第8話『それは地図という魔法』
「また、帰ってこないのか?」
朝から村の広場に緊張が走っていた。昨日、山へ薬草を採りに出た若者が、夜になっても戻っていないという。
「迷ったにしても、あの子は何度も行ってる場所のはずだ」
だが、山の地形は複雑で季節によって景色も変わる。踏み慣れた道のはずが、ひとたび外れれば迷いの森に変わることもある。
——迷子、遭難、道に迷うということ。
それはこの世界において、時に命を落とす脅威になる。
「やっぱり、地図だよ。地図がないと、人は迷うんだ」
春日唯は呟いた。かつてアイドル時代、彼女はライブ会場のステージ図や動線、セット位置を徹底的にメモしていた。方向音痴のファンに道案内をするため、自分だけの「現地地図ノート」まで作っていたのだ。
《地図は命だって、あのミリオタファンが言ってたな。戦場では、まず地図からなんだって》
記憶の中のその声が、今もはっきり聞こえる。
「じゃあ始めよう。私たちの地図を!」
まず唯は、村のまわりを実際に歩き、地面に棒を突き立てて測量を開始した。木の棒の長さを基準にして、「こっから三十棒で曲がり角」「十五棒で大きな石」など、距離感を可視化していく。
「え、これって探検ごっこみたい!」
子どもたちが目を輝かせる。測量棒を持って、村のまわりを“ミニ探検隊”として歩き回り、「見つけたもの」「変わった木」などを記録していく。
やがて、村の広場には大きな木板が運ばれた。それは唯が描く「村の地図」の土台となるものだった。
「ここが井戸で、ここが東の森への道。それから……この辺に“キノコ岩”があるって聞いた」
最初は絵地図。それがしだいに「文字」や「記号」も加わり、道順や方角を示す“地図言語”が生まれていく。
「唯さま、この印は……?」
「これは“見晴らし台”だよ。登れば周囲が見えるから、目印にぴったり」
村人たちは興味津々で地図を囲んだ。特に狩人や薬草師たちは、道に迷わず目的地に向かえることに感動した。
「なんだか……地図があると、不思議と安心するな」
「どこにいても、“ここに帰れる”って思えるね」
そんな声が、ひとり、またひとりと漏れていく。
迷わないこと、それは命をつなぐこと。そしてそれ以上に、“知らない土地を怖がらなくていい”という希望だった。
そして数日後、ついに行方不明だった若者が戻ってきた。唯たちが描いた仮の地図を持って山に入った捜索隊が、見事に彼を発見したのだ。
「怖かった……唯さま、ありがとう」
若者は震える声で言った。
「皆のおかげだよ!これからは地図持って出かけるんだよ!」
その夜、唯はまたひとつ新しい地図を描いていた。今度は、村の外、隣村へと続く道のりだった。
地図はやがて、交易の道となり、敵から守る防衛線ともなっていく。
でも唯は知っていた。これはただの「地図」じゃない。
それは、彼女が“忘れなかった”記憶——ステージ裏で学んだ動線、ファンの誰かが語った戦術、みんなが見つけた目印たち——
そのすべてが、線となり、道をつなぎ、誰かを導く“魔法”になったのだ。