南佐の歩 第二章 第一話 しじみ売りの女(後)
後藤天晴の姿が惣次郎に不穏な空気を感じさせるが、しかし尾行が優先だ、
小次郎のの言っていた旦那の人相から、天晴が旦那という可能性は無いので
天晴の事は後で、それとなくカガリに聞いてみようと思った。
惣次郎は、距離を取りながら後ろを尾けて行く。
兵衛が張っている四ツ目通りの辻角までもう少しの所に来たが、カガリに怪
しい動きは見えないし、旦那さんと待ち合わせている素振りも無い。
これは間違いなく駆け落ちの線で決まりだと思い、姿を見せる事にした。
「よお、カガリさん、昨日は小次郎さんが世話になっちまって・・」
後ろ側から不意に声を掛けたのもあるが、カガリはビクっとこわばり、刹那
身を翻した、故意にかどうかは分からなかったが、しじみ桶を吊っている竿
が、惣次郎の頬をかすめた。
「ああっと、御免よ! ・・なんだ、烈火じゃないか・・びっくりしたよ。」
「危ねえ、危ねえ、俺のほっぺたが飛んで行くところだったぜ。」
愛想笑いを振りまきながらも、惣次郎はカガリの身のこなしが普通の女では
無い事を感じた。
「俺、てっきり旦那さんと一緒かなと思ってたから、一人で来たって事は、
小次郎さんと駆け落ちするんだね、へへ、小次郎さんは船小屋で待ってる、
でも良かったぜ、旦那さんが来てたら結構な修羅場になるから、誰かれ怪我
なんかしたら目も当てられねえって。」
「坂田さんは船小屋で待ってくれているんだね・・嬉しいねえ、
というより烈火は、何でこんなとこに居るのさ、亀戸神社辺りでで待って
たんじゃ無いのかい?」
「ああ、俺もそうしたかったんだが、親父殿が心配性でさ、
だって刀なんて持って来られたら怖いじゃねえかよ、いくら南佐の知り合い
の用心棒っつったって斬り合いじゃ、死人が出るかもしれねえだろ、俺らの
手に負えなくなっちまう、いくら辻斬りでもカガリさんの旦那さんだ、死な
せたくは無いさ。」
「ああ、でもあの人なら、今日は来ないよ・・
あたし一人さね、だから心配はいらない、坂田さんと、どこか住み良い処を
見つけて暮らしたいな、ってね・・少し虫が良すぎるかな、御免よ。」
「そうかい、それなら安心だ、俺はこの先にいる親父殿にカガリさん一人だっ
て事を知らせて来るよ、その後、一緒に船小屋まで行こうと思うんで、ちょ
っと待っててくれよ、ああ・・っとそれなら今夜は二人の送別会をしようと
思うんだ、親父殿にもそう言っておくよ、へへ。」
「ああ、そいつは嬉しいよ、兵衛さんに宜しく言っておいておくれ。」
言いながらカガリは、ほくそ笑んだ。
『こりゃあツイてるねえ、惣次郎をどっか人気の無い所で斬ってしまおう、
後は、はああ・・予定通りさね、堪らないねえ、疼いて来たよ・・ふふ。』
兵衛にカガリが一人で来たという事を告げて、惣次郎はカガリの元に戻り和気
あいあいの様で船小屋へと向かった。
兵衛は自分の出る幕は無いのが残念そうだったが、急ぎ道場に帰って皆に今夜
は小次郎の送別会だと告げ、近所の酒屋に普段は買わない吟醸酒を買いに行き
店主から博打は控えなよ、と諭された。
兵衛から、カガリが一人だという事を聞いたエルモは、少し拍子抜けだったが
これで大捕り物を回避出来るので、小次郎の事は寂しいが、ほっと胸を撫で下
ろす。
早速、井戸に水を汲みに行くと言って出ると、神社の境内脇の梅の木陰に待機
している南佐に連絡した。
《南佐っち、どうもその用心棒は必要なさそうだぜ、カガリって女は一人で船
小屋に向かってる、ああ、惣次郎も一緒だ。》
《あらら・・カガリさんは小次郎さんと駆け落ちを選んだんですね、じゃあ捕
り物にはなりませんか・・でも何か不自然な気がしますけど。》
《ああ・・そうだな、仮にも宿をやっているなら、今は旦那さんが寺にいるっ
て事になるな、その寺に様子を見に行ければはっきりするんだけどな。》
《ええ、小次郎さんとの関係を旦那さんには内緒で出て来るとはいえ夕方に、
しじみの仕入れに出るというのは無理がありますよね・・
ちょっと用心棒さんに相談してみます。》
この会話を横で聞いていた用心棒は、やれやれと言った風で南佐に一瞥を入れ
