南佐の歩 第三章 第七話 南佐 VS 柳水
境内中央に座している二人を取り囲む様に畳が敷かれ、その上に座布団が
載せられて行く。
今か今かと待ち構えていた観戦客が一斉に畳の上を埋め尽くし、更にその
回りを立ち見客が取り囲んだ。
神殿向かって右に、大きな立て板を建て、そこに湯屋から持ってきた大盤
が張られる。
流石はここいら一帯をシマにしている堂島組の仕事だ、そつなく速やかに
準備が整った。
当たり前だが組側からの仕切りが入って、本格的に賭場の御開帳となる、
懸賞金は上がりの3割を勝者が受け取ることで双方の合意を得た。
対局開始を前に、そわそわして落ち着かない兵衛をなだめるように小次郎
が声をかけた。
「父ちゃん、天城の親分が落ち着かねえんじゃ、南佐も堂々と戦えねえだ
ろうがよ、もう少しシャキっとしなよ、南佐なら大丈夫、あいつは強え
って、小橋分家の若造に遅れをとるマネはしねえよ。」
「でもよう、なんつーか不気味なんだよ・・あのざくろ丸って奴は、
俺は手合わせした事はねえんだが、惣次郎が小橋に通ってる頃に一度、
柳水と手合わせしてるのを見た事があって、そん時の雰囲気じゃ相当に
出来る感じでな・・」
「へえ、で、その対局はどっちが勝ったんだい?
まさかざくろ丸って訳じゃねえよな?」
「いや、それがさ、その対局の中盤で柳水が怒った様に対局を中断しちま
ってよう、結局どっちが勝ったか分からずじまいなのさ。」
「惣ちゃんはどうなんだい、ざくろ丸の事、少しは知ってるんじゃねえの
かよ。」
「俺は・・何とも言えねえんだ、ざくろ丸の奴、ずっと俺の事避けてやが
ったからな、棋譜なら何度か並べてみた事はあるんだけど、平手の棋譜
じゃねえから、実力は何とも言えねえ・・
只、柳水が、序盤・中盤・終盤どれも隙が無いとは言ってた様な気がす
るから、実力は無きにしも有らずって感じかな。」
「けっ、惣ちゃん、何だよそれ、結局分からねえのかよ、情報が無えと、
大きく南佐っちに張れねえじゃんか。」
惣次郎が小橋に足しげく通っていた頃に、小橋家と分家との交流戦が定期
的に行われていて、その際に顔を見た事はあったが、年の割に中々強いと
いう程度で気にも留めてなかったというのが惣次郎の本音である。
町将棋でも勝ったり負けたりと、どこにでもいる平凡な棋士にしか見えな
い体で、初年度の新人の域は出ていなかった。
だが、南佐を前にしての堂々とした雰囲気、以前からは想像もつかない、
同じ人物とは思えない程だ。
『南佐、絶対に舐めてたら駄目だぜ・・』
遡って、元日の朝 蔵人ラボ
20体分のコアの情報が1体分に纏められ、ソウルコードがイコライザー
用のコードに書き換えられる。
蔵人はコクーンの中に収容されている、ざくろ丸の素体に目を落とす。
『・・ざくろ丸、お前には悪い事をしたと思っている、分魂の実験台にさ
れたせいで、好きだった将棋に使っていたメモリの容量を減らされた上
ノンシリアル達の尻拭いにお前を使う羽目になってしまった・・
並列化を繰り返す内に柳水への想いが増幅されて、そこをヤーウェとカ
イに付け込まれたんだな、今なら分かるよ・・
だからやり直すと良い、今度はお前の大好きな柳水と一緒だ、あの娘の
将棋に関する思考アルゴリズムをお前に移植しよう、頑張って棋士とし
ての人生を全うするんだ・・
お前の新しい門出に祝福があらん事を。』
いよいよ開戦だ、どん、どどんと太鼓が打ち鳴らされる。
振り駒が宙を舞う、歩が三つ、南佐の先手だ。
互いに軽く一礼を交わす。
大きく息を吸って南佐が76の歩を突いた、
合わせる様に34歩とざくろ丸が突く、南佐が小考したのち26歩。
真冬の境内だが、そこかしこに置かれた火鉢と密集した観客のお陰で、
さほど気温は低くない、それでも勝負が長引けば客の不満も出よう、
なので持ち時間は水時計で約10分、それを使い切ったら一手を数え
十、約30秒未満で指さなくてはならない、よくある真剣と同じだ。
読み上げは、朝からお好み対局で人が集まらず、暇を持て余していた
森が担当する。
澱みなく手は進む、南佐は合い掛かりを選択した。
お互いに時間は殆ど使っていない、ほぼノータイムだ。
「南佐、やけに威勢が良いじゃないか、何か良い事でもあったのかい?
