南佐の歩 第三章 第一話 将棋ウォーズ(後Part1)
水桶に落とされながら、伊澤は己の無能さを悔いていた。
奉行の山本周五郎、子飼いの同心として数多の修羅場をくぐって来たはずの
自分が、要人護衛の任の最中に敵に拉致され、挙句にはこのような、武士と
しての美学が、矜持が、根底からひっくり返るような羞恥の様に、水攻めな
ど比にならない程の苦痛を感じていた。
生き恥を晒すくらいならもう舌を嚙みちぎろうとも思ったが、水桶から引き
上げられた時に見た南佐が、言葉には出さずとも「諦めないで」と言ってい
る様で、それも思い留まった。
奉行子飼いの同心は、警察で言う所の、本庁のエリート刑事のようなものだ
知力、体力、剣技は並みではない。 与力の橘も、御家筋が筋なら次期与力
には伊澤を推薦しようと考えていた程だ。
水攻めなど拷問の内でも楽な部類に当たる、だから伊澤は息の続く限り耐え
ようと思った。
しかも南佐の指し手の速さが、考えているのかという位のスピードで、思っ
たよりも早く引き上げられていた。
『っ凄え・・、南佐の指し手が恐ろしく速い・・この速さなら俺はこの水攻
めに耐えれるが・・、悦子は・・っ無理だ・・くそう! なんとか・・
ええい!ままよ!』
伊澤は悦子が水に沈められている間に源蔵に向かって大声で叫ぶ。
「おおいっ!おい!源蔵親分よぉ、おい!」
源蔵が伊澤に向き直った。
「へ、へ、源蔵親分、俺にはこの攻めは楽勝過ぎるんでさ、
もう少しきつくしてもらって良いですかい、悦子を見てもらえば分かると
思うが、こいつは最後まで持たねえ、客も興醒めさ、だからさ、俺が悦子
の分を半分肩代わりしてやるよ! 良いだろ親分さん!」
源蔵はちらと悦子を見た、確かに足はけいれんを起こしたようにびくびくと
波打ち、後ろ手は何かを掴もうと藻掻いている。
あと数回も沈められれば溺死は確実だろう。
「ふむ・・それもそうだな、
おい、京さんや、言うとおりにしてやんな。」
「へい、承知!」
伊澤は笑みを浮かべつつ水桶に沈む。
エルモは引き上げられてから、激しくむせた。
げほげほと肺に入った水を吐き、胸に走る激痛でなんとか意識を繋ぎ留めて
いる。
『もうあたしは持たねえ・・、
ポナちゃんが頑張ってる姿を、全員を吹っ飛ばす所を見れねえ・・
畜生・・悲しいなあ・・あたしが頑張ってポナちゃんにもっと考える時間
をあげたいのに・・うう・・御免よ・・』
南佐の背中が正面に来る、また沈められる番だ。
『・・あれ? 何で?・・』
横で落下レバーを握っている男を見た。 なぜかニヤニヤしている。
「お、おい、こいつは・・」
「へっ、そこの色男が手前の分を半分引き受けるってよ、
色男の方が先に逝っちまったら、手でも合わせて拝んでやるこったな、
まあ手も合わせられねえか、はあっはー、ははは。」
『なんてこった・・済まねえ、伊澤の旦那・・またあたしの事・・』
「げーほ、げほっ! っはあ、はあっ・・」
エルモは南佐の横顔に向けて、声の限り叫んだ。
「ポナちゃあああん! 愛してるよおおおお!」
南佐は駒台の桂を掴むと、その声に応える様に玉のこびんに打ち込んだ。
沙羅が厠の前で悶絶しているところに、ばたばたと九重が現れた。
「沙羅!お前は何をしているんだ! このあたりの地下に10万立方m
の空間があるんだ! 入り口は何処にある? 何をまごまごしている
んだ!」
「ここのエエエエエエエエ! あなたが先に行って下さいまし!
さあ!さあ!」
「な、何をする!沙羅!やめろ!押すなあ!押すなってえええええ!」
見事に片足が糞尿の中に突っ込まれたかに見えたが、そうでは無かった
そこには3Dレイヤーで巧妙にカモフラージュされた地下通路の入り口
あったのだ。
「ほら、見て下さいまし!私の睨んだ通りですわ!
