本編
「ごめん、別れてほしい」
その言葉を自分が発している事が信じられない。自分の思いと真逆の事を言うのは、胸が引き裂かれた上にシュッレダーにかけられて焼却されるような気持ちだ。
だけど、決めた。彼女を守る。彼女が大切だからこそ、僕は彼女と別れなければいけない。
「な、なんで! 私、何か悪いことしたかな? だったら謝るよ。気に入らない所があれば直すから」
悪いことをしているのは僕だ。気に入らない所があったって、そこも含めて好きなんだ。
気持ちが揺るぎそうになるが、唇を噛み締めて耐える。
「……他に好きな人ができたんだ」
人生で史上最大の嘘をついた。心に経験したことのないような激痛が走る。いっそ、ショックで死んでしまいたかった。
本当の理由は言えない。言ったら巻き込む事になる。
「そっか、うん、そうだよね。透君、モテるもんね。私なんかじゃ釣り合わないよね」
「……ごめん」
僕は謝ることしかできない。中途半端な慰めは奈美恵を余計に傷つけるだけだ。
「好きな人と……うまくいくと……いいね」
奈美恵の瞳にはうっすらと涙が浮かんでいた。最後まで僕の幸せを願ってくれる彼女は、なんて素敵な子なんだろう。そんな子を泣かせるなんて僕は最低だ。
自分の運命を呪う。
ちがうな。かっこつけるな。運命に抗う方ができない情けない男だって認めろ!
そして、決心しろ!
誰よりも優れた乱波になって、僕と彼女のような犠牲者を出さないようにするんだ、と。
◆
奈美恵に別れをつげる前日は僕の18歳の誕生日だった。
本当は奈美恵とデートしたかったけど、両親からその日は絶対に家でパーティーするとすごい剣幕で言われたから断れなかった。僕は別に両親が嫌いではない。
お祝いをひとしきり終えた後、リビングテーブルで皆リラックスしている時だった。
両親は真剣な表情でお互いに頷き合うと居住まいを正して徐に言った。
「透、これから大事な話をするぞ」
「なんだよ、改まって」
いつもとは違う父親の雰囲気に僕はスマホから目を離し、両親と向き合った。
「単刀直入に言う。我が家は、乱波の家系だ」
「は?」
意味が分からなかった。ラッパの家系? 家族でマーチングバンドでもやるの?
「まあ、乱波じゃわからんかぁ。分かりやすく言うと、に……ああ、言いたくないなぁ。この呼び名嫌いなんだよ、カッコつけで。母さん、代わりに説明してやってくれ」
「嫌ですよ、お父さん。私だってそんなキザな言い方したくありません」
「いやいや、母さんはあの名前のアイドルが好きだったじゃないか! 知っているんだぞ」
「アイドルだからいいんじゃないですか。逆にその名を汚したくありません」
こうして小競り合いをしているのは仲が良い証拠だから、いつもなら好きなだけやってくれれば良いんだけど、今は大事な話の途中じゃなかったのかな。
「話終わり? だったらもう自分の部屋いくけど」
「いや、待て。だからその、……んじゃの家系なんだよ」
大事な部分の声が小さくて聞き取れない。
「だから、何の家系?」
「忍者だよ、忍者! N、I、N、J、A!」
「あらやだ、はしたない」
やけになった父親と顔を両手で隠して恥ずかしがる母親。まるで、親から性教育を受けているように側からは見えるかもしれない。
「なんで、俺の誕生日にふざけるんだよ。何だよ、忍者って。つくならもっとマシな嘘をつけよ。大統領の隠し子なんだよ、とか!」
「日の本は大統領制じゃないぞ。透よ、ちゃんと勉強しているのか?」
「知ってるよ! なんだよ、日の本って。日本って言えよ。忍者っぽさを演出してるんじゃないよ」
「透ちゃん。忍者なんてはしたないわ。乱波と言いなさい」
「知らないよ! なんだよ、乱波って。冗談はもう十分だよ! どうせ限界中年配信者なんかに影響されて、隠し撮りしているんだろう? 頭の悪くなる動画の見過ぎだよ。いい年して何やってるんだよ。カメラどこ? すぐ止めて」
会話が通じない両親に苛立って、僕は少し声を荒げてしまった。
両親はリビングのテレビでよく分からない配信をたまに見ている時がある。こういうのは普通は子供が悪影響を受けるはずなんだけど……。
