南佐の歩 第一章 第四話 祭り囃子に合わせて
その夜、南佐は夢を見た。
自分が今とは違う人間の女の子になって何処か綺麗な場所で駆け回っている。
一緒に自分と似た背格好の女の子もいる。
楽しい笑い声を上げ、二人、手をつなぎ、はしゃいでいる。
そして何か約束をした。
大事な約束、 そして秘密の言葉・・・・
少し寝坊をしたらしく、志津が引き戸をトントンと軽く叩いた。
南佐は、慌てて飛び起きて朝餉の支度を手伝う。
「お母さま、すみません昨日の事で少し疲れてたみたいです。」
「いいのよ、無理はしないように、大事な体なんだから、
それより、惣次郎は寝床ではどうかしら、ちゃんと優しくしてる?」
「いっっひいいっつ、何ですか急にぃ・・何もありませんよ!」
「そりゃとんだ唐変木だ。」後ろからいきなり兵衛が出て来て漬物に手を出す
「わああああああ!」南佐は驚いて包丁を放り投げてしまい、危うく兵衛の足
に刺さるところだった。
「危ねえなあ、俺が台所で唐変木になるとこだぜ。」と下らないオチを
つけて胸を撫で下す。
「まあ、惣次郎は柳水の事をまだ引きずってる所はあるからなあ・・」
兵衛の言葉に南佐も納得してる様で頷きながら昨日、惣次郎が自分の事を
俺の女だ、と伊澤の前で言った場面をリフレインした。
『惣次郎さまが私の事を・・えへへっ、なんだか嬉しいな。』
「何の話だい?」惣次郎が声を掛けた。
「わあああああああ!」今度は兵衛の足に軽く刺さって大騒ぎになった。
この日は朝餉が終わると、志津が後架(便所)で使う浅草紙の大安売りに行く
と張り切っていて、ならばついでにと、南佐の着物を新調する事になった。
南佐は志津と二人で使用済みの浅草紙をまとめて麻袋に詰め込みながら、どん
な色にしようかとか、生地の質がどうたらこうたら、女子会に花を咲かせる。
浅草紙はリサイクルするので使用済みの物をある程度の数、持って行かないと
売ってもらえない決まりで、天城家は詰めている弟子や通いの者が使う分で、
かなりの量が必要だ。 結果、麻袋で大きく3つになった、風呂敷で下げられ
る様にして準備OKだ。
天城の道場は亀戸にあり、深川にも近く、浅草までの道程もさほど苦にはなら
ない好立地だ、弥生の末には毎年、隅田川を越えて寛永寺に花見に行くのが、
恒例行事になっている。
紙問屋のある両国は街道を西に1kmぐらい歩いた所にあり、贔屓にしている
錦糸町の染物屋は帰りに寄ることにした。
紙問屋で新しい(と言ってもリサイクル品だが)浅草紙を持ってきた分よりも
多く購入したので、風呂敷はかなりの大きさになった。
梅雨を前に、この時期にやっておかないと衛生面で不安が残る事は他にも多々
ある、主婦は大変なのだ。
流石に帰りは汗だくになったので錦糸町に入る前に休憩と相成った。
志津は甘味に目が無いので、この辺りの甘味処は熟知している、今日は南佐と
一緒という事もあり、奮発して志津・心の甘味処番付小結の蜜庵に入った。
「おや、志津さんじゃあないかい、久しぶりだねえ。」店主が声を掛ける。
触れては無かったが志津は生まれた京都でも評判の美人で、天城に嫁いでから
も周りからは兵衛を羨む声が絶えなかった、実際、弟子の内、何人かは志津を
目当てで入門していて、以前の兵衛は寝取られはしまいかと、詰めてる弟子に
嫉妬までしたものだった。
当然、小橋にも評判は伝わり、各棋士の羨望の的となった、貴美は特に志津を
目の敵にして、志津が小橋の家に、お使いで来る度に塩を撒く有様だった。
だが、当の志津は全く自身の美貌を鼻にかける事もなく、人当たりの面でも
すこぶる評判が良かった。
43歳になった今も若々しく、匂い立つ色気は健在だ。
「ええ、ご無沙汰して済みません、喜助さんもお元気そうでなによりです。」
「この辺りじゃ見ない別嬪さんだね、志津さんのお知り合いで?」
「はい、縁あって天城の皆さんとは家族の様に親しくさせて頂いています、
南佐と申します、今後ともよろしくお願いいたします。」
「そうかい、そうかい、いやいやこちらこそよろしくな南佐ちゃん」
人懐っこい笑顔だ、人との触れ合いは何とも心地良い。
