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南佐の歩 第二章 第六話 潮来の受け師



  蔵人が日本橋で天晴に会う一刻程前、天城の道場では南佐が、優奈の後任が

  来るのを今や遅しと待ち構えていた。


  『どんな人が来るんだろう・・九重さんみたいな不愛想な人は苦手だな・・

   出来れば優奈ちゃんみたいな可愛い子が良いけど・・』


  軒先でそわそわして待っていると、御家人風の二人組がやって来た、何の用

  かと尋ねると、上野で将棋を町民に教えているのだが、惣次郎の評判を聞く

  につけ、是非お手合わせ願いたいとの事、現状こんな申し出は断るべきなの

  だろうが、余りにもぐいぐい来るので流石に無下に出来ない、渋々と受ける

  事になった。


  席料で五十文を受け取って、道場に通すと、丁度惣次郎が康太に指導対局中

  で、南佐が事情を話すと惣次郎は一考した後、上野の二人組に、先ずは実力

  が知りたいので、康太を相手に平手で指してみてくれと言い、驚く康太を尻

  目に、二人を今まで自分が座っていた席に招いた。


  渋々この対局を受けたと言わんばかりの二人だったが、相手が10才の少年

  では負ける気がしなかったのだろう、一人目の安本三郎太が腕まくりをして

  駒音高々に飛車先を通した、康太は後ろに座った惣次郎を振り返り、普通に

  指して良いのか確認を取った。

  惣次郎が軽く頷くのを確認し、ふっと息を吐くと角道を開けた。


  康太は小次郎と同じで元々、将棋に特別な才能がある訳では無かった、常陸

  の国では聞こえた豪農の三男として生まれ、8才までは普通に寺子屋に通い

  同輩の友人らと野を駆け、川で魚を獲ったりと、ごくごく当たり前の生活を

  送っていたのだが、この頃から長女の性的嫌がらせが日常となる。


  家に居る時の康太の暗い顔を見かねた次男が、父親にこの事を告げて、長女

  の行為に歯止めをかけようとするも、父親は長女の水戸藩大名との輿入れに

  余計な火種を抱えたくないと、康太を都合の良い名目を立てて追い出す事に

  した、母親は猛反対だったが、当の康太が強く江戸での新生活を望んだ事も

  あり、将棋好きの長男の勧めで、天城の門をくぐったという訳だ。

  

  惣次郎には確信めいたものがあった、女性恐怖症とも思える康太の振る舞い

  が、南佐の来訪とともに少しづつ変化して、女性に対しての過剰な反応が影

  を潜め、南佐の指導対局にも前向きな姿勢が見えて来たからだ。

  更には悦子や英子、優奈らとの交流が、義務的だった将棋を、興奮の対象へ

  と引き上げた。


  『もうそろそろ、康太も一人前の棋士になって貰わないとな、通いの弟子ら

   にも示しがつかないぜ・・さあ見せてくれよ修行の成果を。』


  

