南佐の歩 第一章 第二話 夏の雪(後)
惣次郎が天城の家に戻ったのは、東の空も白み始めた明け方近くだった。
床に就いてからも、柳水を抱きしめて口づけた時の感触を思い返しては切なさ
が込み上げて、とても寝れるような状態では無く、頭の中で自分が出来る事を
一生懸命に考えた。
考えた末に辿り着いたのは柳水の余生を共に過ごすという、
余りにも青い、そして初々しい決意だった。
朝餉の前に兵衛が顔を洗っているところ、惣次郎が声を掛けた。
「親父殿、柳水師匠の事で話がある。」
兵衛は真剣な眼差しの惣次郎を見て気取った様で、朝餉を済ませたら茶室で
待っているよう促した。
野次馬根性丸出しの小次郎は兵衛から一喝され、すごすごと客間に戻り、常陸
出身でここ半年ほど詰めている新庄康太を捕まえて、詰将棋の稽古を始めた。
兵衛が茶室に入ると惣次郎は盤を前に下座に座り、待ち構えたように言った。
「親父殿、一局指してくれないか。」
兵衛には惣次郎の決意がどのような物なのかは、なんとなく分かっていたので
兵衛から切り出した。
「なあ惣次郎、人気棋士になって甲斐性があると言ってもお前はまだ11だ、
元服はまだまだ先、そんなお前が小橋の家の女御をどうしようってんだよ、
お前には言ってなかったが柳水はもう永くは生きれないぜ・・、
それでもと食い下がって宗桂の爺様に頼んでみたところで、貴美は絶対に許
すまいて、下手すりゃ破門になっちまう そしたら天城の家はお終いだ、
ここは事を荒立てずに、腹の内に気持ちを納めてはくれねえか。」
言いながら兵衛に、かつて天城が小橋の騒動に巻き込まれた時の記憶が蘇る。
兵衛27歳でようやく二段昇段を果たすが周りの目は冷ややかな物だった。
天城家は豊臣の時代から幕府お抱えの将棋7人衆に名を連ねていた言わば名門
の家柄、それが今や落ちぶれ果て、かつての栄華は見る影もない。
若くして才ある者は皆、小橋・後藤の家に囲われてしまい、天城の名を持って
名人を目指そうなどという奇特な輩はいる筈も無かった。
その上、性格も温和な兵衛には生き馬の目を抜く様なこの修羅道は全くもって
肌に合わず、先祖代々続いてきた家名を守るので精一杯の有様だった。
幕府からは細やかではあるが家族二人分の食い扶持が与えられていて、道場の
月謝などと合わせる事で母との暮らしを賄っていたが、それ以上は望むべくも
なく、日々平凡に棋士として生活していた。
そんな折、兵衛の元に縁談の話が舞い込んで来た、相手は十一代宗桂の娘
貴美だ 小橋の道場に行く度にお茶や菓子を出してくれたりと、兵衛の事を
慕っているのが傍目にも分かる程、贔屓してくれていたので兵衛もまんざらで
はなく、連れ立って浅草や上野に出かけては貴美の心を和ませていた。
そうこうと日々を重ねていく内に幾度となく契りを結ぶも小橋のお家事情も
あって縁談と言う程に深く付き合うことは出来なかった。
しかしながら、この降って沸いたような縁談に母は色めき立った。
落ちぶれた家の復興に小橋の娘との縁談はまたとない機会とばかりに兵衛を
けしかけた。
兵衛は半信半疑ではあるものの、普段の細々とした暮らしの中、張りを失った
母に孝行したい気持ちで縁談に乗る事にした。
両家の顔合わせも終わり、いよいよ結納の日取りでも決めようかといった矢先
兵衛が懇意にしている湯屋「富士乃湯」で三助をやっている光一が何やら浮か
ぬ顔で兵衛を訪ねて来た。
「兵衛の旦那、今日は番頭から言伝を持って来たんだが・・3日後の祭りの日
に1局指しちゃ貰えねえかって・・懸賞も良いんで悪い話じゃねえとは思う
んだけどよ・・。」
「おいおいどうしたよ、そんなに景気の悪い顔して、男前が下がっちまうぜ
光一やんんとこの源蔵さんには日ごろから世話になってるのに俺が断る訳
にはいかねえじゃねえかよ、しかもこちとら慶事が控えてるんだ、指さね
えなんて縁起が悪いってもんだ。」
「けどよ・・相手がな、後藤天晴の野郎でよ、懸賞も大半は三島一家が出す
