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南佐の歩 第一章 第五話 3羽ガラス西へ(前中)



  言葉の出ないエルモに少し苛立つ小次郎だったが、自分も人っ子一人いない

  所をうろついていたのだ、何か怪しまれるのは勘弁と、咄嗟にそこに居た理

  由を告げた。


  「俺は何つうかその・・明日からの事で少し気持ちが高ぶったっていうか、 

   一人になって気を鎮めようと・・」するとエルモが被せる様に口を開く。


  「あたしは・・あたしは、逃げて来たのさ・・


   八坂の野郎が、大店の若旦那の接待にあたしを使おうとしやがった・・


   酒の相手なら幾らでもするけどよ、娼婦なんてもう御免なんだ!


   ここに来て、初めて人並の、いや人並み以上か・・

   生きてて良かったって思ったんだ、それが・・何だよ、

   あたしはやっぱり何処に行こうが変わらねえ、惨めなままさね・・

   

   行く当てなんか無かった・・人目に付かない所に隠れてやり過ごそうって

   只、それだけだったんだよ!」


  目には涙が溢れている。


  小次郎は、いつもの三味線と勘繰ったが、今回は様子が違う気がして迷った

  確かに過去2回の対局は、何れも三味子の創作身の上話に絆されたのが敗因

  だったが、今ここで、そんな小賢しい手を使う意味は無い。

  この涙は本物だ。

  

  小次郎は、女の涙に滅法弱い。

  「おいおい、なんだなんだ、調子狂っちまうぜ・・っつたくよ、

   いつもの威勢の良い三味子はどこ行っちまったんだ・・つうかここじゃ何

   だから俺らの部屋に来いよ、ゆっくり話でもしよう、や・・?!」


  言いかけて小次郎の視線の先に、提灯を下げた男が三人、こちらに向かって

  来るのが見えた。

  咄嗟にエルモを暗がりの木陰に隠し、そして何食わぬ顔で三人の方に歩いて

  行った。

  男たちは何か口々に文句を言い合いながら小次郎に近付いて行く、そして

  鉢合わせた。先頭の男・・八坂だった。

  八坂が口を開く。


  「ちょいと、兄さん・・あっ、小次郎!」仕方ないといった風で続けた。

  「頼んでおいた芸者が逃げちまって、捜してんだけどよ・・あんた、ここで

   誰か見なかったかい?」


  「はて・・?いいや誰もこっちには来てねえぜ、俺は一刻前からここで夜風

   を浴びて、お前の悪企みで滾った腹を冷ましてたとこだぜ。」


  「そう怖い顔すんなって小次郎、元々の奴らが急に怖気づきやがってよう、

   なんせ天下の3羽ガラスと、おったまげるような客の前で勝負だ、こんな

   客が来るのは今日び、成田屋の興行ぐれえのもんさ。」


  「違えねえ、俺も決まった事にガタガタと、いちゃもん付けようとは思って

   無えよ、ああ・・、ちょいとその提灯一つ貸してくれねえか、もう少し

   ここいらを歩きたいんでな、後で本館に返しとくからよ。」


  「へえへえ、あんた程の漢でも玉が縮むんだな、

   どうせあんたの出番は明後日なんだ、今からそんなじゃ白桜鬼の餌食になる

   のが関の山ってな、ははは。」


  「てやんでい!ほざくな三下!」

  

  提灯を預かってまた戻るふりをした、成功だ、八坂は渋々、今来た道を引き

  返して行った。

  

