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約束

作者: 伽藍 芥







生まれる前ずっとずっと昔から決められていた自分の運命を、呪ったことなどなかった。

それでいいと思っていたし、ひとの一生など短いものだからこそ皆の役に立ちたいと思っていた。

優しかった母も逢ったことはない祖母も、同じ運命を受け入れた。産まねばならない我が子にも、同じ運命を遺していくことになるのだろう。

そのことも、哀しいとは思わなかった。仕方のないことだから。


一の犠牲で大多数が生き残れるのなら、私は喜んでこの身を差し出そう。


それでも窓の外にひらひらと舞う蝶を見れば胸が痛んだ。ひと冬越えられぬその命のように、少しでもどこかを目指して飛んでみたかった。ひとときでいい自由になりたかった。

恋をして笑って泣いて、それからであれば、籠に入れられてもきっと私は、永劫の闇を恐れずに済むのだろう。








だから神様、たった一つの恋をください。

わたしが、暗闇を恐れずにいられるように。










温い風が吹き抜ける海沿いの街。立ち並ぶレンガ造りの町並み、その向こうには果てしなく蒼い大海が照る日に輝いている。港には大小たくさんの船がやってきては出て行く。忙しなく行き交う人々は時折立ち止まり、再び足を速めて歩いていく。

高らかに上がる船乗りの掛け声や、商人たちの商談の声。

交通の便がいいためか、街の景気がいいからか、ここには冒険者たちも多く集い、街のあちこちで雇い主を見つけては荒事をこなし、あるいは酒場で旅の疲れや憂いを吹き飛ばしている姿が見られた。


そんな喧騒から少し離れた場所、埠頭の外れに、ひとりの青年がたたずんでいた。

美しい金髪を風にそよがせ、海と同じ色をした瞳で水平線彼方を眺めている。その表情は穏やかで、時折彼は自らの周囲を渦巻く風たちをその手ですくって背後へと送った。彼の瞳には普通の人間には見ることの出来ぬ風精霊の乙女が見えている。彼女たちに優しいエールを送るように、手を繰り小さく言葉をつむげば、海の精霊もそれに共鳴してか波頭をもたげ踊りだす。

しずくきらめく風の中、青年はやさしげに微笑して、彼らにしか聞こえぬ歌を歌っていた。



それからしばらく穏やかなときが流れた。歌をやめ、一息つくと、午後三時のゆれる日差しの中彼は堤防に腰を下ろし、茫洋と高い空を眺めていた。そんなとき、彼は遠く自分を呼ぶ声を耳に捉えた。

「アルスレイ!」

妖精族特有の長い耳がぴくぴくと動く。風に乱れた髪を整えながら彼は街のほうを振り返った。

「アルス!お前、探したぞこんなとこに」

「ごめんごめん。人の多いとこは苦手なんだ」

黒髪にバンダナを巻いた青年が息を整えながらぼやくのに苦笑して、青年…アルスレイは手をあげて謝罪しながら彼の背を軽く叩いた。

少しむせこんだ相棒が隣に座る。そのとなりに座りなおしてアルスは彼を覗き込み

「で、ニコラス、報酬は貰えたのかい?」

相棒に任せた商談の結果を催促した。黒髪の青年…ニコラスはその言葉に得意げに笑い手にした金貨の袋をアルスの膝元にほおった。

「うわっ」

「すげえだろ。全部売りさばいて合計2万ゴールド。これだけありゃしばらく食うにこまらねえよ」

「うん、すごいね…」

妖精族、エルフであるアルスはもともと貨幣に対しての知識はまるでなかったのだが、故郷の森を出て人間たちの社会を旅するうちに次第に金銭感覚が身についてきていた。いまだになにがいくらぐらい、という知識には自信がないものの、手渡された金がどれほど大金であるかは分かる。むろん彼らよりもっとずっと力のある冒険者たちはそれくらいの金額を稼ぐのはわけもないことだが、彼ら中流の冒険者にとって万単位の金はめったに得られない大金だ。

「成功報酬のほかに、あの目玉の化け物が持ってた宝石が思ったより高値で売れてさ。それからお前の作ったあの指輪、アレがすげえ高く売れたんだ」

「ふぅん。それは良かった。」

「おまっなぁ、もっと嬉しそうな顔しろよ」

「うん、すごく嬉しい」


自分の作ったものや戦いの報酬が思ったよりも高値になったのはひとえに相棒の交渉術の賜物だ。今までいくつもの冒険者グループに入って旅をしてきたアルスにはそれが分かる。それを褒めてもニコラスは照れたように笑うだけで自分の手柄にはしない。どんなときでもいまだ世間知らずの自分をカバーしそれを気にさせない彼の居心地のよさが、アルスはとても好きだ。

今回とてかなりの努力をしてこれだけ稼いで来てくれたのだろう。人嫌いな自分を慮ってひとりであちこち歩いてくれたのに違いない。

「ありがとう」

微笑してそういうと、ニコラスは照れたようにそっぽを向いて

「ま、そんなわけだからさ。今日はうまいもんくって、贅沢しようぜ!」

と、一足先に街へと歩いていく。そのニコラスの背を追いかけてアルスも街へと向かった。




ざわめく街は夕刻にはたどり着く人、戻る人と更に賑やかさを増して、宿屋や家々に、天から地上に炎が舞い落ちるがごとくぽつぽつとオレンジの光が飛び火していく。アルスとニコラスも一夜の宿を決めていつもよりも夕食と酒とに金を使い、ささやかだが贅沢に冒険の成功を祝った。

酒場には踊り子と吟遊詩人が色を添え、海を越えてたどり着いたうまい酒が一日の労をねぎらってくれる。

歌声に耳を傾けながら、食事を終えたふたりは、得た金を分配しそれぞれにその使い道を考えているところだ。

「こんだけありゃ、少しくらい無駄遣いしてもいいよな」

今まで使ったことの中ことに使いたいのだと言うニコラスに

「欲しいものでもあるのかい?」

アルスが聞くと、彼はアルスの前に顔を近づけてぐいと後頭部を掴んで引き寄せると、声を低めて囁いた。

「実は……」

「うん」

「女を、買おうかと」

「えー?!」

とたん、素っ頓狂なアルスの声に酒場中の人間が振り返る。そんなエルフの顔を引き倒し机に押し付けると、ニコラスは誤魔化すように笑いながら酒場の人間に手を振った。なんだったんだ、という顔をして人々が元通りそれぞれの会話を続けたのを確認し、ニコラスはしたたかにぶつけた鼻を押さえている傍らのエルフに大げさにため息をついた。