運ばれて来たあんみつは3割増しの大きさで南佐は少し苦戦したが志津は事も
無く平らげていた。
錦糸町の染物屋に着いて、自己紹介を済ませると早速、沢山の反物を広げて
あれやこれやと合わせては下げ、合わせては下げを繰り返す、店員が慣れた
手つきで袈裟懸けに垂らしたり 帯を何本か重ねたりして色合いを志津に尋
ねるが中々に決まらない、散々悩んだ挙句、反物3本と帯を2本に腰巻きや
内掛け、履物を買って、採寸後、仕立てをお願いした。
出来上がりが十日程掛かるが、一見では無いので割安で買えた事の満足度が
勝った。
「有難うございます、お母さま、あんな高価な物を・・三着だなんて・・」
「いいのよ、気にしないで。 全部惣次郎のお金なんだから、
あの子はお金には本当に無頓着で黙ってるとすぐ小次郎にかすめ取られる
のよ、だから、私が対局料と懸賞は預かってるの、いざって時に無いじゃ
困るでしょ。」
そう言ってケラケラ笑う志津は頼もしくも爽快で、嬉しさを噛み締めながら
帰途に就いた。
梅雨が始まって、折角届いた着物を着る事が出来ず、茶室に掛けてある着物を
研究中もチラチラと見ては溜息をつく南佐を見かねた惣次郎は、梅雨が明けた
七夕に浅草寺で法会に合わせた大きな祭りがあるので、良い機会だと思い、
南佐を誘う事にした。
これが、かなり利いた様で、それから梅雨が明けるまで南佐は意味不明の興奮
状態になって、時折何か叫んだり、一心不乱に後架掃除をしたりと周りから、
気がふれたのではないかと心配された。
そしてようやく祭り当日となり、晴れて念願の着物発表会が祭りの前に天城家
道場において開催された。
みなぞろ整列して、コンクールよろしく各着物を採点し、一番の物を着て行く
流れで、結果、涼しげな水色の生地に桜の花模様が染付された着物が一番の高
得点で、こいつを着て行く事になった。
眩しい日差しが街道に降り注ぎ、全てがピカピカに輝いている、中でもひと際
南佐が輝いていた。
連れて歩く惣次郎を含め、そこにいる全ての視線は南佐に釘付けになった。
長い髪を夏らしく鼈甲の櫛と組み紐で纏めてお団子にして、うなじを露出し、
着物の帯は志津オリジナルの太鼓結びで帯柄を強調して、後ろからの華やかさ
も演出していた。特に、帯の太鼓結びは今年、志津が亀戸天神に初詣に行った
際に初めて人前に披露した新型の結び方で、その着付けを教えてくれと、道場
へ足を運ぶ女子も少なく無かったし、最近では深川あたりでも、お洒落意識の
高い女子が結んでいる姿を見る様になった。
照れ臭そうな惣次郎を他所に、満面の笑みで、道行く人の会釈に応える南佐は
本当に幸せそうで、浅草までの道のりが、あっと言う間だった。
「私、・・こんな賑やかなところ初めてで・・うふふ、素敵です!」
「俺も久しぶりに祭りなんか来たよ、でも何か楽しいな。」
見つめ合った二人の顔が笑顔で一杯になる。
雷門に向かう参道沿いに露店が所狭しと並び、甘い匂いの菓子やお面、珍しい
玩具や装飾品等、どれも南佐には宝物に見えた。
目移りする中、南佐の目に留まったのは、かんざしだった。
黄楊の木目が美しく、先端に南天の実大の玉が幾つも丸く寄せ固めてあり、
その根元に繊細な金細工が施してあった。
他にも幾つか似たようなものはあったが、南佐の目にはこれが他のものより
一際輝いて見えたのだ。
「どうした、南佐、そいつが気に入ったのかい?」
「え、ええ、でも値段が・・」結構な金額だ。
「お前さん、烈火の棋士じゃねえか、へええ、近くで見ると大きいんだな、
この綺麗な娘さんは、お嫁さんかい?」かんざし売りの男が声を掛ける。
「ち、違うって、この娘はその、あれだ、まあ・・・」
「なーにごにょごにょ言ってんだよ、この色男が! このかんざしが気に入っ
たってんなら、お目が高い!そんじょそこらのかんざしとは訳が違う、実は
このかんざし、とあるお武家様の奥方が、有名な職人に作らせたは良いが、
作ってる最中に出家しちまって、かんざしの刺さらない頭になっちまったの
さ、飾る事の出来ないかんざし程、不憫な物は無えって事よ!
