南佐の歩 第二章 第二話 名人と言う名の欲望
英子が天城の女中となり、道場はにわかに活気づいていた。
英子は将棋が指せない代わりに、家事全般、来訪した弟子の世話等、そつ無く
こなし、その分、南佐とエルモに時間的余裕が生まれ、対局や研究に集中出来
る様になったのだ。
更に、女子衆の給金を満足のいくものにする為、惣次郎を始め、小次郎以下、
精力的に町将棋に打ち込んで、神無月に入る頃には茶室の改装費のマイナスを
埋める程に金が貯まっていた。
志津はそろばんを片手にニコニコする毎日が続く。
そして、惣次郎にとって毎年恒例の、棋戦が始まった。
御三家及び、その門下の棋士達による、段位別総当たり戦、段位ごとの優勝者
が、下位の段から対戦して、最終的に六段位の優勝者と決勝を行う。
現在、六段位は4人、五段位は8人、四段位は16人、三段位は21人、二段
位は44人だ、惣次郎は四段なので16人の棋士と戦い、優勝しなくてはなら
ない。
去年から、今年の春にかけての棋戦は、三段位で優勝したが、四段位の優勝者
小橋宗眠の前に惜敗した。
惣次郎の胸に四段昇段の祝賀会での苦い思いが蘇る。
『もう、あの頃の俺とは違う、絶対に宗眠には負けねえ。』
各段位の予選は御三家の道場で行うが、小橋分家は道場が手狭なので、宗家筋
の二道場で二月かけて予選を行う。
各段位決勝は、市中の有名旅籠や湯屋を貸し切っての3番勝負、優勝決定戦は
京都、加賀、越後、水戸、箱根の五か所で5番勝負が行われ、勝った者が名人
への挑戦資格を得る。
しかし名人位は宗家筋の棋士による世襲制が永く続いていて、現時点では七段
位が名人のそれに当たる。
七段位を持つのは後藤家当主、後藤宗印只一人、ここ五年ほど、七段位を護り
続けている、つまり現役最強棋士だ。
宗家筋の棋士で、宗桂よりも明らかに実力は勝っている宗印が何故名人では無
いのか、
それは現名人の小橋宗桂が頑なに名人位を譲ろうとはしないのが原因で、宗桂
の言い分では、後継に相応しくないとの事、しかしこれでは只の我儘に過ぎぬ
と、お上からも名人譲位の勧告が再三に渡り小橋に届いてはいたのだ。
つまりは、宗家筋に無い棋士の最高段位は六段までという事になる。
予選開始日の前日、本所の旗本、内藤角之助邸で行われる恒例の前夜祭に、
多数の将棋関係者が参加して、今年の棋戦における各決勝戦の仕切りを確認し
つつ、棋士たちとの歓談を楽しんでいた。
当然の如く、兵衛と惣次郎はこの催しに参加して、自らの後援者らに挨拶や、
世辞などを言いながら場を和ませていたのだが、事態は急変する。
上座の中心に座っていた小橋宗桂が、すっくと立ち上がり何やら胸元から書を
取り出して、声高々に宣言した。
「私、名人小橋宗桂は今、この場をもって、名人位を降り、今棋戦の優勝者に
名人位を譲渡する、だが私は宗家の名人世襲が将棋界を衰退させると、確信
しておる、よって今棋戦は宗家の棋士以外にも、名人位を冠する機会を与え
る事をここに宣誓する。」
会場は一瞬、静まり返り、皆何が起きてるのか理解ができなかったが、宣誓の
内容に、大きくどよめきが起こった。
騒ぎ出そうとする宗家の棋士を抑えて、横に座っていた後藤宗印が、怒りを露
わにして立ち上がり、怒声を放つ。
「宗桂殿ぉ!なりませんぞ、そのようなたわ事!
