7話 「へび」
巴が肉体の変化に気付いたのは、下宿先の古アパートに戻る道後途中だった。
新潟から東京の大学へ進学し、親元を離れての上京生活も今年で二年目だ。
都会の喧騒にもすっかり慣れ、いつもと同じ帰り道を通る時にも、特に感じ入るものは無い。
だがその時は違った。
ふと、心の底に埋もれていたものが光った気がしたのだ。
それは例えば····子供が急にどうしようもなく駆け出したくなるような、そんな気持ちだ。
巴は周囲を二、三度見回した。
閑静な住宅街の端っこであるこの区画では、夜の人通りは少ない。
巴は走ってみる事にした。
踏み込んだ瞬間に、その違いが分かった。
自分がもう人間ではない事も·····。
しっかりと測れば、確実に世界記録を超えるであろう速度で道路を疾走しながら、巴は強烈な困惑に襲われた。
なんで??
意味が分からない。
肩にかけたオレンジのショルダーバッグが宙で真横に固定され続ける。
どのくらいのスピードが出ているのだろうか。少なくとも、車よりは早い。
何か変なものでも食べたっけ???
いつもよりかなり早く、巴はアパートの前に着いた。ふと行ける気がして巴は、大きく屈んで、飛び上がった。
その予感は的中して、大きく飛び跳ねた身体は、階段を使うことなくアパートの二階へと着地した。
大跳躍で乱れた、薄い黄色のワンピースを整えてから、巴は家の鍵を取り出そうとバッグを探った。
突如、猛烈な空腹に襲われる。
いや、大丈夫。
冷蔵庫にご飯があるから、直ぐに食べれる。それからゆっくりこの現象を考えよう。
そう心の中で自分をなだめるも、それは意味をなさなかった。だって·····。
すぐそこに一番美味しいものがあるじゃん?
階段を駆け上がってくる、軋む音が聴こえる。
振り返れば、隣に住む若い男がラフな格好で自分の部屋へ戻る所だった。
───時間が止まった。
その一瞬のうちに、巴は次の行動を決めた。
時間が動き出す。
バッグを地面に落とし、素早く男へと接近するそのガラ空きの喉元へ、ネイルの入った爪を·····。
巴は既に四人を食った。
食えば食うほど、自分の中の力が増していくのを感じた。
良心の呵責は勿論あった。
大学も休みがちになり、友達にも心配をされた。
だがそれは仕方がない、巴は怖かったのだ。
だって·····ある日突然、今まで楽しく談笑していた友人を〝美味しそう〟と感じてしまうようになったら??
だが二人目を食べた時に、その心配は打ち消された。
自分が猛烈な捕食欲をそそられるのは、自分と同じ人間を超えた怪物に対してのみだ、と。
一人目と三人目は楽に殺せたが、残りとは戦わざるおえなかった。
特に二人目は強かった。
最低限の急所を硬い鱗で覆ってきたのだ。
だが、勝った。
そして今では、巴も鱗を出せる。ほんの少しだが、首元や足などを保護するには充分だ。
維持に体力を使うのが玉に傷だけど····。
それに、私には強力な攻撃がある。最後の切り札だ。
四人目を食った時、自分の鱗を動かせるようになった。
初めは小さく振動させる程度だったが、それが面白くて何度もやっているうちに、大きく逆立てる事が出来るようになった。
逆立てた腕の鱗の鋭さを見て、思い付きでまな板の上の大根に押し当て、力を込めて押し込むと、まるで切れ味の良い包丁に斬られたかのように大根が二つに切れた。
そして今、巴は夜の東京をゆっくりと歩いている。
すれ違った中年の女性が、振り返る。巴は今、狩りの最中だ。その溢れる静かな闘志の一端を見てしまったのだろう。
この匂いは·····。
今までで一番濃い。まるで体の芯が震えるような匂いだ。全身の鳥肌が総毛立つ。
匂いは、路地裏へと続いてる。
巴は覚悟を決めて、ラーメン屋の排気口の並んだ路地の入口をくぐった。
奥まった、暗い暗い所に〝それ〟はいた。
まだ青年だろうか。少なくとも、大学生の巴よりも一つか二つは年下だ。
巴に背を向けて、地面に倒れた男の死体の肉を咀嚼する青年に、声をかける。
「気づいてるでしょ、立ちなよ」
声を聞いて、青年がゆっくりと立ち上がる。
僅かに差し込む月明かりに照らされて、黒髪に混じった白髪が光ったのが見えた。
振り返った青年と目があった時、巴は言い様もない恐怖に襲われた。
「君、今までで一番強いかもね。いちばん最初に戦ったやつと同じか、それ以上かな。これは結構弱かったけど」
地面に倒れた、内蔵の露出した男の死体を顎で示して、青年は言った。
周囲の空気を染め上げる程の濃密な〝力の匂い〟·····。まるで獲物に飛びかかる蛇のような瞳。
巴の本能が警鐘を鳴らした。『こいつはまずい!』。
「俺は結人。長月 結人。君は?」
「、·····巴、三谷 巴」
〝答えなければ〟という強迫観念を植え付けられて、巴は必死に言葉を絞り出した。
そして、次の瞬間、路地の出口へと猛烈な素早さで走り出した。
逃げろ!逃げろ逃げろ!!
あれは不味い!絶対勝てない!!
みるみるうちに、明るい街灯のついた道が前方に見える。
もう少しだ·····、人通りのある所に出れば、襲われることは無い。少なくとも逃亡はしやすい。
だが、青年の姿をした怪物は、巴よりずっと後に走り出したはずなのに、既に巴の前にいた。
「うあぁぁああ!!!!」
自分でも聞いた事の無いような奇声を上げて、咄嗟に腕を振って牽制する。
くるな、近寄るな!!
咄嗟に思い出し、腕に鱗を────、
巴の身体が、頭から縦に千切れる。
鮮血の吹き出る豪快な音を立てて、女性の体は原型を留めずに地面に倒れた。
「あれ、やっぱ弱いじゃん」