4-06 碧い桜の坂道を君と
青原和也の住む街には碧い桜が咲く。中高一貫の四ノ宮学園に編入してきた浅倉ハルキは、ある日は浅倉春姫と名乗り女の子として過ごし、別の日は浅倉春生として男の子になる。和也は春姫を好きになり、春生は和也を好きという。様々な出来事の末、和也は男女の壁を越え、人として浅倉ハルキが好きなのだと気づくが、ハルキははぐらかし賑やかな日常が続く。
僕の街には、碧い桜が咲く。
県外からわざわざ見に来る人もいるこの桜は、花の色が碧いってだけでも定形外なのに、花を咲かす期間もまるっきり普通の桜とは違っている。三月の下旬くらいから咲き始めるから普通の桜と同じように花見はできるけど、五月になっても六月になっても花は咲き続けて、最終的に花が散るのは十月になって涼しくなる頃なのだ。
だから僕の街では碧い桜が散り始めると、そろそろ秋だなぁ、ってことになる。 卒業式や入学式を華やかな桜吹雪が盛り上げるということがないので、アニメやマンガでそういったシーンを見ると羨ましいなぁと思わないこともない。学術的にとても珍しくてうんたらかんたら、と先生が説明していたけど、難しいことはよく分からない。
この碧い桜の花びらは、散る間際は紫に近い、深い青色になっているのだけど、つぼみの頃は透き通るような薄い薄い水色をしている。世界の全てが息吹くような四月の日差しを浴びると、淡いブルーのコンタクトレンズみたいに光の粒たちを透過させる。そうして花が開いてから、約半年かけてだんだんと青色が濃くなっていく。
僕が生まれるずっとずっと前には、つぼみの頃の色は花散る季節まで変わらなかったらしい。人が増えてモノが増えて、空気が汚くなって、だんだんと色が変わるようになった、っていうのがこの街の生き字引たちの証言だ。
事実、僕が生まれた頃は大気汚染がひどくて、新生児の半分は気管支に問題を抱えて生まれてきた。らしい。
僕が二歳のとき、事態を重く見た当時の首長が街へのクルマの乗り入れを禁じた。以来、街での移動手段は、路面電車か自転車しかない。街の外縁部には超広大な駐車場が用意されている。
僕の通う四ノ宮学園から続く緩い下り坂は、この桜の並木道になっている。僕は碧い桜の咲く坂道の底で、浅倉ハルキが下ってくるのを待っている。
――そろそろいくよ。
学園の校門の前で自転車にまたがっているだろうハルキから通信がはいった。今日のハルキは女の子のハルキだったけど、こんな坂道を自転車で下るのに果たしてスカートは大丈夫なんだろうか?
一年前、このエキセントリックな友人が学園に編入してきて、この街の桜はより透明度を増した。じいちゃんばあちゃんに言わせれば昔と遜色ないくらいまできれいになったらしい。桜の色の変化とハルキの登場を結びつけて考えている人間は僕以外にはいなさそうだけど、この一年に起きたハルキ絡みのあれこれを思い出すにつけ、僕はそう確信せざるを得ない。
中高一貫の我が学び舎は、極少数ながら高校からの編入学を受け入れている。一応県下でトップの進学校だから編入試験は相当難しいらしいと聞いたことがあるけど、あとから聞いたハルキの成績は大したことはなかった。むしろ下から数えた方が早い。なぜハルキが学園に編入できたのか、挑戦しがいのある謎だ。
成績は大したことなかったかもしれないけど、ハルキが初めて学園に登場した日のことは規格外にとんでもなかった。
碧い桜が咲き乱れ、春爛漫の入学式の幕開けは突然乱入してきた暴れ牛によって前代未聞のものとなった。雄々しい暴れ牛は、お行儀よく座っていた生徒たちを追い回し、整然と並べられていたパイプ椅子をなぎ倒して進んだ。ICT技術全盛のこの時代に暴れ牛が闖入してくる入学式とか、にわかには信じられないのだが事実なのだからしょうがない。
さっさと安全圏に逃げ出した連中はスマートフォンをかざして笑っている。撮られていることを認識しているのか、暴れ牛の興奮はより盛り上がったみたいだった。血走った眼の先に逃げ遅れた女子生徒が一人。腰が抜けてしまったのか立ち上がれないままなんとか逃げようとしているのに、手を伸ばした先の男子は撮影に夢中で画面を見つめてニヤニヤしている。
牛はさておきその男子の態度にふざけんなと思ったとき、逃げ遅れた女子生徒と暴れ牛の間に真新しいスカートを翻して躍り出たのがハルキだった。ピンと伸びた背筋と鋭い眼光でマタドールよろしく暴れ牛の前に立ち塞がった姿に、騒然としていた講堂の空気が一変した。
「か弱い女子を見殺しにして、さぞかし映える絵が撮れたんだろうね? 腰抜けくん」
暴れ牛と対峙したまま、スマホ男子を煽る。男前な口調と台詞が似つかわしくない柔らかい鈴の音のような声だった。肩までまっすぐ伸びた黒い髪が強さと正しさの象徴のように見えた。バツが悪そうに男子生徒は、いつ間にかできていた人の壁の後ろの方へコソコソと逃げていった。