「透。落ち着きなさい。これはドッキリではないし、配信も録画もしていない。確かに父さんのチャンネルは絶好調で登録者数100人を超えたがな」
「私もたまに出てるのよ。”乱波の忍んでみたチャンネル"」
「チャンネル持ってるのかよ。物好きだな、その100人」
父親は咳ばらいをする。
「とにかく、透は18歳になったのだから忍役に行く義務がある」
「なんだよ、にんえきって。隣国の兵役みたいなノリで言うなよ」
「おお、分かっているじゃないか。流石、私の倅だ。理解が早い。正にそんなイメージだ」
テキトーに言った例えツッコミが大正解らしい。話が荒唐無稽すぎて頭がついていかない。18年と人生を歩んできたが、今まで忍者のにの字も出てこなかったのに。……まぁ漫画とかアニメでは触れてきたけど、飽くまでフィクションだからノーカンだ。
「父さんこそ、落ち着いて。正気に戻ってくれよ。意味が分からないよ、悪い物でも食べたの?」
「すこぶるおいしい母さんの料理しか食べていない、母さんの料理は世界一っ!」
「まぁ、嬉しいわ」
仲が良いのは分かったから話を進めてほしい。いや、進められたら困るか……。僕の楽しい誕生日を返してくれ。
「母さんの料理は確かに美味しいけど、今はそういう話はしてないんだよ……」
「そうだな、忍役の話だったな。明日の朝から、始まるからな。今日は早く寝なさい」
「うん、わかった!……ってなると思う!? 行かないから、絶対に。受験とかどうするんだよ」
「大丈夫。乱波は国家資格だから、大学なんて行かなくても就職できる。」
大丈夫かな、この国。
「嫌だよ、忍者になんてなりたくなよ」
「乱波よ、透ちゃん」
「それはもういいよ!!」
「透っ!!」
僕が大声で抵抗すると、その何倍もの音量で父親が名前を呼んだ。家中が震えるような大迫力で、僕は思わず姿勢を正した。
「死ぬんだぞ?」
「ど、どういうこと?」
「忍役を断れば、殺される。それが乱波の運命」
父親の顔は真剣そのものだ。嘘を言っているようには見えない。
「ほ、本当に?」
僕は母親に確認する。母親は僕を溺愛しているから、守ってくれるはずだ。
「透ちゃん、本当なの。立派な乱波になって戻ってくるの、母さん待ってるから」
母親は立ち上がり、僕を抱きしめながらそう言った。
だめだ、どうやら本当らしい。到底受け入れられないけど、命には代えられない。
「分かったよ」
「おお、分かってくれたか」
本当は何も分からないけど、分かりたくもないけど、承諾するしか選択肢がないじゃないか。
「で、どれくらい期間なの。その忍役は」
「透次第だ。早くて5年、長くて10年かかるな」
「長いよっ! これからの10年くらいは人生で一番楽しい時って父さん、前言ってたよね」
「そうだ、忍役は楽しいぞっ!」
「僕のイメージしてたのは、キラキラのキャンパスライフとかだよ!!」
僕の魂の叫びを無視して、父親は淡々と続ける。
「あーちなみに透は恋人いないよな? いるわけないよな」
「透ちゃんには恋人なんて早いわよ。いるわけないわよね?」
両親揃って決めつけるなんて、息子の顔が見てみたいよ。
「いるよ! いたら悪いの?」
「どこのアバズレなの? 透ちゃんに色目を使っているのは?」
目が怖いよ、母さん。
「まぁまぁ母さん、落ち着いて。透、悪い事は言わない。別れなさい」
「そうよ、すぐに別れなさい。今この場で電話して、さぁ早く」
「それだけは嫌だ! 絶対に! 二人そろって頭おかしいんじゃないの!?」
僕はそう言って部屋に帰ろうとして立ち上がると、信じられないくらい強い力で父親に腕を掴まれた。
「い、痛いよっ!」
「ああ、すまん」
力は弱まったが、解放はしてくれない。
「死ぬぞ?」
「またそれ!!」
「いいか、よく聞くんだ。忍役では過酷な精神修行をする。恋人がいるなんて分かったら、必ず利用される。最悪、命を奪われるぞ。彼女のことを思うなら、別れた方がいい」
「母さんのことを思っても、別れた方がいいわ」