  大勢の温泉客の間を足早に通り抜け、別館に着いて中の様子を伺うと、矢張り

  手下の一人が大階段の脇に陣取っている。裏口に回ってから手下の目を盗んで

  階段を客に紛れて上った。手際よく部屋の前まで来て、エルモに掛けていた

  ほっかむりを外すと、暗がりで良く見えなかった顔半分に大きな痣があり、

  これが小次郎の漢気に火を付けた。

  『許せねえ・・あいつら・・』小次郎の辞書にⅮⅤの2文字は無い。


  エルモを部屋に入れると、二人は仰天至極、顎が外れそうなほど、ぽかーんと

  口を空けて驚いた。


  「シャ・・三味子!?」


  「おう、ちぃっとばかし邪魔するぜ。」


  もう、こうなった以上、エルモは対局が終わり次第、勝とうが負けようが何ら

  かの形で殺されるだろうなと思っていた。

  だからではないが、ここに来て気持ちは、何故か晴れやかだった。

  諦めにも似た、吹っ切れた感覚、待ち受ける全てを、受け入れようと思った。


  「お前ら、ガン首揃えて、そんな時化たツラしやがって、

   客が来たなら先ず酒だろうが!」


  エルモはどっかと腰を下ろした。

  かなり質が悪い。そして小次郎がここに来た経緯を二人に説明すると、二人は

  おいおいと涙を流した、森も力也も涙脆い。うんうんと頷きながらエルモの肩

  を撫でる。そして、小次郎に今後の事を聞いた。


  「俺に少し考えがあるんだ・・先ずはサキを捕まえて協力してもらうか・・」


  小次郎は、少考すると、三人に段取りを打つまで待っててくれと言って部屋を

  出た。


  サキとは富湯にいた頃に、ねんごろになった女子で、富湯を抜けてからも、

  ちょくちょく逢ってはいたが、余りの性欲の強さに付き合いきれず、2年程前

  強引に別れた。それが最近になって、知り合いから箱根で芸者をやっていると

  聞いて、今対局を利用して久しぶりの柔肌を堪能する予定だった。


  廊下に出ると丁度、隣の間の宿泊客が呼んだ芸者衆が引き上げる所で、その

  芸者衆にサキという名の女子が働いていないか聞いた所、向かいの間で接待

  してるとの事、小次郎はすぐさま芸者の一人に銭を渡してサキと替わって

  もらう様に頼んだ。

  小次郎達の部屋に現れたサキは、出迎えた小次郎に平手を食らわせた。


  「あんた、最低の野郎だよ、散々弄んであたしを捨てたくせに・・

   今頃、のこのこと・・、どのツラ下げて会いに来たんだ・・いっ・・・」


  言い終わらない内に小次郎はサキに口づけた。

  サキは驚いて引き離そうと、もぞもぞしていたが、いつしか熱い抱擁に変わり

  このまま一戦始まりそうな勢いだったが、小次郎がすうっと抱擁を解いた。


  「馬鹿野郎・・俺がお前の事忘れる訳無えだろ・・あっちにいる間、片時も忘

   れてなんかいねえよ、相変わらずの良い女で惚れ直したぜ。」


  「あんたが、ここに来るって聞いて、あたし本当は会いに来て欲しかったんだ

   そしたらさ、本当に会いに来てくれた・・今夜は良いんだろ?あたしの家に

   来てたっぷりと可愛がっておくれよ・・」


  これには他の三人はドン引きだった。

  よくもまあ、いけしゃあしゃあと舌が回るもんだとエルモは思い、少し可笑し

  くなってクスクス笑ってしまった。


  「この娘、三島の奴らと、一緒にいた娘だよね、どうしたんだい、その顔。」


  「こいつは三島の飼い犬で、悦子ってんだ、実はな、こいつの命を狙ってる奴

   がいて困っててよう、俺はなんとかこいつを逃がしてやりてえんだが俺たち