ハルキは女子生徒を抱え上げると、暴れ牛の視線から外れるように自分の背中に隠した。彼女ならなんとかしてくれる。なんの根拠もない期待感がなぜかその場を支配した。鼻息の荒かった暴れ牛まで、ライバルを目の前にして闘志を静かに燃やし始めたような面持ちに変わっていた。
耳が痛くなりそうな静寂の中、暴れ牛がじわじわと距離を詰める。突進する力を蓄えるように後ろ足を蹴りあげる。狂気じみた眼がハルキに照準を合わせ、暴れ牛の興奮が頂点に達しようとしたその瞬間。
「やっぱり無理ぃ」と情けない声で叫ぶと、ハルキは女子生徒の手を引き踵をかえして逃げ出した。僕の方へとまっすぐに。
こちらに向かってくるハルキと目が合った。その少し鳶色がかった瞳に懐かしさだったり切なさだったりが移ろい、なぜだか分からないけど僕は夏休みの絵日記を思い浮かべた。決していやなものではなく、むしろ。
棒立ちだった僕を立ち木と勘違いでもしたのか、鬼ごっこの鬼から隠れるようにハルキは僕の背中に張りついた。直情的な暴れ牛は、もちろんまっすぐ僕に向かって突っ込んでくる。僕の後ろで息を飲む音が聞こえた。
だが危ぶむことなかれ、暴れ牛は僕の目の前三十センチの距離で急停止すると、のどかな野太い声でむべぇーと鳴いて、平らな頭を僕のお腹にこすりつけてきたのだ。よくは分からないが、僕は昔から変な動物に好かれる質なのだ。
「私の目に狂いはなかったみたいだね。助けてくれてありがとう」
ついさっきまでの様子が嘘のように凛とした雰囲気で、ハルキは僕に手を差し伸べてくる。
「私は浅倉春姫。よろしくね」
ぐいぐい甘えてくる牛の頭を押し戻し、手を制服で拭った後でハルキの手を握ると、講堂が歓声と拍手に包まれた。なんでもいいから騒ぐのが好きな学園なのだ。
こうして僕とハルキの一年が始まった。
――いつでもどうぞ。
ハルキへ簡単に返信すると、春のぬるくて強い風が吹いて、桜の枝たちがさよならするみたいに手を振った。花びらが数枚春の空に舞い上がり、風と絡まり、光にゆれながら、坂道に着地する。
海みたいだ。いつかの配信で見た、どこか南方の国の太陽の光が届くくらいの浅瀬の海。その碧い海の中を、飛行機の真似をする子どものように両手を横に伸ばしてハルキが自転車で下ってくる。瞳を、閉じて。
僕は、その光景をスローモーションで記憶に焼き付ける。ハルキの白い肌と、黒い長い髪が、碧い透き通った海の中に閉じ込められればいいのに。
「青原和也、こんなところで何をしている?」
振り向かなくても、妙に艶めかしいこの声だけで密原先生だと分かる。
「浅倉を待ってるんですよ」
「春に生まれた春生くんか」
「いえ、今日は春のお姫様の春姫の方です」
「そうか、君はどっちでもいける派だったね」
その発言は性教育を担当している保健体育の先生的に大丈夫なんだろうか?
僕たちの学園はダイバーシティ・エクイティ・インクルージョンを校訓の一つに掲げている。だからハルキみたいな生徒がなんの問題もなく受け入れられているのだと思う。近くの人間にとってはおおいに問題ありなのだけど。
一年前の入学式で強烈な印象を残したハルキは、しかしその次の日にさらに強力な一手を繰り出した。
入学式は混乱のまま有耶無耶に流れ解散のようになってしまったので、クラスメイトとちゃんと挨拶ができたのはその日が初めてだった。前日の入学式で騒動の中心にいた女の子の存在を教室中の誰もが探っていたのだけど、それと思しき子は見当たらず、代わりにいたのは少し細身の綺麗な顔の男子生徒だった。
「昨日はありがとう。改めて礼を言うよ」
席から立ち上がって僕に握手を求めてくる。
「僕は浅倉春生。よろしく」
戸惑う僕の手を強引に握ると、そのまま引き寄せ両腕を僕の首に回して身体を密着させてきた。いわゆるハグの体勢になり頬が触れ合う距離で囁いた。
「人を好きになるって難しいようで簡単なことだね、和也」
女子の悲鳴が聞こえた。
「もう一回行ってくる!」立ち漕ぎしながら坂道を上っていくハルキの声に、一年前に飛んでいた意識が戻る。
「今年も桜は綺麗だね。……知ってる? 花の色が変わるのは、空気が汚くなったからじゃない。人の心に反応しているからなんだよ。去年から花の色がきれいになったのは、この桜の下を通る人の心がきれいになったからなの」
「奇遇ですね、僕もそう思っていました。その中心はあいつだと思うんですよね」
「あの子と君、でしょ?」
――和也も上がっておいでよ。次は二人でやってみようよ!
碧い桜の坂道を二人でくぐり抜けると、強く結ばれて一生幸せに過ごせる。四ノ宮学園に伝わる伝説だ。ハルキが知っていて誘っているのか分からないけど、眉唾の伝説を信じるのもやぶさかではない。密原先生に頭を下げて坂道を上る。
この話は、浅倉春生に想いを寄せられ、浅倉春姫を好きになった僕の物語。僕と碧い桜の坂道を下りるのは、春姫なのか春生なのか。