例えば・・
惣次郎の物を受け入れたとか、ね、うふふふ・・」
ざくろ丸は唇を殆ど動かさず、南佐にだけ聞こえる様に喋った。
南佐も同様に喋る。
「随分と余裕なのですね、下種ここに極まれりと言わせて下さい、
盤面に集中せずして私に勝とうなど、甘すぎて吐き気がします。」
「おっと、これは失礼、ですが集中していますとも、君が強い事は十分に
理解しているんでね、
だから君も存分に力を奮ってもらいましょうか。」
「言われるまでもなく、徹底的に叩きのめすまでです。」
「それでこそ、だね、ふひひ。」
天城道場で留守番をしているエルモと志津は、夕刻に帰省から戻る康太
と、康太より2才年下の御剣弥五郎を迎える準備をしていた。
康太が常陸から戻る際は、必ずと言って良い程、沢山の野菜を持って帰
って来るからだ。
用人が牛を引き、荷車一杯の野菜を帰省帰りのついでに土産と称して届
けてくれる、なんとも義理堅い。
弥五郎は御家人株を持つ酒屋の三男という事で、今年は酒の心配も無い
という、志津にとっては家計大助かりで、歓待にも力が入る。
「悦ちゃん、ぬか漬けの樽を倉庫から出して来ておくれ、あと鉈もね。」
「あいよ、任せて、」
なんとも息の合ったコンビネーションである。
倉庫に入って樽の上に鉈を置き、志津の待つ台所に向かおうと玄関を横切
ると、表の木戸正面に立つ男が見えたので、てっきり年始回りのお弟子さ
んかなと、立ち止まって軽く会釈をした。
だがエルモはその男の顔を見た瞬間硬直し、桶と鉈を落としてしまう。
男は仮面を付けていた、見る度に忌まわしい記憶が蘇る。
ー後藤天晴ー
足がすくむ、決して暴力的ではない佇まいが、却って恐ろしくもある。
エルモは落ちた鉈を拾って身構えた。
「くくく・・あけまして、おめでとう、
元気そうで何よりだね。
そう身構えなくても良い、別に取って食おうって訳じゃないないんだ、
ポナンザが今、天満宮でざくろ丸と真剣をやっている事を伝えておこう
と思ってね、
それとその結果に関わらず、私がポナンザと、来る2月の14日、湯屋
玉姫之湯で戦う事が決まったのでね、その連絡がてら立ち寄ったまでだ
よ・・くっくく・・」
「ああ、そうかよ、そいつはご丁寧にどうも、
ざくろ丸がどんな打ち手か知らねえが、そんなどサンピンに負かされる
ポナちゃんじゃねえよ、手前らノンシリアルがイコライザーを何人連れ
て来ようが無問題さ、
ただ、手前があたしにしたように、将棋盤の上でポナちゃんに何かしよ
うってんなら、今度こそ命がけで止めてやっからよ、覚えときな、」
「くっくく・・何ともご挨拶だね、
・・それじゃポナンザに伝えておいてくれよ、エルモ。」
「一昨日来やがれってんだ、チクショウめ!」
台所から志津の声がする。
「悦ちゃーん、どうしたのー、誰かお客様ー?」
「お母さまー、何でもないですー、すぐに行きまーす!」
エルモが振り返ると天晴の姿は、もうそこには無かった。
天満宮の盤面は互いにけん制しながら、膠着状態に入っていた。
駒を先にぶつけた方が劣勢に落ち入りそうな局面なので、迂闊に仕掛け
られないのだ。
中央に位を張る後手の言い分に対して、端を突き越して、後々の端攻め
を匂わせ、先手も簡単には抑え込めませんよと反発する。
正に一触即発だが、この短時間で指すには相当の読みと度胸が必要だ。
大盤の対面で、惣次郎は何とは無く既視感=デジャビュ=に襲われた。
何かずっと前に見た様な、不思議な感覚、それは小橋に足しげく通って
いた、あの懐かしい時に感じていたもの、
柳水と最後に指した将棋が眼前に浮かび上がる。
そして、その時の柳水の涼やかな姿が思い出されていた。
天王山に位を張る所や、あえて端を受けず、飛車を浮いて4段に利かす
指し回しが、とても懐かしく感じられるのだ。
「小次郎さん、直接盤面が見たいんだ、肩車頼めるかい?」
「お、おうよ・・でも何だってまた・・」