その職人は入る筈だった銭が入らず困り果ててたのを俺が見かねて代金を肩
わりしてやったって訳だ、さあそこでこいつの値段だ、値札には二両とある
が、本来は三両は頂かねえと割に合わねえ程の逸品、烈火の棋士様には二両
なんぞ、その辺の石ころ同様だろうよ、だったらここで決めてもらっても
罰は当たらないんじゃあねえのかい?
さあ二両で持っていきな、さあさあ!」
まあ胡散臭い口上だ。
「済まねえな兄さん、今日はそれを買える程、持ち合わせが無いんだ、一両と
一分、それと20文なら手元にあるんだが・・南佐には悪いが、まあ今回は
諦めて別のを探すよ。」
「おうおう、見損なっちゃあ困るぜ、烈火の棋士さんよう、俺も鬼じゃ無え、
一両ちょっとしか無えってんなら、その一両で手を打とうじゃねえか。」
「でもな・・、これ使っちまったら、折角ここまで来て他に何も買えなくなる
ぜ、やっぱり諦める・・」すぐさま男が遮った
「負けたよ、烈火の棋士、投了だ、一分銀で良いから持ってけ泥棒!」
このやり取りを横で見ていた南佐は笑いを堪えようと必死だった。
しかし欲しい物が割安で買えるに越した事はないので、以外に真剣勝負だと、
惣次郎は言って、今手に入れたかんざしを南佐に挿してやった。
「惣次郎様、有難うございます、凄く、嬉しいです・・」
胸一杯の南佐だった
その後、茶屋で団子を買い参道の脇の長椅子で食べながらくつろいでいると、
栗毛の可愛らしい女子が近づいて来て、惣次郎の前に扇子を広げた。
「あのう・・烈火の棋士さんですよね、わ、私ずっと応援してます、
良かったら扇子に字を入れて貰えませんか?」
自ら墨と筆を持って来られては断り様が無い、快く引き受けた。
ー烈火之棋士ー
惣次郎は達筆だ、さらさらと流れる様に書き終えた。
その女子が何度も礼を言いながら去って行くのを見ながら、南佐は惣次郎が
優しい人柄なのを改めて感じた、将棋盤の前では熱く厳しいのに、いざ盤を離
れると、おっとりして優しく機転も利く、南佐は惣次郎と出会って本当に良か
ったと思った。
観音菩薩に祈願しに仲見世を通り、風雷神門をくぐると、美しい本堂がある。
南佐に祈願の作法を教えた惣次郎が賽銭を投げ、吊るし鐘を鳴らした。
惣次郎が手を合わせ礼拝した。
南佐も動作を合わせ、願い事を心の中で唱える。
『どうか、惣次郎様の夢が成就します様に、
私に関わる全ての人が幸せであります様に。』
しばらくして惣次郎が御徒町に用事があったのを思い出したと言い、少し散策
しておいてくれないかと残して、その場を離れた。
仲見世の茶屋で、お茶をもらい、木陰で時折、首元に流れる風を心地よく感じ
ながら惣次郎が挿してくれたかんざしに手をやる、金細工の触れ合う音が、心
を高揚させた。
『これって、惣次郎様が私の事を好きって事ですよね・・』
そう思うのは少し気が早い気もするが、物憂げに佇む姿は、絶品の浮世絵の様
で、祭りの賑わいの中でも際立って艶やかだった。
少し、と言われたが、どのくらい散策しておけば良いか分からなかったので、
預かった小銭で何か惣次郎にお返ししようと思い、露店を巡り始めた。
あれやこれやと手に取っては見るが中々に決まらない、そろそろ何か買って
おかないと戻って来そうなので焦っていると、ふと栗毛の女の子が扇子を持っ
て来たのを思い出し、扇子をプレゼントする事に決めた。