「…お前な」

「ごめん」

やれやれと頭をかきながら、ニコラスは椅子の背もたれに深く身を預け、それからばつが悪そうに鼻の頭を掻いた。

「まあ、俺もそーいうのはあんまりいい使い道とは思わねえけどよ。気になる噂を聞いたんでな」

「噂?どんな」

「この街の娼館に1万ゴールド未満で買える女がいるらしいんだ。そんでちょっとな」



これほど大きな街であれば、花を、一夜の春を売る女は五万といるだろうが、普通その相場はそれほど安いものではない。最初こそニコラスが手にした巨額の金を全部つぎ込んで女を買うのかと驚いたアルスだったが、その噂というのを聞いてもっと驚いた。娼館でなく、その辺の路地にいる女ならありえない額ではないが、話を聞く限りでは娼館の、それも飛び切り上等な女らしいのだ。


「話がうますぎはしないかな」

「それがさ、噂によるとその女、子どもが欲しいんだそうだ」

「娼婦なんだろう?」

「それがその女が娼館に入った条件が「子どもが出来るまでは代金はただでいい、子どもが出来たらやめる」だったらしいぜ」

「…ふうん」

ニコラスはどちらかといえば女好きだがフェミニストで、口説いてものにしたらとことん尽くすのがポリシーだ。今まで旅をしていても女性を金で買うなどと言い出したことのなかった彼が突然こんなことを言い出した理由がアルスにも分かった。

「たしかに、気になるね」

アルスがつぶやき、ニコラスが頷いた。



その娼婦のことが噂になって、もうかなり経つらしい。彼女はもう一年は娼館にいて夜な夜な体を売り続けているそうだ。なのにいまだに子どもが出来ない。子どもが出来なければ彼女はそこを出られない。

どうしてそんなにしてまで子どもが欲しいのかも気になるし、そこまでしても子どもが出来ないことも気になる。

「なんかされてんじゃねえかなと思ってよ。事情聞いたりするついでに、ちょっと…な」

心配ついでに役得もあり、そういって苦笑する相棒をアルスはため息混じりに頬杖をつき、上目遣いに眺めた。


「下心もありありですか」

「そりゃあ俺も男だし。おまえにだって分かるだろー」

「僕はエルフですから人間の女性に興味ありませんよ」

ほんとかよ、と疑わしげに見る相棒に手を振って、それからアルスは一度口を引き結んで沈黙した。

ニコラスが彼を見た。

「でも、薬師としては気になります。……行くなら気をつけて」

「おうよ」

相棒を真顔で見てアルスが言った言葉に苦笑交じりの笑顔が返る。報酬の中から大きな宝石をひとつ掴みニコラスは宿を出て行った。戸口で親指を立てる彼に同じしぐさを返して、アルスもまた席を立ち、自分のあてがわれた居室へと戻った。






ニコラスの荷物だけがある部屋に戻ると、アルスは自分の荷物の中から香と香炉を取り出し、窓のそばで火を入れた。煙いだの臭いだのと文句をいう人間は今夜は帰らない。漂う煙は部屋を巡り、やがて開いた窓から宵闇の中へと流れていく。

ただ暗い海原と、それをふちどるような街明かり。彼の故郷では知りようもなかった光景のひとつだ。

エルフたちは永劫の時刻を渡る。人間の一生をまるで一夜の夢のように眺め、ひとつの国の歴史と同じ時刻を抜けて初めて穏やかなる死を迎える彼らは、普通妖精の集う森から出ることはない。


アルスも本当ならば森の中で生涯を終えるはずだった。それが今、命短い人の子らの間で流れ旅をし、ともに時刻をすごしているのは、彼がほんの些細なきっかけでであったひとりの女性のためであった。

今からはもう遠い昔。森の出口近くにたまたま出ていた彼の目の前で、彼が見ていることは知らず傷ついた小鳥を癒した女性司祭がいた。傷ついたその小鳥の経過を気にしてか司祭はそれからたびたび森を訪れ、アルスは彼女を森の中からずっと眺めていた。

何があったということもない。ただ見ていた。

彼女が森に通う間ずっと。その短い生涯をずっと。人間という生き物が短い生涯を輝いて散っていくその間を、ただずっと、見ていただけだ。

それなのに胸がときめいた。胸が痛んだ。彼女が笑う、泣く、その一つ一つ、新鮮だった。

長い時刻を生きる彼らならば気にも留めないようなこと、さらりと流すようなことの一つ一つを、彼女は泣いて、笑って、喜んだから。


その彼女の面影を、アルスは今も時々思い出す。

名も知らぬその司祭を。もし彼女に子どもがいれば、今は孫の孫くらいが同じように笑って泣いているのだろうか。そのくらい、自分と人間との時刻の流れは違う。

人と出会えばかならずその死を看取ることになる。いつか必ずその訃報を聞く。それは永劫の時刻を時として恨んでしまうほど哀しいことだ。それでも、それ以上に心に永遠に残る、誰かの生きた軌跡を尊く思えるようになった。

今一緒にいるニコラスも、その前に冒険した仲間も、そのさらに前に一緒にいた仲間も、もっと前に……



「アレク、人間は……僕らよりずっと素晴らしい生き物だ。哀しいけど、やっぱり僕はそう思うよ」



生き別れた仲間、死に別れた仲間。その一人一人を夜の闇の果てに見出しながらアルスは遠く森に残してきた弟に、届かないだろう言葉を投げかけた。彼が旅立つと知ったとき、ただひとり最後までけして許さずに引き止めた、双子の弟に向けて。


 人間は必ず先に死んでしまうから、その悲しみは永遠に消せはしないから。

 たとえひととき幸せでも、失った痛みはそれよりもずっと、続くから。


弟が、アレクセイがそのとき言った言葉は真実だったと、アルスは今誰より知っている。最初に旅した男は老いて死に、彼がいなくなってもう数百年は経つと言うのに、そのとき心に生まれた痛みは消えない。それからもたくさん失った。得ただけ、幸せの分だけ、それを失ってきた。だがそれでもアルスは森には戻らないだろう。人間という生き物に魅せられた彼はもう、けして戻りはしないだろう。


