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南佐の歩 第一章 第五話 3羽ガラス西へ(後中)


  いよいよもって追い詰められた八坂は、殺気立っていた。

  芳賀は負けた後、直ぐに江戸に送り返した、敗者には全くもって容赦無い。

  水澤には侮蔑の言葉を浴びせた後、明日まで部屋から出るなと言い、手下に、

  エルモをどうにかして探し出せと厳命した。


  『畜生が・・明日、悦子が戻らなきゃ全てが水の泡じゃねえかよ・・

   戻るとは言うが、信じて待つ程、俺は甘く無えぞ・・悦子、見つけ次第ヤキ

   入れして徹底的に辱めてやるぜ。

   もう勝ち負けなんてどうでも良い、明日の対局が終わったら、散々犯した後

   皮を剥いで山に埋めてやるからな・・覚悟しとけよ・・』



  小次郎と森の元へ戻ってきた力也は、口元が緩んで高笑い寸前だ。

  力也は小次郎と森に両側から挟まれて肩を抱かれた。


  「ふ、、ふふ、はははははは!やった、やったぞ!小次郎!森さん!」


  良くやったと、二人も自然に笑いが込み上げる、三人して笑った。

  ふと気付けば、番頭が横にいて、お客様から直筆の依頼が殺到してるので森と

  力也に大広間に来てもらいたいとの事、小次郎が促して、二人共、快く引き受

  けた。

  小次郎は人混みに揉まれる二人を尻目に、また駆け出した。

  今夜三味子を匿ったとて、明日の対局の後、無事に逃げおおせたとて、所詮、

  一時凌ぎに過ぎない。

  後顧の憂いを絶つ必要があるが相手は上町を牛耳っているやくざ者だ、一筋縄

  で行く筈もないのは百も承知している。

  三味子の借金を返す事は出来ても、証文を素直に渡すとは限らない。

  山積する問題に、只焦る小次郎だった。


  『何か後ろ盾が要る・・強力な・・畜生! 

   豪気に啖呵切ったは良いが、三島が相手だ、迂闊に人助けした後で天城の皆

   に迷惑かけちまうなら、元の木阿弥、俺は糞野郎だ・・』


  本館を出て、別館に戻ろうと橋の欄干に手を掛けたその時、別館に向かう四人

  の男らが目に入った。

  その内の二人に見覚えがあった、橘と伊澤だ、筆頭与力と同心が着流しで此処

  にいるという事は、間違いなく南町奉行から隠密の監視を申し付けられての事

  だろう、とすれば残りの二人は道中奉行の同心と、箱根番所の岡っ引きという

  ところか、橘と伊澤に、深々とお辞儀をして別館から離れて行った。


  小次郎の中で何かが完成した、もつれた糸を解きほぐし、一枚の布にする画が


  『成った!こいつだ、これが切り札になる、上手くやれば万事解決だ!』



  すぐさま、夕刻からの宴会に呼ばれているサキに今夜の連絡を取った。

  橘と伊澤は風呂から上がり次第、空いている芸者を呼ぶ筈だ、別館の番頭に、

  二人から芸者を呼ぶ様に言われたら、サキという芸者を遣ってくれと言伝た。


  『さてと・・今夜は三味子にも頑張ってもらわねえとな・・

   木を隠すには、森の中ってね。』



  

