南佐の歩 第四章 第一話 因縁と憎悪と
正月のお屠蘇気分も抜けた1月7日、小橋の本屋敷では毎年恒例の行事
である、宗家と分家との対抗試合が行われていた。
もとより年始の挨拶を兼ねて両家の親睦を深めるのが目的であり、優劣
を競うものでは無かった。
しかし宗桂亡き今、宗眠を中心とした中央集権的な組織が形成されてか
らは、本道場は修羅場と化し、とても親睦を深めるどころでは無い有様
になっていた。
しかも、分家の一番手であるざくろ丸が、棋戦では無いにせよ、天城の
女流棋士に敗れるという話が、瓦版に刷られて日本橋付近まで撒かれる
始末、宗眠の心中は穏やかな筈もなく、煽りを受けた分家の棋士たちに
災禍が降り注ぐ。
連帯責任と称してのパワハラが度を越して蔓延り、分家の者で試合に負
けた者は寒風の中、水ごりをさせられ、腕を竹刀で叩かれたりした。
ざくろ丸にも当然その手の仕打ちが降り注いで当然だが、如何せん誰も
ざくろ丸に歯が立たない。
業を煮やした宗眠が、四段位中最強と呼ばれ、来る18日に惣次郎との
優勝決定戦を控えていた鴻池秀峰に白羽の矢を当てる。
ざくろ丸は愉快で仕方なかった、元々のポテンシャルに加えて柳水の思
考アルゴリズムを手にした事での全能感、思わず笑みが零れる程だ。
「鴻池さん、先手で構いませんよ、うふふふ。」
「ほう、君は以前よりも強くなっている様だが、かつて私に一度も勝て
ていないのだよ。
あまりイキり立つと後で恥ずかしいのではないかな。」
「いえいえ、お気になさらずに、僕が先手を取ったらあなたに残された
万に一つの勝ち目が消えてしまいますからね、んっふ。」
「ほざけえええええ!! こんの若造がああああ!」
激高して殴りかかろうとする鴻池を、分家の棋士が寄って集って抑え込
んだ。そのもみくちゃになっている所へ宗眠が竹刀を持って割り込む、
そして竹刀で分家の棋士たちを酷く打ち据えた。
「貴様ら、いい加減にしろ! 秀峰さんも抑えて下さい、折角の先手番
です、きっちりカタに嵌めてやればいいのです。」
「あ、ああ、済まん、もう大丈夫だ・・」
余りの不遜な態度に宗眠も腸が煮えくり返っていた。
「ざくろ丸!そこまでの態度を取るならば、負けた時は分かっているな、
・・破門だ、破門、いくら許しを請おうが許さん。」
「上等です、しかし勝ったなら宗眠殿、私と手合わせ願いますよ。」
「・・ふ、ふん、良いだろう・・勝てばな!」
この日、正月から昨年末に起きた未曾有の大惨事がようやっと落ち着いて
ほぼ全ての死人の身元が明らかになった。
死者総数(行方不明含む)235名で 発見された者の死因は全て溺死だ
った。
南町奉行きっての敏腕与力、橘慎太郎をもってしてもこの惨事の全容は掴
めておらず、おおざっぱに言って三島組の将棋を使った賭博場が浸水し、
出来上がった土佐衛門が堀を伝って川に流れ込んだと見る他は無く、捜査
介入しようとする火盗改めを煙に巻く事の方に時間がかかった。
しかし高尾山の火災の件が、上手い具合にお茶を濁してくれて火盗の目を
誤魔化すのに丁度良かった。
南町奉行・山本周五郎への状況報告も、取って付けた様なものしか上げる
事が出来ないままに明後日の合同葬儀の準備に追われる始末だ。
なにせ死人の数が数だけに縁故知人友人も相当数に上る、江戸市中の同心
や岡っ引きを総動員して連絡に当たった。
不思議なのは三島源蔵の片腕が切り飛ばされていた事と、伊澤が女子二人
を連れて逃げおおせた事に尽きるが、依然として真相は闇の中だ。
休み返上で捜査をしてきた事もあるが、無力感と疲労がピークに達して、
朝風呂に浸かる元気も無かった。
『・・何か腑に落ちねえ事が多すぎんだよな・・
伊澤が口を割らない理由は大体見当は付く、大方あの異国の女子、南佐
ってのが渦の中心に居て、その周りに俺らの想像も出来ねえ組織がいる
っつう事、そいつらにかかれば普通の人間なんざ紙切れみたいに吹き飛
ばせるってんで迂闊に喋れないって事だろうよ・・
・・それでも俺にくらいは打ち明けても罰は当たらねえだろうが!
