誘い
外は雨が降っていた。せっかくの授業開始日だというのに外は暗くて肌寒い。家から学校までは自転車で二十五分くらいで着くのだが、雨の日はバスと電車を使って学校に行くことにしている。家から学校まではバスと電車を乗り継いでいく分余計な時間がかかり、だいたい四十分程度かかる。雨の日の通学は不便である。できることなら平日はずっと晴れであってほしい。予期せぬアクシデントのことを考慮して八時二十分をめどに学校に着くように家を出た。教室では昨日とは違い、席の近い人たちどうしが仲良く話をしていた。俺も席に着き、隣のやつと話でもしようと思ったが、あいにく俺の席の前後左右のクラスメイトたちは他の人と話をしている。みんなの中に割って入るのも気が引けるので、授業が始まるまで教科書でも読んで時間を潰すことにした。英語の教科書をぱらぱらと開いてみたが、さすがに中学校時代とは違い、勉強のレベルが上がっていることがよくわかる。英語の教科書など知らない単語だらけで、辞書は必携品である。意味を調べて、単語の下にその意味を書いていく。これだけで結構な時間が潰せる。
俺が周りの声も気にせず単語の意味を調べていると、俺の机の前に村上がやってきた。
「やあ、江藤君。俺、村上っていうんだけど・・・」村上は自己紹介を始めた。
「何?」俺は村上の方を見ずに答えた。
「江藤君、君は何部に入るんだい?もし何も決まっていないなら俺と一緒にバスケ部に入らないか?」村上は大きな声で俺に問いかけてきた。
「悪いんだけど、俺は部活に入るつもりないから。」俺は少し興奮気味な村上とは対照的に、冷静な口調で答えた。
「え、何で?」村上は俺の答えにかなり驚きながら尋ねてきた。
「えって、俺はこの高校に入って東大に現役合格したいから部活なんかやっている暇はないんだよ。」俺の胸の内を村上に明かした。
「えー、高校にはいったばっかりでもう受験かよ?」村上は呆れ加減で言った。
「何言ってんだよ!今からちゃんと始めないと東大に現役合格するなんて絵に描いた餅で終わってしまうんだぞ!」俺は普段使わないことわざを織り交ぜて言ってみた。ことわざを入れることに深い意味はない。
「そうか・・・・」
「そうだよ。」俺はダメを押した。
「わかった。江藤君の言っていることはよーくわかった。だが、ここは俺と一緒にバスケ部に入らないか?」村上は俺の両肩に手をかけて力強く言った。
「嫌だよ!俺バスケなんかやったことないし、そもそも部活なんかに入っている暇ないから。」そう言って俺は村上の両手を肩から外した。
「だが、君のその身長はものすごい武器になるんだ。初心者でもすぐに上達するから騙されたと思ってやってみないか?」村上は尚も俺をバスケ部へ誘った。
「ダメだって。俺はバスケよりも勉強のほうが大事なんだから無理だよ。」そう言って俺は席を立った。
「おい、どこ行くんだよ。」村上がついてくる。
「トイレだよ。」別にトイレになど行きたくなかったが、村上から離れるためにトイレに向かったのである。
「なぁ、なぁ、バスケって君みたいに背が高いやつにはすごく有利なスポーツで、しかも、そんなやつが活躍すれば女に絶対モテるから俺と一緒にバスケしないか?」村上が俺の後を追ってきて言った。
「いや、俺には時間がないんだよ。それにバスケだって興味ないから諦めてくれないかな?」俺は嫌そうな顔をしながら村上に答えた。
「その忙しいのっていうのは受験勉強のためだけか?」村上はそれまでの口調とは異なり、厳しい口調で俺に言った。
「あぁ、そうだよ。それ以外の何ものでもないよ。」俺も村上の厳しい口調に負けないくらいの口調で答えた。
「くだらねえな。」村上がぽつりと言った。
俺はその一言を聞いてカチンときた。
「くだらないとはなんだよ!俺にとってはお前がこの学校に入ってまで真剣にバスケをやっているほうがよっぽどくだらねえと思うけど。」俺は感情のままに村上に言い放った。
「は?俺のどこがくだらねえんだよ?」村上は怒りを抑えつつも冷静に努めているような口調で俺に言った。
