第5話『知の力、村を越える』
「“うたの巫女”って、この村に?」
隣村からの使者が来たのは、ちょうど唯が畑の前で子どもたちに「あいうえお」の歌を教えていたときだった。木の板に炭で描かれた独特な記号たち──“♡(あ)”、“☆(い)”、“♪(う)”といった記号風の字形は、アイドル時代にライブのセットリストを整理していたノートの真似だった。
「……この文字、お前が作ったのか」
驚いたように尋ねる使者に、唯はにっこり笑った。
「音を“見える”ようにしたの。誰でも覚えやすくって、書けるように──うちのファンの子たち、よくメモってくれてたから。忘れないために」
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唯が異世界に来てからすでに一月が過ぎようとしていた。ライブ、護身術、炊事の改革、トロッコの開通、そして魔除けの祭り。どれも村人の生活に大きな変化をもたらした。
だが、彼女が何より大切にしていたのは“記録”だった。
アイドル時代──物販ブースの端、唯はファンとの小さな会話をノートに綴るのが習慣だった。
「格闘技の寝技?あ、前回言ってた“クロスチョーク”の話、ちゃんと動画見たよ」
「こないだの現代史の話、わたしも調べた!『ベルリンの壁』、ドラマチックすぎた」
彼女は忘れなかった。話してくれたファンの名前、興味、口癖。すべてが彼女の“ファンノート”に詰まっていた。
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「村と村が、互いに助け合うには、“伝える”ってことが大事だと思うの」
唯は、使者とともにやってきた隣村の若者たちに、木板に描いた文字を見せながら話す。
「人がどこにいて、何を必要としてるか、どこで魔物を見たか。それを記録できれば……命が救えるかもしれない。文字は、未来のための道しるべなの」
村の長たちが驚いた顔で顔を見合わせる。識字という概念すらなかったこの世界で、少女の言葉は革新的すぎた。
「記憶なんて、口伝えで十分だと思っていたが……」
「でも、それだと忘れちゃうじゃない? “メモってなきゃ忘れちゃう”って、前にファンの子が言ってた。ね?」
唯は、ポケットからボロボロになった小さなノートを取り出す。まるでお守りのように大切に抱えてきた、それが彼女の“ファンノート”だった。
「ここには、わたしが一番大事にしてた人たちのことが書いてあるの。みんなのことを忘れたくなくて、何度も見返した。……それが今、ここで生きてる」
ノートに綴られた会話、オタ知識、歴史の断片。それらが、唯を動かしていた。
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数日後。
唯のもとには村の子どもたちが集まり、「読み書き」を習うようになる。彼女は歌と踊りを交えた授業を行い、村の古老たちには“記録”の大切さを説いた。
「じゃあ、この記号が“た”。次は“て”だよー!」
笑顔とともに未来を教える少女に、村の人々はこう呼ぶようになった。
──「先生」
それは、偶像ではない。舞台の上だけの光ではない。
今度は、知を灯す「先生」としての道が、唯の前に広がっていた。