「……一体、そうまでしてならなきゃいけない乱波って何なんだよ」
「国家資格だ」
「それは聞いたよ……」
「そもそも忍役中は家族とすら会えないどころか、連絡も取れないからな。況や恋人をや」
「漢文みたいに言っても、過酷さはマイルドにならないよ! 地獄じゃないか、忍役。いやだよ、行きたくないし、奈美恵とも別れたくないよ!」
「わがまま言うんじゃありません! 命がかかっているのよ!」
母親が怒鳴った。今まで一度も怒鳴られてことなんてないのに。母親の顔を見ると、涙を流していた。
「母さんだって悲しいの……。透ちゃんと、何年も会えないなんて」
「悲しいのは、透に彼女がいたからなん―」
父親が口を塞がれた。その動きは、目で追えなかった。
どこまでも優しい母さんがそこまで言うなら、最早僕に抵抗できる術はなかった。
「透。1日だけ猶予をもらう。彼女にお別れを言ってこい」
残像が残るような速さで母さんの拘束から逃れた父親がそう言った。
「そんなことしたら、貴方が!?」
母さんが深刻な顔で父親を見つめる。こんな表情見たことない。
「大丈夫、それくらいの恩は頭領に売ってきたさ。透、彼女には嫌われて来るんだぞ。未練が残ると危ない」
「そうよ、母さんが思いつく限りの罵倒の手紙を作ってあげるから、それを渡してきなさい」
僕はうなだれて、力なく頷くしかできなかった。手紙はもちろん捨てたけど。
◆
血の滲むような澱むような蒸発するような、とにかくもう筆舌に尽くし難い日々を、ただ早く平穏を取り戻したいという一心に感情を殺して過ごした結果、僕は忍役を史上最速の3年で終えた。
あの頭領は、必ず殺す!!!
忍役を終えると資格状が届いた。
国家資格だというのは本当だったらしい。定期的に忍務の連絡が入るので、それをこなしていればいわゆる裕福な生活が送れるほどの報酬が入る。
それでも、自分が受けた仕打ちを考えると全然足りない。
今頃、奈美恵は何をしているのだろうか。
一方的に別れを告げた自分から連絡するのは、どう考えてもカッコ悪いし、もし拒絶されたら僕の心が死ぬ。
思い出のまま愛でているのが、空虚な日々の慰めになって良い。
そう勝手に自己完結していた頃、珍しい忍務が入る。国民的いや今や世界的人気を誇る女性アイドルの護衛だ。
護衛といってもSPのようなものではない。影にひそみ、同じく影から狙う物を排除する仕事だ。
だから、アイドルと直接関わることはないだろう。別に興味もないけど。
世界ツアーを終えて、日本で凱旋コンサート兼握手会をやるという。そのチケットの倍率は軽く4桁を超え、会場であるドームは人で埋め尽くされていた。
その会場をテロリスト達が占拠した。アイドルの人質的価値が相当高いと判断されたらしい。世界中で暗躍しているテロ組織で、忍務の関係上我々とよく闘争している所だった。
ただ忍役を経験していない人間など、何人いてもどんなに武装しても乱波の敵ではない。赤子の手を捻るように制圧した。
「お、お前、一体何者だ」
控室でアイドルを人質に取り最後に残ったテロリストのリーダーは、驚愕の表情を浮かべている。
「たったひとつの愛を失った悲しい乱波さ」
最後の一人の意識を刈り取る。
人質から解放されたアイドルが駆け寄ってくる。
「あの、ありがとうございます!」
その笑顔は確かに恒星のごとく人を照らすものであった。だけど、奈美恵に似ているのが僕の心を締め付ける。顔を直視できない。
「仕事ですから」
僕はそう言って踵を返そうとするが、ふと視線に入ったイヤリングに釘付けになる。
「そのイヤリング……」
「え? ああ、これいいですよね。大切な人の手作りなんです。大事な場面ではいつもつけているんですよ。……あっ、大切な人というのはオフレコで!」
それは確かに僕が作って奈美恵にプレゼントしたものだった。石をテーマにした公園のワークショップで作ったシンプルなイヤリング。自然に割れた鉱石を加工して一方を彼女のイヤリング、もう一方を僕のネックレスにした。