「人は、時刻の中いつか自分が消えることを知っている。どう死ぬべきかどう生きるべきか、自分で知り、選んでいく。僕らには出来ないことをして、僕らが忘れた大切なものを彼らは知っているんだ。

……アレクセイ、もし、いつか君が」


旅をすることがあるのなら、君にもそれを知って欲しい。そう呟いて、アルスはひとつため息をついた。

そのため息ごと彼の言葉を手に取り風乙女が遠くへと軽やかに去っていく。言葉の形をしていなくてもいい、どうか降り注ぐ粉雪のように、ささやかなきらめきとなってこの思いが故郷にまで届くようにと、アルスは目を閉じ、闇に向けて静かに祈った。






翌日になって、ニコラスは戻ってきた。

ちょうど宿の一階の酒場で朝食を取っていたアルスの前の席に、彼は仏頂面で座り、ウエイターに軽い酒を頼むと頬杖をついてきょとんとした顔のエルフを見据えた。

「機嫌悪いね」

「まあな」

睨み付けるような顔で自分を見ていたニコラスに率直な感想を述べ、アルスはパンをちぎって口に運ぶ。それを見てうまそうに思ったニコラスが手を伸ばすのを軽く手を叩いて止めると、相棒は今度は空気が抜けるような大きなため息をついた。

「すげー可愛い娘だったよ。」

「よかったじゃない」

「よくねえよ。こー目の前で必死に、子どもが欲しいって、そのためならなんでもしようと思ってますって言われてみろ。お前、萎えるというか哀しいというかそれでも手が出る男の性が恨めしいというかともかくなんかこーやり切れねえ~!」

ニコラスが、注文した酒を受け取りその場でぐいっとあおっておかわりを注文する。動機はどうあれ金で女を買った自己嫌悪や、その女性の事情に口出しできないこと、それを商売の種にしている娼館のことやらで飲まなきゃやってられないほどやりきれない気持ちになったらしい。彼らしいその心境と行動にアルスは苦笑して、心配そうにおかわりを持ってきたウエイターにニコラス用の軽食を頼むと、相棒に向き直って尋ねた。

「それで、その彼女、どうだった」

アルスの問いに、ニコラスはグラスから手を離して同様に視線を向ける。

「多分、薬じゃねえかな。健康だし不妊じゃねえと思うが、知らないうちに薬を飲まされてるんじゃねえかなって感じはした」

女性に触れながら、その息や体の感触、暖かさなど、注意深く観察してきたらしい。もともと医者の次男坊でそういうことには鋭い彼がいうことだけに、まず間違いはないだろう。

「子どもが出来たらやめられちまうからってんで娼館の主人あたりが飯にでも混ぜてんじゃねえか。薬のことは専門外だから俺にはわからねえけど、呪いとかじゃあねえと思う。」

アルスが頼んだ軽食に手をつけながら、ニコラスはだんだんといつもの顔に戻ってきていた。

それを眺めながら、今度はアルスがしかめっ面になっている。

「呪いだと厄介だけど、薬なら何とかなるかもしれない。でも、解毒していいものかどうかは事情しだいだよね」

「まあな、でも」

手を口元に運びうなっているアルスをニコラスはしばらくぼんやり眺めていたが、やがて食事の手を止めにんまりと笑ってアルスの前のテーブルをチョイチョイとつついた。

「今夜はお前が買いに行って、事情直接聞いたらいいじゃん。で、OKなら即解毒」

「えええ!?」

女を買えと言うニコラスに、面白いほど驚いてアルスが首を横に振る。

そのしぐさに爆笑し、目じりの涙を拭きながらニコラスは

「お前娼婦に逢うのに買う以外にどうやる気だよ。相手は籠の鳥なんだぜ?」

うぶなエルフが忘れている事実を指摘した。


娼婦は自由に館の外に出ることは出来ない。そして客でない男が逢わせてくれといっても、普通は逢わせては貰えない。

その少女に逢う為には、客としていくしかない。

「でもな…」

遠い目をするエルフの肩を手を伸ばして叩き、ニコラスは「何事も人生経験だぜ」と無責任なことを言いながら、食事の間さんざからかい倒す。

酒場を辞して部屋に戻るころ、ニコラスはすっかり上機嫌、そしてアルスのほうが今度は帰って来たときの相棒のような顔になっていたことはいうまでもない。









 どうか神様、ひとつきりの恋をください。

一瞬が永遠に続くような、奇跡のような一夜の恋を。







そして再び太陽が地平に姿を消し、その光が降り注いだような灯が街のあちこちに点るころ、アルスはひとり表通りを歩いていた。食事を終えて宿を出てくるときの相棒のにたにた笑いが目の裏にこびりついて憎憎しい。

道の小石を蹴りながら、なんとなく重い足を引きずって彼は噂の娼婦がいる娼館を目指した。

女は上玉なのに破格の安値。それだけに引く手数多なのだが気を利かせた相棒が前日のうちに予約を入れ、あまつさえ前払いを済ませてしまっていたために、すんなり逢うことが出来てしまった。

「お待ちしておりました」

アルスは今、耳を隠すためターバンを巻き、遊牧民のような身なりをしている。

館の者も客の素性を詮索しないのが決まりなので、特に疑われもせずに彼は噂の娼婦の待つ部屋に通された。


その女はとてもではないがアルスが支払った額で買えるとは思えないほど綺麗だったし、部屋も最高の調度であった。うわさどおり、客が支払う額は部屋代だけなのだろう。その気になれば金などいくらでもむしりとれるであろう美貌の娘はしかし、子どもが欲しいだけのためにこんなことをしている。客である男のいうことは何でも聞き、なんでもし、金は取らず、ただ子種だけを欲しがっている。

おかしな話だ。こんな美しい娘ならば、普通に恋をして幸せな結婚も出来るのだろうに。 こんなことをしなくても、望めばいくらでも。

「どうか、なさいましたか?」

眉根を寄せどこか哀しげな顔で自分をただ見つめているだけの客に、娼婦は心配そうに尋ねた。その声でアルスはようやく我に返り、彼女のそばによると巻いていたターバンをはずした。