宗家あっての将棋界、名人を下種な者に渡す機会を与えようなど、
言語道断、破廉恥極まりないぃぃぃぃぃ!」
聞く耳持たぬと言った風で座り直し、宣誓書を前に置き、手元の包みから匕首
を取り出して膝元に置いた。
「只でとは言わんよ、責任は取る。」
そう言うなり着物の前を開け、腹に匕首を突き立てて、横一文字に引き裂いた
呆気に取られて身動きできない周りの者たちを差し置いて、真っ先に駆け寄っ
たのは惣次郎だった。
「名人!何て事を、死なないでくれよ、名人!」
宗桂は惣次郎の顔を見て微笑んだ後、こと切れた。
惣次郎の体を宗桂から引き離す様に、宗眠が割って入る。
「ええい、爺様から離れろ!この外道が!」
惣次郎は宗眠の罵倒も耳には入らなかった、宗桂を失った喪失感と名人位への
希望が入り交じり、呆然となった。
内藤邸は大騒ぎだ、宗桂の死体の処置、奉行所への連絡、葬儀や明日からの棋
戦の段取り、皆が駆けずり回っている中、時を止めた様に、三すくみで向かい
合う三人がいた。
惣次郎、宗印、宗眠の三人だ、
宿命の対決の幕は宗桂によって切って落とされた、
まごう事無き真剣勝負に、三者が闘志を滾らせている。
名人の弟子三人がそれぞれの想いを胸に、
己が棋神に必勝を願い、必勝を請う。
想い焦がれた名人がそこにある、惣次郎にとっては夢のまた夢、半ば叶わぬと
諦めていた柳水との約束が、果たせる機会が訪れたのだ。
『柳水師匠、俺は絶対に約束を果たすよ、見ていてくれ・・』
棋戦初日、惣次郎は一戦目の相手を午前中には一蹴しその足で葬儀に向かった
寺に着くと、小橋の弟子たちが出て来て、仏前には通さぬと、バリケードを作
り惣次郎を止めるも、惣次郎は前に進もうと弟子たちの顔や首を掴んで薙ぎ払
う、そこに、宗眠が現れ、弟子たちを掻き分けて前に立ちはだかった。
「惣次郎!よくもぬけぬけと此処に来れたものよ・・
前々から度し難い奴だとは思っていたが、今回ばかりはお主の狡猾で卑劣な
やり口に開いた口も塞がらぬわ!
爺様をどう篭絡したかは知らぬが切腹までさせて名人が欲しいか、外道!」
「小せえ・・小せえよ・・宗眠!」 言って殴りかかろうとした時、先に来て
焼香を済ませ、待っていた兵衛が飛び出して来て腕にしがみついた。
「止めねえか!惣次郎、名人の思いを無駄にするんじゃねえ!
お前は棋士だろうが! こんな所で騒ぎを起こしてどうする、
決着はいつも将棋盤の上でだぜ!」
震えながら拳を収める惣次郎の前に、貴美がずかずかと現れて、惣次郎の顔に
唾を吐いた。
「帰れ外道!」
惣次郎の髪の毛が逆立った、目は赤く血走って、既に鬼の形相だ、
貴美に手を伸ばそうとしたその瞬間、後ろから首筋に手刀の一撃を食らった、
惣次郎は糸の切れた人形の如く崩れ落ちた。
伊澤が背後から咄嗟に手刀を放ったのだ、兵衛が慌てて惣次郎の体を支える。
「兵衛さんよ、息子さんの躾がなってないんじゃねえのかい?
故人を忍ぶ場だ、狼藉はやめましょうや。」
「い、伊澤さん、こいつは悪くねえ・・悪くねえんだ・・」
兵衛は悔しさから涙が零れた。
伊澤の周りにいた3人程の目明しが道を開け、与力の橘が出て来た。
「小橋家の葬儀だぜ、惣次郎には悪いがここは引き上げてくれねえかい?