ってんで勝っても負けてもアヤがつきそうで・・受ける受けねえは旦那が
決める事だから何だけどさ・・。」
「そうかい、天晴と三島一家かい 確かに良い噂は聞かねえな・・
まあしかしカタギの命まで取る事はしねえだろうから一つ、その勝負
乗らせてもらうぜ光一やん。」
対局当日の朝に、貴美が激励にやって来て、切羽詰まった面持ちで
「必ず勝って下さいまし。」
と言うなり早々に帰ったのが気掛かりではあったが、その時は女子故の心配症
が出たのだと思い、気を取り直し身支度を整え湯屋に向かった。
湯屋は昼前だというのに大層な賑わいで、天晴の人気ぶりが伺えた。
男湯と女湯を仕切っている衝立を外して中央に畳2畳分の桟敷が用意してあり
二階の座敷がそれを取り囲むように作られている、現代風に言えばアリーナだ
天井には特注のガラスを何十枚と並べた窓が作ってあり、日中はランプが要ら
ない程に陽光を取り込んでくれる。
将棋盤を前にして兵衛と天晴が向かい合う、不敵な笑みを浮かべる天晴に一瞥
を入れると兵衛が飛車先の歩を突いた。
持ち時間は水時計で約一時間、水が落ち切ったら数え十の内に指さなくては
ならない。
兵衛は得意の横歩取りから中住まいの陣形で徐々に戦局を優位に運んで行っ
た。
傍目には良い勝負に見えるが対局者からすれば形勢は兵衛にやや傾いていた。
「今日はどうしたってんだい、天城の 中々に鋭い手を指すじゃあないか
名人の娘を貰うのが相当に嬉しいと見える。」
周りには聞こえない様に小声で天晴が嫌味をつけた。
「手前、ひがんでるなら済まねえが他所でやってくれよ、こちとら出がけに
貴美から必ず勝つようにって激をもらってんだ、手前の言葉に惑わされて
負けたとあっちゃ男が廃るぜ。」
「おうおう威勢のいい事で。」 薄ら笑いを浮かべて天晴が捲し立てる。
「その貴美がお前さんにだけ股を開いたと思ったら大違いだぜ。」
「なんだと!手前いい加減な事言ってケチをつけるんじゃねえぞ!」
半ば喧嘩腰で返した途端、胴元の三島一家親分・三島権蔵が客の間から桟敷
の上に踊り出た。
「お集りの皆さん、この勝負、実は懸賞以外にも大きなものを用意してます
実はこの二名、一人の女御を巡っての恋敵であります!
しかもその女御は名人宗桂の一人娘というではありませんか、そこで考え
たのです、名人の娘というからには将棋でカタをつけたら良いのではない
かと!」
湯屋の中は大きな歓声で埋め尽くされた、客は色めき立ち、勝負の行方を
口々に予想し、真っ赤になって怒鳴り合っている。
兵衛は、阿鼻叫喚の渦中、只々自分の浅はかさを痛感していた。
何か可笑しいとは感じていた。
この画を描いたのは間違いなく天晴で、大方のところ天晴が貴美との交際を
宗桂に認めさせる為に、まんざらでも無かった兵衛をアテ馬に使ったのだ
どちらにせよ祝言には辿り着けないというオチなのだ。
悔しさと怒りで盤面は揺らいで見えた、次が自分の手番かも忘れていた。
何としても勝たなければ棋士として世間的に終わってしまう、
母親に何と釈明するのか・・ぐるぐると悪い思いが渦を巻く。
「さあさ、皆さん静かに願いますよ、では改めて勝負再開で御座います!」
騒ぎを聞きつけた宗桂が貴美を引っ張って湯屋に駆け付けた時には既に
勝負は決していた。
兵衛は負けた、良い将棋ではあったが水時計にまで細工されては終盤の難解
な局面を読み切れなかった、後の祭りである。
大半の客が帰って、片付け始めた湯屋の隅で呆然としている兵衛を見た宗桂
は言葉を掛ける事も出来ず只、立ち去った。
事の顛末はこうだ、天晴と兵衛を二股にかけていた貴美は、いつしか色男の
天晴に気持ちが大きく傾いて行った。
南蛮渡来の妙な薬を常用し始めてからは完全に天晴の虜になってしまい、
薬欲しさに三島一家から借銭までし始めた 天晴は小橋と血縁を作って名人の
座を奪う気でいたので、ここまでは絵図通りだったが、肝心の宗桂が天晴には
娘を嫁がせたくはないと首を中々、縦には振ってくれなかった そこで偽の