て、懐から財布型の携帯端末を取り出して、素早くフリック入力ををする。
「今、蔵人様にお願いして、ドローンを寺に飛ばしてもらったので、ちょっと
待ってて下さい。」
南佐と一緒にいる用心棒の男、アジャスターの名は九重と言った。
蔵人とはディメンションゲイザーの管理人で、九重の上役というか主といった
感がある。
南佐は奉行の山本から、アジャスターの使用権限を持つ蔵人を紹介された。
九重は、蔵人からの命で、今回の捕り物の収束を任されたのだ。
しかし、南佐は心なしか不安だった。
九重に人の気配を感じないのだ、浮世離れした風貌に、感情のこもっていない
喋り方、想像するにアンドロイドなのだと南佐は思った。
九重の身なりは、色白で銀髪碧眼、黒の作務衣に半ズボン、厚底のブーツを履
いていて、背はそれほど大きくは無く、やせ型の上、武器を持っている様子は
無い。
頼りないと言えばそうだが、それだからこそ、何か不気味な感じがする。
しばらくして大鳥居の下を、惣次郎とカガリが通って来る。
さっきまで、まばらにいた参拝客もいなくなり、宮司や巫女も灯篭に火を入れ
た後、社に戻って行ったので、南佐から見る限り、池から境内まで人影は無い
薄暗くてはっきりは見えないが、太鼓橋の袂でカガリが草履の鼻緒を直そうと
しゃがみ込んだ様に見えた。
惣次郎は気付いて無いのか前をずんずん歩いてくる。
九重の携帯端末がドローンからの映像を受信した。
寺の本堂の内部映像だ、赤外線による補正が効いてはっきりと様子が見える
瞬間、九重は察した、カガリこそが今回の辻斬り騒動の張本人だと。
映像を後ろから覗き込んでいた南佐も、カガリの本当の姿に気付く。
「九重さん、言ってなかったのですが、カガリさん・・ヴァガボンドです!」
「 ーっ!何故それを先に言わないのです!」
九重は惣次郎の身に迫る危険に、境内に飛び出す、
カガリの手には抜身の細い刀が握られている、桶を吊っていた竿は仕込み刀だ
カガリは、すうっと刀を振り上げる、惣次郎は気付いていない、が、九重の姿
に気付いて、前のめりに足を進めた。
これが功を奏した、カガリの袈裟懸けに振った刀が宙を斬る、刹那、二の太刀
をカガリが放った。
惣次郎の背中を逆袈裟に切り裂く筈の刃は惣次郎の膝裏付近で、ビタリと停止
していた。
九重が惣次郎に抱きつく様にして、咄嗟に出した足裏が刃の上昇を防いでいる
同時に、惣次郎の首筋に無針注射器で睡眠剤を投与した。
瞬間、惣次郎は意識を失い、九重にもたれかかる。
「柳水師匠・・生きて・・」
「カガリ・・君は、この僕、九重が処理する。」
そっと惣次郎を寝かせる九重に斬りかかりたいカガリだったが、只ならぬ気配
に少し距離をとった。
「糞ガキぃ、あんた何者だい? 只の用心棒じゃないねえ・・
お上の手下でも無さそうだけど、邪魔だてするってなら切り刻んで魚の餌に
してやろうか。」
「僕は君の様な、はぐれ者を消す為に造られた人形だよ、誰の手に堕ちたかは
想像が付くから、手加減はしない、かかっておいで。」
南佐が足元の惣次郎に駆け寄って来て安否を確認すると、境内脇の灯篭の下に
身を隠した。
「全く、忌々しいガキだね、あたしを消す?手加減はしない? 上等だよ!」
風を巻いてカガリが襲い掛かる、速い、常人のそれでは無い、
剣技も恐ろしく熟練している。
何らかの肉体改造と、脳に剣技の圧縮プログラムがインストールされていると
九重は確信した。
『全く・・厄介な事をする、僕らが人間を殺せないからと言って、好き放題だ
でも、ここでヴァガボンドを逃がしたら蔵人様にバカよばわりされてしまう
真面目に本気出さないとね。』
カガリは時折、刀をレイピアの如く突き出して、九重に距離を詰めさせない、
懐に入られてしまえば長物は却って邪魔になるだけだからだ。
しかし、徐々に間合いが近くなって行く、刀を持つ腕を器用に折り畳みながら
斬撃を繰り出すが、九重は尽く手の平、手の甲で、はたき落とす。
カガリが後退を余儀なくされる、攻撃の手を止めれば即、九重の反撃が来る事
が分かっているので、必死になって攻撃を続けた。
「はあ、はあ、ガキがぁ!舐め腐りやがって!
