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南佐の歩 第一章 第二話  夏の雪(前)

 82手目をポナンザが指した後、惣次郎はうんうんと頷いてから天を仰いだ。


  『間違いない、俺の想いが通じたんだ。』


  この仕草にポナンザが怪訝そうな面持ちで尋ねた 「どうされましたか?」


  惣次郎は答える 「いや気持ちに整理をつけようと思ってな。」


  「この将棋は一旦打掛けにしよう、今から親父殿と母上にきちんと君の事を紹

   介しておかなきゃならない ああっと自己紹介がまだだったね、俺の名前は

   天城惣次郎、君は・・ええとポナンザだったかな、でもそれじゃ変だから

   うん、ならばポの所を歩と書いてナンザの所を南佐と書くのでどうだい?」


  指で宙に文字を切った。


  「ええ、素敵な字を当てて下さって有難うございます。」




  惣次郎の義理の父である天城兵衛には子が無かった 27歳の時に一度小橋家

  の女御と縁談が持ち上がったが、結局は破談となった。

  それから江戸で嫁を娶る事を諦めて京都に住んでいる友人の伝手で今の妻であ

  る志津を娶ったのだが、子宝に恵まれず8年が過ぎ、30を過ぎた志津には出

  産が厳しく、半ば諦めの気持ちもあった。

  どちらに非がある訳でもない事で二人とも心を痛めていたが、兵衛は志津に労

  いと気晴らしを兼ねて武蔵の北にある氷川大社に参拝に出かける事を決め、五

  月の天気の良い日を待ってから参拝に出かけた。

  大社までの道中は気も張って、順調に参拝まで済んだのだが、三日目に荒川を

  船で下り、隅田川に入ったところで志津が船酔いを訴え、木場まであと四半刻

  だろうか、やむを得ず白髭渡船橋の袂にある船小屋で休憩する事になった。


  「疲れが出たんだろうね、連れ回して済まなかった。」そう行って兵衛は濡れ

   た手拭いで額の汗を拭いてやった。


  「いえお気になさらずに、少し横になって休めば平気ですから。」血の気の引

   いた顔で健気に取り繕うところも兵衛には愛おしいのだった。


  しばらくは傍らで付き添っていたものの志津が心地よい寝息を立て始めたので

  起きるまでの間、石濱神社の近くにあるという格別に評判の良い団子屋に足を

  運ぼうと 船頭に一言告げてから堤を上り神社に向かった。


  近くまで来て何やら行列が見えてきた。


  「これはなるほど美味そうじゃねえか 志津も喜ぶに違えねえ。」


   8人程の客の後ろについて待っていると通りの向かい5,6軒先にも人だかりが

  あるので、前に並んでる馴染み風の女性に訳を聞いたところ、ソバ屋の軒先で

  将棋を指しているとの事、居ても立ってもいられなくなり、


  「ちょっと御免だけど代わりに団子買っといてくれねえか、気になって仕様が

   ねえんだ、済まないけど。」


  そう残して足早に店の軒先に向かった、遠目ではあるが大人と子供が指してい

  るのだけは分かる、子供には大きな特徴があった、赤毛だ、茶とは呼べぬ程の

  鮮やかな赤毛、それに心なしか目も赤く見える。


  『こりゃあ珍しい毛色の坊主だな・・

   見た目じゃ名人といううより鬼の子だ。』


  大人の方はソバ屋の客だろう、丼片手に難しい顔をしている、盤面を見るに飛

  車・角2枚落ちで、赤毛の坊主が勝勢ということは容易に分かった。


  「止めだ、止め!降参だ留次郎、ほら持って行きな!」


  頭を掻きながら客の男が留次郎に銭を渡す、見るに賭け将棋で負け、ソバ代を

  割り増して払う羽目になったのだろう、2枚落ちとはいえ些か情けない体だ。

  留次郎はというと、ご機嫌で次の対局相手に生意気を言っている。


  「旦那はウチののソバが伸びる前には指してくれよ。」


  4,5才位でなるほど威勢が良い、微笑ましく思って見ていると可笑しな事に気

  が付いた 2枚落ちは留次郎の方だったのだ、ならばさっきの客は相当のヘボ

  将棋を指したんだと何となく理解した、ところがどうしたものか、スラスラと