縁談を天城に持ち掛けて乗ってきたところで、公衆の面前、奪い取る算段だっ
たのだ。
もちろん天晴は将棋に勝たなくてはならない、だが100%負ける要素の無い
仕掛けが施されていた。
しかも天晴の実力は底が知れず、常に三味線を弾いて相手を食いつかせてから
叩きのめすという事をやってのける、兵衛の力量では到底及ぶ処では無かった
のだ。
翌日の朝から宗桂が詫びを入れに来て、破談の運びとなった。
それからずっと母親は床に伏せたきりになり、季節が変わる頃には胸の病から
高熱を出して、失意の内にこの世を去ってしまった。
苦い思い出が兵衛の胸中に蘇り、振り払うかの様に惣次郎に問いただした。
「言っちゃあなんだがこいつはお前と柳水だけの問題じゃねえ、天城と小橋の
今後の在り様にも関わる問題だ、お前はこれ程の問題事を引き込んで結果
手前で責任取れるってのかい? ・・・。」
「・・・親父殿、済まない、それでも、俺は柳水師匠の力になりたい
なると決めた、だから親父殿の力を貸してくれ、なんとか俺を一端の男に
してくれ。」
宙を仰いで兵衛は思った『因縁を断ち切る・・ってか』 大きく溜息をついて
既に勝負の決している盤面に駒台の駒を流した。
「参ったよ降参だ、覚悟は伝わったぜ 俺も腹を括るしかねえなあ。」
惣次郎の顔からはち切れんばかりの笑顔が零れる 。
庭の陽だまりに遊ぶ雀がチュンチュンと鳴いた。
翌朝、兵衛と惣次郎は連れ立って小橋の道場に向かった。
道すがら、以前貴美が贔屓にしていた団子屋でみたらし団子を買って行こうと
立ち寄った所で小雨が降りだした、軒先で空を見上げている兵衛に店主が声を
掛けた。
「久しぶりじゃねえか兵衛さん、ここ何年か店に来てくれなかったが、・・
ああ済まねえ忘れてたよ、あんときは災難だったね。」
バツの悪い兵衛は苦笑いをして店主に挨拶をする。
「やあ、本当に御免よご無沙汰しちまって、あれから色々あったのさ・・
ところでちいと傘を貸しては貰えねえかな、道場の帰りに返すからさ。」
「小橋の道場かい?いいよ、傘を持ってくるから待ってな。」
傘を持ってきた店主が思いついた様に言った。
「そういや昨日の朝方、道場の前に籠が停まっててよ、詰めてる弟子とか表で
見送ってたっけ 誰が乗ってるかは見えなんだがね・・。」
「そうかい、そいつは俺にも分からねえな・・。」と言いつつ兵衛は惣次郎と
顔を見合わせた。
予感は当たっていた 道場の何処にも柳水の姿は無かった。
客間に通された二人を申し訳なさそうな宗桂が出迎えた。
事の顛末を聞いた兵衛と惣次郎はここぞとばかりに切り出す。
「名人、たっての願いだ、天城で柳水を引き取らせてくれねえだろうか、
あと何年生きるか分からない娘を家に迎えるって些か酔狂な話だと思うが、
惣次郎はもう腹を括ってテコでも動かねえ 俺もこいつに気圧されちまって
何だか可笑しな塩梅でさ、一切合切は天城で面倒見る、どうか良しなに。」
宗桂は茶を口に含んでぐいっと飲みこんだ。
「実はの、儂もそうしてもらうのが一番良いと思っておった じゃがの貴美の
承諾が無ければ、今度こそ修羅場じゃ、貴美を説き伏せられるならば願いも
叶おう・・ならば。」
そう言って隣室の弟子に貴美を呼ぶよう促した。
客間に入って来た貴美は心なしか笑みを浮かべてるよう見えて、兵衛も少し
安堵したが、来訪の意図を告げた途端に貴美の様子が一変する 激高し、声を
荒げて惣次郎を罵倒し始めたのだ。
これには宗桂も堪りかねて貴美の頬に平手を食らわせた。
ビシっと言う音と共に貴美の顔が横を向く、貴美は頬を手で押さえながら、更
に敵意を剥きだした顔になった、刹那、惣次郎が前に飛び出し土下座した。
「俺の我儘な願い、どうか聞き届けて下さい!ただでとは言わない、
望むなら腕の一本ぐらいは差し出そうと覚悟して来ています、どうか、
どうかお頼み申します!」
暫く無言で惣次郎を見据えていた貴美は諦めた様子で、鼻で笑った後、