「だってそうだろ。うちみたいに東大を目指すようなやつばかり入る様な学校で、しかも実績もないような部でやる意味が分からねえよ。インターハイに行きたいなら強豪校に入ればよかっただろ?俺は東大に入るためにここに入った。こっちのほうがよっぽど道理にかなうだろ。」俺は村上に言い切った。
「やっぱりくだらねえよ。」村上は言った。
「じゃあ逆に聞くけど、別にこの高校に入らないと東大に受からないわけでもないだろ?それに東大に行きたかったら別に現役にこだわる必要だってないんじゃないかな?別に現役で入学したからって学費が安くなるわけでもないだろ?」村上は言った。
村上の言っていることはもっともなことである。しかし、俺にとっては東大に現役合格することが一番の目標となってしまっている以上他のことに時間を割くことは許されなかった。
「確かにお前の言う通り、現役で入ったからと言って学費が優遇されるわけでもないし、何かもらえたりするものでもないけど、今の俺にとっての最大の目標なんだ。だから放っておいてくれよ。」そう言って俺は村上から視線を逸らした。
「なぁ、部活やりながらじゃ東大には受からないのか?」村上が言った。
「無理だね。」俺は語気を強めて村上に言った。
「面白い。だったら俺もお前みたいに東大を目指す。しかも部活をしながら現役合格を目指してやる。」村上は妙に意気込んで俺に言った。
「勝手にしてくれ。」そう言って俺は教室に戻った。結局トイレで用を足すこともなく時間が過ぎてしまった。
授業が始まった。記念すべき高校での初授業。英語、数学、化学などすべての授業で中学時代よりもレベルが上がっていて、先生の話を理解するのも慣れていないせいか少し苦労した。しかし、高い志を持つ俺には関係なかった。予習や復習でカバーすればいいことだから、全部を一回では消化できなくても受験までにできればいいだけのことである。先ほど俺に対して東大現役合格を宣言した村上も真剣な眼差しで授業を聞いていた。
一日の授業が終わった。今日からさっそく予備校でも授業が始まる。授業開始までには時間があるので、俺は教室で予備校のテキストの予習をして時間を潰すことにした。放課後も勉強しているのは俺くらいしかいなかった。もしかしたら家とかでしているのかもしれないが、さすがに入学直後だし、残って勉強している者など誰もいなかった。俺が英語のテキストの和訳をしていると、
「すいません。このクラスにいる村上ってどこに行ったのか知りませんか?」と、女が問いかけてきた。
「え?」俺はその女のほうに顔を向けた。視線の先には、ショートカットで可愛らしい恰好をした女が立っていた。顔も目鼻立ちがくっきりとしていて俺好みの顔をしていた。
「えっと・・・村上なら多分バスケ部の見学にでも行ったかと思いますけど。」俺は彼女の顔から少し目を逸らして答えた。初めて会ったのに顔を見るのが少し照れくさく感じたからだ。
「あ、そうなんですか?わかりました。ありがとうございました。」そう言ってその女は去ろうとしたので、
「あ、もし自分がここにいる間に村上が帰ってきたら伝えますので、名前をおしえてくれませんか?」そう言って俺は女の名前を聞いた。女の名前は上杉美穂。村上と同じ中学校でC組の生徒らしい。もしかして村上の彼女だろうか?そうだとしたらとても羨ましい。とにかく村上から彼女のことを聞きださねばならない。俺は村上が戻ってくるのを待ちつつ、予習の続きをした。しかし、俺が予備校に向かう四時半までに村上は教室に戻ってこなかった。
五時半から予備校の授業が始まった。今日の授業は九十分の英語の授業だった。学校で予習をしてかいもあり、授業の内容はよく理解できた。予備校の講師によると、一年時はしっかりと文法と長文の基礎を固め、センター試験のヒアリング対策としてテレビで放送されている英会話のやさしい教材を聞いて耳を慣らす訓練をすればいいらしい。たった九十分の間ではあったが、とても充実した気持ちになれた。このリズムで勉強と予備校をこなしていければ受験も問題ないだろう。帰りのバスの中で、今日の出来事を振り返りつつ勉強への手ごたえを感じた。