桜、散りぬるを
舞台は明治の半ば過ぎ、西洋文化の洗礼を受け、されど生活の中には今まで通りの和が多く残る和洋折衷の時代設定です。
移り行き、やがて時のはざまに消えていく美しいものを思いながら書きました。
よろしくお願いします。
武 頼庵(藤谷 K介)様主催の【春企画 第3回『初恋企画』】参加しています。
障子越しの春の日差しで目は覚めていた。
母の形見の舶来の目覚まし時計がチリチリと涼やかな金属音を鳴らすのをぼんやりと聞いていた。ほどなくして、部屋の外に静かな人の気配がした。
「勇兄様、お目覚め下さい」
障子を通して、良く通る里香の声が聞こえた。
「ありがとう」
返事をした後ゆるゆると体を起こし廊下に面した障子を少し開けた。するとその隙間から亡父の愛猫のチョコレートがするりと部屋に入り込んでき、起きようとする僕の布団に潜り込んだ。その愛くるしさに僕は少し目を細め、誘うように見つめる目に答えるようにそのなめらかな姿態を撫でた。
本日は閉庁だからゆっくりで良い。けれど里香の母親の麗香はいつも通りの時刻に娘を起こし、きちんと着付けと髪を整えさせ、家長となった僕の部屋の前で正座し手をついての『お目覚まし』の口上をさせるのであった。
亡き父の後妻、麗香。その堅物な考え方や暮らしぶりは、元芸者とは到底思えぬものだった。
しばらく猫と戯れた後、布団から立ち上がり庭に面した廊下に出て伸びをすると、園丁に教わりながら枯山水の箒目をつけている花匂う十五歳の里香の姿が見えた。前髪を高く結い上げ、後ろを垂らした女学生らしい髪型に、僕が今年の誕生日に贈ったフランス渡りのリボンをつけていた。普段着の銘仙に包んだその身が心なしか弾んでいるように見える。婚礼間近というのはそんなにも気持ちが華やぐものなのだろうか?
里香の向こう側には、満開の花を、まるで葡萄の房についた実のように、その枝に重たげに咲かせ佇む桜が少女の背景として溶け込んでいた。その光景は、精を出して働くお仕着せを着た園丁の姿をもその美の全きに必要としている一枚の絵のように美しかった。
明治の世となってもう三十幾年がすぎようとしていた。
父が亡くなり家督を継いで一年と少しが過ぎていた。
「おはようございます」
いつの間にか麗香がそばに来ていた。ひさし髪に結い上げ、こちらも普段着の結城を着こなしている。麗香は一旦着物の打ち合わせを確かめ、きちんと整えると廊下の板張りに優美に正座し手をつき、しなやかに頭を下げた。
「おはようございます。母上」
僕は見下ろす姿勢で声をかけた。
麗香は少し眉をひそめた。
「もったいのうございます」
僕より三歳上の継母の麗香は、僕にその呼び方をされるのを嫌がる身の程の弁えがあった。
かつて麗香は時の法務大臣、大田五郎の妾であった。僕の父は貴族院議員で大田の一派に属しており、大田が亡くなった十四年前、大田の遺言で形見分けと称して麗香をもらい受けたのだ。その時麗香は21歳だった。
僕の生母はその三年前、僕が十五歳の時に亡くなっていた。母は生まれつき顔に痣があり人前に出ることを嫌い、いつも一人でいる寂しい人だった。
麗香は父の元に来るときに数え年一歳の里香を連れてきた。大田の忘れ形見であった。だが、世間からは、里香は麗香と父の間にできた子であると思われていた。
ひと月先に行われる里香の婚礼は僕が整えた。相手は僕の学生時代の友人の岩城という男で、その父の代で巨万の富を築いた豪商だった。岩城はその財力で貴族院議員に名を連ねてはいたものの爵位はなかった。
口には出さずとも、麗香は侯爵であった大田の血を引く我が子が平民に縁付くのが不満なようだった。
麗香の本望は僕と里香の結婚だったのだろう。世間で思われているような血の繋がりなどないのだから。伯爵位を頂く我が田沼家の力をもってすれば戸籍などどうにでもできる。だが僕は里香に対してそんな気にはなれなかった。
里香のことは可愛いと思う。幸せになってほしい。これからの世に爵位など、何ほどの役にも立たないだろうことは家長となった僕には簡単に想像がついた。華族が謳歌する時代はやがて終わる。岩城は美形の里香を一目見た時から心を奪われていた。きっと里香を生涯大切にするだろう。何より岩城の財力は必ずや里香に幸多き人生を与えてくれるはずだ。
僕は自分の足元に控える麗香に再び目をやった。
初めて出会ってから十六年。この女はまったく変わらず美しい。
その出会いは十七歳の時に、遊びも教養の内、と言い含められながら父に連れられて行ったお座敷だった。