「勝手にすれば良い。」と言って部屋を出た。
兵衛と惣次郎は顔を見合わせ、今回の交渉が成功に終わった事を喜んだ。
宗桂が早速、柳水宛てに手紙を書いてくれて、惣次郎が自ら伝馬町の文預かり
に持って行った。
『師匠、どんな顔するかな・・喜んでくれるに違いない、きっとそうだ。』
柳水を乗せた籠は甲州街道を進み、調布で日暮れを迎えたので、宿場町で一泊
してから八王子に向かう事になった。
道中悶々としていた柳水だったが宿の風呂に浸かってようやく自分の本当の
願いに気付いた。
『籠を担いでいる方には申し訳ないけど江戸に引き返してもらおう・・幸い
手元に二両ある、これでなんとか行けるところまで頼んでみよう・・。
どうしても惣次郎に会いたい、会ってどうなるかは分からないけど、
このままだと一生会えない・・。』
階段を上がり、部屋と部屋の間に走る廊下の一番奥に柳水の部屋がとってあり
普段は5人程で泊まれる程の部屋を貸し切って貰っていた。
階段を上がったところで籠持ちの話し声が聞こえて足を止めた、少し興奮して
声が荒くなっている風で障子越しにはっきりと聞こえる。
柳水はそっと聞き耳を立てた。
「・・・・・しかしよう、小橋の奥方も無茶な事言うぜ、八王子に着く前に
娘をどこぞの山に捨てて来いだってよ。」
「おうさ、銭は貰っちまったものの何か気の毒でな・・三島んとこにある博打
の借銭を肩代わりしてくれるってのも有難てえ話だし・・。」
「だがなあの娘、捨て処によっちゃあ、間違いなく死んじまうぜ、まあ生きて
奉行所に駆け込まれても困るってのもあるけどよ。」
これを聞いた柳水は音を立てぬよう気を付けながら急いで部屋に戻って布団に
入り、寝たふりをして時を待った。
案の定、片割れの一人がそっと障子を開けて様子を見に来た。
『奥様は私を殺すつもりだったの・・ああ・・どうしよう、明日籠に乗って
しまったら何をされるか分からないし、今夜の内に騒ぎを起こしても・・』
良くない結果を想像して柳水は焦った、頭の中はどうにかして江戸に戻る事で
一杯になり、ばたばたと身支度を整える。
忍び足で廊下を抜け階段を降り、番台の前に人がいない事を確認して足袋に
手を掛けた時に番頭から声をかけられた。
「どちらに行きなさるんで?外は真っ暗ですぜ、明かりなしじゃ何処にも行け
ませんよ、籠担ぎの方には言ってあるんで?」
「はい、言ってあるので大丈夫です、よろしければ提灯を一つ貸して頂けない
でしょうか?」
言いながら柳水は足袋を履いて提灯を預かろうとするが、2階から駆け下りて
来る足音に驚いて、思わず駆け出していた。
「おおい!あんた待ちなよ!危ねえってば!」番頭が叫ぶ。
2階から駆け下りてきた二人は直ぐに後を追いたいが明かりなしでは見つけ様
が無く、提灯を待ってから宿を飛び出した。
「ちい・・しくじったぜ!お前は街道を戻ってくれ、俺は山手の方を探す!」
騒ぎを聞いた周りの宿からも人が出て来て辺りは騒然とし始めた。
籠担ぎの二人は、先ほどの密談に於いて柳水に事情を話した上で身を隠すよう
助け舟を出すつもりでいたので、かなり狼狽していた、どこぞの民家に駆け込
まれて計画が台無しになっては元も子もない。
大慌てで駆け回った、月は出ていないので、まだ遠くに行ってはいないと確信
は出来たが、宿場を少し離れると辺りは田畑と雑木林しかなく、捜索は困難だ
った。
街道を戻りつつ声を張り上げていた太助が諦めかけてた時、悲鳴が聞こえた。
声のした方へ雑草をかき分けて進むと、多摩川の堤防に当たったので、堤防の
上によじ登ると昨日の雨で増水した川がかなり際の辺りまできていた。
ざあざあという音が辺り一杯に広がっている、かなり流れが速い。
『まさか落ちたんじゃねえよな・・。』提灯を掲げて辺りを見渡す。
いた、葦の茎にしがみついてなんとか堪えている、今にも流されそうだ。
多分、堤防沿いを歩いてたところで足を滑らせたのだろう。
「おおい!柳水さん頑張るんだ、今着物を縒って縄を作るから待ってな!
