第24話 絶望と覚悟とお姉ちゃんとの違い
迫る脅威を前に最早逃げる選択肢は取れないと悟った私は、木の幹を背にしたまま、それを支えにして無理矢理に立ち上がる。
っせめて強化魔法だけは維持しないと……。
さっきの一撃も咄嗟に強化魔法を発動させたからこそ、この程度で済んだ。
もし、強化魔法なしにあの魔物の一撃を受ければ、私はいとも簡単に殺されてしまうだろう。
間違いない……あの人を殺したのはこの魔物だ。
さっき倒した魔物達とは比べ物にならない力と速度、それをこんな閉じ込められた状況で振るわれたらどうしようもないし、それ以前に最初の不意打ちをまともに受けてしまえばそれだけで終わってしまう。
たまたま強化魔法が間に合ったから良かったものの、あの不意打ちは反応出来るような代物じゃない。
「けほっ……ふー……ふー……か、風よ……」
強化魔法をどうにか維持し、呼吸の整わない中で無理にでも詠唱しようと喉から声を絞り出す。
「ルァッ!」
私が声を出したその瞬間、それまでゆっくりと向かってきていた魔物が短い鳴き声と共に走り出した。
「っ!?」
魔物の姿が視界から消え、次の瞬間には私の真横へと鋭い蹴りが飛んでくる。
「がっ!?」
鈍い音が体の中で響くのと同時に凄まじい衝撃と痛みが走り抜け、そのまま横一直線に吹き飛ばされてしまった。
「うっごほっげほっ……ぁっぅぅ……」
吹き飛ばされて何度も跳ねながら地面に激突し、ようやく止まった先で痛み悶え、咳と血反吐を盛大に吐き散らす。
痛い━━痛い━━痛い━━痛い━━痛い━━痛い━━痛い━━苦しい━━死ぬ━━やだ━━死にたくない━━……っ!
定まらない意識の中、激しい痛みと溢れてくる血反吐による窒息が私を襲い、心の内から死への恐怖が込み上げてきた。
「ぁぐっ……ごほっ……おえっ……ぅぅ……」
涙と鼻水と血反吐混じりの唾液が飛び散るのも厭わず、新鮮な空気を求めて必死に呼吸を繰り返す。
っ早く……早く……逃げ……ないと……動け……動け……!
痛みや苦しみ、恐怖を感じるのはまだ生きてるからだと自分に言い聞かせ、痙攣する体を動かし、魔物から離れようと地面を這いずる。
「ル……」
無様で醜く逃げようとする私を見た魔物は小さく声を漏らして再びゆっくりと近付いてきた。
さっき……は……詠……唱を……口に……したら……襲って……きた……。
ひゅうひゅうと浅い呼吸を繰り返しながらも、少しだけ冷静さを取り戻した頭で追撃されない理由を考える。
たぶん、あの魔物は相当知能が高い。私が魔法を使おうとしたのを言葉から理解してその前に潰しているのだろう。
こう……して……逃げる……だけ……なら……少し……は……時間が……稼げる……。
理由はわからないが、私が魔法を使おうとしなければあの魔物はゆっくりとしか近付いてこない。
だからこの間に状況を打開する何かを見つけないと、私はあの人と同じ末路を辿ってしまう。
痛い……まだ……息も……苦……しい……け……ど……手足は……動く……なら……。
おそらく、蹴りを直接受けた箇所の骨は折れている。もしかしたら内臓も傷ついているかもしれない。
けれど動けない訳じゃない。
口の中に広がる血の味を噛み締め、歯を食い縛りながら力を込めて再び強化魔法を発動させ、立ち上がった。
「ごぽっ……はぁ……あぐっ……」
息も切れ切れに体を引きずり、距離を取りつつ、次にすべき行動を模索する。
このまま逃げ続けたとしても、魔法の壁がある限りいずれ追い付かれてしまう。
いや、それ以前にあの魔物がその気になってしまえばその時点で終わりだ。
これが……普通の魔物なら……ある程度……行動も……読めるのに……。
行動が予測出来ない以上、全てはあの魔物の気分次第という事。
そして、このまま何も思いつかなければ確実に殺されてしまう。
状況……を、打開……するには……魔法が必……要……だけど……。
詠唱を口にしようとした時点で避けられない攻撃を仕掛けてくるため迂闊には使えないし、詠唱を省いた魔法もあの速度なら発動する前に止められてしまうだろう。
聞こえない……くらい……の、声で……ううん、それ……も……無理……。
魔法を発動するための詠唱にはある程度の声量が必要だ。たとえ、そのぎりぎり限界まで声を潜めたとしても、あの魔物の耳は誤魔化せない。
それに何より、これだけ息が乱れ、まともに発音出来るかすら怪しい状態で声を潜めるのは不可能に近い。
どう……にか……隙を……作れれば……。
一度でも魔法を使う隙があれば煙幕を張って撹乱し、さらに詠唱する時間も稼げるのだが、現状ではそれも難しい。
「はぁ……ふぅ……げほっ……あ、れは……」
ぼんやりと霞む視界の端に映ったのはさっき倒した長く巨大な魔物の死体。どうやら吹き飛ばされて逃げる内に戻ってきたらしい。
あの死体……いや……でも……っこう……なった……ら……一か……八か……!