解けたターバンからやわらかく艶やかな黄金の髪がこぼれる。その間に伸びる長い耳を見て、娼婦は驚いたようだった。

「エルフのお客様は、初めてです」

「そうだろうね」

少女の言葉に苦笑して、アルスはネグリジェの紐を解こうとする彼女の手をそっと止めた。

「僕は、君を抱きに来たわけではないよ。君に子どもが出来ない理由を解き明かしに来ただけさ」

少女は戸惑ったように目の前のエルフを見た。海のように深い、碧の瞳が自分の姿を移している。

アルスは少女の髪を撫で、そっと額にキスをした。どうしてそうしたか、アルスにも分からなかったが、それで少女は落ち着いたようだった。

「悪い薬じゃないかと思って。診に来たんだよ」

「お医者様なのですか?」

「医者じゃないけど、ちょっと心得があるんだ。昨日きた黒髪のバンダナ男も、実は医者モドキ」

「まあ」

そんな言葉に安心したのかくすくすと笑いながら、彼女はアルスの診療を受けた。やはり不妊になる薬を飲まされているようだったので、彼がその旨を告げると彼女は顔を曇らせて、何とかなりませんかとエルフに問いた。

「解毒の薬はすぐに作れるけれど……治してもいいものだろうか」

エルフは、少女の顔を見つめながらそう呟いた。彼女のこれからを慮っての言葉だ。

少女にもそれが伝わったのだろう。しばらく、無言の時刻が流れた。

やがて。

「……治していただけなければ、ひとつの村が滅びます」

少女は少しの沈黙のあと、哀しげな瞳を向けて傍らのエルフにそう答えた。








遠い昔。北の外れにある小さな村に、古い神がいた。

神は極寒の地に実りをもたらし、土地を永く守っていた、守り神であった。

しかし時が過ぎていくにつれ人々は神に対する感謝を忘れ、そしていつしか心無い人のために神は祟り神になってしまった。


神を汚し、傷つけた人間は村人たちに八つ裂きにされて死んだ。その男にはひとりの娘がおり、その娘は自ら望んで、荒ぶる神を鎮める役目を受けた。神は自らが住む館に娘を受け入れ、館は地に沈み、氷に閉ざされ死に瀕していた村は再び実りを取り戻した。

それからしばらくして、神にささげた娘は老衰で死んだ。神の住む館は再び地上に浮かび上がり、神は新たな巫女を求めた。

巫女には、娘の残した子がなった。神がそう望んだからであり、娘もそれを受け入れたからだった。


そして代々、最初の巫女の血を継ぐ娘が神に捧げられその村は平和を保っているという。




「私は、その当代の巫女なのです」

娼婦は自らの身の上をそう語った。

信じられないことではあるが、彼女の言葉に嘘は感じられなかった。


「今から数年前に、館が浮上の兆しを見せました。兆候が現れてから数年のうちに館は地上に姿を現します。私はそれまでに、子を産み、次代の巫女を得ていなければなりません。そうしなければ私が役目を終えて死んだ後、神が受け入れるべき巫女がいなくなり、村は滅んでしまいます」

ベッドの上に腰掛けたまま話す彼女はその間、顔を上げなかった。アルスは彼女の隣に座り、震える肩を抱いたままじっと言葉に耳を傾けていた。

彼の故郷の森にも、荒ぶる精霊はいた。それを御する精霊使いが押さえていないと周囲の精霊力を乱し、空間を破壊してしまうほどの強い力の精霊を、我が目で見たことがある。彼女の話す荒ぶる神の力を笑える気楽さは彼の中にはない。

「だからわたしはなんとしても子どもを産まなければならないのです」


こんなに震えながらも村のために身を棄てる覚悟の彼女に、世間はあくまでも非情だった。

村の人間も、どれだけこの少女を愛しているのかも分からない。

生まれたときから生贄と決まった人間に心を尽くすものは少ない。利用するだけ利用して、ことがなればああよかったと呟いて終わり、大概の人間はそうだろう。

「その行為に、一切の愛がないのだとしても……血を残すためだけに、こんなことをずっと君は……?」

少女の健気さが、胸に針のように突き刺さる。心が痛かった。

少女は悲痛な顔をして自分を見ているエルフに、その言葉で初めて顔を向けた。

笑顔だった。

「わたしには母に愛された記憶があります。ですから、母から継いだ巫女の役目も辛いとは思いません。ただ、私が産む子にも、同じようにしてやれる時間があるかどうか……わたしはだから、一日も早く子どもが欲しかった……」

悲しい笑顔で彼女はそう言った。殉教者の顔を見ることが出来るとすればきっとこういう顔なのだろう。哀しくて切ないのに、誰よりも美しい少女。玩ばれて汚されたであろうに、今なお穢れない乙女のような、その澄んだ瞳。

「こどもを、産める体に戻してあげるよ。でも、僕は出来れば……」

アルスは、その先を言うことは出来なかった。口を引き結び、彼はベッドを降りて手荷物を開いた。


出来れば幸せになって欲しい。愛する人と幸せな、人として望まれる子どもを産んで欲しい。

言いたくて言えない台詞だった。言えば残酷に彼女の心を切り刻むだろうから。


薬はすぐに出来た。彼女はそれを飲み干し、薬の作用で少し眠った。火照る体を彼に預けて寝息を立てている彼女の髪を撫でながら、アルスはじっと虚空を見据えて動かなかった。彼の脳裏ではめまぐるしく考えが浮かんでは消え、また浮かんでは消えていく。

そしてやがて彼はひとつの結論に行き着いた。

「…ん……」

彼の腕の中で少女が目を覚ました。夢の世界では誰も彼女を苛まなかったようだ。穏やかな寝顔からそのまま目を開いた彼女は、自分を抱いて髪を撫でてくれていたらしいエルフを見上げて、麗しい微笑を向けた。

「優しい一夜と、貴重な糧をありがとうございました」

そう告げた彼女に、エルフの心は決まった。

「ここを出よう。」

「え?」

驚き目を見開いた少女をまっすぐに見詰め返しアルスは微笑った。彼女と同じように澄んだ美しい瞳で。

それからその唇が、彼女の思いもよらぬ言葉を告げた。



「僕が君のこれからを買おう。そして一緒にここを出て、―――君の故郷に行くんだ」







それからすぐ、アルスは言葉どおりに彼女を買った。

心配したのかからかいにきたかっただけか近くまで迎えにきていたニコラスにアルスが娼婦を身請けすると告げたときの驚きようは滑稽を通り越して哀れなほどだったが、事情を説明すると彼は相棒を褒め、ふたりはありったけの私財をかき集めて娼館へと足を向けた。