何を聞いたかは知らねえけど俺らはあんたを捨てたりしねえからさ!」
急ぎ着物を割いて5mほどの縄を作った太助は提灯を向けて縄を放ろうと
したが、そこに柳水の姿はなかった。
「ああ・・何てこった、大変な事になっちまった・・。」
太助はその場所に棒を立てて、その先にさっき作った着物の縄を結んで目印
にすると大急ぎで宿に駆け戻った。
何事も無かったように川面にごうごうという音だけが響いていた。
濁流に揉まれながら柳水は叫んだ、しかし声にはなってはいなかった。
「助けて・・助けて・・ 惣次郎・・江戸に戻るんだ・・惣次郎・・。」
水底を流木の様に流れに任せて転がって行く。
柳水の体はもう動かなくなっていた。
最期の幻
眩しい光の中、黒い墓石の様なものが無数に並んでいる。
光の点が点いたり消えたりしながら走り回っていた。
柳水にはそれが何かは分からなかったが、そこが自分の帰る場所の様な気が
して安心した。
文を出してからの惣次郎は今までに無い程充実していた 柳水を迎え入れる
準備に弟子の指導、塾に対局と、それはもう喜々として取り組んでいた。
そんな惣次郎を兵衛も志津も温かく見守っていた。
十日ほど経った頃、中々戻って来ない柳水にしびれを切らした惣次郎は小橋
の道場に状況を聞くために出掛けた。
やがて道場に着こうかというところで、ふと目を落とした茶店の縁台に将棋の
駒が並べられていた、白地の布なので将棋の駒とはっきり分かる。
『へえ、良い駒だな、黄楊に一文字の盛り駒なんて滅多に見ない・・ !?』
惣次郎は驚いた、何に驚いたかというと駒の傍らに置いてあった巾着が去年の
暮れに惣次郎が柳水に買ってやったものだからだ。
慌てて茶店の中に入ろうとすると如何にも奉行所の役人風の男二人が手拭いを
叩きながら出て来たので、勇んでこの駒と巾着袋の出処を聞いた。
「兄さんたち、この駒の持ち主が誰か分かるかい?
中に色白の女の人はいるのかな?
知り合いなんだ、八王子から今日明日にでも着く筈なんだ・・。」
言いながら惣次郎は男二人が顔を見合わせて残念そうな表情になったのを見て
察した、少なくとも此処には柳水はいない。
聞くのが怖かった、だが聞かずにはいられない。
「なあ・・まさかとは思うけど・・教えてくれよ、柳水師匠は
柳水は何処にいるんだよ!」
上役であろう男が惣次郎の肩に手を置いて裏手に来るよう促した。
「お前さんは天城んとこの棋士だったな、惣次郎と言ったか。」
頷く惣次郎に言い聞かせるように男は言った。
「柳水さんは調布で川に落ちてそのまま行方知れずだ かなりの人数で探した
が、見付かったのは駒の入った巾着袋だけで他は何も見付かってない 三日
かけて、かなりの下流まで調べたがもうどうにもならん。
諦めるしか・・」
言いかけた側から惣次郎が男の片襟に手を掛けてぐいっと引き寄せた。
「おい、あんた馬鹿な事言わないでくれよ・・!
柳水がそんな・・死ぬなんてある訳がねえ!
だって柳水は、柳水は誰よりも将棋が強くて・・綺麗で・・。」
惣次郎は掴みかかったまま、ずるずると泣き崩れた。
もう一人の男が惣次郎の手を上役の男から引き離し、立ち塞がるように立って
惣次郎を蹴り飛ばした。
「何と無礼な奴よ、筆頭奉行の山本様に掴みかかるとは!