「良いから、早く!」
渋々、小次郎は肩車に応じた。
それにしてもその体格のせいか重い、唸り声を上げて腰を上げた。
惣次郎の目にはっきりと対局者が映る、そこには柳水と南佐がいた。
いや、居るように見えたというのが正しい。
ざくろ丸が背筋を伸ばして、顎の下に拳を当てている佇まいが、時を逆行
させる。
ゆっくりと盤面に手をかざしながら伸ばし、駒を中三本の指で挟み、マス
目の下段に揃える様に、そっと置く癖や、駒音は立てず、滑らせながら動
かす仕草が、柳水そのものだった。
『は、はは・・柳水、お前はこんなとこに生きてやがったのかよ・・
お前の将棋は簡単にくたばるようなもんじゃねえよな、
やっぱお前はすげえ奴だ、南佐相手に全然引けをとってねえ。
・・・ざくろ丸・・お前も柳水を愛してたんだな、
あの頃は分からなかったけど、今ははっきりと分かる、柳水、お前の将
棋はこんなにも人を魅きつけるって事が・・
・・嬉しいな・・ ざくろ丸、お前には少し妬けるけど、柳水の事頼ん
だぜ、あいつを棋士の高みへ連れて行ってやってくれ。』
「そ、惣ちゃん、も、もう駄目だ、ひ、膝が、あああああああ!」
「お、お、ちょ、ちょ、不味いってえええええええ!」
惣次郎と小次郎はその場でひっくり返り、観客の嘲笑を浴びた。
手は進んでもう終盤に差し掛かっていた、形勢はやや、ざくろ丸に傾いて
いる。
南佐の玉が執拗に小びんを狙われて、受けを優先せざるを得ない状況だ、
端攻めで作った拠点はあるが、寄せる為の縛りを入れる事が出来ない。
『強い・・この時間の無い中で、最善を間違えずに指してくる・・
形勢的にはもう35%ー65%くらいの差で負けている筈、
ここからは強気の勝負手をひねり出さないと勝機は無い。』
南佐は思い切って、森の数える声を聴覚から遮断する、
盤面に脳内全ての計算処理を投入した。
30秒の猶予はあるものの、生身の肉体で読める量は限られている。
ー時間が足りないー
森が目を泳がせながら九つを読んだところで、南佐は打開の術を見出せな
いまま、角筋を虎の子の香で止めた、結局は歩の餌食になってしまう香だ
が、時間稼ぎとしては、もうこれしかない。
「ふ、ふひひひ、日和ったね、日和ったね南佐ぁ、
温いよ、温すぎる、僕が眠たくなるくらいにねえ、」
ざくろ丸は容赦なくノータイムで指し続ける。
決して間違えられない受けの南佐に対して、一本道の攻めで優位を保てる
ざくろ丸の方が楽に時間を使える、両者30秒将棋になってはいるが、精
神的な余裕が天と地ほども違う。
大盤を見るに、将棋の心得が有る者ならば、大体の形勢は分かる程の差が
盤面に表れていた。
見かねた小次郎が惣次郎の元に来て、小声で確認する。
「惣ちゃんよ、升平にこっそり合図を送って読み上げを少し遅らせるって
のはどうだい? このままじゃざくろ丸に押し切られちまうぜ、」
「小次郎さん、そいつは余計なお世話ってんもんだぜ、
南佐はちっとも諦めてなんていねえよ、それどころかここからでも勝つ
気満々さ、まあ見てなって、絶対に何かしら捻り出して来るから。」
惣次郎の読みは概ね当たってはいたが、局面を打開する程の手は捻り出せ
せずにいた。
毒饅頭を食らわせる様な、断末魔の指し手は、ざくろ丸に屈したと認める
事に他ならない。
南佐は、かつてなく追い詰められていた。
これまで、色々な負けを経験してきたが、先手番を貰った上にイキり倒し
た挙句の果てに敗北するなど、無様を通り越して万死に値する。
『・・情けないっ・・情けないっ・・
私の将棋はこんなにも脆弱で未熟だ、なのに・・あんな虚勢を・・
只の蛮勇に過ぎなかった、あの様な人の皮を被った化け物に負ける筈が
無いと・・』
森の数える声が遠くに聞こえた、目に涙が溢れてくる。
もう投了しようかと手を駒台に伸ばした時、心の奥底から湧き上がる魂の
鼓動を感じた。