父はお座敷を設けた料亭へ向かう馬車の中で、
「御一新で没落した旗本の娘が芸妓となって出ているらしい。なかなかの美形だと評判だ。名前が面白くてな。『ぽん吉』というのだ」と予備知識を与えた。
馬車を降り、店の門口に立つと、屋内の三味線や太鼓の音、女たちの嬌声やお客らしい男の野太い笑い声聞こえてき、僕はなぜかとても居心地悪くなり、自分が来るべき場所ではないところに来てしまったように感じた。
座敷に入り、用意された席に着くとふすまが開いて、芸妓が三人控えていた。僕はその中の左隅に控える芸妓を見て驚いた。なぜって。
その左隅の女が父がここまでの道すがら僕に話した士族出身の芸妓、『ぽん吉』だった。
ぽん吉は、まれにみるしなやかさ柔らかさで見事な舞を舞った。
宴もたけなわと言ったところで、父は「この子もそろそろ一人前にしてやりたい。手ほどきを頼むよ」とぽん吉にささやいたのだ。
それは大田も了解済みのことだったのだろう。当時は同じ女と通じることで義を結ぶという考えもあった。父との絆を大事にしたい大田は自分の愛人を、その息子である無垢な若者に与えても良い、と思ったのかもしれない。おそらく向こうからの申し出に父が答えたのだろう。
けれど麗香は「私の様な色町の女はご清潔な若様には何か触りがあるかもしれません。やはりお大切な時まで清らかでいらっしゃった方が」と言い首を振った。特効薬のない性病が蔓延していた頃だ。頭の良い断り方だった。
そして断ったことで大田のぽん吉への愛着は増し、落籍され妾として遇されることになり、やがて里香を生んだ。あの話はぽん吉を試す大田の考えがあってのことで、僕はいいようにダシに使われただけだったかもしれない。ぽん吉は水揚げも大田が行い、その後大田の囲い者同然だったので、花街にありながら大田以外にその身を任せたことがない、とも言われていた。
だが、麗香は分かっていたはずだ。僕が一目で恋に落ちていたことに。
僕が芸妓だった麗香にはじめてあった時に驚いた理由。それは母によく似た顔立ちで、母が心底望んでいた痣の無いなめらかな桜色の肌を持つ女がこの世にいたからだ。
僕はその時から麗香の言いつけ通り、友人たちが女を買いに行くときも知らぬ顔をして貞操を守ってきた。そして家督を継いでからは降るように舞い込む数々の縁談も断り、この身の清きを貫いてきた。本当に愛する人のために。
そう、いつか麗香が、自分の欲望を抑える娘という存在を手放し、この広い家に、遠く離れた使用人部屋に寝起きする者をのぞけば僕と二人だけとなった時、持て余したその身を、その脚を大きく開き、僕の前に投げ出すときのため。
父はおそらく麗香を捨ておいたはずだ。父はあの哀しい母を愛していた。みな早世したとは言え、僕の後に母は四人も産んでいた。そう、この僕の気性は、父から受け継いだものだ。生涯でただ一人の女しか愛せない。
僕は、素知らぬ顔をして僕の足元に控えている麗香の全身を、こちらも素知らぬ顔を決め込んで眺めた。どんなに堅く着つけようともその内側から押し返す、魔法のように保たれた、だが目に見えぬとはいえ終焉に近づきつつある若さ、ひいては長きにわたって押さえつけられた欲望に満ちた、その紬の中の肉体を透かしながら。
「今日は風が強いですね」
僕は独り言のように言うと庭に下りようとした。
麗香が先立って庭に下り、沓脱の上に草履を揃えた。しなやかに、するりとその姿態を操りながら。
桜が散り始めた。爛漫と枝に残る花びらが吹雪となって舞い落ちる。しどけなく、誰も知ることなく、日を、夜を重ねながら。
やがてすべては、散りぬるを。
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※御一新
明治維新のこと。
※美の全き
美を完成させるということ。
※ 結城
結城紬のこと。
※ 落籍す
遊女や芸者などの年季前に金を出してやって廃業させる。身受けする。
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※『お目覚まし』について
かつて一部の地方の旧家などでは、その家では下の立場のものが、立場の上のものを朝起こしに行く習慣があったそうです。その際に起こしに来たものに(多くの場合は子ども)お小遣いやお菓子などをご褒美に与えていたそうです。
その習慣をここにお借りしました。仏事の『お目覚まし』とは違うものです。
お読みいただきありがとうございました。_(_^_)_