  「えええええええ!モノホンの芸者になれだあ?!」

  小次郎の作戦に驚くエルモだった。


  「ああ、お前は今夜、芸者として、塔ノ澤に来ている男二人をサキと一緒に

   接待してもらいてえのさ、なあに、接待っつっても股を開く訳じゃねえ、

   ちいとばかし乳や、太股をチラつかせるだけで良い。

   頃合いに俺が押し入って一芝居打つからよ、その後は他の芸者と一緒に、

   俺たちの部屋で森さんと力也の相手を頼むぜ。」


  渋々ながらも同意したエルモだったが、サキに芸者の着付けと髪型から、化粧

  までバシっとセットメイクしてもらうと、気分はかなり上がっていた。

  サキから、芸者としての立ち居振る舞いと、言葉遣いのレクチャーを受けて

  いざ出陣だ、街道に出ると、客が少なからず歩いている。

  最初は恐る恐るだったが、すれ違う男共から聞こえる、良い女だ、とか、抱き

  てえ、などという言葉を聞くと、何だか自信が沸いてきて、昨日までの自分と

  別人になったのを感じていた。


  別館に着いて、サキが番頭に、橘と伊澤から呼ばれている旨を告げて、部屋の

  場所を聞いた後、小次郎達の部屋で待機するべく中に入ると、エルモの芸者姿

  を見た森と力也の二人は、またしても仰天至極、口をぽかーんと開け、信じら

  れないと言った様子で、色々角度を変えて見たり、目を凝らしたりするので、

  エルモの平手打ちを食らった。


  「見違えたぜ・・三味子よう・・乳・・乳・・見して・・。」

  森は鼻血が出るほど殴られた。


  「あたしも悦子さんが、こんなにハマるなんて思ってなかったのさ。

   これなら吉原の花魁にも引けは取らないねえ。」


  世辞だとは分かっていても嬉しいエルモだった。

  


  仲居が戸を叩いて、例の二人から呼ばれているとサキに告げた。


  「いよいよだね、悦子さん。 今のあんたなら、どんな男でもイチコロさね

   ガンガン酔わせてから、少しずつ見せて行くんだよ、男って奴は、その焦

   らしに弱いんだから。」


  「押忍!」




  サキは橘と伊澤を見て、エルモを橘の方へ充てがった。

  伊澤の横に座り、自己紹介をして、先ずは一献と酒を勧めた。

  エルモも同様に接客を始める、中々に道に入った振る舞いだ。


  サキが伊澤に付いたのには訳があった、伊澤に見覚えがあったのだ。

  江戸に居た頃、深川で女浄瑠璃師として身を立てていたサキは、同業の女子

  から浄瑠璃小屋に男を引き込んでいると、あらぬ情事を密告された。

  人気のある女芸人には良くある事だ。

  本所にある番所に、しょっ引かれ、伊澤を中心に五、六人の見廻り衆の前で

  裸に剥かれ、泥水を浴びせられた。

  悔しくて死のうと思った。

  綺麗な体で死のうと、普段は行かない富湯に行った時、小次郎に出会い、

  その容姿と人柄に、すっかり参ってしまったのだ。

  それからは小次郎に会いたい一心で芸の道を続けた、小次郎もサキには特別

  な感情を持つようになり、いつしかねんごろになったという訳だ。


  伊澤は気付いていない、サキの中に是が非でも堕とす、という決意が沸いた

  だがしかし、場の雰囲気からして橘は与力クラスの旗本だ、同心の伊澤が、

  橘の前で、その気になるかどうか・・

  全然アリだった、もう橘はエルモに完落ちして、こちらの事はお構いなしで

  自らの性欲を満たそうとエルモにアタックしている。

  