   は明日から真剣だ、そこでサキ、お前に一肌脱いでもらいてえのさ。」


  「あんたの頼み事なら聞かない訳にはいかないねえ、

   でも、その後はあたしがあんたを逃がさないからね・・覚悟しな。」


  「ああ、事が終わったら飽きるまで抱いてやるよ、約束だ。」


  サキは熱いため息を漏らしながら小次郎の首筋に口づけた


  「約束だよ・・約束・・」






  3羽ガラスが亀戸を出立した日、南町奉行、山本周五郎は本郷菊坂の役宅にて

  昼間から酒を飲みながら物想いに耽っていた。

  日々の激務の中、老中が気を利かせて、一日の暇をくれたのだ。


  『エルモの奴、余計な事を・・これでまたアジャストに手間取るな。

   しかし・・今は動ける手駒を失くすのは得策では無いか・・

   パイプとしての役割にシフトさせるべきだな・・


   塔ノ澤の対局・・三島が箱根に連れて行くからにはエルモの身が危ういと考

   えねばならん・・

   ならば保険を掛けておくか。』


  山本は橘と伊澤を役宅に呼んだ。


  「塔ノ澤の記念対局の件は知っておろう、これには市中の上流どもがこぞっ

   て参加しておる。

   つまりはこれを利用して儲けを企む輩も出て来よう、更には色々な揉め事

   が起きるやもしれぬ、依って、お主等は塔ノ澤に行って有事に備えるのだ

   必要な銭や、道中奉行と温泉組合宛の書状は用意する。

   只、お主等の見廻り衆と他の同心には、きちんと申し送りするのだぞ。

   今日中に発って貰う故、支度を急げ。」


  これに二人は色めき立った。険しい表情を見せたが、その実、飛び上がる程

  に喜んでいた。

  大の将棋マニアの橘などは自慢の小刀を質に入れてまで塔ノ澤に行こうとし

  ていた程だ、伊澤にしても、このところ痔の具合が宜しくなく、暇を貰って

  湯治に行く予定だった。

  役宅を出た途端二人は顔を見合わせた、顔が徐々に緩んで行く、満面の笑み

  に変わった。 「よっしゃああああああ!」




  エルモを衝立の陰になるように座らせ、作戦会議だ。

  明日一日の時間的猶予を有効に使わなくてはいけない。

  エルモが明後日の朝、必ず戻るという事を八坂に伝えておく必要がある。

  小次郎はエルモに一筆書かせて、これが確実に八坂の手に渡る様にした。

  そして対局後の詳細な立ち回りを、皆と確認し合う、が、口々に容易では

  無いと引き気味の意見だ。

  小次郎は俺に任せろの一点張りで、やる気満々の構えだ。

  こうなるともう手が付けられない、今夜の段取りを打った後、サキと一緒に

  何処かに行ってしまった。

  仕方無いので残された三人でプチ宴会と相成った。

  口は悪いが、愛らしい見かけと小柄ながら豊満な乳を持つエルモは、神田、

  浅草界隈の真剣士たちからは人気で、勝てば只でヤれる、という話を真に受け

  た阿保共がこぞって挑戦した。 悔しさから襲いかかろうとする者もいたが、

  三島の影がちらついては手が出せない、実力の底も知れず、真剣に於いては、

  只の一度も負けた事が無かった。 

  三味子とは別に、付いた通り名が ー白桜鬼ー 

  本気になると、白鬼が顔を出す。


  白桜鬼を肴に酒を飲む、これは後世の語り草になるなと、森も力也も思った。

  以前、エルモと真剣を指した時は二人共、エルモの三味線に、実力を出し切れ

  ずに敗北したが、エルモの強さが普通では無い事は感じていた。

  しかも人付き合いが全く無く、誰かと茶を飲んでいる所すら見た者がいない程

