2話 「龍がみえた」
結人は息を潜めた。
全身の感覚が眼に集中し、その景色を捉える。
·····ほんの少し灰色がかった夜空の奥で、二頭の龍がぶつかり合っていた。
向かって左側、青白い光の龍が相手に体当たりする。バチリ、という音が聞こえたような気がして、結人は少し顔を引いた。
向かって右側、体当たりをまともに受けてよろめいた黄色の光の龍が、口を大きく開いて牽制する。
結人は顔を近づけた。
今、自分が見ているのが幻か白昼夢か、分からなくなった。·····だが、結人はそのどちらでも良かった。
僅かな時間の間、結人は顔に夜風を当てながら、二頭の龍の戦いを脳裏に焼き付けた。
龍達は組みつ解れつ····、互いにぶつかり、噛み合い、光球を投げ合いながら、ゆっくりとこちらへ近づいているらしかった。
やがて、結人の向かいのマンションの上空へと差し掛かった。
結人はサンダルをつっかけて、ベランダへ出た。
龍は雲を散らし、風を巻き上げていた。
龍達が上空で身体を大きく動かす度に、うねった風が結人の髪の隙間をすり抜けて行った。
自分でも気付かないうちに、ため息をついた。
信じられない事だが、青白い方の龍はどうやら風神であるらしかった。
カナヘビのようにスラリと伸びた尾びれが、宙でうねる度に、突風が周囲の雲に穴を開けていた。
対するもう片方は雷神、雷の龍らしく、全身に絶え間なく電撃が走っている。
消えては走り、消えてはまた走る。
風と雷がぶつかる。
科学的に考えて、雷の進行は風の影響を受けるのだろうか?
そんな事を思うと同時に、ぶつかった風と雷は弾け、薄い赤褐色の花火になった。
それはもう目まぐるしく、あっちが光り、こっちが光り·····。
龍という非現実的な存在が、超常的な美しい空が、結人の脳が認識する暇もなく目の前で展開され続ける。
何を思う事も出来ないまま、結人はその景色を見続けた。
勝負は決着に向かっているらしかった。
青白い龍の噛みつきを受けて、黄色い龍がよろめく。
飛行も弱々しくなり、頭から下に落下を始めた。
もうほぼ、向かいのマンションの屋上のすぐ上だ。
対象が近づき、より詳細な部分が見えるようになった。
黄色の龍の全長は15メートルほどで、身体から発する雷が轟くような音を立てている。その光に、鱗の陰影が瞬きの間だけ浮き出た。
なんとか空中に踏みとどまった雷龍は、体勢を立て直し、追ってくる風龍を迎え撃とうと口を開ける。
バチバチという高圧電流のような音が響く。
猛スピードで突っ込んできた風龍が、雷龍に噛み付いた。
先程とは比べ物にならない突風が、結人の髪を逆立てた。
その場で絡み合いながら、二頭の龍は攻防を続けている。一瞬、電光に照らされて、頭から血を流す雷龍の顔が見えた。
ガァァァァ、と、空気ポンプに穴が開いたような龍の咆哮が、結人の鼓膜を叩いた。
途端、絡み合っていた二頭の龍が解けた。
雷龍が風龍の尻尾に掴まれて、放り投げられた。
·····結人の方へと。
「!?」
体が動く前に、雷龍の姿はどんどん大きくなって、ベランダに頭から突っ込んだ。
自分の見慣れたベランダに···すぐ目の前に、龍がいる。
怪獣映画でしか見たことの無いような、大型の肉食爬虫類らしいゴツゴツとした頭部が血に濡れている。
結人は博物館のティラノサウルスの頭骨を思い出した。
ラメの入った黄色の鱗が、キラキラと微かに煌めいている。
大蛇のように太い胴は、力強い筋肉が詰まっているのが一目で分かる。手は退化しているのか、二本の爪の生えた指が体からちょこんと飛び出ていた。
結人は再びティラノサウルスの前足を思い出した。
逃げもせず、かといって近づけもせず、結人はただ血濡れの龍を眺めた。
その時、龍が弱々しく口を開いた。
「人よ、雷を寄越せ」
「え、え、え、でも·····」
雷·····?どうやって渡すんだ。·····というかなにを?
「なんでもよい、早うしろ」
龍はもうすっかり落ち着いているらしかった。
もちろん、結人は落ち着いてなどいられない。自宅のベランダに龍が墜落して、自分に雷を要求しているのだ。
風のうねりが、結人の髪を捉える。
見れば、風龍が真正面にこちらを睨んで向かってきていた。
突風が、窓を叩く。
家族も物音には気づいているだろうが、出てこない。癇癪を起こした結人が暴れているとでも思ったらしい。
結人は猛スピードで部屋に駆け込んだ。
机の上を引っ掻き回し、電子辞書を掴む。ベランダへ顔半分だけ覗き、電子辞書から取り出した二本の乾電池を、雷龍へと·····投げつけた─────、
同時に、風龍が飛びかかった。風龍の方が、乾電池より少し早かったように結人には思えた。鋭い風に目をつむる。
バチリ、と大きな音がして次の瞬間には、雷龍も風龍も、ベランダから姿を消していた。
結人は狐につままれたような気分で、狭いベランダを見回した。それから二、三度、夜空に龍が舞っていないか探した。
·····だが、どこにもあの二頭の龍は見当たらなかった。
「···ん?」
ふと光る物を地面に見つけて、結人は夜のベランダの上にしゃがみ込んだ。拳大の雷龍の肉片だ。風龍の鋭い爪に抉り飛ばされたのか、キラキラと光る鱗が二枚張り付いている。
そのままにもして置けないので、鱗の部分をそっと摘んで持ち上げる。ピタピタと床にへばりついた肉片を剥がし、見つめる。
見た目は牛肉と大差無いようだ。
美味しそうに見える。
試しに食べてみるのもいいかもしれない。
·····ふとそんな事を考えた自分に驚くも、確かに味は気になる。
ベランダには、雷龍の血が撒き散らされているはずだが、血が赤黒いのか、夜の暗さに紛れて見えない。明日になれば分かるだろうが、親にバレると面倒だ。
とはいえ、この暗さの中ではどうしようもない。
ひとまず肉を洗いに、自分の部屋へ戻る。
閉じたドアの隙間は真っ暗だ。という事は、リビングには誰もいない。親は寝たのだろう。
ベランダの扉をそっと閉め、部屋のドアを開ける。
案の定、リビングも台所も電気は消えていた。
とりあえず台所の蛇口を捻り、肉片の地面に接していた部分を洗い流す。
蛇口を止め、水を切ると、綺麗な金色の鱗が光った。
しっかりとラップに包み、その上からビニールで覆う。誰にも見つからないように、冷凍庫の奥底へとそっと仕舞った。
それだけの仕事を終えて、しっかりと石鹸で手を洗い、冷えた手を頬に当てる。
ひんやりと心地よい感覚を覚えた結人は、落ち着いた気持ちでベットへ向かった。