兵衛さんよ、折角、お上から正式に今棋戦を名人戦とする達しが来たんだ
宗桂さんの遺志を汲んで、名人を目指すのが筋ってもんさ。」
そう言って、お上からの書状を取り出した。
「後藤家の者も目を通しておいてくれ、老中水野忠邦様の監督の元、正式に
今棋戦が実力制名人決定戦となる。 喪中ではあるが、各々励まれよ。」
書状を宗眠が拝領し、一礼をして本堂の奥へ引き下がった。
「さあ、惣次郎を表に運んでやりな。」伊澤以下、惣次郎を抱えて表に出た
伊澤が背中を気付けにぐいっと伸ばすと、惣次郎は目を覚ました、何が起き
たのか分からない風だったが、首筋の痛みから気絶させられたのだと悟った
「伊澤さんだったのか・・済まない、俺・・頭に血が上っちまって・・」
「あのまま貴美さんに手を上げたなら、お前さんは破門になっちまう所さ、
まあ、俺ならあそこに居る奴らは皆殺しだけどな、ははは。」
橘が焼香を済ませて戻って来るのを待って、惣次郎は土下座して謝意を告げ
兵衛と共に帰宅するのだった。
昨夜の内に、何も言わない惣次郎に代わって兵衛が内藤邸での出来事を皆に
伝えてあり、皆して惣次郎の名人奪取を万全の体制で援護しようと固く誓い
合っていた。
今日の葬儀でのやり取りを聞くにつけ、今後は宗家を挙げて惣次郎の棋戦を
妨害してくるに違いないと予想し、惣次郎が棋戦の時は、森が護衛に付き、
それ以外の町将棋や真剣は他の者が代打で指す事にした。
南佐も例外に漏れず、戦いの場に駆り出される事となるのであった。
茶室の改装が始まってからずっと、惣次郎と一緒に枕を並べる事が出来てい
なかった南佐とエルモは、棋戦も何も無い日を選んで、惣次郎を女子寮に誘
った。
いつもは一緒の英子も気を利かせて母屋に行き、志津と仲良く酒を飲む事に
した。
早めの風呂を済ませ、夕餉の片付けが終わった後、惣次郎は女子寮に入った
「よう、邪魔するぜ・・ってもここは俺の部屋なんだがな・・
え゛・・何ですか、これ?」
そこには行燈の灯りに照らされた南佐とエルモが一枚の布団を挟むように寝
そべって惣次郎を真ん中においでおいでしていた。
二人共髪を下ろして、普段はしない化粧をしている、内掛一枚で腰巻きもし
ていない、更に、わざと胸と太股を露出していた。
「あ、ああ・・俺ちょっと厠に行こうかな・・」外に出ようとするが外から
閂が掛けられていて戸がびくともしない。
「惣次郎・・こっちに来て下さい。」
「惣ちん・・早く来いって。」
「・・・ええい、もう!なるようになれだ!」
惣次郎は羽織を脱いで、布団に寝転がった。
待ってましたとばかりに二人が抱きつく、惣次郎も首元から手を回して二人
を両手で抱き抱えた。
久しぶりの触れ合いに二人共嬉しそうに微笑む、
ついには三人共裸になった。
真新しい杉の板が張られた天井を眺めながら、体をぴたりと密着させる二人
を強く抱きしめて、惣次郎は口を開いた。
「二人共、聞いて欲しいんだ、
俺は名人になる、絶対に、そうしたら俺は二人の事をきちんとした形で愛
して行くよ、約束する。
もう俺は、南佐と悦子無しの棋士人生を考えられなくなっちまった、
へへへ、だからさ、俺の将棋を見ていてくれ、きっとお前らに相応しい、
将棋の神様にも認められるような棋士、棋聖になるよ。」
南佐もエルモも目を潤ませて惣次郎の胸に顔を埋めた。
「でも惣ちん、この大きくなった金棒はどうすんだよ。」
「あ、それならわたしが鎮めて差し上げます!任せて下さい。」
「南佐っちよりあたしのが上手いに決まってるだろ、惣ちん任せろって。」
「悦ちゃん、ダメですよぉ、早い者勝ちですからね!」
二人で惣次郎の一物を取り合いになる。
「コラあああああああ!やめろおおおおおお!