額にしてはそれほど大金とはいえなかったが、強引にというか脅し半分というか、ともかくなんとか少女を外に連れ出すことに成功したふたりは、少女…リィナに改めて自己紹介をした。

ニコラスの気取ったしぐさに彼女は笑い、その手を取るとまるで姫君のように優雅にお辞儀をした。

アルスはそのふたりに手を差し伸べ、三人は、幸福や報酬などではけしてなくただ悲しみだけが待つのだろう、短い旅を始めた。


道中、いつも笑っていたリィナが、時々不安そうな顔をして後ろを振り返った。

ニコラスはそれに気がつかない振りをしておどけて彼女を笑わせ、アルスはそっと彼女の肩を抱いてともに歩いた。

ふたりの優しさに包まれて、リィナは震える足で一歩一歩、進んでいった。



潮のにおいは次第に遠く、徐々に向かい風が冷たく荒くなっていく。

道の端も、草は枯れ朝には霜が降りるようになった。



リィナに対しての愛しさは募るばかりだった。ニコラスとアルスにとって、彼女は初めて逢ったときからずっと、守るべき女性だった。

笑顔がまぶしかった。笑って欲しかった。幸せを願った。もしも彼女の運命を解き放てるのなら、何でもしてやりたいと思ったが、ふたりは運命に抗うすべを持たなかった。彼女をつれて逃げたいと思ったことも一度や二度ではないが、そうして彼女の命を救ったとしても彼女はけして喜ばないことを、彼らは知っていた。

彼らに出来ることは、彼女に子どもを与えることと、彼女を村へとつれて帰ること、ただそれだけだった。彼女が子どもを産んだらその子を引き受け、彼女を神の元へと送る。ただそれだけしかしてやれることはなかった。

「無力だね」

アルスが呟いた。ニコラスは焚き火の近くで黙ったまま頷いた。

旅に出てからまだ彼らはふたりとも、彼女の肌に触れてはいない。抱けば辛い、それを知っているがゆえになかなか手を出せないが、彼女は子どもを望んでいる。どちらかが、あるいはふたりともが、その望みをかなえてやらねばならないだろう。

「神を滅ぼすことは出来ないのだろうか」

ぼそっとニコラスが呟く言葉に、今度はアルスが黙ったまま首を横に振る。

自分たちの死は恐れない。だがしくじれば彼女の守ろうとしていた村が滅ぶ。危うい賭けに出ることを彼女は多分望まない。

「どんなに力があっても、金があっても、男が一生に護れるものなんてきっとほんの一握りだ」

焚き火がはぜた。ニコラスが棒でぐしゃぐしゃとかき回すと、焚き火はひときわ高く炎を吹き上げた。

「なぁ、アルス」

「ん?」

炎を見詰めながら、ニコラスが穏やかな声でアルスを呼んだ。ひざを抱いていたエルフが顔を上げる。

「リィナが待ってるのは、お前だと思うぜ」

その顔を見詰めながら、ニコラスがはっきりと言った。

「彼女はお前が好きなんだと思う。子どもがどうとかじゃなくてよ、今だけでもあの娘を幸せにしてやれるとすれば、お前だけなんじゃねえかな」

ニコラスも彼女を愛しているのだろう。少女は彼らふたりを好きだろうが、その視線の先はいつも、穏やかに笑う黄金色の髪をしたエルフだったことに、ニコラスはいつしか気がついていた。

「……でも」

「なんだよ」

アルスもまた彼女をいつしか愛していた。それでも、エルフは言葉を濁す。

「もし、子どもが出来てしまったら、その子は……」

「………」

火が爆ぜる音が闇に響き、それから闇よりも重い沈黙が降りた。

彼らの背後少し離れたテントに、リィナがいる。淡いランタンの明かりが布越しに揺れている。

「その子は、母親よりも過酷な運命を背負ってしまうような気がする」


 ―――僕はエルフだから。

そう呟くアルスを、ニコラスは見なかった。ただ悲痛な顔をして炎だけを睨みつけている。



リィナが、心配したのかテントの中から顔を覗かせて、ふたりを呼んだ。

アルスが振り返り、苦笑して手を振った。

「アルス」

そのアルスにニコラスが、振り返らずに声をかける。

「ん?」

「リィナはさ……」

お前が好きだから、お前を待ってる。もう一度繰り返し、ニコラスは空を見上げた。

「子どものこと云々はお前がちゃんと彼女に聞けよ。それでもしお前がリィナのこと抱けなかったときには……俺が、ちゃんと役目、果たしてやるから」

「ニコラス……」

心配そうに自分を呼ぶ相棒の声に、ニコラスはようやくアルスを振り返った。振り向いた顔は、いつもの彼のおどけた笑顔だった。

「種族違いったってよ、お前は先がねえ女を愛せないほど狭量じゃねえだろ。リィナのこと今幸せにしてやれるのはお前だけだと俺は思う。そんでも拒むなら俺はしこたまお前をぶん殴る。いっとくが、すげえ痛えぞ」

ウインクひとつして、拳を口元に運び息を吹きかける。そのまま肩からぐるぐると回し始めた彼に苦笑して、アルスは手を振った。

「わかった、わかったよ」

「ほんとか?」

「ほんとだって」

慌ててこくこくと頷きながら言った言葉にようやく彼は振り回していた手を下ろし、ニコラスはそのまま親指を立てて突き出した。

「よっしゃ。だったらすぐ行けほれ行け、俺は気が短えんだ」

追い払うようにしっしっと手を振る。

わざと逃げるようにしてテントに駆け寄り、アルスはニコラスのほうを振り向いた。もう先ほどと変わらず火の番に戻っている相棒の背に、彼は切なげな微笑を向けると、小さく「ありがとう」と呟いてテントの中に消えた。




誰もいなくなった火のそばに、粉雪がいつしか降り始めていた。

「……神様」

小さくニコラスが呟いた。降り注ぐ粉雪を見上げ、彼の肌に触れた雪が溶けて頬を伝うのを感じながら。


「神様、あなたがもしもいるのなら、幸せにして欲しい人がいます。一夜だけでいい。世の誰よりも素晴らしい幸福を、彼らに。叶うならばこの命すべて今あなたに捧げても良いから。」