  駒が動く度に鬼の片鱗が見えてくる、今局も留次郎が圧勝した。


  『この坊主只者じゃねえな・・町道場で三、四段はあるとみたぜ。』


  「次は私が相手をしても良いかい?」つい口に出してしまった。


  下町の将棋小僧相手に大人気ないとはいえ棋力を確かめずにはいられない。


  「どうだい平手で指しちゃあ貰えないかい?負けたら倍払うからさ。」


  「平手で良いなら望むところだって、

   この辺の客は平手じゃ指してくれねえ。」


  振り駒で先手は兵衛となり、初手76歩から開戦の狼煙を上げる。

  だがここから兵衛は面食らった。


  『ー速いー 子供の指し手とは思えねえ・・小橋の道場にもこんな奴は何人か

   しかいねえや。』


  結果、早指しの勢いに飲まれた兵衛が留次郎の王手飛車に引っ掛かってしまい

  あえなく投了となった。

  収まりが付かない兵衛はもう一局と頼み込んで、今度はじっくり構えようと

  穴熊に組んで、辛くも勝つ事が出来た、すると留次郎は大きな笑い声を上げて

  頭を下げる。


  「おじさん、強いねえ!」 悔しがるどころか嬉しそうだ。


「でもな、ソバ屋の将棋に穴熊はご法度だよ。」 どっと笑い声が上がる。


  兵衛も、これは一本取られてしまい笑うしかなかった 頼んでおいた団子が

  良いタイミングで届いたので将棋はさて置きソバを啜りつつ団子を頬張る。


  「旨いなあ、本当に美味い。」 兵衛の頭に思案が巡る。


  「あなただけズルいじゃ無いですか。」 志津が声を掛けた。


  兵衛はビックリして団子を喉に詰まらせ、慌てて茶で流し込む。


  「すまねえ、お前に団子を買ってやろうと思ってここに来たのは良いが、

   つい将棋に夢中になっちまった。」


  志津は頭の良い女だ、兵衛の表情から何となく気持ちを汲む。


  「あなたの思う様にされて構いませんよ、まああの子が望むならですけど。」


  優しく微笑む志津に、兵衛は有難うの一言を告げて店主の処に駆け寄った。

  

  この時勢、商家に生まれたならば、奉公に出るのは当たり前の事で、留次郎に

  とっては渡りに船と言ったところか、喜々として話に聞き入っていた、しかし

  養子となると話は大きく変わる、素性も良く分からない将棋指しに我が子を差

  し出すのだ、もちろんある種の利害が生じる。

  店主も看板息子を只で持ってかれるのは甚だ虫の好かない事だ 兵衛も当然

  心得てはいたので、先んじて切り出す。


  「今日は手付けと言っちゃなんだが1両置いて行かせてくれねえか、日を改め

   てまたきちんと挨拶に来るからさ、身請けに当たって俺が用意出来るのは

   10両ってところか、これで首を縦に振ってくれねえかな」


  「未来の名人が10両ってのは時化た話だが悪い様にはしねえでくれよ」


  店主も親として息子の意を汲む事にやぶさかでは無いので、手付けを入れた

  11両で手を打つ事となった。




  梅雨の明けた七月の某日、留次郎は天城の家にやって来た、奉行所に届けを済

  ませ小橋の本家に挨拶に行く道すがら、兵衛は留次郎に事細かに小橋での振る

  舞いについて注意を促した。


  「留次郎、今日からお前は天城惣次郎の名で将棋を指す、小橋の道場において

   は必ず下座に座る事、大声・罵倒・軽口の類もしちゃならねえ、ちいと窮屈

   に思えるかもだが、将棋盤の上じゃ自由に戦えるんだ、

   そこは少々辛抱だな。」


  「親父殿、俺は将棋の道で一番強くなりたい、その為に天城の家に来た、だか

   ら何でも言われた通りにしようと思う どうか俺を一番の棋士、名人になる

   まで見届けてくれ しがないソバ屋のガキに出来るか分から無いけど、

   一生懸命に頑張るからさ。」


  『5才の子供とは思えねえ肝の座りようだな・・。』


  「分かった、分かった、頼もしい事を言ってくれるじゃねえか、けど短気は起

   こすんじゃねえぞ、破門されたら全部お終いって事になるからな。」

   