お前ら、ぶっ飛ばすぞ!!!」
閂を外しながら兵衛の顔が綻んだ。
宗桂の葬儀も終わり、小橋の家に位牌とお骨が帰って来た。
宗桂の息子夫婦と貴美に宗眠、弟子たちや生前世話になった者らが仏前に座り
手を合わせて行く。
初七日の法要までには相当な数の弔問客が訪れて、小橋道場は棋戦の割り当て
分を分家に回して対応せざるを得なかった。
詰めていた弟子たちも一旦実家に引き上げて行き、喪が明けるのを待ってから
棋戦や弟子たちの事も再開する様になっているので、一月以上は小橋一家だけ
がこの広い道場で生活する事となる。
宗桂は、あえて遺言を残さなかった、残せば、必ず様々な遺恨を残すからだ。
家督の事、十二代宗桂を誰にするのか、今後の宗家家元として成すべき事、等
初代宗桂二百回忌の来年、全てひっくるめて名人戦に託す事とした。
幕府から賜って来た五十石五人扶持に相応しい家では無いとさえ思っていたし
天城の活躍を見るにつけ、羨ましく思った。
出来得る事なら惣次郎を養子に欲しいと切に願うが、血で血を洗うような光景
が目に浮かんで来て諦める外無かった。
宗桂が亡くなってから十日ほど経って、宗眠の棋戦初日が訪れ、宗眠は後藤の
道場へ出向いて行った。
相手は小橋分家の若手では最も将来を期待されている木屋蓮司だ、五段位8人
の中で最も強敵と見ている。
振り駒で宗眠の先手が決まると、宗眠は対木屋に向けての研究手を繰り出して
行く、局面を支配すると一気に寄せた、打ちかけ無しの大差で勝利した。
その夜、息せき切って帰ってくるなり貴美に抱きついて、勝利の報告をする。
「母上!勝ちました!やりました!木屋に勝ちました!」
「うふふ、流石は私の可愛い大助だねえ、それじゃご褒美をあげないと・・
今夜はどっちが良いかしら?」
「ち、乳房が吸いたいです! ・・それと股座も吸いたいのですが・・」
「おお、おお構わないとも、今夜は存分に味わいなさいな。」
「はい!母上!」
このやり取りは柳水が小橋を去った日から現在まで日常的に行われてきた。
親子二人が絡み合う異常な光景を、宗桂を含め、長男の雄彦も目撃していたも
のの、咎める事も外に漏らす事も出来ずに只々黙認し続けたのだ。
幕府御用将棋衆家元筆頭の家柄が地に堕ちた事の恥辱に宗桂はいかほどの苦悩
を強いられてきたことか、雄彦には想像に難く無かった、今夜も雄彦は気色の
悪さに、何度も嘔吐した。
宗桂の切腹の原因は、内心この二人のおぞましい関係が一因だと思っていた。
『誰か・・助けてくれ・・嫌だ、嫌だ、こんな思いは・・』
嫁のサトが心配して枕元で見守ってくれる、自分に将棋の才は無くとも、子は
分からない、だが貴美が居る限り、棋士としての未来は無いに等しい、五年前
元服を前に長男を小橋分家の養子に出した。
娘は貴美が怖いと言い、十一才で後藤の道場に奉公に入るも、半年程の後消息
が分からなくなってしまった。
雄彦の体重は、みるみる減ってしまい、今では庭を弄ることすらままならなく
なっていた。
「母上は、とても良い匂いがします・・
今夜は朝まで此処に居ても良いでしょうか?」