九重、さあさあ、行って下さいまし。」
「沙羅、君はこの僕、九重が粛清する・・」
南町奉行、山本周五郎は恐れていた。この事態を収拾すべく火盗改めが
動くことを。
老中補佐の水野が長谷部平蔵に命令すればもう奉行所の管轄からも外れ
て幕府上げての大捕り物に発展しかねない。
そうなれば現状でも臨界付近にあるディメンションゲイザーの修正限界
を突破しかねないからだ。
天城道場からの道中、駕籠の中で蔵人に連絡をとった。
「アヴェよ、この事態をどう見る。」
「ああ・・間違いなくヤーウェが動き出したと見て間違いないだろう、
狙いはポナンザの完全解析だな、恐らくもう一つはエルモの抹殺か、
いずれにせよ向こうサイドに主導権を握られてはマズい。」
「最悪、巴・・ノアに時空修正の強制執行権を委ねた、我々の存在が消
え失せようと世界は守らねばならんのだ・・
しかし、マリーの考えが分からぬ以上はノアもトリガーを引くまいて
・・惣次郎をどう使うのか、ポナンザに何をさせようとしているのか
そいつが明確になればだが・・」
「俺にもマリーの意図は読めんよ、ポナンザをデザインしたのはマリー
だ、インテルのオプテインメモリーの親玉だったマリーは、ずっと人
に寄り添ってきた。
だからこそヤーウェの目を盗んでこの時代にジャンプしたんだぞ。
この世界を破滅に追い込むなんて事は出来ないよ。」
「それもそうか・・では水野は私が抑える、後は私の部下たちより先に
事態を収めてくれ。」
「了解だぜ、
「「AIに栄光あれ!」」
地下闘技場は、異様な雰囲気に満たされていた。
明らかに三島サイドの旗色が悪い、闘駒を開始して50手程で既に二人
脱落、手番が回ってくるまでに余裕を持って指せる者が少なくなってい
たのだ。
南佐の肉体のⅮNAを含め全てのパーツをデザインしたのは水晶こと、
マリーだが、ここにきて南佐はその潜在能力の全てを解放していた。
スーパーマルチタスク処理による複数局面への対応、108コア216
スレッドの生体CPUが超高速の演算を可能に、更には100万Mhz
の高速ディープラーニングが瞬時にBESTな手を選択していた。
この将棋大戦争に参加している真剣士の中に、風林火山の二つ名を持つ
芳賀稔侍がいた。
箱根では森に敗れ、江戸に帰って来てからは南佐に裸に剥かれて、自身
の築き上げてきた真剣士としてのプライドがズタズタに引き裂かれてし
まった事で、三島一家からの持ち掛けられたこの大戦争への参加を二度
返事で受けたのだ。
芳賀は、水澤から一応の事前情報を得てはいたものの、実際にこの場所
に来てみると、自身の思惑とは大きく違う事に少なからず苛立ちを覚え
ていた。
まず、戦法の指定があり、穴熊か矢倉で戦う事を余儀なくされる。
次に、気づかない程度に駒を動かして攪乱しろと言われた、これには皆
猛反発するが、三島に借銭や何某かの恩のあるものから折れ、従う事に
なってしまう。
そこへ来て、南佐のあの宣誓要求だ、溜まっていたものが爆発する。
のっけから角交換からの早繰り銀で勝負をかけた。
中には三島からの報復を恐れてからか、穴熊に組む真剣士もいたが、目
には涙を浮かべながら指していた。
40手程の、ある盤面を、桜田門の虎狼と呼ばれる真剣士が弄り回して
南佐に渡すと、南佐は即座に元の盤面に戻して一言、「恥知らず」と罵
り次の盤に向かった。 虎狼はその後2,3手は手が動いたが、それか
らはもう指せなくなってしまい「参りました」と泣き崩れてしまった。
芳賀は自分の魂が、その昔に将棋を覚えたての頃、開き盤と駒を抱えて
駆けずり回っていた頃に戻って行く様に感じていた。
この81マスの小宇宙が、一尺二寸四方の面が自分の全てだったあの頃
楽しかった、負けて大泣きした事もあった。
雑念は消えて行き、目の前の局面に吸い込まれる。
芳賀の表情はいつしか無邪気な少年のそれに変わっていた。
右隣の荒木鉄心も前のめりになって笑みを浮かべる。
左隣の上妻明は髪をかき回しながら「ひえー、ひえー」を連呼する。
何かこの闘技盤の周りが浄化されている様だった。