  私生活が闇だったからだ。

  しかしながら、明日の対局が控えてる二人は心底酔えなかった。

  気取ったエルモが口を開く。


  「折角、白桜鬼様が酒の相手してやってんのに、なんだぁ、ああ、もちっと

   色気見せてくれよ、それとも明日の事でブルってんのか? 天城ってのは

   そんな情け無え奴しかいねえのかよ、ったくよう。」


  「しかしなあ、水澤さんは元より、芳賀だって知れた名だぜ、俺たちが連敗

   となれば、明後日、小次郎が3連勝しなきゃならねえ・・なんか重しを

   乗っけられてるみてえさ。」力也らしからぬ弱気だ。


  「ほほーう、それならあたしが一丁お前らに将棋ってやつを教えてやるよ、

   どっちからでも良いぜ掛かってきな、あたしも少し滾って来たみてえだ。」


  願っても無い申し出に、二人共色めき立った、試したい戦法や、確かめておき

  たい定石が幾つもあったからだ、将棋盤と駒が丁度2組あったので2面指しで

  エルモの楽しい将棋教室が始まった。



  丑三つ時を過ぎた頃、小次郎が別館に戻って来ると、もう八坂の手下の姿は

  無く、言伝が上手くいった事を示していた。

  夜勤の仲居に一言告げ、大きな風呂敷を借りた後、部屋に戻ると、三人共、

  将棋盤を囲む様にゴロ寝していた。


  『三味子、お前は良い奴だな・・全く、惚れちまうだろ。』


  エルモを起こさない様にそっと抱き抱え、背におぶり直して風呂敷で支えた

  そのまま人目に付かない様に提灯の影を選んで歩き、芸者衆の詰め所がある

  宿までエルモを運んだ。

  サキが辺りを見回して、二人を招き入れる。

  中には十人程の芸者が布団の上で横になっていて、寝息を立てていた。

  ここでエルモを一日匿ってもらう段取りになっていて、これも作戦上かなり

  重要な仕事だ。


  「サキ、お前には本当に面倒ばかり押し付けちまって済まねえ・・

   きっとこの借りは返させてもらうぜ、今はこれが精一杯だけどよ・・」


  そう言ってサキに口づけた


  「あたしさ・・もう我慢出来ないよ、そこの後架で良いから挿れておくれよ

   あんただってこんなになってんじゃ無いか。このままじゃ死んじまうよ。」


  「ああ、こっちに来なよ、望み通り昇天させてやるさ。」


  二人は暗闇の中、獣の様に絡み合った。




  エルモが目を覚ますと、枕元に陽光が射している、時間はハッキリと分らない

  が、昼前ぐらいか、もう対局も始まっているだろうなとエルモは思った。

  用を足そうと襖を開け、廊下に出ると、丁度向かいの部屋から出て来た芸者が

  いて、後架の場所を聞いた。

  用を済ませ部屋に戻ると、さっきは気付かなかったが、枕の上に茶の入った

  湯呑みと、手紙が置いてある事に気付いた。裏にはサキと書いてある。


      ー悦子さんへー


   昼前には戻ります 

   

   そちらの宿は芸者しか出入りしない宿なので、安心してお休み下さい


   大勢の芸者衆が利用して落ち着かないかもしれませんが、とても良い


   気立ての女子ばかりです、何かあったら気兼ねなく申し付けて下さい

  

   


  どうやら元湯からは少し離れた所にある宿の様で、塔ノ澤本館の賑わいも

  ここには届かず、却って安心出来た。

  こうなったらもう遠慮無くご厚意に預かろうと、エルモは露天に向かった

  番台で体拭きと手拭いを借りて、脱衣所に入るとタイミング良く二、三人

  しか入っていなかったので目立たぬようにして入浴を済ませ部屋に戻った

  