  『さて、伊澤、あんたにゃ悪いが、遺恨にケリ付けさせてもらうよ。』


  押されては躱し、引きながら攻める、サキの見事なまでの演技は流石芸人と

  言った所で、伊澤は既に生殺しの状態で爆発寸前だ。

  サキはエルモとアイコンタクトしながらタイミングを計っていた、サキの

  太股は露出して伊澤が撫でまわしている、橘はエルモの開けた胸元に手を忍

  ばせ、その弾力を確かめようとしていた。

  「お止め下さいお客様・・これ以上は・・」エルモも調子に乗ってきた。


  サキも伊澤の耳元で「勘弁下さい・・余り触ると本気に・・な、はあん。」

  体を預けて熱い吐息を漏らす。


  先に伊澤が爆発した。 サキを押し倒し、自らの浴衣の裾を捲る。

  続いて橘もエルモの胸元を揉みながら、股座に手を突っ込んだ、その時、


  入口の戸がいきなり開いて、小次郎が飛び込んで来た。


  「おうおう、手前ら、俺の女子に何してくれやがるんだ!ああ!」


  サキとエルモはバタバタと小次郎の陰に隠れた。


  「あんた、こいつらあたしに乱暴しようと・・激しく・・ううっ。」

  泣き真似もすこぶる上手だ。


  「誰にも触られた事の無い胸を・・この人が・・あああっ。」

  少し棒だがまあ及第点だ。


  「手前ら覚悟しやがれ!番所に突き出してやらあ!」


  「ま、待ってくれ小次郎、俺だ、伊澤だ、旅先で少し羽目を外しただけじゃ

   ねえか、ここは穏便にな、な。」


  「俺の事も覚えてるだろ、橘だよ橘、お前がやんちゃしてた時、随分助けて

   やっただろ?ここは目をつぶってくれ、なあ。頼むよ。」


  小次郎は笑いを堪えつつ、裁きを下す。


  「橘の旦那と伊澤さんだったんですかい、こりゃあ失礼しやした、けれども

   俺の女二人を手籠めにしようってのはいけねえや、お天道様が許しても

   俺が許せねえ、道中奉行に見分して・・」


  「ま、ま、ま、待って、待てったら、小次郎、何でもする、何でもするから

   見逃してくれ!頼む!」二人並んで土下座だ。


  「仕方ねえ、南町を守っていらっしゃるお二方に、そこまでされたんじゃあ

   俺も許さねえ訳にはいかねえな、で、許す代わりと言っちゃあなんだけど

   頼みがあるんだ、一つ聞いちゃあもらいやせんか?」




  着物を直したサキとエルモは小次郎達の部屋で、森と力也に作戦の成功を告

  げ、祝杯を挙げた。

  エルモは明日、力也との対局があるが、もうどうでも良い事だった。

  只々、楽しくて笑った。昨日まで何処かへ消えてしまいたいと思ってた事が

  嘘みたいだった。


  『こんなあたしの為にここまでしてくれる人がいるなんて、

   夢にも思わなかったな・・へへっ

   明日は、大好きな将棋を指して、何処か遠くに逃げるんだ・・』



  サキとエルモは、午の刻を過ぎた頃、宿に戻った。

  芸者の内、何人かは風呂から上がってくつろいでいて、サキはエルモを元の

  姿に戻すと、風呂に誘った。

  一階に降りて大浴場に向かうと、奥座敷から三人の湯女が出て来た。

  奥座敷は、芸者とは別に、特別な接待をする湯女の詰め所代わりになっている

  湯女の一人が両側の二人に抱き抱えられながら大浴場に入ろうとしていたので

  訳を聞くと、八坂に呼ばれて接待を始めたは良いが、行為の最中に首を絞めた

  り、顔面を殴打したりで、堪らず逃げ出そうとすると、匕首を出して脅す有様

  で、逃げる事も出来ず、されるがまま、弄ばれたという事だった。

  明らかに、八坂がエルモに対して行う筈だった行為だ。


  「あたしのせいだ・・あたしが逃げたから・・

   こんな事になるって・・御免なさい・・許して・・」


  その場で泣き崩れるエルモをサキが支えて言った。


  「あんたのせいなんかじゃない! 八坂がそういう奴で、誰かが犠牲になった

   それだけさね、この娘は運が悪かったのさ、もう余計な事は考えず、風呂に

   浸かって寝ようよ、さ、行こう。」


  うなだれるエルモに、湯女の一人が声を掛けた。


  「あんたも辛い思いしてきたんだろうね・・だけどさ堅気の者を巻き込んだら

   駄目だよ、自分でケジメ取れなきゃ死ぬしかないのさ。」



  もう風呂に浸かる気も失せたエルモは、芸者たちが寝静まった部屋に戻り布団

  に入った。