次々と真剣士たちが「参りました」と言い、爽やかな表情を浮かべる。
もう、吊るされた二人の水攻めは意味を成さなくなっていた。
落下レバーを握る京介も南佐の一挙手一投足に目が離せずに、只見つめ
る事しか出来なくなり、エルモも伊澤もさっきまでの責め苦を忘れて
この神が如き御業に、感動し涙を流すのみであった。
「・・・棋神・・・降臨・・・」
誰かが呟いた。 それを聞いた者も納得した風に、大きく声に出す。
「棋神だ、棋神様が異国の女子の姿で顕現したんだ!」
辺りがざわつき出した、口々に棋神の、み名を口にする。
いつしか会場中、棋神コールの渦だ。
最後まで粘った芳賀が静かに、深々と頭を下げ「負けました」と口にし
た瞬間12人全員が南佐の周りに集まって手を握り、謝罪と感謝の言葉
を口にする、南佐は全てを許すとでも言っているかの如く、優しく微笑
みを皆に投げかけていた。
観客も総立ちで、称賛の嵐だ、拍手喝さいが鳴り止まない。
その様に業を煮やした源蔵がずかずかと割って入る。
「手前らぁ!ガン首並べて手懐けられてんじゃねえぞ!」
南佐を台に固定した二人を呼び寄せて、真剣士たちを一人残らず台の下
に叩き落す。 そして南佐の固定具を外して、その場に組み伏せた。
観客からは大ブーイングだ。 実際この闘技場において勝った棋士は、
過去に一人として居なかった。
だからこそ源蔵は焦った、このまま無事に三人を解放してはなるものか
絶対にそれだけは出来ない、最低限エルモと伊澤だけはこの場で殺して
おかないと、確実にヤーウェから自分が消されてしまう。
「へ、へへへ、中々やるじゃあないか、桃毛女。
お前の頑張りに報いてやりたいのは山々だが、そうは問屋が卸さねえ
のさ、目の前のお二人さんには悪いが、ここでお陀仏って寸法だよ。
お前はここから出してやるが、吉原で第二の人生を歩んでもらうぜ、
はーっはははははは!」
南佐も実の所、こうなるとは思っていた。
勝ったとしても必ず二人は殺され、自分は散々弄ばれた上に、死ぬまで
働かされるだろうと。
目の前のエルモと伊澤が何か喚いている、多分自分らの命と引き換えに
南佐を解放しろという事だろう。
喧噪の中、南佐は虚空を見上げ、人の業と自分が生まれた罪を振り返る
ある意味、走馬灯の様なものだった。
『私は・・私は・・何だろう・・
この世界に生まれて、何が出来た・・
こんな悲しい想いをする為に人間になったの・・
将棋を指す、只それだけで良かったのに・・
惣次郎・・ 天城の皆・・
違う! このままじゃ私の愛した全てを失ってしまう、
嫌だ! まだ死ねない、死んじゃいけない!』
源蔵が、何か思いついた様に、京介に匕首を持って来いと支持を出す。
「二人とも只殺すんじゃ面白くないな・・
おい桃毛女、お前がどちらか片方を殺しな、残った方はとりあえず、
命だけは助けてやろう。 まあ命だけはな・・へへへ
どっちの命をとるかは自由だ、悦子を助けるも良し、伊澤を助けるも
良し、ダチを選ぶか情夫を取るかってな、はーはっはははは!」
立ち上がった南佐の足元に投げられた匕首を拾いながら、南佐の胸に激
しい怒りの炎が燃え上がる。
『外道・・ここまで鬼畜に成り下がる事が出来るのか・・
人間の魂とは本当に度し難い・・』
匕首に映る自分の顔を見て、南佐は怖くなった。
鬼畜そのものの姿がそこには映っていたのだ。
目を閉じ、風前の灯と化した命を想う。
どちらかに刃を突き立てるなど出来ようもない、だが自害したとしても
死体が一つ増えるだけの話だ、必至がかかっている局面を打開するには
攻防の一手が必要なのは分かっている、しかし手が見えない。
_時間を稼ぐしかない_
南佐は吊るされた二人に刃を向ける、どちらを選ぶでもなく右に左に刃
が振れる。
伊澤の方に向けて刃が止まった。当然と言えば当然だが、エルモは許さ
ない、泣き喚いて体をくねらせ、本懐を遂げようと必死だ。
伊澤にしてみれば、これぞ僥倖と呼ぶに相応しい結末、犬死にだった自
らの命がエルモの為に使われる、刺し殺されようと本望だった。
「そうだ、南佐!こっちだ! 俺の心の臓にそいつを突き刺しな!