点した火が消えぬよう番をしながら一晩中、声もなく彼は祈り続けた。

誰よりもこの世で愛しく思うふたりが、悲しい恋人たちがせめて今宵だけは幸せであるようにと。










テントの中でランタンが揺れ、少女の華奢なシルエットを天幕の布に映していた。

アルスがテントに入ると、彼女はふたりのやり取りを聞いていたのか、少し気まずそうに下を向いた。

テントの中にも小さな火が焚いてある。そのために外よりもはるかに暖かい。

「……リィナ、聞いてた?」

「うん、少し」

沈黙に耐えられずにアルスが聞くと、彼女はためらったあとで答える。

「子ども、だけど」

「うん」

ぽつりぽつり、単語だけで会話をつむぐ。なんと言えばいいか迷う。アルスが天を仰いだ。少女は地を見詰めている。

「子どもね、わがままが許されるなら、わたし、あなたの子供が欲しい」

しばらくの沈黙のあと、少女は意を決したようにきっぱりと顔をあげて傍らのエルフに告げた。アルスが顔を上げた。彼女と視線があい、そして少女は儚く微笑った。

「エルフとの間に出来る子はやっぱり永遠を手に入れる。そうなれば、わたしの運命を継ぐだろうその子は永遠に神の元で苦しむのかもしれない……あなたはそう思ったのでしょう。でも」

ランタンの明かりが揺れる。彼女の眼の中で。

「でも、もしかしたらその永遠の中で、わたしの子は運命から逃れる術を見つけられるかもしれない。ずっと続いたわたしたち巫女の運命だって、いつかきっと終わるもの。」

「でも、終わらないかもしれない」

「終わるわ」

ためらうアルスの頬に手を添え、彼女はきっぱりと言い切った。

「そう信じたいの。たとえ人間として生まれても、その子はわたしと同じ運命をたどるだけ。少しでも可能性があるのなら……わたしは永遠の中の可能性に賭けたい」

リィナはアルスの唇にそっとキスをした。やわらかく、暖かかった。

その暖かいやさしさに、愛しさがあふれた。

抱きしめたアルスの腕の中で、リィナが震えていた。


「でも、本当はわたしが幸せになりたいだけかもしれない。あなたが好きで、好きな人の子が産みたくて、生まれてくる子は苦しむかもしれないけど、それでもわたし、幸せになりたい。誰よりわがままで、でも、今夜だけ、いいでしょう……?」


言葉に、アルスは彼女を抱きしめて泣いた。彼の髪をやさしく撫でて彼女もまた天を仰ぎ涙をこぼす。

やがてふたりの影は静かにかさなリ、そのままテントの奥の闇にゆっくりと飲まれた。








冬に舞うアゲハチョウはどこを目指して飛ぶのだろう。

その先に未来などなくとも、生きるために、季節外れの蝶は暗く冷たい空に舞い上がる。



その姿に憧れた。少しでもどこかを目指して飛んでみたかった。ひとときでいい自由になりたかった。

恋をして笑って泣いて、それからであれば、私は、永劫の闇をも恐れずに済むのだろう。





だから神様、たった一つの恋をください。

わたしが、暗闇を恐れずにいられるように。





 …神様。









終わらなければいいと願った夜は終わり、朝が来た。引きちぎられるような想いで身を離し、ふたりは着替えるとテントから出た。

一晩中火の番をしていたニコラスが眼の下にくまを作りながらふたりを迎え、それから出発までのわずかな間だけでも睡眠を貪るという。彼の代わりに朝食の支度をし、それから起こしてもなかなか起きないニコラスにアルスとリィナは顔を見合わせて笑った。

幸福な時間はすぐに終わり、重い足を引きずる旅が始まった。

それから数回アルスはリィナとともに夜をすごした。ニコラスの気持ちを思いアルスは遠慮したが、ニコラスがそんな彼の背を押して無理やりテントに放り込んだ。リィナは、村に近づくにつれて言葉少なくなってはいたが、それでもふたりのやりとりや優しさに笑い声をこぼし、歩む足を止めることはなかった。

そしてついに彼らは一週間後、リィナの村へとたどり着いた。



事態は、彼らの思ったより深刻で急激なものだった。

神の館は既に浮上していたのだ。


村人の一人が既に彼女を迎えるためこちらに向かっていたらしく、使いの男は彼女を見つけるとそばにいるふたりにかまわず彼女を引っ立てるようにして村へと走り出そうとした、それを奪い返し、なだめて彼らはともに村への道を急いだ。

村に着くと彼女は村人たちに囲まれ、村長の前へとつれていかれた。村長は恭しくリィナの前に伏し、けれど一夜ののちに館へと赴くようにと有無を言わせず告げた。リィナは村人たちに従い宛がわれた半分監禁状態の部屋へと入れられた。


アルスとニコラスは客人としての待遇を受けた。村長は彼らにわずかばかりの報酬を与えようとしたが、彼らはけしてそれを受け取らなかった。 客人用に割り当てられた部屋のそこそこ豪奢な寝台に腰をかけ、アルスは腕を組み宙を睨んでいる。ニコラスはその傍らで自分の寝台に寝転がり、天井を睨みつけていた。

ふたりとも、それから一刻の間無言だった。やがて沈黙を破ったのはアルスのほうだった。

「前にさ、君、神を滅ぼせないかって言ったことがあるよね」

「あぁ」

ニコラスが身を起こしてアルスを見た。

「僕は今、神を滅ぼすことが出来なくても、この呪わしい運命を断ち切ることだけでも何とかできないだろうかって考えてる」

アルスは彼を振り返り、静かにそう言った。

「この村に危険が及ばないように、原因を突き止めて神に手を引かせることは出来ないだろうか。リィナに聞いた話では、神は人の手で荒神にされる前は無条件で大地に実りを与えていたはずなんだ」