ネックレスは創ってから肌身離さずずっと身につけている。それこそ忍役に行った時も、くそ頭領にバレないよう必死で隠した。
彼女の顔をじっくりと確かめると、純度100%混じり気無し夢にまで見た奈美恵に違いなかった。
僕はネックレスをそっと外し、彼女に見せる。
「えっ……それって……」
「僕だよ、奈美恵」
「えっ透!? 嘘っ! えっそんなはず。……そもそも顔違くない?」
混乱する奈美恵が愛おしい。
僕は正体を隠すために被っていた精巧なゴムマスクを外す。そんなことをすれば、頭領に殺されかねないけど、今の僕なら返り討ちにしてみせる。
「なにそれ、どういうこと? トム・ハ○クス的な!?」
「多分、ク○ーズの方だよ」
「あっそうそう、あれだ。五右衛門だよね」
「そうだね、ルパンだね」
あの頃と変わらず天然な奈美恵が可愛くてたまらない。
「奈美恵も顔変わったね。もっと可愛くて綺麗になった」
「まっ国民的アイドルだからねっ! でも、そんなこと言ったら好きな人に嫌われるぞ。あっそもそも、ネックレスいつまでも持っていて怒らなかった!?」
「嘘なんだ」
僕は間髪入れず否定する。
「え? どういうこと?」
「他に好きな人ができたというのは、信じられないかもしれないけど奈美恵を守るためについた嘘なんだ。今更迷惑かもしれないけど、僕が好きなのはあの頃からずっと奈美恵だけだよ」
奈美恵は口元を両手で隠して泣きそうな顔をしている。
僕が言った言葉を噛み締め終わると、駆け寄ってきて僕におもいっきり抱きついてきた。僕は二度と放さないつもりで強く抱きしめる。
「私も! 透を見返してやろうと私頑張ったんだよ。別れた事を後悔させて、ヨリを戻したいって絶対言わせてやるって! それだけのために頑張っていたら、なんかこんな所まで来ちゃった」
信じられない。僕はなんて幸せものだ。世界一大好きな人に、ここまで想ってもらえるなんて。
「これからはずっと一緒だよね!」
「約束する。二度と悲しい想いはさせないって」
僕と奈美恵はお互い吸い寄せられるように口づけを交わした。
突然、地響きが起きた。
テロリストの最終兵器かと身構えるが、周囲を見回して警戒を解く。
偶然か誰かの策略なのか、マイクがオンになって観客席に音声が流れていたらしい。一部始終を聞いていた観客が、一斉に歓声をあげたのだった。僕は7万人ほどの前で惚気ていたらしい。急に恥ずかしくなってきた。
「約束守ってね。みんなが証人だからねっ」
奈美恵はそう言ってアイドルウィンクをばっちり決めた。
恥ずかしさと嬉しさで、僕は気を失ってしまいそうだよ。
国民的アイドルが急に出てきた元恋人とキスをするのは、だいぶセンセーショナルな出来事のはずだが、劇的な救出劇の後に観客全員が興奮状態にあったため、まるで映画のワンシーンのように好意的に受け入れられたのは幸いだった。
また僕と彼女のエピソードが後日、奈美恵によって語られると、世界公認のカップルとなった。僕達のストーリーがハリウッドで映画化されるらしい。忍役のシーンはだいぶマイルドにしないとR18になるから気を付けてほしい。
秘密組織だった乱波を公の下にされされた頭領はさぞかし錯乱しているかというと、そうでもなく里をテーマパーク化して、がっぽがっぽ儲けているらしい。あの頭領らしくて殺すのも馬鹿らしくなったので放っておく。頭領を必ず殺すといったな? あれは嘘だ。
なお、一部の過激派ファンと肉親のうちの一人はいつまでも僕達の仲を認めず、離縁の工作をし続けているがことごとく僕が潰している。親離れできないのは困ったものだ。
もう一方の肉親は、ここぞとばかりに売名行為をしてチャンネル登録者数を伸ばそうとしているが、乱波が神秘でなくなった今、逆に登録者数が一桁になりそうということも一応報告しておこう。
今は奈美恵とデート中だ。っていうか毎日一緒にいるから、毎日がデートだ。
再会の記念に新たなアクセサリーをペアで揃えよう、彼女は張り切っている。
「これなんていいんじゃない?」
彼女がブローチを試着して僕に見せてくる。
それはトランペ……いや、ラッパをモチーフとしていた。