『・・無様でも良い、最後の最後まで指すんだ、』
震える唇を噛み締め、ぐしゃぐしゃになった顔に両手を張った、
そして大きな駒音で、ざくろ丸の玉を遠目で睨む角を天王山の裏側に打ち
込む。
ざくろ丸が一瞬何事かと盤を凝視した、
だが、すぐにこの手が詰めろではない事に気付き、盤面の様子を再確認す
る。
『・・・ふふ、ふひひ、何だ悪あがきでも無いじゃないか、
諦めちゃったか~
まあ仕方ないね、君みたいな雑魚が柳水に勝てる筈ないからね、
さあ、引導を渡しますかねえ~、ふひひ』
「残念だが、お前も惣次郎も所詮その程度の器なのさぁ!」
ざくろ丸が駒台の金を取り、南佐の玉の退路を断つ。
受け無しの完全必至が出来上がった。
境内の客がざわつき始めた、ため息や罵声の類も飛び交う。
森も数える声に元気が無くなっている。
だが南佐は読みを継続する、詰みは無いとしても、読まずにはいられ
なかった。
南佐の鼻から血が滴り落ちる、王手はかかる、王手が続く内は負けで
は無い、その気持ちだけで読みを継続した。
・・・・・詰まない・・・・・
「それでも!」
南佐が王手をかけた、もうこれしかない一手だ。
その場にいる誰もが形作りだと思っていただろう、南佐ですら、詰み
が無い事が分かった上での王手だ。
ざくろ丸は高笑いをしながら南佐の顔を覗き込む。
「ふひひひ、詰まないよ、僕の玉、詰みませんよ~、
ぎゃーはっはー! まだ粘るのかなぁ~ あー恥ずかしい、
お客さんも寒いんだから、早く投了してくだちゃいねえええ、」
ざくろ丸がひらりと玉を躱した。
ー瞬間、ざくろ丸は硬直するー
見えてしまったのだ、さっきまで詰まないとタカを括っていた自玉が
実は非常に危険だという事が。
『ひ、ひ、落ち着け、落ち着け、どうせこの女は見えちゃいない、
落ち着け、大丈夫、だいじょうぶひ!』
ざくろ丸の思ったとおり、南佐には見えてはいなかった。
只、諦められず玉を追いかけているに過ぎない。
『・・暗い・・暗い闇の中を歩いている様だわ・・
読みが同じ所をどうどう巡りしているだけ、何も見えない・・』
惣次郎と小次郎、兵衛の三人は大盤の前でうなだれていた、もはや
打つ手無しの盤面が南佐の投了を予感させる。
「お、おい惣ちゃん、不味いって、ざくろ丸の玉に詰みは無えのか、
本気で読んでくれよ、
詰みがあるならどうにかして教えてやらねえと、」
「やい、小次の郎さんよう、詰みがあるとしてどうやって教えるつも
りなんでえ、まさか恋文よろしく手順をしたためて南佐ちゃんのと
こまで持って行こうってんじゃねえよな、はっはは、
つか惣次郎よ、何とかしてくれって、」
「・・いや、さっきから読める手は全部読んだが詰みはは無いぜ、
けど、何か不思議な感じがするんだ・・それが何か・・
・・!! ちょっと小次郎さん、また肩車してくれよ、早く!」
「ええええー、またかよ、頼むぜ惣ちゃん、も、もう腰が・・」
「つべこべ言わずに早く!」
今度は兵衛も手伝って、なんとか肩車に成功した。
惣次郎の眼前に二人の姿が見える、
南佐は虚空を見上げて、苦悶の表情だ、もうあと数手も指せば投了す
るだろう。
ざくろ丸は、やや前のめりになって小刻みに体を前後させている。
「小次郎さん、下ろして、早く!」
ぎゃあっと言う声とともに肩車が崩れ落ちた、そして惣次郎が兵衛の
手を引っ張って南佐の反対側へ駆け出して行く。
「ひゃあっ!惣次郎おおおおお、待て、待ってえええええ!」
半ば兵衛を引きずる様に対面側に回ると、強引に兵衛を四つん這いに
させ、その上にひらりと飛び乗った。
「ぎょええええ! 惣次郎、重い! 痛い! 重いいいいいい!」
惣次郎が観客から頭二つほど顔を覗かせた、南佐の顔がゆっくりと前
に向き直る。
南佐の目に、くっきりと赤い髪の少年が映った。
その少年は大きく拳を天に突き上げて、にっこりと微笑んだ。
『は、はああ・・惣次郎・・!?