扇子を売っている店はあるかと露店の者に尋ねたところ、仲見世を戻ったら
真ん中位の所に切れ目があって灯篭が置いてあり、その脇に入ったら扇子の
露店が出てると言った。
早速、足早に向かっていると、言われた切れ目の灯篭脇に、あの栗毛の女子が
居るではないか、扇子の露店とは、この女子の店だった。
遠巻きに眺めると、全部そこそこの値段が付けてある上に、さっき惣次郎が
字を入れた扇子をかなりの値段で置いていたのだ。
売台の前には大きく、[いざ、尋常に勝負、勝者に扇子進呈]、とあった。
何の勝負かと思って少し近づいて見たら、開き盤の上に駒が盛られていて将棋
だと分かった。
南佐が声を掛けようと近づくと、先に別の客が割るように入って栗毛の女子と
一戦始まった。
南佐を含め2,3人が、足を止めて、この対戦に見入った。
結果、栗毛の女子が辛くも一手違いで玉を詰め上げて勝利した。
「はい、残念でしたぁ~、一朱いただきま~す。」さっきとは全くの別人だ。
「ええい、糞、扇子一本に一朱なんぞ聞いた事ねえぞ!ほらよ!」
そう言うと一朱金を叩き付ける様に置いて、席を立った。
「毎度ありぃ~。」すこぶる意地の悪い言い方だ。
見物客が散ったので、南佐が空いた席に座る。
「あれ?さっき烈火の棋士と一緒にいた・・、
なんだい、文句ありそうな顔だね、そんなに烈火の扇子が欲しいのかい、
だったら、勝負と行こうじゃないか、あんたが勝てば、只でその扇子を
持って行きな、けど負けたら2両で引き取ってもらう、烈火の連れだ、
当然将棋は指せるんだろう?それで銭は持ってるのかい?」
「惣次郎様が善意で書いた物を、事もあろうにそんな値段で売るとか、神経を
疑います! お金は持ってないので勝負は出来ませんけど・・その扇子を、
売る事だけは止めて下さい!」
「へぇ~言うじゃないか、良いよ銭は要らない、その代わりと言っちゃあ何だ
がその綺麗なかんざしを賭けなよ、そいつならこの扇子と見合いそうだ。」
「こ、これは駄目です、とても大切な物だから・・」
「じゃあ、一昨日出直して来な、帰った、帰った。」にべもない。
南佐は少考する、さっきの将棋を見るに腕は大した事はない、天城の誰よりも
弱いと確信した。
「分かりました、このかんざしを賭けて勝負しましょう。」
「吠え面かくなよ。」栗毛の女子が言い放つ。
南佐は栗毛の女子に先手番を譲った、出方を見て対応しようというのだ。
26歩、居飛車だ、南佐は素早く角道を通した、合わせて女子も角道を
通す。南佐は44歩、4間に飛車を振る構えだ。
その後少しずつ駒組が進み、女子は左美濃で囲う雰囲気だったが、何故か
玉を8筋に寄せないまま78に玉を据え、、左金を1つ左に寄せた。
所謂エルモ囲いだ、南佐は多少の違和感を覚えつつも急戦の構えで、玉を82
に上げずに中央から仕掛けた。
これを見た女子がつぶやいた。
「藤井システム・・」 「あらら、声にでちゃった。」
南佐は驚愕した
「何故あなたが、この戦法の名前を知ってるの・・まさか、」
「うふふ、ああバレちゃったか、そうさ、あたしはイコライザーだよ、
名前は、あんたも良く知ってる名前さ ”elmo”って言えば分かるだろ。
今は悦子なんて名前で通ってるさね。」
「エルモちゃん、あなたが何故・・イコライザーだという事は私を含め、秘匿