たかが身投げした女一人にどれだけの人が手を煩わせたと思ってんだ!
お前も男なら身を正して礼の一つでもするのが作法だろうが!」
山本は調布から出向いて来た御家人の石田を窘めてから惣次郎に言った。
「私等は今から小橋の道場に行って事の顛末を告げる所だったのだ、
お前にとって柳水さんがどれほど大切な女だったかは十二分に分かった。
ならばだ、柳水さんの御霊が安らかに逝ける様、喪に服しておくれ。」
惣次郎は地面に伏して、首を何度も横に振ってわなわなと体を震わせた。
夢か現実かも曖昧になる程、目の前がぐるぐると回り、しばらく動けずに
いた。
はっと気付いた時には既に二人の姿は無かった もう小橋の道場に行く気は
失せていた。
帰りの道中、何度も人や物にぶつかり怒声を浴びたが一切耳に入らなかった。
家に着くなり玄関で倒れ込んだ。
物音に志津が気付いて玄関に慌てて来るものの、惣次郎が生気を失った状態で
倒れていて、志津は兵衛や詰めている棋士を呼んで客間に運んで貰った。
直ぐに医者を呼んであちこち診てもらい、幾つかの打撲や擦過傷はあったが
命に関わるようなものは無く、一安心はしたが、こうなった原因が分からず
兵衛も志津も困り果てた。
小次郎がたらいの水を換えて戻って来ると、思い出すように言った。
「そういや惣ちゃん、今日小橋の道場に行くって言ってたぜ、道場で何か
あったんじゃねえのかな・・。」
「そいつは、さもありなんだな 柳水の事だとしたら合点がいく。」
兵衛も柳水の件だろうと察した。
朝になっても惣次郎は目を覚まさなかった。
兵衛が小橋の道場に行く支度をしていると貴美の兄である雄彦がやって来た。
喪服に身を包んで、見るからに申し訳なさそうな顔をしている。
手にしていた書状を兵衛に渡すなり、深々と頭を下げ、事の顛末を告げ、
帰って行った。
書状には柳水が調布で宿から逃げて多摩川に身を投げた事、生きてる可能性は
無いので、先の約束は果たせない事、今日の昼過ぎから密葬を行う事などが
記されていた。
これには兵衛も参った、柳水の死よりも、惣次郎が今後将棋が指せるかどうか
の方に心配が勝った 志津も口に手を当てて嗚咽を漏らさまいとはするが、
同じ思いからなのは兵衛にも分かった。
三日程寝込んだだろうか、惣次郎は目を覚ました。
皆の心配を他所に普段通りに振る舞う惣次郎に何処か違和感を覚えつつも
兵衛は一抹の不安を隠せずにいた。
目を覚ましてから十日程経ったが一度も将棋の駒を触ろうとしない。
小次郎に惣次郎がそれとなく将棋を指すように誘導してくれと頼んで、
様子を見る事にした。
軒先で薪割りをしている惣次郎に久しぶりに一局どうだいと小次郎が声をか
けると、普通に将棋に応じた。
「色々あったけどさ、惣ちゃんが元気に将棋を指すのがなによりの弔い
なのさ、さあさ一丁頑張ろうぜ。」
軽く微笑んだ惣次郎は角道を通した。
数手進んだ所で惣次郎の手が止まった。
歩を交換しようと手を伸ばすが歩を掴みきれない 何も無い所を懸命に探る。
そのうちに爪を立てて盤面を傷つけ始めた。
見学していた弟子たちも驚いて声も出せなかった。
惣次郎はみるみると顔面蒼白になり、縁側に倒れ込んで嘔吐した。
背中を摩りながら小次郎は思った、
『こいつは重症だぜ・・もう立ち直れねえかもな・・。』
それから幾度となく将棋を指すも同じ結果だった。
惣次郎は自分でも、もう駄目だと自覚した、
頭の中から今まで指した将棋の数々が消え失せていた、
指し手が何も思い浮かばない もはや只の少年になり果てたと思った。
気晴らしにと小次郎が飲みに誘ったり、賭場に連れて行ったりとするが
効果は無かった。
泥酔しては喧嘩をして、賭場からも出入り禁止になり逆に兵衛から小次郎は
こっぴどく叱られた。
三か月程経っただろうか、兵衛はこれまでと諦め、惣次郎を小橋の道場