あなたは、この真っ暗な盤面に光はあるって言っているのね!』
南佐は袖で涙を拭い、鼻をかんで、大きく深呼吸した。
この一手の先に光明があると分かれば読みの方向が定まる。
森の数えは七まで来ていた、残り約10秒に全てを賭ける、
王手の連続からの詰めろ逃れしか生きる術は無い。
森が十を言いかけた刹那、南佐が駒台から歩をつまんで玉頭に叩きつけた。
ざくろ丸の顔面がみるみる青ざめて行く。
『さ、ささ、さっき自陣に手を入れておけば間違いは無かった・・
い、いや、そうじゃない、あの角、角がふわっとした手に見えて実に効果
絶大になっている・・
気付いているのか、10手先の空き王手からの金抜きに・・・』
ざくろ丸は精一杯余裕のフリで歩を玉で取った。
しかし冷や汗で手はぐしょぐしょになり目が泳いで焦点が定まっていない。
観客も、ざくろ丸の変調に気付いて騒然となる。
形勢はまだ、ざくろ丸の勝勢で揺るがない、確かに逃げ方を間違えば詰みは
無いし、ここまで来てざくろ丸が間違える筈がないと皆思っていた。
そこに来ての、この焦り様はどうだ、さっきまでの南佐と入れ替わった様に
追い詰められて見える。
さっきまでの勝ち札が只の板切れに変わる事を恐れた観客から、声援がざく
ろ丸に送られる、負けじと南佐に張った客からも声援が飛ぶ。
いつしか声は揃い始め、大きな波動へと形を変えた。
《わーっしょい! わーっしょい! わーっしょい! わーっしょい!》
小次郎も勢い、この流れに身を任せて声援を送る。
横で神妙な顔をしていた兵衛がここぞとばかりに声を張り上げている、正に
鬼気迫るとはこのことだ。
「父ちゃん・・まさか・・南佐っちに今日の売り上げ全部張ったんじゃねえ
よな・・?」
兵衛は聞こえているのに、ガン無視を決めて声援を送っている。
『やべえ・・こりゃあ南佐っちが負けたら、俺も連帯責任で母ちゃんからの
仕置きを食らっちまう・・ヤベえよ、ヤベえよ・・」
小次郎も気迫が漲った声援を送る。
惣次郎は腕を組んでまま、仁王立ちで笑いを嚙み殺している。
『南佐、ここからだぜ、必至を回避出来ても、その後は泥仕合だ。
楽しくなって来たじゃねえかよ・・なあ、これが将棋の醍醐味って言っ
てたよな柳水、本当にその通りだぜ。
お前と指した昇段試験の最後の一局も、こんな楽しい将棋だったな、
見なくても分かるさ、ざくろ丸が今どんな顔して指しているか、
絶対お前と同じでキラキラ輝くような顔してる筈さ。』
盤面ついに、南佐が詰めろの要の金を外す事に成功した。
しかしここからざくろ丸の猛攻が始まる。
ギリギリの所で的確な受けを繰り出して詰みを回避していく南佐に対して
一切の緩手無しに怒涛の攻めを続けるざくろ丸、気付けば、南佐に必至が
かかってから60手が過ぎていた。
そして、とうとう終局が訪れる。
南佐の玉が19に潜り込み、詰みが無くなったところで、ざくろ丸が投了
した。
持将棋はないので相入玉を目指す意味も無く、自身の玉は風前の灯なので
棋譜を汚す事を嫌っての投了だった。
夕闇に包まれた境内に歓声が響く、揺らめく松明の明かりに照らされて、
桟敷の上で向かい合う二人が何とも美しい。
驚いた事に、この終局前小一時間の間に、ざくろ丸の髪は、白髪と化し、
それに加えて、ガラリと面持ちも変わり、憑き物が取れたかの如く穏やか
な表情になっていた。
先に口を開いたのはざくろ丸だった。
「僕の・・僕の将棋は贖罪に足りえただろうか?」
「ええ、十分贖罪に値する将棋でした、