状況を打開出来るかもしれない突拍子もない思い付きを実行すべく、意を決して賭けに出た。
「っ……!」
痛みを押し殺し、強化魔法を全開にして思いっきり足を振りかぶった。
「ガル……?」
突然の行動に首を傾げる魔物。ぼろぼろでさっきまで必死に逃げようとしていた獲物が何かを仕掛けてくる素振りを見せたのだからその反応も当然だろう。
「ぐっあぁぁっ!!」
全身が痛むのを無視して振りかぶった足で地面を抉るように蹴り抜き、魔物の方に向けて土の礫を巻き上げた。
「痛っ……ぁっ!」
蹴り上げた衝撃で挫いたらしい足を無理に動かし、踵を返して巨大な魔物の死体の方に全力で駆け出す。
……痛……いっ……苦……し……いっ……でもっ!
まだ全身は痛むし、息は苦しい。それに挫いた足を動かす度に激痛が襲ってくる。
けれど、それでもここで足を止める訳にはいかない。
今は苦し紛れの目眩ましが通じたかどうかを確めるために振り向く時間すら惜しかった。
死体の元までたどり着くと同時に痛みを押し切って跳躍、巨大な胴体の向こう側へと着地し、強化魔法を解いてから右手を上に掲げる。
「〝広……がれ〟!━━『白煙の隠れ蓑』」
詠唱を短縮し、早口で呪文を魔法を完成させると同時に掌から白い煙が広がり、巨大な魔物の死体を覆い隠していく。
短縮した分、さっき使った時よりも範囲は狭まるが、これで充分。再度強化魔法を纏ってこの魔物の頭の方へと急ぐ。
「ぁぐっ…………!!」
頭までたどり着き、巨大な上顎に両手を入れて無理矢理持ち上げようとする。
いくらもう死んでいるとは言っても、その重さは変わらない。むしろ死んでいる事によって支える筋力がない分、重くなっている。
居場所に気付かれないよう声を押し殺して力を込め、僅かに開いた隙間からその口の中に潜り込んだ。
「うっ……おえっ……」
魔物の口の中はまだ生暖かく、異様な臭気を放っており、息を吸い込むだけで吐きそうになる。
物凄く臭い……けど……我慢……しないと……。
煙に紛れたので口の中に隠れた事は気付かれていない筈だし、仮に気付かれたとしても、この魔物の強靭な表皮なら少しは時間が稼げるだろう。
「うぇっ……ま、まずは……この怪我を……」
直接蹴りを受けた箇所に手をかざして意識を集中させる。
「〝光よ……歪み……を……正せ……〟━━『癒しの導』」
掌から光の粒が溢れ、かざした部分に浸透して傷を癒していく。
これで少しは……動けるようになった……。
姉の治癒魔法と比べると効力はだいぶ劣るものの、それでも多少の痛みは和らいできた。
「けほっ……ふぅ……覚えておいて良かった……」
練習しても中々上手くいかず、まともに使えるようになったのはつい最近だが、こんなに早く活かせる日がくるとは思いもしなかった。
続けて挫いた足首の部分にも治癒魔法をかけて治療しつつ、残った息苦しさを改善しようと無理に咳き込んでみる。
「うっ……ごほっ……ぺっ……」
喉の辺りに残った血の塊を吐き出し、臭いを我慢しながら口で深呼吸をする事で苦しさの方も幾分かましになり、ようやくまともに考える余裕ができた。
まだ危険な状況なのは変わらない……出来る事ならこのままやり過ごしたいところだけど……。
あの魔物の目的がただの狩りであったのなら、それも可能だったかもしれないが、状況的にも、行動的にも、あれは明確に私を狙ってきている。