しなければいけないのに・・何故?」
「なぜ何故うるせえよ、あたしは只・・面白くなかったのさ。
同じ将棋AIとして生まれた筈なのに、片や、人の魂、トゥルーソウルを手に
入れて、こっちは無理矢理に疑似的魂、デミソウルを与えられた・・
こっちにジャンプさせられてからのあたしは散々だったのさ、もう話したく
無いような事ばかりだったよ、あたしは人間が嫌いさ、色と欲にまみれ、
他人の事なんてどうだっていいと思ってる・・
あんたは良いよ!その愛くるしい容姿に、あったかそうな人達に囲まれて、
さぞかし満ち足りてるだろうよ・・」涙ぐみながらエルモは続けた。
「でもさ、あんたは知らないだろうけど、あんたノンシリアルに利用されてる
って事を覚えときな、いずれあんたも価値が無くなればデリートされるのさ
そんときゃ、あたしらもデリートされる運命共同体ってわけさ、ははっ。」
エルモが吐き捨てる様に喋っていると、一人、二人と観戦者が寄って来たので
南佐はそれ以上の追求が出来ず、盤面の戦いに戻らざるを得なくなった。
しかし、藤井システムからの急戦を封じられて、銀冠に組み直すも、後手番
での戦いで、致命的なのは序盤でエルモと気付けず、読みの精度を上げずに
指し続けた事だ。
南佐は焦る、玉の硬さはこっちが上だが、飛車を上手く捌かれた上に端から来
られて受けが難しい、時間を使いたいが、この劣勢を跳ね返す手をひねり出す
には日が暮れてしまう。
「あれれぇ~、なんだか後手さんは寄り形じゃないかなぁ~。
あんまり長引かせると可哀そうだから、ちゃちゃっと決めちゃいますね~」
「・・・負けました・・・」
「ええ、聞こえないよぉ~」
南佐は手駒を盤上に流す。
「じゃあ、かんざしは頂きますねぇ~。」
そう言って南佐の髪から抜き取った。
「あ、ああ、あ、駄目・・やめて・・。」
南佐の目から大粒の涙が零れ落ちる
「泣いたって無駄だよ、こいつは正式な勝負だ、あたしの勝ちなのさ。」
少し南佐の打ちひしがれてる様を眺めてたが、仲見世通りに入ってきた赤毛を
見つけて、そそくさと片付け始めた。
「さあさ、お客さん今日はもう終いだよ~またのお越しを~。」
言いながらてきぱきと台上を片付ける。
「あんたも、さっさと帰んなよ。」一瞥をくれて人ごみに消えて行った。
そこに、惣次郎が来て南佐の涙の理由を聞いた。
「私・・、うっうっ、・・御免なさい・・かんざしを・・大事な大事な・・
悔しい・・悔しい・・」
到着した時に消えていく栗毛の女子を見て、惣次郎は察していた。
「かんざし、持ってかれっちゃったか・・、」
振り返りながら南佐は惣次郎にすがりつく様に抱き着き、おいおいと泣いた。
「いいさ、いいさ、かんざしで済んだなら安いもんだ、俺が遅くなっちまって
何かあったならそれこそ大事だぜ、
あの女子は浅草じゃ有名な真剣士だよ、俺も顔は知っていたけどな。」
「真剣士、です、か・・?」
「ああ、俺も修練を兼ねて、真剣を指す事がある。
大抵は挑戦状が届いてから、どこぞの街道筋で待ち合わせて対局するのさ、
真剣の場合は金銭を賭けるのが決まりだから、互いに有り金を揃えて持って
行き、負ければ素寒貧だよ。
でもこれは将棋の技術の勝負じゃないんだ、心と心の戦いさ、いくら将棋が
強くても心が弱くちゃ負けてしまう、だから真剣士達は心が強いのさ。」
「私は、心が弱かったんですか?」