  そう言って赤毛の頭をわしゃわしゃと撫でた。




  ひと通りの挨拶が終わったとこで小橋の道場へと向かい入門試験を受ける事に

  なったのだが、道場に着くなり惣次郎が幾つもの盤面から一つを選んで脇に座

  った。

  対局者は兵衛も良く知っている顔だ、名人小橋宗桂の孫、大助と13才にして

  次期名人と噂される柳水の対局だった。 

  柳水の目には黒い晒しが巻かれてあり、盲目なのかと思わせる体だ、それが真

  白な髪と蒼白な面持ちの中でくっきりと異彩を放つ、柳水は白子で生まれてこ

  の方、目を日光に当てる事が出来ないのだ、加えて女子である事も柳水の異端

  ぶりを際立たせていた。


  盤面は中盤から終盤へ向かう所で、柳水の手番、すうっと指した32玉に対し

  大助が指した65歩を見て惣次郎が不意に声を出した。


  「駄目だ・・それじゃ駄目なんだ。」


  この言葉に大助が声を荒げて意味を問う。


  「このガキ、横からしゃしゃり出て来て生意気な、

   何が駄目なのか言って見ろ!」


  惣次郎は大助の目を見据えてはっきりと盤面の状況と、この後の展開を説明

  してのけた あまりにも的を射た内容に大助は歯ぎしりして怒りを抑えきれ

  ずに、ついに席を立って帰ってしまった。

  このやりとりに対して柳水が声を出して笑う。


  「あは、あははは、可笑しい、 

   大助のあの顔ときたら、真っ赤になって・・。」


  辺りがざわつく、7才で小橋家に養子として入り、6年もの間ほとんど口も

  聞かず、笑った事などただの一度も無かった柳水が声を上げて笑ったのだ。

  道場にいる門弟たちがこぞって驚くのも無理は無かった。


  「君は面白い子だね、あの局面は凄く難しかったと思うけど、君は最善手を言

   い当てた、どうしてかな?」


  弾むような声で柳水が問う すぐさま惣次郎が答えた。


  「あの駒の動きを俺、見たことがあるんだ 魚屋の慎吾さんと去年の暮れに、

   ああ、慎吾さん凄く強いんだ・・それでその局面が出て来て、慎吾さんが指

   した手がさっきのあんちゃんが指した手と同じで、さっき俺が言った通りの

   形に進んだって訳さ、当然俺が勝ったんだけどね、へへへ。」


  柳水は驚いて、瞬間息を飲んだ そして小声で確かめるように聞いた。


  「もしかして君は今まで指した将棋を覚えているのかい?」


  惣次郎はすぐに答えた 

  「ああ、勝ったのも負けたのも全部覚えてるよ、

   だけど、何時、何処でってなるとはっきりとは覚えてないけどな。」


  得意げなところだけ子供だが、言ってる事は間違いなく普通の人間に出来る事

  ではない。


  「凄いね・・何て凄い、あははは、今日は素敵な日だ 君は門下生なのかな?

