5話 「夜に翔ぶ」
『兵壌大学:自然と文化が融和する学び舎』
夜が更けた。
昨日の〝発作〟で、机から地面に落ちた大学のパンフレットを拾い上げて、結人はカーテンが開きっぱなしの窓を見た。
この大学には見学に行った事がある。
結人が好きな生物系の大学と聞いていた。もっとも、偏差値が高すぎてとても目指せるものでは無かったが。
蛇のような自分の目を見てから半日、現実逃避するかのように意識の隅から遠ざけ、先送りにしていた。
──、結人はもううんざりしていた。
中学受験、高校受験、大学受験、就活·····。
自画自賛の自己アピールをうるさいほど叫んで、社会に自分という商品を売り込む。
·····そうして初めて〝一人前〟だ。
飛びたい、この夜空の向こうへ飛んでいってしまいたい。
ベランダへの扉を開ける。
ひんやりと冷えた夜の空気が、結人の全身を包み込む。
唐突に心の中に、ある思念が浮かんでくる。
─────ここから、向こうのマンションの屋上まで、跳び上がったら·····気持ちいいだろうな。
馬鹿なこと言うな、何メートルあると思ってんだ。
サンダルをつっかけて、ベランダに出る。
自分の出番だと言うかのように、ふくらはぎの筋肉がミシリと唸った。その音は、いつか見た雷龍が全身の鱗を逆立てた瞬間に発する音に似ていた。
·····行けるのか?ここから。
サンダルを脱ぎ捨て、柵に足をかけた。ひんやりと夜気に冷やされたコンクリートを、足裏で掴む。
陸上選手のクラウチングスタートのように体をめいっぱい折り曲げて、足に力をこめる。
バキッ、と足元で音がして、結人は思わず後ろを振り返った────。そこには、ゆっくりと遠ざかっていくベランダと、電気が点いたままの自分の部屋が見えた。
結人の体は、足をふりきった姿勢のまま、夜の空を跳んでいた。
飛んだ、飛んでしまった。
「あははははははっ!!」
裸足と裸足の間をすり抜ける夜の風がくすぐったくて、結人は笑い声を上げた。声は静寂を切り裂いて、主旋律を取り上げて、夜のノイズに溶け合った。
三階から、向かいのマンションの屋上への大跳躍の真っ最中、結人はこれまで考えた事も無いような全能感に襲われた。
この身体なら、なんでも出来る。
ついに、自由になった。
目前にコンクリートの壁が迫る。
どうやら屋上までは届かなかったらしい。最上階の廊下が左手に見える。
べチン、と嫌な音を立てて、無様に四手で壁にぶつかる。
後ろへ落ちかけて、咄嗟に近くのパイプを掴む。驚いたはずみに力を込めすぎて、手の中でパイプがパリパリと細く砕ける。
「ぶね·······」
左手も動員して、今度は柔らかくパイプを掴んでぶら下がる。屋上のフェンスまでは三メートルほどだ。
·····この距離ならひとっ飛びだ。
だが、手の中のパイプは、加速に使うにはあまりにも脆すぎる。
結人は、恐る恐るコンクリートの壁を爪で引っ掻いた。
爪が剥がれそうな嫌なイメージはない。暗闇の中でうっすらと浮かび上がる手の甲は、血管が力強く脈打っていた。
それでも、あまりに急な変化に恐れを為して、結人は右手の爪に挟まった壁の表皮を捨てる。
ゆっくりと振りかぶって、結人は拳を壁に放った。
メキメキと大木が倒れるような音を立てて、腕の筋肉が収縮する。力の行使に、脳が歓喜する。
猛烈な勢いで宙を移動した右拳は、聞いたことも無いような破裂音を立てて、コンクリートの壁に数センチほどめり込んだ。
「·····」
耳元で破裂した音に、思わず首を竦めて辺りを見回す。
幸いにも、住人が窓を開けることは無かった。
ふと、自分の拳を見る。
先程の打撃で剥がれた薄皮が、みるみるうちに塞がっていく。まるで、細胞の一つ一つが自分の意思で、元居た所へ帰ろうとするかのように·····。
頼りないパイプ管から、壁に空いた凹みに腕を移す。
指二本で窪みに掴まり、地上から遥か離れた上空をプラプラしながら、結人はマンションの汚れた壁を見ていた。
両手をグンと上に引き、結人の体はロケットのように宙に飛び上がった。
ガサガサした髪が、風で後ろに姿を消す。
屋上の高いフェンスを軽々と超えて、結人の体は屋上へと躍り出た。
なんなんだ、この力は───、なんなんだ!!
この心地良さは──────!
ポチポチとオレンジ色の光を放つ飛行機が、まるで川面を流れる死体のように、ゆっくりと空を過ぎる。今日は美しい三日月だ。結人は夜を手に入れた。
左上に亡骸を、右上に月を持って王は言った。
「あははははっ、××が叶った!!!」