ぶっ殺す!ぶっ殺してやるよ!さあ来なよ、来てみろってんだ!」
猛り狂うカガリではあったが人の体の限界を迎え、明らかに斬撃の速度が落ち
て行く、そしてとうとう刀の一振り、一振りが波打ちだした。
腰は折れ、ふらふらになりながらも、刀を振り上げ、振り下ろす。
「哀れだね・・終わりにしよう。」九重がカガリの首を鷲掴む。
「がっ、がはっ・・、糞っ、糞ガキが・・」
九重の手が淡く光を放ち、カガリはカクンと首を折った。
力の抜けたカガリの体を、まるで手拭を肩に掛ける様に、ふわりと抱え、南佐
のいる梅の木の所へ戻って来た。
「あ、あの・・、九重さん、カガリさんはどうなるのでしょう・・」
「分かりません、只、ヴァガボンドとなったイコライザーは、過去に於いて、
デリートされてない例はありませんので、この人も間違いなくデリートされ
ると思います、残念でしょうが。」
「デリートとは死を意味するのでしょう?
あなた方は自らの意思で人を殺せない筈、カガリさんをどうしようと・・」
「色々、方法はあります、でも、あなたの知るところではありませんよ、
それより、惣次郎が目覚めたら、必ず、僕の事を聞いてくるから、上手く
はぐらかしておいて下さい、では失礼。」
そう言って九重は、腰のあたりから風呂敷の様な物を引っ張り出すと、カガリ
の頭の上から被せた。
するとカガリが肩から消えてしまった、光学迷彩のシートなのだろう。
振り向く事もなく、大鳥居に歩いて行く姿が夕闇に紛れて行く。
南佐は込み上げてくる無力感に涙を零して叫んだ。
「殺さないで!お願いです、殺さないで!」
南佐の声に、提灯を持った宮司が出て来たので、南佐は急いで刀を池に投げ捨
てて、惣次郎を茂みの奥に隠した。
そして小次郎の待つ船小屋に向かいながら、事の収束をエルモに報告する。
《やっぱりな・・カガリって女、何か弄られてる気がしたんだ、
自己のメンタル崩壊からヴァガボンドになったなら人斬りにはならないぜ、
誰か裏で手を引いてる奴がいるな・・取り敢えず、小次郎にはカガリが来れ
ないって事を言わなきゃならねえ・・惣次郎にも、もっともらしい言い訳を
取り繕っておかねえと・・、ああ、もう!イライラするぜ、どうにか出来る
のかよ、南佐っち。》
《はい・・なんとかします・・けどカガリさんが心配です、ううう・・》
《バカ野郎!あんな殺人鬼なんか、どうなったって良いじゃねえかよ!
危うく惣次郎が死ぬところじゃねえか、とにかく船小屋に行って、小次郎に
上手く説明するんだぞ、いいな!》
エルモの言う事はもっともだが、南佐にはカガリの本質が悪では無い様に思え
て仕方なかったのだ。
南佐は苦しいながらも涙目で説明する。
境内に突然現れた旦那さんと用心棒が激しく戦った事、その際に惣次郎が橋の
欄干で頭を打ち、意識を失った事、用心棒が旦那に斬られて動けなくなった隙
にカガリが旦那に連れ去られた事などを小次郎に告げると、小次郎はすぐさま
深川に行くと言って飛び出そうとするが、南佐が必死になってしがみつき、何
とか制止するも、小次郎は事の成り行きが、どうにも納得いかない様子で、顔
をぐしゃぐしゃにして南佐の襟首に手を掛け、言った。
「どうして、こうなるんだよ・・どうして・・南佐っちよう・・
上手く行くって言ってたじゃねえか・・上手く行くってよ・・」