風が吹き抜けて窓をガタガタと揺らした。この闇の向こうでリィナは、鳥かごの外で過ごす最後の夜をゆっくりと噛み締めているのだろう。

それを思い、アルスは目を閉じた。

「けどその原因なんて、どうやって探るよ。一晩しかねえんだぞ」

ニコラスの問いに、眼を閉じたままで金髪のエルフは答えた。


「探らなくても、明日、神に聞けば分かる」


絶句してニコラスが眼を見開いてアルスを見た。

アルスは穏やかに微笑して彼を見詰め返し、それからごろりと寝台に身を横たえた。








翌日、アルスとニコラスは神の元へと赴くリィナの護衛をかって出た。村人たちは当然反対したが、ここに彼女をつれて来てもらった手前強いことは言えず、結局村の人間も連れて行くという条件で彼らの同行を許した。

リィナは思いもよらぬ彼らの申し出に、ほんの少しだけでも安心できたようだ。それだけでもついてきた価値があったとニコラスは思ったが、アルスはなおさらに、どうあっても神と直接対話する決意を固めていた。


館はむしろ小さな城と言った方が正しいような佇まいだった。

門を開け、彼らは奥へと踏み入った。念のため扉には閉まらないように楔をうった。

足音が響き、こだまする。不気味な静寂に満ちた館の中を彼らは進んだ。たいまつの光揺らめく細い廊下をしばらく進んだ先に、広いホールのような場所があった。

奥にひとつの祭壇。手前には魔方陣が描かれ、どす黒い染みが広がっていた。


「まさか、リィナを……」

ニコラスが低くうめいて剣に手をかけようとした。村人から、あるいは神から彼女を護るために。

その彼をアルスが手で制した。

「違う。この血痕は相当……数百年単位で古いものだ」


ついてきた村人ふたりが、リィナに祭壇へと進むように指示した。彼女は震える足で一歩踏み出した。

一歩、二歩、歩むその足音が響く。不気味に反響する足音にやがて別の音が混じり始めた。

カシャン、カシャンという耳障りな音。

「ひ……!!」

音のほうに眼を向けたリィナが喉を引きつらせ、悲鳴を飲み込んだ。


蜘蛛の化け物がそこにいた。小さくはない。肢を鳴らし、近づいてくる。

敵意はない。よたよたと歩いてくるそのからだの先には、ひとりの子どもの顔がついていた。



これが神なのか。



「おねえちゃん」

神と呼ばれ恐れられる「モノ」は、子どもの声でそういった。



「おねえちゃんが今度のお母さんなの?」





震える声でリィナが、そうよと答えた。

その声に、蜘蛛は「嬉しい」と言って笑った。




神とともに閉じ込められていた狂える精霊たちがそのときアルスに囁いた。

誰も語らぬ哀しいその神の真実を。

今目の前にいるモノがもともとは神でなかったことを。



神に捧げられるはずだった子どもがかつていたこと。

それが無残にも神の力を欲した人間の手により引き裂かれ、葬られたことを。

子を愛した神が断末魔の痛みにか細く泣く幼児を身の内に引き入れ、そうして今の姿になったことを。

最初の巫女はその子の母親であり、殺した男はその子の祖父だったことを。



子どもは母の代わりに巫女を求め、巫女が死んだとき再び悲しみを癒すために母親を求める。

何度でも繰り返す。その悲しみが癒える日まで永遠に。



子どものまま歳も取らず、けして満たされはしない母への思いを満たそうと、永遠に。





そのときアルスが走った。リィナのそばではなく、子どもの顔をした蜘蛛のもとへと。

「アルスレイ!!」

ニコラスが呼ぶ声が聞こえたが、アルスは止まらなかった。


子どもの顔を持つ蜘蛛が、駆け寄る彼を見た。不快そうにその顔が歪んだ。

敵意のないことを示すため、アルスは立ち止まり、ゆっくりと蜘蛛のほうへと歩んだ。

「邪魔するの?」

子どもの声が聞いた。アルスは首を横に振った。

リィナが不安そうに彼を見ている。

「邪魔はしないよ。僕は君に聞きたくてここに来たんだ。君が寂しいわけと、それから」

言葉を切り、アルスは子どもの顔をまっすぐに見た。



「一緒にいるのは、お父さんじゃダメかい?」




リィナが、ニコラスが、村人が、そして子どもの顔がアルスを見ている。

視線の真ん中でアルスはそっと手を広げ、子どもに話しかけた。



「僕には永遠の時間があるから、君が本当のお母さんを待つ間…出来れば君に起きたことを君が思い出すまでの間、その悲しみが癒えるまでの間、ずっと一緒にいてあげられるよ。幾度お母さんを求めても、そして何度別れと出会いを経験しても、悲しみはいや増すばかりだ。お父さんでもいいなら僕は君とずっとともにいてあげられる。……永遠に」


短い命のものと幾度出逢っても、いつか別れが訪れる。

その悲しみを知る彼の言葉に、子どもの顔が少しだけ歪んだ。


「おとうさんは、怖い」

蜘蛛は言った。

「うん」

アルスは頷いた。


子どもはリィナから離れ、アルスのほうへと近づいた。手を伸ばし、アルスに一打を加える。

エルフの足から血が流れた。


「おとうさんは助けてくれなかった」

「今度は、だいじょうぶだと思うよ」


子どもの顔をした蜘蛛に彼はそれでも笑顔を向けた。手を差し伸べ、蜘蛛に触れる。

蜘蛛が怯えたが、彼は蜘蛛を抱きしめた。

「信じられない」

蜘蛛が身じろぎしたが、アルスは離さない。

ニコラスが何かを叫んでいた。リィナが震えていた。けれど彼らの声はアルスの耳に入りはしたが、聞こえてはいなかった。

リィナを救いたい。子供の顔と魂を持つ神を助けたい。

そのために、彼に出来ること。彼がしてあげられること。




「君が僕を信じられるまで、一緒にいるよ。」





神殿がそのとき、震えたような気がした。


おぉぉぉおおぉぉぉん。

奇怪な音が響き、それに続いて床が波を打って揺れた。



蜘蛛が小さく「おとうさん」と呟いた。不安そうなその声に、アルスは微笑して「うん」と答えた。

地響きがそれを押しつぶし、ニコラスは立ち尽くすリィナとアルスに走りよった。

「リィナ」

蜘蛛を抱いたままでアルスは振り返った。リィナが駆け寄ろうとするのを制し、彼はゆっくりと言った。

「君は外に出るんだ。ニコラスと一緒に。」

「でも……」

涙を眼にためて、リィナが首を横に振った。

「わたしは巫女です。その子の母に、なるために……」

「リィナ」

言葉を制すように、轟音の中で、アルスが静かに名を呼んだ。その声音は限りなく優しかった。


「この子の母は戻らないよ。僕はこの子がそれを受け入れるまでそばにいようと思う。悲しみが癒えるまで。君は……生まれてくる子の良き母になってくれ。僕がいつかここを出て、その子に逢える日まで、その子が君の愛を忘れないように」