「ええ、構いませんよ大助、
でも、あの糞爺いが逝って、せいせいしましたわね・・これであなたの名人
が目の前まで来たというもの、惣次郎も今のあなたには手も足も出ません事
だわ、やっぱり天晴様の指導の賜物、天晴様について行けば必ずや我ら親子
の悲願が成就する筈、間違いない・・」
「はい、母上、天晴様がいれば名人は獲ったも同然、惣次郎のカスも、あの偉
そうな宗印も敵ではありませんよ。」
「うふふ、頼もしいわねえ・・でも万が一と言う事もあるかもです、この母が
汚れ役を引き受けましょう、安心して励みなさい大助。」
「ありがとうございます、私、母上の事、浮世一愛しております。」
「知ってますよ、うふふ・・さあ今度は背中から尻を舐めて頂戴・・」
惣次郎の2戦目は、後藤家の門下生で上町の御家人、藤原久兵衛だ。
後藤家の道場で巳の刻よりの開始だったが、小橋家の事情で対局が集中した為
薄暗くなってからの対局となった。
久兵衛の将棋は、技に頼る事もない堅実な指し回しで、惣次郎に仕掛ける隙を
与えないが、今の惣次郎には最早焼け石に水の状態だ。
棋力、体力共に充実している惣次郎の恐ろしく深い先読みの前に、一気に寄せ
られてしまい少々、遅くはなったが投了と相成った。
久兵衛は夜道に心配があるので、今夜は後藤家に泊まるとの事だが、惣次郎は
散々迷った後、森の護衛付きという事もあり、引き上げる事にした。
「惣ちゃん、良い将棋だったなあ、あの角の捌き方は良かったぜ、
見てて惚れ惚れするってもんだ、こりゃ本当に名人獲っちまうんじゃ?」
「ははは、よせよ森さん、気が早えにも程があるぜ、まだ2回勝っただけさ、
まだこれから負けられねえ対局が続くんだからさ。」
「違えねえ、気を引き締めねえとだな・・、ん?
何だこいつら、道を塞ぎやがって、おう道を開けやがれ!」
5人程の男が往来を邪魔する様に立っていた。
見るにカタギじゃ無さそうだ、刃物は持っては無いが、明らかに威嚇的な態度
でこちらを睨んでいる。
「惣ちゃん、予想通りだな、まともにやり合うと怪我するかもしれねえから
俺が盾になって時間稼ぐからよ、目一杯走って逃げるんだぜ、」
森の言葉に従い、森が敵に突っ込んだ脇を全速力で駆け抜けた、
後を追おうとする暴漢に森が次々にタックルしてひっくり返す、
そして、ゆっくりと両手を広げ、威嚇した。
「おうおう、どこのどいつか知らねえが、五人がかりたあ卑怯千万!
俺様が性根を叩き直してやらあ!」
惣次郎は背中で啖呵を聞きながら全速力で亀戸に逃げ帰った。
「はあ、はあ・・親父殿!
対局の帰りに襲われちまった、直ぐに番所に行って人手を借りねえと、5人
相手じゃ、いくら腕っぷしの強い森さんだって勝ち目は無えよ!」
「なんだって!そいつは不味いな、直ぐに番所に行かねえと、俺が頭数に入る
んなら加勢するんだけどさ・・場所は?」
「両国を過ぎた辺りだ!小次郎さん、頼む!」」
「あたしたちも行くぜ!」
エルモが声を上げた、
南佐と英子も出て来て、手ごろな棒切れを物色し始める。
「馬鹿野郎!お前らはダメだ!絶対に道場から出ちゃならねえぞ!