山本様も、らしくない言動が多すぎだぜ・・シーボルトの野郎が伊能様
の地図を持ち出して以来、異国に関するものは徹底的に検閲・排除して
きたってえのに南佐って毛唐の女子に関しては、あっさり江戸に入れち
まうなんてよ・・ 水野様には何と言っているのか、こっちが心配にな
っちまうぜ・・ 』
橘の心の中で、南佐や悦子、天城の面々への不信感が募っていた。
山本から彼女らの身の安全を確保しろとの厳命はあるが、如何せん普通で
はない匂いがぷんぷんしている。
だが、源蔵と腹心の部下達が亡くなった事で、奉行所も手出しを控えてい
た三島金庫への立ち入り捜査が公然と行えるのは唯一の救いと言えよう、
一先ず南佐の件は後回しにしようと決めた。
橘は、御徒町にある源蔵の屋敷に向かうべく、早朝から役宅を後にした。
憂鬱な気分の表れか、足取りも重い。
奉行所に一旦寄った後、2名の同心を引き連れて御徒町に向かう道すがら
松下俊平太の家に形見を届けた帰りの伊澤に、ばったりと出くわした。
「お、おう伊澤じゃねえか、・・・今日は松下んとこに形見の短刀を届けて
来るっつってたな、どうだった?お袋さんはよ、」
「はい・・三島のチンピラに相当痛めつけられてたみてえで、まだ床に臥せ
ってました。・・・気の毒すぎて目も当てられねえ始末で・・
俊坊の遺骨に手を合わせて、そそくさと帰って来ちまった、何とも申し訳
無え・・不甲斐無いにも程があるってもん・・うっうっ・・」
俯いて涙を流す伊澤の気持ちを察して、橘は伊澤にそのまま自宅で待機し
ておけと命じ、その場は分かれる事にした。
本当は捜査に連れて行きたいのは山々なのだが、落ち着くまで静観する事
にした。
『松下が命を懸けて救った三人の命か・・
ま、そう言う美談も嫌いじゃ無えし、その方が収まりが良いってか。』
そう心の中で呟いた橘の足取りは不思議と軽くなっていた。
その日の夕刻、エルモが庭先で掃除をしていると垣根の向こうから門前仲
で湯屋・玉姫之湯を営んでいる藤崎吉右衛門が、連れの男となにやら楽し
気な会話をしながら近づいて来るのが見えた。
『・・あいつは玉姫の若旦那じゃねえか、あの助兵衛野郎が直に出向いて来
るって事は、今度の南佐っちと天晴の対局案内って事か・・
・・絶対に天晴の奴、南佐っちに怪しげな術を使うつもりだろうが、あた
しがそんな事は許さねえぜ・・
2月14日っつってたな、まだ日はあるんだ、なんとかしねえと・・』
そそくさと玄関に向かい、気付かれない様にそろっと門をくぐって二人を出
迎えた。
丁度良かったとばかりに藤崎が差し出した案内を自分の懐にしまい、エルモ
は二人が道場内に入らない様に言葉巧みに追いやった。
『しめしめ・・あいつが助兵衛で助かったぜ、急ぎで遊郭に行かなきゃって
マジでラッキーだな、これでなんとか誤魔化せそうだけど、周りがネタバ
レする前に天晴に釘を刺しておかねえとやべえ・・
三日以内には動かねえとな・・』
エルモは薄々感じていた、自分がもう直ぐこの世界から消えてしまうという
事に。 それは天城の家に来た時からずうっと感じていた違和感、多分、時
空の特異点というものが、天城の家を中心に大きく広がっていると感じるの
だ。 とてつもなく大きな力が、時空を歪め始めている、それはきっと自分
のせいでそうなったのだと思い込んでいた。
ポナンザと惣次郎、天城の皆まで特異点に飲み込まれる訳にはいかない、
皆が穏やかに暮らせる日々が少しでも長く引き延ばせる事が出来るのならば
自分の命など安いものだ、力ある者たち、つまりはノンシリアルに命を懸け
て、皆の延命に向けての助力を嘆願しようと決めた。
『このまま世界が終わるのをじっと見ているなんて性に合わねえ、
あたしが何とかしてやんよ、元々無かった命、
華々しく散らそうじゃねえか!』
その頃、小橋の道場は異様な雰囲気に包まれていた。