  嫌な考えが頭を巡る、小次郎が、森が、力也が血を流して倒れている、恨み事

  を言いながら息絶えて行く・・。


  『あたしは・・馬鹿だ、大馬鹿だ、あたし一人が死ねば済む事だったのに・・

   皆を助けなきゃ・・、小次郎っ・・どうすれば良いんだよ、計画通りに事が

   運んでも、その後あんたらは三島と、どうやり合うってんだい・・』




  夜明けを知らせる寺の鐘が鳴る。 エルモは、ほとんど一睡も出来なかった。

  布団を畳み、一礼して部屋を出た。


  早起きの客が何人か行きかっている橋の上で、ぼんやりと沢の水の流れを目で

  追う、緩やかに、せせらぎの音が耳をくすぐる。

  これまでの生き様を、ゆっくりと思い返してみた、エルモはここに来て以上の

  幸せが無かった事に気付いて自嘲気味に笑った。


  『よし、決めた、小次郎、森に力也、サキちゃん

   あたしの最期の、あだ花を咲かせる所、しっかりと見ててくれ。』




  本館中央に設置された桟敷の周りに、すり鉢状の階段が作られ、吹き抜け2階

  の観覧と合わせて、五百人程が対局を見れる様にしてある。

  気の早い連中は、最前列に陣取り、互いの思惑を話し合っていた。

  箱根宿からも、このイベントに参加しようと大勢の客が、街道を続々と登って

  来る。

  山特有の涼しげな朝とは違って、塔ノ澤には異様な熱気が立ち込めていた。


  エルモは本館2階奥の廊下で、八坂と対峙していた。

  

  「終わったぜ、悦子・・手前は俺を芯から怒らせちまった・・

   何処に隠れてたかは知らねえが、お前を匿った奴らは、徹底的に追い込んで

   俺らに関わった事を後悔させてやるよ。」


  「手前・・あたしが、今日、ここに居て、将棋を指してやるってんだ!

   ガタガタ言わねえで、黙って見てろ!この糞野郎が。」


  八坂は懐の匕首を握りしめ、今にも心臓を一突きしそうな勢いだったが、客が

  廊下をせわしなく通り出したので、この場での恫喝を諦め、エルモに支度しろ

  と残して、対局場に向かった。



  八坂の部屋で手下からも失踪の件での非難を浴びたが気にはならなかった。

  薄手の振袖、色は大好きな桃色、金銀の糸で流麗な文様が刺繍してある。

  袖を通し、帯を花魁風に前結びして、錦のリボンでツインテールを纏めた。


  『うん、これなら死に装束に上等だ、どっかの大名の姫みたいだぜ・・

   自分で言う事かよ、へへへ・・』




  巳の二つになった、カチがチョンチョンと鳴らされ対局が始まる事を観衆に知

  らせる。

  力也は今朝がた、昨晩の芸者宿での出来事をサキから聞いていたので三味子が

  思い詰めて、何かやらかさないかと勘繰ったが、いつもの三味子で、軽口を叩

  く余裕すら見せていた。

  

  『大丈夫そうだな・・ならば今まで戦った誰よりも強敵って事になる、だが俺

   が負けても、小次郎がいる、全身全霊で立ち向かうまでよ・・」


  

  振り駒でエルモの先手番になった。

  初手76歩から56歩、そしてエルモは角道を止めずに中飛車に振り、55

  に位を張った。 ゴキゲン中飛車だ、

  これを知らない力也は、序盤で時間を使う羽目になる。

  斜め棒銀の予定が大きく変わった、穴熊に組む程の、手数的猶予は与えてくれ

  そうに無い。

  箱根の前に、もう少し天城に通えていたら違っていたかもしれかった。 

  南佐によって後手番のゴキゲン中飛車が怖い事を、天城に詰めている者は相応

  に分かっていたし、対応、変化も研究した。

  だが力也は今年の初めから、嫁中心に動いていたので、中々顔を出せずにいた

  のが仇になった。

  しかも先手番でのこの戦法は、ほぼ初見に近かった。

  

  「どうしたの~、時間使っちゃってえ~

   いつもの突進は何処に行ったのかなあ~

   手応え無さ過ぎなんだけどお~。」


  「 っせえな、黙ってろ!」箱根に来て、冴え捲っていた力也も手が出ない。


  読み上げが始まった。

  追い詰められた力也は、大駒を切り飛ばしての勝負手を放つが的確に受けられ

  もう、成す術もない。

  大盤の前で、森がうつむく、観衆のどよめきの中、力也が投了した。

  エルモが高らかに勝どきを上げる。


  「ざまあねえなあ天城さんよう!

   この程度で白桜鬼様に挑むなんざ一億年早いぜ!