兎に角、父ちゃんは番所へ行ってくれ、俺は何か持って加勢しに行く!」
小次郎が真っ先に飛び出して行った、惣次郎も続く。
街道に出て、両国方向へ走り始めてすぐに正面から叫び声が聞こえた、
そしてなにやら物音、材木や竹棒の倒れる音がその辺りで響いている、
地面を蹴る音とともに森の姿が見えた、こっちに走ってくる。
大声を出して森を呼ぶ。
「こっちだ森さん!早く、こっちに!」
息せき切って二人の元に駆け込み、森はそのまま仰向けにひっくり返った。
「大丈夫か!森さん!怪我してんのか、しっかりしろ!」
「ああ・・、大した事は無えが・・多勢に無勢で、相手しながら逃げるのが
精一杯だったぜ・・」
暴漢たちは惣次郎と小次郎の姿を見て、不敵な笑みを浮かべながら近づいて
来る。
街道沿いに立っている灯篭の灯りの元、3対5の取っ組み合いが始まった。
敵方としては惣次郎の足腰が立たない位に痛めつければ目的は達成なのだろ
う、惣次郎を3人がかりで取り囲んで、後ろから一人が羽交い絞めにかかる
惣次郎が藻掻きながら振り払おうとするが、正面から腹を蹴られて腰が折れ
てしまう、うつ伏せに倒れ込んだ所に3人掛かりで蹴られ、頭を腕で守る事
しか出来ない。
「惣ちゃん!手前ら、畜生!どきやがれっ・・糞が!」
小次郎が叫んだその瞬間、砂塵が舞って人影が不意に現れた。
そして、惣次郎の回りの暴漢3人を長い棒の様なもので次々に打ち払って行
く。
小次郎ともみ合っていた暴漢が、それを見てひるんだ隙に小次郎が顔面に拳
を打ち込む、もんどりうって倒れた暴漢は、劣勢と感じて一目散に逃げて行
った。
森の相手も後を追うように逃げて行ったので、残りの3人も慌てて、転がる
様に逃げて行った。
小次郎は直ぐに惣次郎の元に駆け寄った。
「惣ちゃん、大丈夫か、しっかりしろ!惣ちゃん!」
「ああ、大丈夫だ・・ちょっと脇腹を何発か蹴られただけさ・・
それより、誰が・・えええ、」
そこには棒っきれを手に、放心状態の英子がいた。
「英子、お前凄えじゃねえか・・まるでどっかの剣客みてえだったぜ、
・・・おい、英子?!」
「あ、ああ・・無我夢中で棒を振り回したら上手い具合に当たってくれたよ
只の偶然さね、でも三人共無事で良かった・・」
惣次郎に肩を貸しながら、森も英子に感謝の意を告げた。
それから四人で帰途に就いてすぐ、御用提灯を持った目明しの修と、岡っ引
きの段が急ぎ駆け付け、事情を聞いた後、天城まで護衛してくれた。
そして翌朝に森が、伊澤に暴漢の人相や状況などを報告する事を約束して、
今夜の騒動に終止符が打たれる。
惣次郎があちこち打撲の痛みを訴えたので、体の汚れを落とした後、茶室で
南佐とエルモの看病で床に就き、直ぐに寝た。
森も疲れたのか、体を拭くと夕餉の残りを掻き込んで、道場の隅で座ったま
ま眠りに落ちていた。
宵の口、起きているのが、小次郎と英子だけになった。
「英子、少し寝酒に付き合ってくれねえかい?」
「たまには二人っきりで飲むのも悪くないねえ、じゃあちょっと燗つけして
くるよ、待ってておくれ。」
そう言って台所に行くと、手際よく燗をつけ、戻って来た。
小次郎は、行燈の明かりの下で将棋盤と睨めっこだ。
「うふふ、小次郎は本当に将棋が好きだねえ・・さ、一献・・」
「おっとと、ありがとよ、じゃあ英子も一献・・さあさ。」
一杯目を互いに一気飲みして、また同じようにおちょこに注ぐ。
しばらくは対面で座っていた二人だったが、燗つけしてきた分が無くなる頃
には、寄り添い、肩を並べていた。
「英子よう・・、ちょっとかしこまった言い方ですまねえが、今夜の事、
ありがとうな、感謝してるぜ・・
惣ちゃんに大した怪我が無かったのは英子のおかげだ・・
惣ちゃんは、何て言うのかな、俺らの星っつうか、憧れって言うのかな、
出来る事なら、惣ちゃんには名人になってもらいてえのさ、
そしたらさ、俺も名人になれるかもしれねえじゃねえか、ははは、
だから、こんなとこで惣ちゃんには挫けて欲しくねえっつう訳だ、
あれれ、俺何言ってんだ、酔っちまったかな、へへ・・」
「小次郎・・あんた良い人だねえ・・
それに引き替え、あたしときたら・・、うううっ、うっ・・」
「お、おい英子、何で泣くんだよ、ちょっと変だぜ・・
もしかして、何か思い出したのか?!