小次郎の目から、涙が零れ落ちる。
南佐は、すみませんと何度も繰り返し、泣き崩れた。
小次郎は一しきり泣いた後、南佐に謝罪した。
「南佐っち、責めるような事言って済まなかった、
余計な事に首を突っ込んだのは俺だ・・だから、これは皆を巻き込んだ
俺の、罪の報いなんだと思う事にするさ、
色々と動いてもらって、ありがとうな、さあ惣次郎の処へ行こうぜ、
目を覚ましてるかもしれねえからよ。」
「はい・・っ、ううう、ありがとうございます・・」
目を覚まさない惣次郎を、二人で挟む様な恰好で支えて歩き、亀戸神社を後
にした。
道場では、兵衛や森に力也、康太が賑やかに送別会の席を囲んで、盛り上が
っていた。
口々に、小次郎の良かった所や、悪い所を言い合っては惜別の想いを、噛み
締めながら、飲んで食べていたのだが、失意に暮れた小次郎の帰宅は、皆の
背中に冷や水を浴びせる様なもので、惣次郎の昏倒というオマケも付いて、
完全にお通夜状態になってしまった。
南佐は改めて皆に今回の計画が上手く行かなかった事を謝罪し、惣次郎の
傍らで、無言のまま、目が覚めるのを待ち続けた。
エルモのフォローが利いて、小次郎含め、皆は南佐を責める様な事も無く、
この小次郎の駆け落ち騒動が、静かに幕を下ろした事を感じていた。
翌朝、惣次郎が目を覚ました、いきなり起き上がり様「師匠!!」と叫んで、
辺りを見回す、道場の客間だと気付くのに暫くかかったが、すぐさま惣次郎の
声に気付いて駆け寄る南佐を掴んで、問いただした。
「南佐、俺は・・、あっと・・今は朝なのか、俺は神社の鳥居をくぐって橋を
渡った後・・、いけねえや、記憶が曖昧になっちまってる・・
でも、目の前に柳水師匠が居たんだ、いや・・似ている誰かなのか、分から
無いけど、絶対に柳水師匠と関係がある筈だ、南佐、お前も境内にいたなら
見ただろ? あの銀髪で色白の・・」
「惣次郎、落ち着いて下さい、その方は、私が頼んだ用心棒さんです。
名前を九重さんと、おっしゃってました。 それ以外の素性を私も聞かされ
てはいないので、何処の方か分からないのです。
惣次郎が、その柳水さんと間違えるという事は、余程似ているのでしょうが
恐らく関係は無いと思います、夕闇で、少し特徴が似ていた事もあり、そう
思い込んだのでしょう・・それよりもカガリさんが・・」
そこに小次郎含め昨夜から詰めてる者が集まって来た。
皆、惣次郎が無事に目を覚ました事を喜んだが、小次郎とカガリの事を思い出
すと、手放しで喜べないのも確かだった。
「小次郎さん、カガリさんはどうしたんだい?
・・・南佐、カガリさんは・・まさか、神社で何かあったのか?!
おい、皆! 何とか言えって!」
そこにいる誰もが口を開けなかった、、救いの手を差し伸べて欲しいと、
隣同士、顔を見合わせるばかりで、境内での出来事を伝えあぐねた。
矢面に立ったのはエルモだった。
「惣ちん、カガリは旦那に連れて行かれちまった、境内に、いきなり旦那が
現れて用心棒と激しくもみ合いになったんだそうだ、もみ合いの最中、
旦那が用心棒の隙をついて、カガリを連れて、逃げて行ったんだってよ、
惣ちんが気を失ってる間の事さ、
だからさ、惣ちんも南佐っちも、用心棒さんも悪くねえよ、一番辛いのは
小次郎だ・・なあ・・」
「分かるかよ! そんなんで良いわけねえだろ!
