら面白いのに」
面白そうに、楽しそうにそんな事を言う。
「物騒な」
怖い事を言う。
本当にトラに襲われたら力では敵わないだろう事は想像出来る。それほどに俺は貧弱で、トラは強く、大きいのだ。
まあ、そんな事は起きないだろうが。
「とにかく、そんなわけでご期待に添えなかったけど”ご褒美”はあげたよ。まあ、喜んでただろうから、やって良かったな。ありがとう、小夏ちゃん」
「どういたしまして。私としては不完全燃焼だけど、楽しみは次に取っておくとするよ」
次ねえ。……あってもいいけど、内容のアップグレードは無しでお願いしたいところだ。
◇◆◇
あれからトラとは毎日手を繋いで登下校するようになり、俺もトラとの接触に抵抗感はなくなってきていた。
そしてそんなある日の晩、トラと一緒の晩御飯をいつものように済ませ、先にソファーの左側、マイポジションに沈み込み食後のコーヒーをゆっくりと飲んでいた時のことだ。
トラも洗い物が終わったようでキッチンからリビングに近づくように足音が聞こえた。そのままトラのいつものポジション、つまり右側に座るかと思いきや、3人掛けソファーの真ん中に座った。
そのトラの行動に対し、中央に座った、というより俺の”隣”に腰掛けた、と感じた。
「珍しいな、そこに座るなんて」
僅かな緊張と共に、いつもと変わらない口調でトラに声をかける。
「ん~、あー、……うん。――ちょっとお願いあるんだけど、良い?」
妙な間と反応。それに続くトラのお願いとは。正直、あまり良い事が起きそうな気がしない。この、決意のような表情の揺らぎは、俺にとって好ましいものじゃなさそうだ。
だが、それはそれとして、お願いとやらは聞いてやるのが大人というものだろう。無理そうなら断る、あくまで聞くだけだ。
「ああ、どんなお願いだ? 聞くだけ聞いてやるぞ」
そう言いながらも、心の中では警戒体制を取っていた。
もし、万が一でもキスとか口にしようものなら、ぶん殴って正気に戻させてやる。
「じ、実は今日ちょっと疲れててさ、その――前みたいにまた膝枕で癒やして貰えないかなーって……駄目?」
一気に緊張が緩んだ。なんだそんな事か、と警戒態勢が解かれていく。
それくらいなら大した事じゃない、と安堵した。
「なんだそんな事か。……しょうがないやつだな、ほら、いいぞ」
可愛いトラに膝枕してやるくらい、いつでもしてやるさ。
組んでいた足を解いて太ももをぽんぽんと叩き、準備万端である事を示した。
「うん……じゃあ、失礼するね」
トラはそのまま俺の太ももを枕にして横になった。
「はぁ~~、落ち着く……」
――こんな状況、4月では考えられない。トラに膝枕なんて、あの当時なら間違いなく断っていただろうし、トラもそんな事は言ってこなかっただろう。
それが今じゃ、そこに癒やしを感じるトラと、求められて満更でもない俺がいた。
だが、今の俺はそんな関係性と感情の変化に全く気付けず、トラから漏れた言葉に対し、少しの気恥ずかしさと同時に嬉しさとを覚え、膝枕する事に満足していた。
そしてそんな状況から少し時間が経ち、静かにしていたトラが口を開いた。
「ね、悠木。……手、握っていい?」
「手? どっちの?」
「右手」
見ると、登下校の時と同じように、トラが左手を上に向けて差し出していた。
俺はそこに自分の右手をそっと置くと、トラは手のひらをずらし、指と指の間に自らの指を絡ませ、恋人繋ぎのようにして俺の手を握った。
その行為に心臓が跳ねるような気がした、『あ……』と声が漏れそうになり、思わず口ごもった。だけど、それでもすぐに『まあいいか』と素直に受け入れ、こちらもそのまま握り返したのだった。
恋人繋ぎは普通に手を繋ぐより繋がりを強く感じ、そこに体温の差でより暖かく、サイズの違いですっぽりと収まった感触は、想像していたよりも心地の良いものと感じた。
二人でゆっくり流れるような時間の中で、俺はうつらうつらと軽い眠気に襲われ、半分眠っているような状態になっていた。
ふと目覚めれば、そろそろ風呂に入る時間になっていた。
見ると、俺の右手のひらはトラの両手に包まれていた。そしてトラも目が覚めたのか俺の顔を見上げていて目が合った。
「寝てた……みたいだな」
「うん、寝てたね」
「さて、そろそろ風呂に入るかな」
「ねえ悠木。――ちょっと大事な話があるんだ、聞いて欲しい」
「ん? なんだ?」
目覚めたばかりで頭が上手く回らない俺は、トラの真剣な表情に気付かず、不用意に応えてしまった。
俺たちの関係性が大きく変化する、その前触れだと気付かずに。