   初めて見る顔だけど。」


  「今日、初めてここに来て今から入門試験・・

         って場合でも無さそうだね・・。」


  横には兵衛が鬼の形相で立っていた。



  大助の憤慨を他所に、柳水の口利きでなんとか入門する運びとなり、兵衛も少

  し安堵の表情に変わった。


  「全く、とんでもねえ奴だなお前は! 何とか入門出来たから良いが、叩き出

   されても可笑しくねえところだぜ全く・・。」




  それでも晴れて小橋の門下生になった我が子が誇らしくもあり惣次郎の頭を撫

  でながら再度、言動や態度についての注意を促した。


  家に帰る途中、惣次郎は柳水について、兵衛から色々と聞かされた事で更に興

  味が沸いたようで次に道場に行くのが待ち切れない程の様子だった、しかし、

  将棋指しとはいえ平素は只の町民と同じで、子供の時分には寺子屋で勉強もし

  なくてはならない、仏滅と大安を除いた残りの日を寺子屋と道場に振り分ける

  事にした。


  惣次郎は驚くほど勤勉な子だった、寺子屋でも熱心に色んな学問を吸収して教

  師を驚かせていた、そして道場では柳水が毎度、惣次郎の相手をしてくれるの

  で将棋の方もすこぶる上達して行き、ふた月経つ頃にはもう兵衛は平手で惣次

  郎に敵わなくなっていた。





  年を重ね、惣次郎10才となり兵衛とかねてから懇意にしている湯屋の旦那か

  ら後援を受けて町将棋の試合にも出る様になった、この頃の町将棋は棋士を

  相撲宜しく番付し、実力に見合った相手と対局させて興行収入を得るエンター

  テインメントとして定着していたので、強い棋士は今のアイドルの様な存在

  だった。 

  惣次郎にはその風貌に特徴があるので「烈火の棋士」とのあだ名で人気を博す

  様になり、しかも体格に恵まれ、町を歩けば遠目でも惣次郎と分かるので、

  すぐに人だかりができる程だった。


  一年が過ぎ惣次郎の評判から兵衛の道場には入門者が後を絶たず兵衛はてんて

  こ舞いの日々だったが、それは兵衛や志津にとって至福の日々だった。

  この時の入門者の中には恐ろしく才能をもった者たちがいて、その内3名、

  坂田小次郎、佐藤力也、森升平などは天城道場三羽ガラスと呼ばれ町将棋でも

  人気があった。 

  更に後援の旅籠や問屋など増え、正に飛ぶ鳥を落とす勢いの体の天城家では

  あったが懸念が無い訳ではなかった、惣次郎と小橋家の確執だ。



  大助は小橋宗桂の娘、貴美と後藤家の棋士、天晴との間に生まれる、貴美が妊

  娠中に天晴は夜街通いを覚え、酒・女に溺れ、挙句には性病をもらう体たらく

  で、もはや夫として家には居れぬ事になり後藤家より勘当を言い渡された。

  貴美は離縁した後、小橋に出戻り、出産したが産褥の内に感染症で高熱を出し

  て少し気がおかしくなった風であり、異常なまでに我が子を溺愛するように

  なった。 

  これには宗桂も困り果てた、折角の男子に恵まれ今後の育て方次第では自分の

  後継、名人となり得る宝の子を腐らせる訳にはいかぬとの思惑で江戸から武蔵

  国にかけて才ある者を選び抜き、その内二名を養子として小橋家に住まわせる

  事にした、それが柳水と藤次だった、柳水は7才にして驚く程強く道場に入っ

  てから勝てる者は誰一人としていなかったが、12才の藤次はそれ程ではなく

  道場で上から三番を越える事は無かった、しかも男色の気があり、年下の男子

  に乱暴する事がしばしばあったので、大助に何かあっては堪らぬと貴美が半ば

  強制的に親元へと返した。


  このような事があったので尚更、宗桂は柳水を大事にした。 

  白子で周りからは妖怪だの醜女だの呼ばれ疎まれるが、それも将棋の強さから

  来るやっかみなのも明らかだった。 

  大助も将棋を覚えたての頃は姉上、姉上と呼び慕ってはいたが、貴美が警戒

  して対局以外の処では近づかない様、大助に釘を刺してからは段々と距離を

  置くようになり、やがてはある種の敵愾心めいたものも芽生えて柳水にとって

  団欒である筈の家族の食卓はもう苦痛でしかなかった。

  屋敷の端、昼なお暗い四畳半の部屋で1日の大半黙々と将棋の研究をする毎日

  が柳水の全てだった。


  柳水のそんな日々に一筋の光明が訪れる事になる 惣次郎だ。

  自分の事を師匠と呼び、屈託なく自分に接してくれる。

  日の当たる処に出られぬ自分の為に、四季折々の空気を道場に届けてくれ、

  行き場のない怒りや悲しみを真剣な眼差しで受け止めてくれた。

  なにより将棋の腕が今までに対局したどの棋士よりも優れている。