ざくろ丸と鴻池の対局が佳境を迎え、その形勢差に本家の誰もが血の気を
失い震えていた。
宗眠の鬼の形相が、対局後の鴻池にとって地獄すら生ぬるい程の修羅場を
迎えるのだと予感させる。
宗眠が鴻池に目配せた。 打ち掛けろ、との合図だ。
「は、はは、ざくろ丸、済まぬが一旦打ち掛けさせては貰えぬだろうか、
急に腹の具合が可笑しな事になってな・・
そ、そう時間は取らせぬよ、す、少しの間だ、済まぬ。
・・・そ、宗眠殿、宜しいかな?」
宗眠は軽く頷いて、打ち掛け休憩を半刻と決めて書斎に戻った。
「ひひひ鴻池さん、ゆっくり出すと良いですよ。
僕はいつまでも待ちますから。」
分家の棋士たちが大爆笑した、愉快・痛快とはこの事だと言わんばかりに
歓喜の声を口々に上げ、肩を叩きあって互いを労い合った。
実際、棋士とは言っても半数以上は、お武家様や豪商の跡取りたちなので
兄弟子とは言え、狼藉に等しい扱いに相当の鬱憤を溜め込んでいた。
今まさにざくろ丸のヒーロームーブが分家の棋士に力を与えている。
しばらくして宗眠が書斎から戻り、道場の棋士たちに大声で宣った。
「秀峰さんは、身内の不幸があって実家に帰る事となった!
残念だが、この勝負引き分けという事で、私、宗眠が預かる!
本日はこれにて解散!」
その場は騒然となった、怒号が飛び交い、宗眠に詰め寄ろうとする分家の
棋士を、本家の棋士が力まかせに制していた。
皆に収まれと言う手振りをして、ざくろ丸が静かに口を開く。
盤前に正座したまま、上目使いで宗眠を睨む。
「・・そこまでしてあなたが体裁に拘るのは何故ですか?
こんな正月の親善試合、勝ち負けなど関係無いじゃないですか、
僕は、将棋という世界で生きる者として今の本家の浅ましさを恥ずかし
く思いますよ、
・・天城の棋士たちの方が余程清々しい・・
・・もう結構です、僕は分家を出ます、
父上には申し訳ないが、こんな下らない将棋を指していては魂が腐り果
てる、
・・・後の事は木屋君に託します、頼みましたよ。」
そう残して引き留めようとする分家の棋士たちに一礼をして道場を出た。
分家の棋士たちも後を追う様にそそくさと出ていく。
宗眠は怒りの余り、厠に隠れていた鴻池を引きずり出して激しい暴行を加
えた。 鴻池の顔面は血に染まり、体はぴくぴくと痙攣を起こしていた。
「はあっ、はあっ・・誰か秀峰さんを医局に連れて行ってくれ、
くれぐれも・・分かってるな、適当に誤魔化すのだ・・」
宗眠は、そう言い残して母屋に消えた。
寝室に現れた宗眠に対して、一部始終を覗き見ていた貴美は宗眠の頭を抱え
込む様に抱き寄せた。
「可哀そうに・・可哀そうにな・・大助・・」
「母上・・分家の者がざくろ丸共々私に、酷い、非道い事をするのです・・
・・ざくろ丸の奴、恩を仇で返しました、決して許せません・・
必ず報いを受けさせましょうぞ。」
「ええ、ええ、そうですとも、あの阿保にきつく灸をすえましょうね。」
「はい、後悔する程に・・泣いて許しを請おうが絶対に許すまじ。」
「その意気や好し、
では景気付けに新しい薬で舞い上がりましょうね、大助・・・
源蔵親分が亡くなってから直ぐに、例の倉から持って来れるだけのお薬
を持って来たから当分は好きなだけ天国を味わえますよ、うふふ・・」
「母上は本当に素敵です・・ はあはあ・・
我慢出来ません・・ 早く大きく開いて見せて下さい・・
ああ・・なんて濃密な香りなのだ・・ こんなに湿って・・」
「焦らないで・・大助・・ああ・・ ・・ ・・ ・・・・・・・・・」
貴美の股間に激しく硬直した一物をねじ込みながら、宗眠はざくろ丸が我を
睨む目を思い出していた。
『あの目・・どこかで・・
・・そうだ、柳水・・ あやつの目、あやつの目に瓜二つだ・・
死んでまで俺に食ってかかるか、妖怪が・・なんと執念深い・・