何でも良いから教えてくれねえか、悪いようにはしねえからさ、」
「あたしさ・・あいつらを棒で打ち付けた時、記憶の一部が見えた気がした
のさ・・
もしかしたら、あたし人を殺めてるかもしれない・・そんな筈ないって、
いくら否定しても頭の中に、血なまぐさい光景が浮かんでは消えするんだ
怖いんだよ・・もし過去に地獄に堕ちるような事をしてたと思ったら・・
図々しく世話になった挙句、何か不味い事に巻き込んでしまうんじゃない
かってね・・ううっ
でもさ、もしもあたしが狂っちまったら小次郎、あたしを殺しておくれ
あんたに殺して欲しいんだ・・
初めて見た時から思ってた、この人はあたしの運命の人だって、
・・・適当言って済まないね・・今夜の事は忘れておくれよ・・」
「もう何も言わなくていい、英子はもう天城の家族と一緒なんだ・・
へへへ、俺に殺してくれだぁ? そん時は一緒に死んでやるさ、
弁天小僧の名に懸けて約束するぜ、任せな。」
そう言って英子の体をきつく抱きしめた。
子供の様に泣きじゃくる英子の頭を撫でながら、小次郎も熱いものが込み上げ
てきて、涙を零した。
英子が顔を上げて小次郎を見つめる、小次郎も英子を見つめた。
照れ臭いような、恥じらうような口づけだった。
余韻を名残惜しむように二人は抱擁を解く。
「今夜の事は俺とお前だけの秘密だ、仮に何かまた思い出したら俺に言うんだ
約束だぞ。」
「ああ、約束・・約束するよ。」
「うん、それでいい・・さあ宵越ししちまったな、そろそろ休むとしようかね
俺は、ここに布団を敷くから英子は寮に行きな・・っと
つうか何でおれの事、運命の人だって思ったんだい?」
「うん・・何でだろうね・・でも初めて見た時に頭に浮かんだんだ
玉を落として一間龍、って不思議だろ、あたし将棋なんて知らないのにさ」
瞬間、小次郎は、カガリの魂が成仏したんだと悟った。
『カガリ・・思い残す事は無いって事か、安心したぜ・・
俺があの夜、作った七手詰〔行燈〕解けたんだな・・』
「へえ、そいつは不思議な事もあるもんだ、もしかして将棋の才能があったり
してな、そうだ明日から暇を見て、将棋教えてやるよ。」
「そうかい、嬉しいねえ楽しみにしとくよ、おやすみ、ありがとう。」
惣次郎襲撃から一刻ほど後、日本橋にある後藤宗家の屋敷に数人の男が人目を
憚るかのように入って行った。
「宗印様、例の者共が戻りまして、報酬を要求しております。」
「で、首尾はどうだったのだ?」
「惣次郎にそれなりの手傷を負わせたと言っております。」
「それなり・・ねえ、まあ良い、約束の金、渡してやれ。」
「はい、そのように。」
『ふん、天城のガキが、つけ上がりおってからに・・下賤なカスが名人などと
夢に見る事すらおこがましいわ、まあ実力は多少認めよう・・
だが、絶対に名人にはさせるものかよ、絶対に。」
思い立った様に燭台を手に取り、火を付けた。
そして床の間の掛け軸を外すと、壁を横にスライドさせる。
隠し階段がそこにはあった、ひたひたと階上へ進むと、宗印の部屋の真上辺り
屋根裏部屋が作ってあって、そこの行燈に灯を灯す。
屋根裏が、行燈の明かりの元くっきりと浮かび上がる。
部屋の3分の1を仕切っている格子の奥に女子が座っていた。
眩しそうに目を細める、真っ白な着物に身を包んでいるのに加え、髪は膝ほど
まではあるだろうか、銀色の髪に翡翠の如き眼球が、浮世のものとは明らかに
違うと言っている。
「こんばんは、水晶。 ご機嫌は如何かな?」
続く