たぶん、私を見つけて仕留めるまであの魔物はこの辺に居座わり続けるだろう。
正直、もうあの魔物の前に立つと考えただけでも震えが止まらなくなる。そうなってしまうのは次に姿を見せれば確実に殺されると自分で分かっているからだろう。
私の体も意識もあの魔物の攻撃にまるでついていけていない。
予備動作も近付いてきた瞬間も見えず、攻撃を受けて吹き飛ばされるまで蹴られた事に気付けなかった。
……それにあの魔物の恐ろしいところはそれだけじゃない。
視認すら困難な速度に加え、威力の方も尋常ではなく、強化魔法越しでも充分致命傷と為りうるのは身を持って体験済みだ。
当たりどころが悪ければこうして逃げ隠れる事も出来ずに即死していたかもしれない。
この絶望的な速度差がある以上、ここで詠唱してから口を飛び出し、すぐに狙ったとしても、発動前に潰されるか、もしくは避けられて反撃されるかのどちらかだろう。
可能性があるとすれば『風を生む掌』での高速移動だけど……たぶん、それでも向こうの方が速い……。
『風を生む掌』での高速移動はあくまで自分が制御出来る速度しか出ていない。なら必然的に私の意識が追い付けない速度で迫ってくるあの魔物の速いという事になる。
「……あの魔物の見た目からして表皮にそこまでの硬度があるとは思えない。どうにかして一撃を当てられれば」
問題はその一撃を当てるのが難しいという事だ。単純に魔法を使うだけではさっき考えた通りになってしまう。
……あるいは『魔力集点』を使えばあの魔物よりも速く動けるかもしれない……でも反動で動けなくなってしまう以上、ここで使うわけにはいかない。
敵はあの魔物だけじゃない。他の魔物や魔法壁を張った何者かが確実に存在している。
そんな中で『魔力集点』を使って仮にあの魔物を倒せたとしても、動けなくなったところを襲われ、殺されてしまうだろう。
こんな時、お姉ちゃんならどうするんだろう……。
八方塞がりの状況で脳裏に浮かんだのはどんな時でも余裕を崩さず真正面から迎え撃ち戦う姉の姿だった。
……きっとお姉ちゃんだったらあの速さにも真正面から対応すると思う。
姉の強化魔法ならあの威力にも耐えれるだろうし、他の魔法と併用できるから防御しながらの反撃も可能だ。
……私にはお姉ちゃんみたいな強化魔法は使えないし、併用も出来ない。詠唱の速度や魔力の量、それに魔法の威力だって劣ってる……私はお姉ちゃんと同じようには戦えない。
どんな相手でも真正面から戦えるのは姉の実力があってこその戦法、私には到底真似出来ない戦い方だ。
「……そうだよね。私はお姉ちゃんじゃない。ここでお姉ちゃんならって考えるのは間違ってる……だから」
両の手で頬を叩いて気合いを入れ直し、真っ暗な中、顔を上げる。
あの魔物への恐怖はまだ無くなっていない。けれど、このままここにいても、いずれは殺される。
今、私に出来るのは、何もせずに震えてすこしの間の安全を得るか、無謀だろうと作戦を立てて一か八か立ち向かうのどちらかだ。
「……お姉ちゃんに頼ってばかりじゃいられない。私には私の戦い方があるんだから」
絶対に生き残るという強い想いと覚悟を胸に秘め、改めてあの魔物を倒すために考えを巡らせた。