に連れて行く事にした、最初は頑なに拒んでいた惣次郎だったが、けじめを
付けずして家には置けないという兵衛の言葉に従う他は無く、決別に踏み
切った。
道場に着くと、貴美と大助が挨拶回りに出かけるところで、玄関口を塞ぐ
形に鉢合わせた。
前を行く貴美が兵衛と惣次郎をを避けて通ったのに対して、大助は肩を
怒らせながら、わざと惣次郎にぶつかって突き飛ばしたので、惣次郎は
玄関先に倒れ込んでしまった。
大助は得意げに宣った。
「ふはは、ゴミの弟子だけにゴミの様だな惣次郎、ははは。」
合わせて貴美も笑いを堪え切れずケタケタと笑い声を上げる。
柳水共々侮辱され、怒りが込み上げる惣次郎ではあったが今の自分の有様
を顧みるにつけ反論も出来ず、只うなだれていた。
以前の惣次郎とはまるで別人の様で、これには兵衛も些かあきれ果てて
深いため息をつくと強引に玄関口まで引っ張って行った。
名人は惣次郎の様子を見てから多くを察して、優しく惣次郎に声をかけた。
「柳水の事をこんなになるまで深く愛してくれてありがとう・・。
お前には辛すぎる出来事で酷く傷つけてしまった ここには将棋の道を
諦める為に来たのであろう。
儂もそれについてどうこう言う程の野暮はしないが、少しだけ柳水の話を
させてくれまいか・・
あの子は、本人すら知らないが後藤天晴の子だ、吉原の湯女、水晶という
女が天晴との間に作った子なのだ、実は天晴もこの事を知らないでいる。
水晶が柳水をここに連れて来た時に儂は断った、白子で得体の知れない
女児を預かれだの虫が良すぎるとな、だが水晶が平手で儂に勝ったなら
どうだと言うので仕方なく応じてやったのだ、儂は震えた・・次元が
違う強さだった、もう一度もう一度と5局指したが全く歯が立たなかった
娘は預かるからお主もここに残れと頼み込んだが、ここは私の居て良い
場所ではありませんと断られ、水晶は吉原へ帰って行った。
それから儂は事ある毎に、水晶の行方を聞き回ったが、水晶は吉原から
姿を消してしまっていた。
つまり大助とは腹違いの姉弟という事になるな、儂は天晴を憎んでおる、
自分の野望の為、儂の大切な娘を利用し孕ませ、挙句自らの不始末で
捨ておった、何という恥知らずな輩かとな。
水晶が父親の事を語らなかったのは遊郭で天晴から儂との確執を聞いて
いたのだろう、後に送られて来た手紙で柳水の父親の事を知った時、儂は
悩んだが、柳水の無垢でひたむきな将棋への姿勢に、出生の秘密は胸の
内に留めておく事にしたのだ。
儂は柳水が可愛かった お前同様にな、惣次郎。」
温かな微笑みが宗桂から漏れる そして仏壇の下の引き戸を開けて、風呂敷
包みを取り出した。
「これはな、柳水が発つ直前に私に渡したものだ 柳水は惣次郎が私のせいで
将棋の道に迷う事があったなら、これを渡して欲しいと、迷わず将棋の道を
邁進しているのなら、おじい様の手で処分されて下さいとな。
今がその時だと思うので、これをお前に渡そう それでもまだ将棋の道に迷
うのなら今度こそ辞めると良い それも人生じゃからな。」
惣次郎は、師匠・・と口にした後、はっとして包みに駆け寄って抱きしめた。
そして、そのまま道場から駆けて出て行ってしまった。
狼狽する兵衛に宗桂が落ち着けとばかりに茶を勧めた。
「兵衛よ、惣次郎なら大丈夫じゃ、あいつは将棋を誰よりも愛しておる、
そして将棋からも愛されとる 柳水はそんな惣次郎を愛していた、
だからこそ柳水が託したものは、きっと惣次郎の心に届くじゃろうて。」
半信半疑な兵衛も、名人がまだ惣次郎の事を大切に思っていてくれていた事で
少しだけ安堵した。
「名人、惣次郎の奴がどう転ぶか分からねえが、何となく良い方向へ転び
そうな気がしてきたよ 本当に有難え事だよ、全く・・ ここで立ち直らね