  湯上りで火照ってはいるが、箱根の心地良い風に吹かれて、とても爽やか

  な気分だ、窓から見える沢の景色も、緑が鮮やかで何とも言えない幸福感

  を味わえる。

  夏の盛りだが、箱根は江戸に比べて気温も低く、過ごし易い。

  ここに来た本来の目的も忘れて、只ぼんやりしていた。

  すると廊下から何人かの足音が聞こえて来て、襖が開いた。

  身構えたエルモだったが、現れたのはサキとその連れの芸者2人だったので

  ほっと胸を撫で下ろした。


  「おや、目が覚めたんだね、御免よあたしら忙しくて構ってやれなくてさ、

   今から昼の腹ごしらえをしたら、また出張るんで、ゆっくりしといてね。」


  仲居が運んできた食事を、芸者衆と、ワイワイやって食べていると、別の芸者

  が慌ただしく部屋に入って来て、サキに告げた


  「ねえねえ、サキちゃんが贔屓にしてる男側の、天城だったっけ・・

   そこの森ってのが勝ちそうだって、キヨちゃんが言ってたよ!」




  芳賀が森に負けた事は、八坂にとって少なからず誤算だった。

  道中奉行を抱き込んでまで開いたこの賭場で、今朝までに売れた賭け札の総額

  は約5000両、当初の見積もりで、1000両は胴元の三島一家に入る様に

  配当を決めていたので、芳賀の負けは、上りが目減りする事を意味する。


  『芳賀の奴・・しくじりやがって、風林火山の名が泣くぜ。

   しかし、解せねえのは森の奴、いつもは振り飛車ばかり指す癖に、今日は珍

   しく居飛車穴熊だと、まるで芳賀が穴熊で来るのを知ってたみたいな差し回

   しだったぜ・・。

   水澤の旦那の事だ、間違いは起きねえとは思うが、万全を期すに越した事は

   無えだろう。』



  そんな八坂の心配を他所に、水澤は滅多に指さない角換わりで森を一蹴して、

  天城の連勝を阻止した。

  初日は、どちらかの側が2勝するまで指す予定なので、力也と水澤の対局まで

  は行われる。力也は水澤が休憩から戻って来るのを、壁に掛けられた大盤の前

  で、微動だにせず待った。

  初日のメインイベントとも言える対局に、観客は増え続ける、採光窓にまで人

  だかりが出来る程で、皆それぞれに賭け札を握りしめている、この対局次第で

  賭け札が只の板切れに代わる客も大勢いるのだ。

  今や遅しと両者が桟敷に上がるのを待っていた。


  ようやく水澤が現れた、力也が水澤の前に躍り出て、ガンを飛ばす。

  額と額がぶつかる位まで近付いて、暫く睨み合った。

  水澤は歳は45、白髪頭に深く刻まれた皺が、老け顔に輪をかける。

  大して力也は23歳、髪は坊主の様に剃り上げている、洒落っ気は無いが、

  作務衣が良く似合う好青年だ。

  水澤が口を開く。


  「攻めるしか能の無い餓鬼が・・

   さっきは物足りなかったが、お前はちぃっと楽しませてくれよ。」


  「八丁堀の妖怪が、一回勝ったぐらいで、えらくご機嫌じゃねえか、

   まあ、あんたが小田原に辿り着ける位には手加減してやるよ。」


  「黙れ小僧!」


  力也の挑発に、らしく無く怒りを露わにする水澤だった。




  番頭が駒を振って、力也が先手番になった。


  先ずは様子見と、力也は角交換を拒否する、矢倉か雁木の選択に雁木を選んだ

  水澤が矢倉に組むのを確認して、力也は腰掛け銀から、右4間に飛車を振った

  

  『三味子が教えてくれた通りだ、後手番の水澤は矢倉が多いから、もしも矢倉

   なら4筋の一点突破が一番紛れが多い・・か、昨夜三味子と指したばかりだ

   変化は覚えてる、ガンガン突っ込むぜ。』


  飛車角銀桂歩による水澤城への集中砲火が始まった。



  小次郎が出先から、息せき切って戻って来た。

  館内は大きくどよめいている、観客は皆、力也と水澤の一挙手一投足に目が離

  せない様で、小次郎には見向きもしない。

  大盤の前に森を見つけた、森に客を掻き分け近づいて問いただす。

  

  「凄え!芳賀に勝ったんだよな、森さんかよ、凄えよ、

   で、今どっちが優勢なんだ!」 森が大盤を見ろと指で差す。


  盤上を見る限り先手が優勢だ、名札を見る、先手は力也だ。

  手番は後手の水澤だが動かない、水時計を見るに時間はまだ少し残っているが

  水の落ちる速度が遅くなっているのか、ここにきて中々読み上げに入らない。

  棋士ならば即座に看破するに違いないが、素人には気付く由もない。


  「森さんよう・・時計おかしいな、細工されてるって事か・・

   ・・て事は読み上げも抱き込まれてる筈だな。」


  「ああ、でも今日の力也は、なんか違う・・見えてるっつうか・・・

   細工されてても問題ないくらいに深く速く読んでるよ。」


  しかし、流石は八丁堀の妖怪、悩ましい受けで力也のミスを誘う。

  大盤の前で小次郎も森も即座に反応出来ない、が力也は間違えない。

  最善の攻めを繰り出し、じわじわと水澤の玉を追い詰めて行く。


  遂に水澤の玉が受け無しになった、読み上げが始まって8を越え9を越え10

  も越えた、力也の勝ちだ、だが水澤は投了しない、余程悔しかったのだろう、

  立ち合いから声を掛けられてやっと、小さな掠れ声で、負けましたと言った。


  館内が一気に大騒ぎになった。

  大番狂わせだ、阿鼻叫喚の渦の中、力也は天井を見上げて呟く。


  「見たか、息子よ、父ちゃんは勝ったぞ。」 


  箱根に発つ直前に、息子が生まれた力也は、どうしても勝ちたかった、

  負ければ息子の誕生にケチが付きそうだったからだ。


  『名前、何にしようかな・・』




                続く

  

  


  


  


   



   


  

  

  

   


  


  

  


  

  





   


   

  

  



  


  


  

  

  

  

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