永遠の起こす奇跡を、僕も信じてみようと思う。

彼が声に出して言わなかったその言葉を、リィナは聞いた気がした。



ニコラスが彼女の手を引いた。彼女はよろめきながらその手を取った。

アルスは蜘蛛神を抱いたまま彼らの背を見送った。

これが今生の別れになることを、三人ともが知っていた。

別れの言葉もかき消す轟音の中、振り返りながら彼らは走った。楔を打った扉が閉じかけている。

未練も愛しさも何もかもを振り切って彼らふたりは駆けた。

リィナにとっては二度と見ることもないと思われた青空を、彼女は見た。

美しい、突き抜けるような蒼だった。



 それはまるであのひとの瞳のような―――



まろぶように外に出た彼女の背後で轟音が響いた。扉が重い音を立ててしまった。

崩れんばかりの音を立て、館が地に沈んでいく。

哀しい記憶を抱いた子どもの魂持つ神と、優しく強いエルフの青年をその身のうちに抱いたままで。
















それから十年の時が過ぎた。










その村からははるか遠く。エルトバレイの隣国ケティリッジのとある村に、ひとりのエルフが立ち寄った。

エオールの街で一人の男に呼び止められ聞いた話を頼りにここまでやってきた彼は、町外れの小さな家にたどりつくとその扉を叩いた。

「どうぞ」

短い答えを聞いて、彼は戸を開けた。


部屋の奥の寝台に一人の女性が横たわっていた。女性は彼の姿を見ると、眼を見開いて身を起こした。

幻を見ているような顔をしている。やつれてはいたが、女は美しかった。

「……初めまして」

女性の驚きに、エルフはすまなそうな顔をしてそう挨拶し、頭を下げた。

彼女はその言葉でそのエルフが待っていた人物ではないことを知ったようだ。

「よく、似てらっしゃいます。あなたが、アレクセイさん?」

穏やかに微笑むと、そう声をかけて、寝台から離れられない非礼を詫び彼に椅子をすすめた。

「はい。…あの、…兄が、ずいぶんお世話になったみたいで……」

エルフは、アルスの双子の弟であるようだ。以前、アルスレイから話には聞いていたが、髪の色が違うほかは本当に彼とそっくりだった。

「お世話になったのはこっちのほうですわ。でも、よくここがお分かりになりましたね」

アレクセイはリィナの傍らに椅子を置いて座ると、ここに来た経緯を話した。

森を出た兄を探すため、遅れて故郷を離れた彼も、アルスとは別の波乱に満ちた旅をしてきたらしかった。その旅の途中、立ち寄ったエオールシティで偶然彼を見かけたニコラスが声をかけたらしい。

ニコラスから事情を聞いたアレクセイはその足で、彼につれられてここに来たのだと言う。

「それはそれは……お困りになったでしょう。」

「いいえ!いいえ……」

彼をねぎらうリィナに、アレクセイは泣きそうな顔で否定して、それから微笑した。

リィナの余命いくばくもなかったことを、ニコラスから聞いて知っているのだろう。兄と同じ優しさをもつそのエルフに、懐かしいものに逢ったような顔でリィナは微笑した。

十年前と変わらない、美しい笑顔だった。


「僕が、あなたに何か出来ることは、ありますか」


やがて銀髪のエルフが申し出るのに、リィナは少し考えたあとためらいながら口を開いた。

「娘が、いるんです」

あのひとの忘れ形見の……半エルフの娘がひとり。リィナはそう言って、アレクセイのほうを見た。

「ご迷惑とは分かっているのですが、預かっていただけないでしょうか。」

「リィナさん……」

「本当はわたしが一緒にいてあげたいけれど、わたしは死んでしまうのです。でも、あの娘の父親と約束したんです。いつかあの娘が父親と逢う日が来る、そのときまで、わたしが愛してあげると」

それももう叶わないけれど、と哀しげに微笑い、あの娘をひとりにすることだけが心残りだと、彼女は一筋の涙をこぼした。

「フィラリスは、娘は、…わたしの死をもううすうす悟っていると思います。お母さん、心配しないでって、いつも言うから……」

アルスの娘は父に逢う日を夢見て、病に伏した母のために毎日薬草を積みに出かけながら、元気に育っている。

父は神のもとにとらわれ、母は逝き、ひとりになるだろう娘の先行きだけを憂い、死に切れずにいるリィナを見て、アレクセイはその手を優しく彼女にかざすと優しい笑顔を向けて告げた。


「わかりました。フィラリスは僕が育てます。……兄に、アルスレイに逢えるその日まで、必ず」


ありがとう、と風が囁いた。リィナのかわりに。

眼を閉じた彼女の目じりから、ひとしずく雫がこぼれた。

手をかざしたアレクセイの下で、少しずつ彼女の体がほどけていく。ゆっくりと塵になっていく。



娘を憂い、ずっとここに留まっていた彼女はようやく解放されるのだ。

さよならと風が囁いた。けして幸せだったとは言えない女性はその日、幸せそうに笑って逝った。


ニコラスが幼い少女の手を引いてやってきた。彼女をエルフに預けて、彼もまた背を向け、どこかへと歩き去っていった。








 お母さんにはもうあえないの。

 それでもわたし覚えてるよ。お母さんのこと、お母さんが好きだったお父さんのこと。


 いつか、あなたと同じ顔してるっていうお父さんとわたしは逢うの。

 絶対に逢うの。信じているの。



 だっておかあさんは言ったもの。

 わたしの永遠の時刻は、そのために用意された奇跡なんだって……







父と同じ金色の髪、母と同じ緑の瞳を持つ幼い少女は、初めて逢った叔父に笑いながらそう言った。

風の中に踊るように歩く彼女の、こぼした涙が陽光にきらめいた。


幼い手を取り、アレクセイは彼女を連れて歩いていく。

新たな旅に出るために。


その後ろをひとひらのアゲハチョウが見送るように風に舞い、そして遠い空へと飛び去っていった。




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