  そんな惣次郎との六年は惣次郎がまだ少年だとはいえ恋慕の情を抱くに十分な

  時間だった。

  宗桂は小橋の家に居て柳水と一番近しく接しているだけあって、その恋心に

  最初に気付いたが、惣次郎との7歳の年の差と小橋家と天城家の間にある確執

  が大きくなる事を恐れ、後押しする事を躊躇させていた。 

  それでも貴美と大助が外出してる時は二人を茶室に呼ぶなど、柳水と惣次郎の

  仲がつまらぬ横槍で駄目にならぬ様には配慮してはいた。


  惣次郎11才、大助16才の春、初段同士の二人は共に二段への昇段試験を迎

  えた。

  奇しくも試験官として今回は柳水が担当する事となり、周りはもっぱら大助に

  配慮しての選定だと思っていた。

  昇段条件は数え五の早指しで3戦中1度でも勝てば昇段で、全敗なら保留とい

  う普通に考えればそこそこ昇段の可能性がありそうだが、相手が柳水となると

  条件が厳しすぎる。

  実際、柳水と大助の戦績は初段の間で、80戦2勝と1割にも達していなかっ 

  た。

  また惣次郎も250戦45勝と2割程しか勝ててはなかった。


  身内故の贔屓で、大助の昇段を柳水が後押しする、そして惣次郎は普通に今回

  は保留だろうという結末を誰もが想像していた。

  それを一番信じていたのは貴美と大助の二人だったのは言うまでもなく、前日

  も貴美は柳水を自室に呼び、さじ加減を間違えぬようにと強く言い含めていた


  当日、大助から試験が始まった 2戦終わって柳水2勝で、次はどこかで手心

  を加えると誰もが思っていたが実際終わってみると柳水に悪手らしい悪手は無

  く、事も無げに大助を一蹴した。

  大助はわなわなと肩を震わせ、誰にも目を合わさずにその場を去った。

  周りからはどよめきが起こったが当の柳水本人も驚いていたのだ。


  『どこかで読みの抜けた手を指すつもりだったのに・・何故? せめて2歩を

   打つ筈だったのに・・ああどうしよう・・次は惣次郎だ、絶対に負けられな

   い、負けたら・・勝つしかない、勝てば取り繕う事も出来る。』


  頭の中で柳水は自分に強く言い聞かせていた。


  惣次郎が対局室に入り、柳水の前に座り、こう言った。


  「俺はてっきり師匠が大助に花を持たせると思ってた、だから今は自分が恥ず

   かしくて仕様がない、師匠はやっぱり俺にとっての憧れだ、師匠の将棋は

   誰よりも美しい、名人というより棋聖だ、俺もそこを目指して頑張る!

   今日も宜しくお願いします」


  その言葉を聞いて柳水は心の中の黒い物がさあっと流れて行く気がした。

  迷いは消えた。


  「ふふっ、相変わらず嬉しい事を言ってくれるのね でも勝たせないわよ。」


  惣次郎と柳水は同時に大きく息を吸い込んだ。


  「かかってらっしゃい。」


  「がってん承知!」



  結果、2戦までは危なげなく柳水が勝っていたが、3戦めに惣次郎の鬼手

  連発に自玉の詰みが読み切れず流水が投了、1勝した惣次郎は晴れて二段

  への昇段を果たした。


  惣次郎は、帰宅して両親に昇段した事をを喜々として報告した。

  夕餉の食卓には赤飯が並び内弟子や後援の数名が惣次郎を囲み祝った。


  ひとしきり興が落ち着いたところで惣次郎は茶室に戻り、今日の柳水との

  将棋、柳水の表情や言葉を振り返って感慨に耽っていたところに、宗桂の

  使いの者から手紙を預かった。

  今夜、柳水に会ってやってはくれないかとの内容で、柳水の部屋までの手

  引きまで含めてあった。



  使いの者の案内で柳水の部屋の前に行くと、柳水が縁側に座って月を眺め

  ているのが見えたので、小さく声をかけた。


  「師匠、お月見かい?」


  柳水は驚いて振り向いた 晒を巻いて無いので顔全体が月明かりに浮かぶ

  その左目の周りは黒くうっ血して瞼が腫れているのが遠目でも分かった。

  そして柳水の目から涙がぽろぽろと落ちる。


  「どうしたんだ、その目は・・そうか、畜生!あいつら・・」





  昇段試験が終わった後、柳水は貴美から部屋に来るように言われ、部屋に

  入った途端、貴美から激しく顔面を打たれ、衝撃で倒れたところにのしか

  かられて今度は右手の人差し指と中指をへし折られた。 

  大きく悲鳴を上げた柳水だったが、誰とて来る訳もなく、只々身動きとれぬ

  まま痛みに耐えるだけだった。


  「お前は・・何という事を・・許さんぞ・・私の大助にあの様な事・・

   恩を仇で返すとはこの事じゃっ! 今まで散々・・お父様に可愛がられ

   て良い思いをしてきただろうに、義理とはいえ弟に何という仕打ち!