は、はは、ははは・・ 消してくれるわ・・全部、全部!』
「大助、激しいの、激しいの! ああ、もっと!』
・・・・・・・・・・・・・・・・・
・・・・・・・・・
翌日の早朝、ざくろ丸が天城の道場に顔を出した。
朝餉の最中だったので、詰めている皆が意表を突かれて、てんやわんやの
大騒動だ。
惣次郎が、何事か問い詰めるのも無粋な気がして、一緒に朝餉を囲もうと
招き入れた。
南佐や悦子の心配を他所に実に和やかな朝餉で、皆が過去の遺恨など意に
介さぬと言った雰囲気が心地良いざくろ丸だった。
交流戦の話題が出る前に、先んじてざくろ丸が口を開く。
「・・僕は昨日、宗家を破門になったよ・・」
ぴりっとした空気が流れる。だが惣次郎には何となく分かっていた。
「大方そんな事だとは思ってたぜ、確かにあいつらの将棋は腐ってやがる
・・けどよざくろ丸、気を付けるんだぜ、盤上なら虫ケラみたいなやつ
らだがよ、いざ盤外となると平気で野獣の牙を剥く様な連中だ、棋士っ
てのは駒を打ってナンボの生き物だ、チャンバラじゃ勝ち目は無え、
命あっての物種なのさ。
・・悪い事は言わねえ、このまま此処にいちゃいけないのか?
丁度今、カラスが2羽しかいねえから、俺らにとっても都合は良いんだ
がね。」
皆が驚く中、小次郎と森が顔を見合わせて、ダメとばかりに惣次郎に詰め
寄る。
「そ、惣ちゃん、勝手に決めちゃいけねえぜ、俺らにゃ固い絆ってもんが
あってだな・・」
遮るようにざくろ丸が口を開く。
「ははは、惣次郎、君の度量の広さには驚かされるよ、
・・・きっと柳水もそういう所に惹かれていたのかもな・・
・・でも心配無用だ、今になってやりたい事も出来たんでね、これから
上方に向かうつもりだよ、ちょっとした伝手もあってね。
昨日の今日でまだ手紙も追っついてないけど、あちらで将棋道場をやろ
うと思うんだ、僕の将棋をもっともっと大衆に知ってもらいたいんだ、
きっと、それが僕の使命なんだと思うから、
・・惣次郎の気持ちは有難く取っておくよ、あっちで失敗したらその時
は頼んだよ、ふひひ。」
「おお、いつもの調子に戻ったな、じゃ門出の祝いだ、乾杯といこうや、
南佐、悦子、酒を持ってきてくれ、」
期せず始まった宴は一刻ほど続き、終始和やかなムードで皆がざくろ丸の
門出を祝福した。
「それじゃ、名残惜しいけど僕は一旦分家に戻って荷物を纏めてから出発
するよ、また会える日を楽しみにしてる、じゃあね。」
そう言うとざくろ丸は踵を返して天城道場を後にした。
見送りに出た南佐は、その後ろ姿に棋士として孤高を目指す者の逞しさと
清廉さを感じて、少し安堵する。
しかし、大量虐殺に関与した事実は拭い去る事は出来ない、殺された者の
魂を誰が慰めるというのか、怨恨や呪詛の類は確実に彼を追い詰めて行く
だろう。
後から出て来たエルモがざくろ丸の後ろ姿を険しい表情で追いながら低く
呟いた。
「あいつ、あの蝙蝠の化け物になった時とまるで別人じゃねえか・・
けどよ・・あたしは絶対に手前を許さねえぜ・・ 」
この日は、先の大事故で亡くなった者たちの合同葬儀に小次郎と森が行く
事になっていたので、ざくろ丸が帰った後、ばたばたと支度に追われる天
城道場だった。
町将棋の真剣師が数名犠牲になったこともあり、面識のある二人の心中は
穏やかでは無かった、その中に昨年の夏に箱根で戦った都築の名前があっ
た事も二人にとってショッキングな事として心持ちを重く沈ませる。
二人を送り出し、日が照っている内にと喪に服す意味も込めて道場の清掃
を残った者たちで粛々と済ませていると、森が慌てふためいて帰って来た
のだが、森の言葉に皆が驚愕する。
「た、た、大変だ! ざくろ丸が自害したって! 分家の奴が!
ど、毒を飲んだらしくて、も、もう・・ダメだって・・」
まさに青天の霹靂、この突然の訃報は天城を大きく揺り動かした。
続く