私の方こそ粗末な内容で棋譜を汚した事を詫びさせて下さい。
本当に申し訳ありませんでした。」
「僕は、その言葉を聞けて、心から感謝するよ、
今、僕の心は清しく、爽やかだ、もう何も憎むこと無く、何も恐れる
事は無い。
だから、君にも、惣次郎にも、
ーありがとうー 」
そう言って、ざくろ丸は健闘を称える観衆の中を参道に向かった。
参道を過ぎたあたりで、ざくろ丸は惣次郎に呼び止められ、足を止める
「よお、ざくろ丸、6年ぶりになるかな、
正直お前が、あれだけの将棋を指せるとは思って無かったぜ、」
「ふふ、君から声をかけてくれるなんて光栄だね、
でも僕は君が嫌いだよ、察してくれるよね、
柳水から愛された、唯一人の棋士なんて、最高かよ。
だから僕は、君に負けたくない、今棋戦は三段位から君に挑戦出来なか
ったけど、来棋戦では絶対に君に辿り着いてみせる、
それまで君は、誰にも負けないで欲しい、どちらが柳水の想いを受け継
いだのか、決着を付けようじゃないか、
そして彼女が果たせなかった夢を、名人になった君を破って、
僕が、僕が叶えようと思う。」
「望むところだぜ、ざくろ丸!」
二人は互いに踵を返して歩き出した。
惣次郎が境内に戻ると、勝利を喜ぶ小次郎や兵衛、森に南佐がもみくちゃ
にされていたので、惣次郎が割って入ってやったのは良いが、今度は南佐
が惣次郎に抱き着いたまま泣きじゃくるので、惣次郎はいささか照れ臭か
った。
「わああああん、惣じろおおおおお、ありがとね、ありがとね、わあああ
ああん、ありがとおおおおお、」
「うん、うん、分かったよ、分かったから泣き止んでおくれよ、こっちが
恥ずかしくなるからさ、な、」
頭をぽんぽんと軽く撫でて、顔を上げたところで、手ぬぐいで涙を拭いて
やった。
「ぐひっ、ありやとやす・・ありやとやす・・」
「でもよう惣ちゃん、
何であの局面で詰めろ逃れがあるって分かったんだい?」
「あ、ああ・・別に俺が読み切ったって訳じゃなかったのさ、
南佐が玉頭に歩を叩いた後、そいつを躱してからのざくろ丸の仕草が、
やっちまったって感じだったからな、ざくろ丸には見えてたんだと思う
ぜ、詰めろ逃れの筋がさ。」
「へぇ~ざくろ丸にそんな癖があったとはね、こりゃあ我が息子のお手柄
って訳だ、ひっひっひ・・」
「そういつは違うぜ親父殿、実の所、あの将棋は九分九厘、南佐の負けだ
ったんだ、
決め手は天王山の歩の内側から打った角なのさ、
あれがぼんやりした手に見えて、その実怖い手だった事に、ざくろ丸も
その時は気付けなかった、
でも軽視して、つい必至をかけちまったというオチなんだ。
そして、そこから諦めず詰みを目指した南佐があってこその勝利さ、
本当に良くやったぜ、南佐。」
「あり・やとやす・・うわあああああああん、惣次郎、愛してます!」
抱きついたまま離れない南佐に、苦笑いしながら惣次郎は、柳水と最後に
指した一局での柳水の仕草を思い出していた。
『ああ・・思い出すぜ、俺が苦し紛れに放った遠見の角を、読み切ったと
ばかりに無視して、お前は詰めろをかけたよな・・
その後、前かがみになって小刻みに体を揺すってたっけ、
初めて見たんだ、お前が焦ってる所をさ。
その後、感想戦までずっと、負けたのに爽やかで素敵な顔してたよな、
・・へへ、柳水、ありがとう、やっと吹っ切れそうだぜ。
俺、名人になるよ。』
とっぷりと暮れた天満宮の境内は、興奮冷めやらぬ人たちの喧騒が続き、
初夢の如き、素晴らしい対局の余韻を楽しんでいた。
続く