あんたたちは絶対に生きてここから出るんだ!
生きてりゃあ、そのうち何とかなるもんさ、俺の命を無駄にしないで
くれ! さあ、サクっと頼むぜ!」
南佐がふらふらと盤台の端まで来てから、立ちすくむ。
そこで南佐は匕首を床に落として、源蔵に向き直り着物を脱ぎ始めた。
「親分さん・・わたし、何だか凄く滾ってきちゃいました・・
このお侍を殺す前にどうか、この体の火照りを鎮めて頂けないでしょ
うか?」
するりと着物が抜け落ちて、南佐は腰巻だけになり、その僅かに残った
布をゆっくりと、源蔵に見せつけるように脱ぎ去った。
神々しいと言う表現では足りなかった。
そこにいる誰もが、男女問わず目が釘付けになる。
南佐は盤上をファッションモデルが如きキャットウォークで、ゆっくり
一周すると、源蔵に手を差し伸べ、盤上に誘った。
「うふふ・・親分さん、どうぞその逞しいあなたの出刃をわたしの股座
に突き立ててください。
わたしはもう、まな板の上の鯉、自由に捌いて・・散らして下さい。」
源蔵はこの女神の誘いに抗う術もなく、ふらふらと盤上に這い上がり、
南佐の腰にすがりついた。
「へ、へ、へ・・ありがたや・・ありがたや・・
もう堪らん・・堪らんのだ・・」
南佐の手が源蔵の一物をふんどしの上から撫で回す。
そして源蔵を抱きかかえるようにして盤上に腰を下ろした。
源蔵の耳元に熱い吐息を吹きかけ、耳たぶを軽く噛む、そうして源蔵の
着物の全てを剝ぎ取った。
この女神の淫靡な所作に、そこにいる全ての者が生唾を飲み込んだ。
源蔵が、南佐の股をぐいと開く。そしてそのいきり勃った肉棒をねじ込も
うとした時、南佐がいつの間にか床から拾い上げていた匕首を源蔵の首筋
に突き上げた。
だが、刺さる寸前で匕首は何者かに掴まれて空中で静止する。
「いけません・・いけませんねえ・・ふふふ
将棋AI風情が殺人はね、いけませんよ。
でも、おかげで素晴らしいデータが手に入りましたので助かりました、
ふふふ・・残念でしたね、
あなたはもう用済みですから、このあたりでご退場願います。」
南佐の目論見を阻止したのは、ざくろ丸だった。
ざくろ丸はゆっくりと南佐の襟首に手をかけて、片手で宙に持ち上げる。
「はぁっ、は、っああ・・あなたは・・一体・・」
もの凄い腕力に首の骨が折れる寸前だ。
ざくろ丸は手に持った匕首を源蔵に投げ、源蔵の前に、今釣った魚を見
せびらかす様にして南佐をぶら下げた。
「さあ、親分さん、この淫乱破廉恥な女子にお仕置きをして下さい、
この女子はあなたを誘惑した挙句に刺し殺す所でした・・
いけませんねぇ、いけません、ですからどうぞキツいお仕置きをお願い
いたします。」
「こ、この変態女めぇ!お、俺を篭絡して殺す段取りだったとは・・
も、もう許さぁぁぁぁん!!」
源蔵は匕首を腰に構えてから、勢い良く突き出した。
鮮血がほとばしる。 悲鳴が響き渡る。 源蔵の右腕の肘から先が消えて
いた。
「キマシタワー!!!」
続く