   ツラ洗って出直して来なあ!」


  煽り耐性の強い力也だったが、これにキれて飛び付こうとしたのを立ち合いか

  ら止められて、怒りの矛先を収めるも、目の前の将棋盤をひっくり返した。

  観客から野次が飛び、完全に悪役だ。

  やる瀬無く森の元に戻った力也は「済まねえ。」と一言残して別館に消えた。


  これで2勝2敗のタイになり、俄然勝負は盛り上がる。

  昼休憩に入り、皆口々に勝負の行方予想を繰り広げる、即席の賭場が立つ、

  昨日までで賭け札が板切れになった者共が、補填を求めて誰彼構わず賭けを

  持ちかけた。

  完全に鉄火場だ、江戸からの出女が制限されている為、ほぼ男しかいない、

  この塔の澤は異様な雰囲気に包まれていた。


  大広間に並べられた豪華な仕出しを宿泊客が順番に受け取って、思い思いの

  場所で食べたりしている中、エルモは一人中庭の端に座り、噛み締める様に

  食べていた。


  ふと気づくと横にサキがいる。


  「悦子さん、短気を起こしちゃ駄目さね・・あたしらの事は心配要らないから

   信じてくれないかい? きっと大丈夫だから・・」


  「ああ、もう、うっせーんだよ! あたしの事は放っておいてくれよ!

   手前らが何をしたって結果は変わらねえ・・変わらねえ・・あははは・・

   良いから一人にしてくれ、頼むから。」


  サキには分かっていた、元々は気立ての良い娘が、ここまで追い込まれている

  きっと自分に関わった人たちを傷つけたくないのだ。


  「そうかい・・、なら何も言わない、

   でもさ、あたしは、あんたに死んで欲しくない、それだけさね。」


  そう言ってサキは本館に戻って行った。

  

  『何で、あんたたちはそんなにお人好しなんだよ・・あたしなんか虫ほどの

   価値も無えゴミだってのに・・何でだよ・・』


  エルモは半分も食べていない弁当を葦簀に投げ付けた。




  未一つになった、またカチがチョンチョンと鳴らされ対局開始を知らせる。

  エルモが桟敷にゆっくりと上がる、小次郎は待ち構えている。


  「白桜鬼さまは随分とゆっくりなんだな、欠伸が出ちまうぜ。」


  「まーたふんどし一丁で、亀戸に帰りたいみたいなんで、言っておくよ、

   今日はふんどしも残らねえ位にひん剥いてやっからよ、今のうちに

   金玉洗っとけ!」


  「ははは! 威勢が良いじゃねえか三味子、それでこそだ!」


  そう言い放ち、小次郎は、駒を並べ出す、合わせてエルモも並べ出す。

  並べ終わり、振り駒でエルモが先手番になった。


  「あたしね~、先手番で負けた事ないんだあ~、残念だったねえ~ひひひ。」


  「そうかい、じゃあ今日が初めて負けた日でその相手が俺って事になるな。」


  そう言って将棋盤の上、自陣の左香をつまんで客席に放り投げた。

  客席からは大きなどよめきが起こる。


  「負けた言い訳が出来ない様に、香を引いてやるよ三味子、

   さあ、掛かって来な!」


  「ああぁ?何の真似だ手前、舐めてんのかコラ、舐めてんのかってんだよ!」


  「いやだねえ~怒っちゃって、怖い怖い、何か都合でも悪かったのかねえ。」

  煽る煽る。


  「へええ、そっちがその気なら、あたしも引いてやるよ!」


  エルモも自陣の左香を客席に投げ捨てる。


  お互いに立ち上がって睨み合う、立ち合いの番頭はどうして良いか分からない

  エルモが口火を切る。

 

  「背中の鬼が騒いでしょうがねえ、ああ・・そうだな、出て来いよ!」


  そう言うなり着物の両肩を脱いで上半身を露わにする。

  

  その背中一面に彫られた、それは見事な入れ墨 ー白桜鬼ー


  客席が息を呑む。


  真白な肌に彫られた桜の木、その下に金棒を持って構える白鬼。


  観客は大騒ぎだ、歓声で本館全体が地震の様にビリビリと揺れていた。


  ゆっくりと体を回して小次郎に、その鬼の姿を晒す。

  豊満な乳房とも相まって異常な程の妖艶さだ。

  小次郎も知ってはいたが実際に見るのは初めてだった。

  森の鼻は大変な事になっていた。


  「いやいや、大変有難い物を拝ませて頂きまして感謝いたしやす、

   ほんなら、こっちのも見て貰わねえとな!」


  小次郎も着物の上半分を捲った ー弁天小僧ー

  