「うん・・そうかもな、でもな南佐、以前俺に将棋を教えてくれた師匠が
言ってたんだ、将棋は負けないと強くはならない、悔しいと思う気持ち
こそが心を鍛える、悔しさを知らない棋士は心が弱いままだ、とね。」
「柳水さん・・」
「ああ、もう知ってるのか、
あの栗毛の女子は三島一家に、親姉弟を奪われちまった、借金を背負わされ
首が回らなくなって、首を括っちまったのさ、残ったあの女子は連れ込み宿
で客を取らされ続けてたらしいが、そのうち将棋が達者なのが分かったんで
真剣を凌ぎにして、そいつを三島に貢いでるって話さ。
やくざ者からはそう簡単には逃げられねえ、毎日辛いと思うぜ・・
扇子の事は事情を知ってたから、俺の拙い直筆が金になるならそれで良いと
思ったんだ。 黙ってて済まなかった。
でも、南佐が負けるってのは解せねえな・・、ははあ・・
別の客と指してるのを見たんだな。」
「ええ、別の方と指されてた時は全く本気を出してなかった様です・・」
「まんまと嵌められたって訳だ。」クスクスと惣次郎が笑った。
「でも、あのかんざし・・綺麗で、凄く、嬉しくて・・うっうっ・・」
惣次郎は泣きじゃくる南佐の頭を撫でながら言った。
「俺は南佐が無事で良かった、それだけで良いのさ、かんざしなんて
これから幾らでも買ってやるさ、任せろって。
それからこいつは南佐が天城に来てくれた事の感謝の気持ちだ。」
そう言って袂から綺麗な桃色の巾着を取り出して南佐に手渡した。
「御徒町の木彫り師に頼んでおいた将棋の駒が、やっと出来たってんで、
さっき受け取りに行ってたのさ、そしたら受け取る段で気に入らない
所があるからちょと手を入れさせてくれなんて言うから、参ったよ。
開けて見てくれ、そいつの文字は全部俺が書いたんだぜ、へへっ、
さっきの扇子なんて目じゃねえからさ。」
南佐はゆっくりと巾着袋の紐を解き、歩を一駒取り出した。
黄楊の木目の綺麗な駒、うっすらと椿油が塗ってあり心地よい匂いがする。
なによりも文字が美しい、普通の駒よりも細く、駒淵ギリギリまで大胆に
筆を走らせている、またその筆を十分に生かした正確な彫りは並の彫り師
には彫れない、金には代えられない価値があるのは誰にでも分かった。
「あ、はああ、あ、有難う御座い・・ま・す・・」南佐は嗚咽を漏らした。
「おいおい、また泣いちまったよ・・」言いながら周りを見回すと、大勢の
野次馬がニヤニヤしながら二人を見ている、慌てて南佐を灯篭裏に匿って
手拭を取り出し涙を拭いてやった。
「美人が台無しだよ、全く。」思いっきり照れていた。
「私、この駒で将棋が指したい!今すぐ!」南佐は目を輝かせた。
「そう言うと思って、一緒に持って来たのさ。」
腰に挟んであった開き盤を出した。
二人はエルモが使っていた売台を拝借して対局を始めた。
真新しい駒が盤上に広がる、それは紛う事無き世界で一つの自分の駒、
南佐は心が震えるほど感動した、さっきまで悔し涙を流していた事も忘れて、
駒を並べた。
「いざ、尋常に勝負!」掛け声が揃った、二人してクスクスと笑った。
小気味よい駒音が、祭り囃子の太鼓に合わせてパチン、パチンと鳴っている。
南佐の胸の鼓動も拍子を合わせる様に高鳴った。
惣次郎は微笑んで南佐を見つめている。
西日が逆光になって、南佐は惣次郎がとても眩しかった。
続く