  康太は先手番では相掛かり横歩取り、後手番では角換わりと自分の中で決め

  ているらしく、対局数のおよそ7割ほどだろうか、この2つを駆使して戦っ

  て来た。

  だからという他はないが、この2つの戦法に関しては、森ですら手を焼く程

  達者である。


  皆が注目する中、指し手は進む、いつしか近所の将棋好きまで集まって来た

  南佐以下、女子衆はお茶やら御茶請けやらの用意に大わらわだ。


  観客が固唾かたずを飲んで見つめる最終番で、ついに安本が玉頭の歩越しに打たれ

  た桂馬の対応を間違えた、すかさず康太が端から畳みかける、そこからはも

  う一本道だ、康太が安本の粘りを許さず、見事な寄せで勝利した。

  観客が大きくどよめき、喝采に変わる、康太は目に涙を浮かべていたが、恥

  ずかしさが勝って、少し上を向いて堪えていた。


  「な、なんの!もう一番、もう一番だ、坊主!」安本が捲し立てる。


  「安本さん、次は私だよ、どいておくれ。」

   諫める様に二人目の男が安本の肩に手を置いた。


  諦めきれない様子の安本だったが、仕方なく席を立った。


  二人目の男は片岡新左エ門と言い、浅草で道場をやっているらしいが、ここ

  にいる者は皆、その道場を知らなかった。

  その所作からも見て取れるが、片岡はかなり指せるというのが伝わってくる


  「じゃあ、今度はあなたの先手番でどうぞ、よろしくね。」


  観客を含めて、ぴんと張り詰めた空気の中、康太が飛車先の歩を突いた。

  狙いは横歩取りからの角交換で、初心者ならばあっという間に決着が着くが

  高段者が相手となるとそう上手くは行かない事を康太も十分承知していた。


  後手 ー45角ー 康太は敢えて、この嵌め手を誘う。


  天城の棋士ならずともこの序盤の分かれ道の決定には勇気がいる、際限なく

  時間を使えるならともかく、練習対局などでの序盤の長考は、研究不足を相

  手に悟らせるとともに、無作法だ。

  片岡はこの誘いに応じた、2筋にアヤを付けて馬を作る。

  康太も龍を作って一気に終盤のもつれ合いだ、互いに居玉のまま駒台に大駒

  を載せ合う。

  読みの勝った方が勝つ、当たり前の事だが経験値という点で、康太は片岡に

  遠く及んではいなかった。

  的確に受けられて、康太の攻めは切らされ、僅かに届かなかった。


  康太は、参りましたと大きな声で言うと、深々と頭を下げた。

  片岡も頭を下げる。

  観客から、ため息が漏れる、終盤のスリリングな展開に皆、息を呑んでいた

  のだった、刹那、笑い声と賞賛の言葉が康太に向けられる。

  康太の将棋が観るに堪えるものに成っていたという証だ。


  負けたものの、片岡が感想戦を誘うと、康太は喜々として応じ、自身の読み

  筋を片岡に示し、また片岡も最善の手筋について康太とやりとりを交わす。


  ひと息ついたところで片岡が惣次郎に聞いた。


  「どうですか、惣次郎さん、指しては頂けますか?」実に清々しい。


  「もちろんです、安本さんは飛車・角2枚落ち、片岡さんは香を2枚引きで

   いいですか。」


  上野の二人は顔を見合わせて笑顔になった。




  賑やかな対局が、昼休憩を挟んで続き、殺伐とした出来事が多かった日々に

  ひと時の安らぎを与えてくれる。

  天城の棋士たちには良い意味での息抜きだったろう、小次郎以下、天城の皆

  心の底から笑い合っていた。


  惣次郎が一通りの対局を済ませて、上野の二人は満足したようで、上野に引

  き上げて行った。

  見送りに出て、戻って来た惣次郎に小次郎が口を開く。


  「惣ちゃん、あの片岡っての只者じゃねえな、香を2枚引いてるとはいえ、

   惣ちゃんに一回は勝つなんてよう、あんな強い奴が浅草にいるなんて初耳

   だったぜ。」


  「へへ、小次郎さん、ちょっと良いかい?」惣次郎は小次郎を中庭に誘った


  「実はさ、あの二人の事で、対局中に俺は気付いちまったのさ、

   あの二人、上野から来たって言ってたが、嘘だと思うんだ。」


  「へえ、惣ちゃんはどうして嘘だと思うんだい?」


  「あの二人の話し方が、どうにも江戸っ子の話し方じゃない気がしたのさ、

   上手く喋ってはいたけどね、どこか常総弁というか水戸あたりの人の様な

   気がしてさ、それで閃いたんだ、もしかして二人は康太の実家に頼まれて

   康太の様子を見に来たんじゃないかってね。」


  「ああ、成程なあ、そう言う事だったのかもしれねえな、でもよ惣ちゃん、

   あの二人も驚いたんじゃねえかな、康太があんまり将棋が達者になってる

   もんでよ、ははは」


  「そうだね、それとあの片岡ってのは常総あたりの棋士だとしたら・・

   多分・・


  「「潮来の受け師!!」」


  二人の息が揃った、二人してクスクス笑い出した。


  「ああ、やっと得心がいったぜ、こんなところで伝説の棋士に会えるなんて

   な、全っ然力也から聞いた雰囲気と違うんで直ぐには気付かなかったぜ、

   てことは、惣ちゃんも伝説の棋士さまって訳だ、ははは。」


  「からかわないでくれよ、ったくよ・・

   でもまあ、強かったよ、世辞じゃなくてな、平手の方が得意な雰囲気は醸

   し出してたから、平手なら小次郎さんと互角ぐらいかな・・」


  「へえ~、流石は天下の烈火さまだ、上からごちそうさまですってね。」


  「おいおい、小次郎さん、俺は小次郎さんが俺より弱いって意味で言ったん

   じゃあねえよ・・それよりも、俺が師走場所に出れないせいで、迷惑かけ

   て御免よ、でも俺、今棋戦は特別に感じてるんだ、何か人生を賭けてるっ

   ていうか、その・・」


  「なーに、御託を並べてんだよ全く、奉行所も気合い入れて天城を護ってく

   れるってんだ、心配する事は何一つないさ、だからよ、獲りなよ、名人、