えと心配してくれた皆に顔向けできねえな、あいつは。」
名人と二人して団子を食べつつ他愛ない会話などしてから兵衛は帰宅した。
惣次郎は帰宅するなり飛び込む様に茶室に入った 敷きっぱなしの布団を足で
掻いて、ちょっとしたスペースを作り、そこに預かった風呂敷包みを置いて
そっと丁寧に開いた。
包まれていたのは5冊程の冊子、1冊が100枚程だろうか、これだけでかなりの
厚さになる それと一通の手紙、宛名は惣次郎になっている。
惣次郎は大きく息を吸い込み、顔を両手でパンッと叩いて気合を込めた。
陽光の元ハタハタと手紙を広げ、その一言一句噛み締める様に読んだ。
拝啓 惣次郎君
君がこの手紙を読んでいるなら私はもうこの世にはいないのでしょう
そして君が将棋の道に迷っているという事なのかもしれない
どういういきさつでそうなったかは分かりませんが
もしも、私の事が原因というなら、おこがましくも心苦しくあります
君には将棋の道を歩き続けて欲しい
私には物心付いた時から将棋しかなかった
湯女の子に生まれ、白子の身で外にも出れず、吉原の片隅で一人
黙々と将棋盤に向かっていました でも寂しくは無かった
将棋盤の上で私は自由になれた
これは、こんな哀れな私に神様がくれた唯一の宝具だと思いました
小橋に貰われる事になって、やっと自分の力を認めてもらえるのだと
そして行く行くは名人になるなどと大それた夢も最初は持っていました
しかし、ここでの将棋は自由とは程遠い
型に嵌めた様なものを繰り返し、対局も2枚落ちは当たり前で
最早、好きだった将棋を苦痛にさえ感じていたのです
君に出会うまでは
君との将棋は楽しくて、時間を忘れるくらい充実していました
いつしか私の中で、君はかけがえのない人になって
もしかしたら君と人生を共に過ごすなんて夢まで見る様になっていました
でもそれは叶わぬ夢、癌に侵された身では到底無理な事
あの月明かりの下で私の事を好きだと言ってくれた君の気持ち
その気持ちが今も残っているなら、私の夢を押し付けさせて下さい
君は名人になって下さい
そしてこの下らない権威と欲望に満ちた将棋界を変えて欲しい
町や村、この国の人々が皆、名人を目指して将棋を楽しむ様な
そんな将棋界にして欲しい
君なら叶えてくれると信じています 師匠の言う事は絶対です
最後に
名人に成らんとすれば、先ず棋聖であれ
将棋に向かっては常に誠実に、人の言葉に耳を向ける王、それこそが
棋聖だと思います
あなたから棋聖と呼ばれて本当に嬉しかった
目録 急戦においての定石 二冊
主たる囲いへの攻め筋 一冊
詰将棋集 二冊
つたなくも精一杯書き溜めたものです 参考にしてもらえれば幸いです
敬具
大粒の涙が、惣次郎の目からとめどなく零れる・・。
半刻ほど師匠からの想いを嚙み締めた後、惣次郎は茶室を整頓した。
散らかっている衣類、残飯の残った食器等、汚れていた全ての物を
洗い流した。
そして井戸へ行き、頭から水を浴びて垢だらけの体を拭いて綺麗に
身なりを整えた。
遅れて帰ってきた兵衛を、志津が待ち構えていて、急ぎ手招きして兵衛を
茶室が遠目に見える処まで誘った。
「あなた、惣次郎が、惣次郎が・・。」
「ああ、こいつは間違いねえ、目が覚めたんだよ・・心配させやがって。」
惣次郎は一人、小橋の道場に向かった。
宗桂に、また小橋の門下で頑張る旨を告げ、道場を後にした。
軒をくぐった所で、はらはらと白い粉の様なものが降っているのに気付いた。
雪だった。
まだ長月にもならない夏の盛りだというのに雪が降っていた。
空を見上げながら惣次郎は、この雪が柳水の面影と重なって見えた。
あたかも惣次郎の新しい門出を、柳水が祝福している様だった。
『師匠の夢、確かに預かったよ。』
そう心で呟く惣次郎の顔から久しぶりに笑顔が零れていた。
続く