   ・・・いいわ、どうせもう用済みよ、今夜は仕方ないけど明日には出て

   行って頂戴 ・・全く忌々しい。」


  自室に戻ると貴美の怒声と柳水の悲鳴を聞いた宗桂が心配して駆けつけ、

  手当をしてくれた。


  「柳水、済まんのう・・あやつは鬼になってしまったのだ、大助がなまじ

   将棋が指せるばかりに、大きく期待しすぎての・・だが得心がいかぬの

   は何故に大助に手心を加えなかったのかだ どうしてかのう・・。」


  宗桂の質問に柳水は答えた。


  「どうしてでしょう・・私にも分からないのです 緩手や悪手の類を体が

   頭が拒んでどう仕様も無かったのです・・本当に申し訳ありません・・」


  「明日には出て行けと貴美が言ったのならば仕方あるまい、ここでお前を

   庇ったところで幾ばくも無いお前の人生に光が差し込む事はないじゃろう

   ・・惣次郎には儂から言い聞かせておくので心配せずとも良い。

   儂の知り合いが八王子で療養所をやっておる、そこで養生しながら余生を

   送るが良いて、日が明けたら籠を用意させるから・・少しお前には長旅だ

   ろうが辛抱だぞ柳水、これは儂からの餞別じゃ。」


  そう言って宗桂は2両と将棋の駒を手渡した。


  その後、しばらく放心状態だった柳水だったが湯で体を拭いてから着替えて

  旅支度を整えてみると急に寂しくなって涙が溢れてきた。 

  声を上げて泣いた。

  貴美から受けた仕打ちでも無く家を出る事でもない ただ惣次郎にもう会え

  ないという現実に打ちのめされて泣いた。

  ひとしきり泣いた後、月明かりに惣次郎の面影を追いつつ縁側で佇んでいた

  ところに惣次郎が現れたのだ。


  柳水は声が出そうになったが、誰かに聞かれては台無しになると思い堪えた。

  それでも惣次郎の優しい笑顔を見て気が緩んだのか、目から大粒の涙がこれ

  程かと思う位に零れた。


  「惣次郎お・・。」 振り返る柳水の顔に残る痣に激高した惣次郎だったが

   大丈夫と言い張る柳水に静止されてなんとか踏み留まった。


  「ここに座って、ね、惣次郎」 そう言って自分の隣を手でぽんと叩いた。

   その手に施された添え木と包帯を目にした瞬間、惣次郎は、髪を逆立て、

   草履も脱がず縁台へ飛び乗る 踵を返して柳水に言った。


  「師匠の将棋を汚す阿保共は俺がぶっ殺してやる。」


  ずんずんと奥に進もうとする惣次郎の足に柳水がしがみついた。

  もんどりうって倒れる惣次郎の上に柳水がのしかかり、惣次郎の両頬を両手で

  押さえて額と額を合わせる、惣次郎の目にどちらの物とも知れない涙が溢れて

  目を開けていられない。


  「俺が・・俺がもっと強かったら、もっと大人だったら・・もっと・・。」


  「いいの、いいんだよ惣次郎、君はそのままで・・もういいの・・。」


  惣次郎は柳水の体を両手でぎゅっと抱きしめて、ごろんと体を入れ替えた。


  「師匠、済まない・・俺、もう何か頭が真っ白になっちまって・・。」


  惣次郎はそう言うと袂から手拭いを出して柳水の目を拭ってやった。


  「ありがと・・ 惣次郎、私の願いを聞いてくれないかな。」


   柳水は体を起こして月明かりの差す縁側へ惣次郎を誘った。


  「私の体を見て欲しいんだ、絶対に目を背けないで・・。」


  帯をほどいて露わになっていく柳水の肌を見つめながら惣次郎は初めて、

  柳水を師匠ではなく一人の女性として愛しく感じていた。


  「ふふっ何だか恥ずかしいな、でもね、どうしても君には見て欲しかった。」


  その真っ白な体の乳房から首に掛けてと、腹部から股の付け根あたりまで

  広がった黒い瘡蓋の様なものを指でなぞりながら柳水は言った。


  「これはね癌って言うの いずれ五臓六腑に飛んで私の体を駄目にしてしまう

   お医者さまの話では、持ってあと2年なんだって、  