   何かさ夢みてえな話だけど、蕎麦屋の息子が名人なんて恰好良いにも程が

   あるぜ・・ 惣ちゃんはもう天城皆の夢を背負ってるんだ、全力で応援し

   てるからな、頼むぜ、」


  そう言って、小次郎が惣次郎の肩にぽんと手を置いた。


  その手の重みを、しかと噛み締める惣次郎だった。




  その後、片岡と安本は常陸の康太の実家に、康太の現況を伝え、潮来に帰っ

  て行った。


  実のところ、康太は今年の盆まで、帰省中に多くを語ってはこなかった。

  帰省の際に迎えに来る、叔父の重吉にも、特に何も話す事は無く、長女が嫁

  いだ際も、祝いの文一つ寄越しはしなかった。


  ところが、今年の盆は違ったのだ、正月にはまだ頑なだった表情が和らぎ、

  重吉に労いの言葉や感謝の態度が伝わる様になったのだ。

  母は、この変わりようを見て、もう実家へ引き戻しても良いのではないかと

  三月ほど思い悩んだ末、康太の父である太助に相談した。

  太助は、康太自身が望むようならばと、少々からめ手ではあるが、片岡と安本

  に一芝居打ってもらったという訳だ。


  片岡は、天城に行く前の段取りの席で、両親から康太宛ての手紙を預かって

  いた。

  内容は言わずもがな、常陸への帰還の打診だ、だが片岡は、康太に渡さずに

  持って帰った。

  その事に、両親は怪訝けげんそうな風で理由を聞こうとすると、長男が制してから

  片岡に問うた。


  「それ程に康太は将棋に打ち込んでいるのですか?」


  「ああ、そうさ、私にはこれから大輪の花を咲かせるであろうつぼみを千切るな

   ど出来るものかい、お宅の三男坊はね、きっと凄い棋士になって帰って来

   るから、そっとしておくのが一番さ、あの天城って処は不思議な感じがす

   るんだ、どうとは言えないけどね、私も諦めた名人の道がね、あそこには

   繋がってるような気がしたのさ、夢みたいな話だけど、ははは。」


  新庄の家族は皆、顔を見合わせ、それぞれに喜びを噛み締めていた。


  母は早速、今年獲れた野菜や穀物を荷馬車に積めるだけ積み、息子の未来を

  応援する旨の文をしたためて天城に送った。




  片岡、安本は潮来への道中、散々語った惣次郎の将棋を振り返る。


  「しかし何度も言うようだけど、凄かったねえ烈火は、ねえ片岡さんよ。」


  「ええいもう耳にタコだよ、安さんたら、何回同じこと言えば気が済むのさ

   烈火と指せて嬉しいのは分かるけど、そいつはもう胸にしまっておきなっ

   て、」


  「大駒落ちでも、ぐいぐい前に出て来るきっぷの良さは見事としか言えない

   ねえ、ああ、憧れるぜ・・なあ片岡さんよ。」


  「・・・ふう・・しょうがねえなあ、安さんは・・

   私もね、以前は江戸にこそ出てはいないけど、水戸から上総、常陸に安房

   と、真剣で慣らした腕だ、自信が無かったわけじゃないんだよ、でもねえ

   烈火は噂の更に上だったね、あんなのに時間使われたら誰も勝てっこない

   よ、〔潮来の受け師〕の私が言うんだ、信じて良いよ。」


  「伝説のケン師のお墨付き頂きました~、名人惣次郎が誕生するかもって、

   いよいよもって帰ったら皆に自慢しよっと。」


  「へへへ、実はさあんたが見てない隙にこいつを烈火に書いてもらったのさ」


  そう言って広げた扇子には【棋聖】の二文字が堂々と書き記してあった。


  「ああああ!ずるい、ずるいや片岡の旦那あ!

   お願いだ、そいつを俺に譲っておくれよ!後生だ片岡大明神、片岡名人!」


  「いやはや、私も出世したもんだ、ははは、誰がなんと言おうとこいつは譲ら

   ないよ、私の宝物になってしまったからね。」


  「・・こうなったら力ずくでも頂きますぜ、片岡の旦那あ!」


  「おお怖い怖い、へへへ、そういきり立つもんじゃないよ、安さんたら。」


  そう言うと片岡は懐からもう一本扇子を取り出した。


  「あんたがさ悔しがると思って、もう一本貰っておいたのさ。」


  「・・片岡さあん・・ありがとよ・・ううう・・あんた神様だよ・・」


  「なんだい、大げさだねえ安さんはさ、でもまあ機嫌が直って良かったよ

   ・・・

   さあさ、先を急がなきゃ明日の真剣に遅れちまうよ、というよりね私も

   なんだかたぎってるのさ・・

   惣次郎に当てられちまったかな・・いや、あそこに居た棋士の全員にか

   特に、あの桃色の髪をした異国の女子は浮世離れした強さに感じたよ。」


  「へえ、惣次郎よりも強いって? 冗談でしょうよ。」


  「ははは、まあ気のせいかもしれないね・・、おっといけないカミさんに

   土産を頼まれてたんだ、安さんよ、ちょいと鹿行に入って直ぐの納豆屋

   に寄らせてくれないかな、」


  「お安い御用だよ、片岡の旦那、

   てか旦那の将棋も納豆みたいに、ねばねば~ってしてますよねえ、

   もしかして納豆食べたら受けが強くなるんですかい?」


  「・・バカ言ってんじゃないよ、そんな訳ないだろうさ、

   もう、あんまり余計な事言ってたらさ、さっきの扇子返してもらうよ。」


  「あいたた・・こりゃ失礼しました、お礼に納豆は奢らせて貰います。」


  「豪気な事で助かるねえ、ははは」



   片岡は今回の依頼を受けて江戸に着くまで、天城の棋士全員を倒してやろ

   うと意気込んでいた事を思い出して、少し恥ずかしくなっていた。


   初秋の風が片岡の身を引き締める、思いがけなく舞い込んだ常陸の豪農の

   依頼を、片岡は有難く感じていた。




              第二章 完   続く



   

   




   





  

  



  



  

 

  

  

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