  小次郎の通り名だ、背中から両腕、胸に至るまで、見事な天女

  弁財天が彫り込まれている。


  小次郎が熱くなると肩を露わにして彫り物を見せるのも、小次郎の売りの一つ

  これを目当てで来る客もいる程だ。


  「何度見てもムカつく彫り物だぜ・・、弁天が鬼に勝てるかよ!」



  観客は口々に自分の応援している側の通り名を叫んでいる、もう番頭も流れに

  任せて対局開始となった。


  これには八坂も参った、小次郎が香を引いたままなら、全く勝負にはなって無

  かっただろう、だがエルモも香を引いた、これはエルモにとっての未体験領域

  だ、三味線を駆使して相手に香を引かせる事はあっても、自分の香を引く事は

  無かった。

  八坂は小次郎にしてやられたと思った。しかしもう遅い、ここに来てエルモを

  信じる外に道が無くなった。


  『あんの、馬鹿がっ、挑発に乗りやがって、くそう、糞がっ、負けたら上りは

   殆ど残らねえ、親父から言われた額に全く届かねえぞ・・何とかしねえと、

   俺の立場も怪しくなるぜ・・負けたなら悦子の皮を売るしか手が無くなっち

   まう・・マズいぜ・・」 八坂の額に脂汗が滲む。


  

  大観衆が、固唾を飲んで見守る中、エルモが76歩と角道を開けた。

  34歩と小次郎が合わせる。

  小次郎は、ここぞとばかりに自分の一番得意な戦法を使う。

  ー相掛かりー 互いに飛車先の歩を伸ばし、交換、そしてエルモは6段に飛車

  を引き、小次郎も4段に引く。

  江戸時代後期において、最新の将棋、定石がまだ確立出来ていない波乱万丈の

  戦法に、小次郎は活路を見出そうとしていた。

  だが、当然の如くエルモは、相掛かりに関しても、人間の脳を使うとは言え、

  引き出しは無数に持っている、対応に抜かりは無い。

  が、左香が無い事で、盤面の状況に瞬時には反応しきれていなかった。

  表情には、おくびも出さなかったが、いつもより考慮時間が伸びていた。


  『ちょこざいな、人間如きが、あたしはエルモ、レーティング4000越えの

   無敵のAIなんだ、あんたみたいな、お気楽小僧に負ける訳が無えんだよ!』





  同刻、天城の家では盆の準備で大忙しで、食材の買い出しと燃料、日用品の

  確保に大わらわだ、康太は常陸に帰省してしまったし、男二人、女二人が、所

  狭しと駆けずり回っている。


  「今頃、小次郎さんと三味子が指してんだろうなあ、ああ、俺も見たかったぜ

   小次郎さんが啖呵切って弁天様を出す所。」

  茶室の周りの蜘蛛の巣を払いながら惣次郎が言う。


  「小次郎さんって、対局中に脱ぐんですか?」


  「ああ、熱くなると決まってな。

   それと、もしかすると三味子も脱いでるかもしれねえぞ・・」


  「ええええええ! 悦子さんも脱ぐんですかあ? なななんて破廉恥な。」


  「ははは、三味子は背中に鬼を飼ってるからな。

   とても綺麗な鬼なんだ、俺も遠目に一度しか見た事が無くってな、

   対局中に本気になると、その入れ墨を晒すのさ、三味子の白桜鬼っていう

   通り名はそいつから来てるんだ。

   俺たちじゃ脱ぐ前にやられるだろうけどな。」


  「その一度って、どなたと指されてる時だったんですか?」


  母屋から志津が大声で南佐を呼ぶ。

  「南佐さーん、早く水持って来てー!」


  「いけない、忘れてた、お母様、すぐに行きまーす!」


  惣次郎が言いかけて止めた。

 

  『後藤天晴・・

   あの対局に勝ってれば三味子の生き様も変わってたかもな・・』





               続く

  



   

   


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