   えへへっ、それを聞いた時、神様はなんて不公平なんだろうって思った。

   けど何より君と将棋を指せなくなる事が堪らなく怖かった・・。  

   それからずっと私は明けても暮れても君の事を想い続けている、 

   君の噂を聞く度に胸が高鳴って苦しくなって顔が見たくなる・・、

   好きなの・・君が・・好き。」






  惣次郎はかねてから柳水が白子故に抱えている問題を解決してやりたいと、医

  学書を読んだり、詳しいであろう医者などに話を聞いたりしていた 熱心に勉

  強していたのも難しい本を理解したいが為だった だからおおよそ最悪の場合

  がどんな物かは知っていた。

  恐れていた事が柳水の身に起こっていた。

  それに加えて突然の告白に頭も心もパニック状態だった。


  「神様は何て酷い事をするんだろうね・・俺は・・何も・・師匠に・・。」


  そう言って柳水の体に着物をかけ、強く抱きしめた。


  暫く無言で抱擁していたが、どちらともなく見つめ合う格好になり、柳水が

  切り出す。


  「口づけをしてくれないかな・・。」


  柳水のグレーの瞳が潤んでキラキラ輝いてる満月の様に見えた。


  「ああ・・俺も口づけたいと思ってたよ・・。」



  いつ終わるとも知れない口づけを、名残惜しそうに柳水が解いて

  俯きながら 抱いて と言おうとした時、柳水のお腹からきゅるきゅると

  音がした。


  『嫌だ、私ったらこんな時にい・・。』 


   顔から火が出るくらいに恥ずかしかった。


  惣次郎も少し意表を突かれたが直ぐに笑いが込み上げてきた。 

  二人してケラケラと笑った。


  「そうだ、丁度良いや 土産があるのをすっかり忘れてたよ。」


  そう言って縁台の端に無造作に置いていた包みを取ってきた。


  「今日の祝いにって小次郎さんが日本橋の折詰弁当を買ってきてくれたんだ、

   夕餉にはちょっと胸一杯で食べれなくてさ、ここに来るなら一緒に食べよう

   と思って下げて来たんだ。」


  縁側に二人並んで座り、弁当を挟んで向き合った。

  広げられた折詰めには、だし巻き卵やサバの煮つけやらが入って、良い香りを

  まき散らしている。


  「師匠は色気より食い気って訳だな ははは・って、その指じゃ箸が持てない

   なあ なら俺が食べさせてやる。」


  惣次郎がご馳走を柳水の口に運ぶ、あーんと口を開けて、ご馳走を入れて貰う

  どこにでもある、本当に子どもの頃に誰でも体験するような甘い一時。

  柳水はもう死んでも良いと思えるくらいに幸せだった 何もかもが、身に降り

  かかる幾多の試練もこの一時の為なんじゃないかと感じていた。


  一通り食べ終わって、縁側に二人肩を寄せ合い他愛のない会話が続く。


  いつしか柳水は惣次郎に持たれながら眠りに落ちて行った。

  寝床に柳水を運んで布団を掛けてやり、その透き通るほどに真白な髪を指で

  なぞる、寝顔を眺めながら惣次郎は涙ぐんだ。


  『俺が・・俺がなんとかしてやるからさ師匠・・俺がきっと・・。』


   ある決意を秘めて惣次郎は屋敷を後にした。



  貴美は柳水の部屋から漏れる物音に気付いてはいたが、その時は考えが巡らず

  後から今日の出来事を思い返してみると、邪気が沸いてきて、音を立てずに

  流水の部屋の辺りを見に行った。

  すると裏木戸から出て行く惣次郎を見つけた 悟られぬようさっと庭木の陰に

  身を潜め、惣次郎が暗がりに消えるまで見届けた。


  貴美の顔は鬼の形相だった。


   「よもやとは思ってたが・・まさか本当に天城のガキを引き込んでいたとは


    大したタマじゃないか 下賤な妖怪風情が・・後悔させてやるわ・・。」






          ~続く~

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