小次郎さんは諦めきれんのかって話さ! 俺は納得いかねえ!」
言うなり布団から飛び出した。
そして勢い小次郎の腕を掴んで睨みつけ、表に引きずって行く。
「小次郎さん!男ならここが勝負じゃねえのかって話さ、間に合うかどうか
じゃねえ、行くしかねえよな!」
「ああ、そうだ、そうだとも!俺はカガリが好きだ!愛してる!」
二人は深川に向かって駆け出して行く。
二人を追って出た南佐とエルモは、二人を待っている事の顛末が、更に失意
を深めるのが分かってはいたが、止める事が出来なかった。
惣次郎と小次郎はずんずん寺へ向かいながら、カガリ奪還計画を練る。
もう半町先程の所で、寺の方角から煙が上がっているのが見えた。
二人は顔を見合わせ、よもやという思いに駆られる。
「まさか・・じゃねえよな小次郎さん、急ごうぜ!」
寺の前まで来ると野次馬や、目明しと岡っ引き、火消しの〈ま組〉の連中と
で、ごった返していた。
小次郎が野次馬の一人を捕まえて問いただす。
「おい、兄さん、こいつは何の騒ぎだい? 教えてくれねえか。」
「ああ、何でもこの寺で宿をやっていた京極左衛門って浪人が、この深川で
辻斬り三昧だったんだが、嫁にバレちまってさ、自首しろだのしねえだの
あったんじゃねえのかな、嫁を殺して講堂に火を点けた挙句、手前は本堂
でハラキリって話さ、怖いねえ・・
ちょ、おい、あんた大丈夫かい、顔が真っ青だよ、おいって。」
「で、よお・・女の方の死体は出た・・の、かい・・」
「あんた、本当に大丈夫かい?震えてるじゃねえか。」
「いいから!教えてくれって!死体は出たのかよ!」
「あ、ああ、半刻ほど前に、消し炭になった人が運ばれて行ったよ、嫁か
どうかは知らねえが、まあ間違いなく、嫁だわな。」
小次郎がその場で膝から崩れ落ちた、
慌てて惣次郎が小次郎を支えるも、心身共にぐったりしている様で生気が無い
「畜生!畜生!何でこうなるんだ!何でだよおおお!」
無慈悲に晴れ渡った空に惣次郎の声が響き渡る、たなびく煙を見上げる様に
涙を堪えるのだった。
道場に帰り着くなり、二人共、倒れ込んだ。
喋る気力が僅かに残っている惣次郎から伝え聞いた話は、およそ最悪の展開
というべき物で、皆、肩を落とし、お通夜第二幕といった様相を呈す。
小次郎は、意識はあるものの、体を動かす気力を失った様で、床に伏せては
すすり泣く様が、皆を悲嘆に暮れさせた。
それから三日が経ち、小次郎が、ようやく歩ける様になって天城の皆が安堵
し、小次郎にゆっくり傷を癒すように促すも、小次郎の未だ憔悴した表情に
皆も明るく振る舞えはしなかった。
昨夜から降り続いている雨が、道場の重い空気に輪をかける。
あいにくの天気ではあるが、ようやく茶室の改装が終わり、棟梁と検分して
金の残りを支払い、引き渡しになった。
しかし、家主の惣次郎がまだ気持ちに整理がついてないのか、元気なく茶室
を眺めては、溜息をついていた。
多分、今回の一件で皆、自責の念に駆られてはいただろうが、一際大きく、
心を痛めていたのは、間違いなく南佐だろう、家事をしていても、時折俯き
唇を噛んで、思い悩む様が見てとれたし、夜も眠れてないのか、目の下には
クマが出来ていた。
エルモは思った。『南佐っち、どこかへ消えたりしねえよな・・』
エルモの予想は当たっていた、南佐の動向を逐一追っていたエルモは、
南佐が出て行く為の、書置きを認めている所を見つけて、取り上げて
破り捨てた。
そして、泣いている南佐の頬にビンタを一発入れた。
「あたしは、あんたが出て行くなら、死ぬ、もうあたしとあんたは運命共同体
なんだ、勝手は許さない、いつまでメソメソしてんのさ!
いい加減に気付いたらどうだ、ここはお前の家なんだ、折角、こんな素敵な
家族が出来て、人として臨む生き方が出来る、何て幸せな事だよ!
なあ、南佐っち・・皆、あんたに救われているんだぜ、口じゃ言わないけど
お前が笑顔でいるだけで、皆が幸せな気持ちになる。
それだけで、ここに居て良い理由になるじゃねえかよ、ハナっから心配する
様な事じゃねえのさ、あんまり落ち込んでるなら、惣ちんを寝取っちまうぜ
あの唐変木が南佐っちに手を付けねえのは、そんなとこだぜ、きっと。」
「うん、うん・・ごめんね・・悦ちゃん、ごめんね・・」
「ごめんじゃねえ、ありがとうだ、へへへ」二人は強く抱擁した。
エルモと同様に南佐の異変に気付いて様子を伺っていた兵衛と志津も、目を
合わせ、ほっと胸を撫で下ろす。
しかし、小次郎の失恋の痛手は、これほど簡単ではなかった。
その翌日、読売の辰が、深川で起きた辻斬り事件の詳細を、脚色した内容を交
えて瓦版にしたものを、亀戸神社の前で撒いた事が小次郎の逆鱗に触れた様で
神社の前で辰と喧嘩になり、小次郎は伊澤から厳しく注意を受けた。
その後も小次郎は、贔屓の湯屋での対局も欠席したり、深酒が過ぎて、店から
苦情が来るなど、散々な有様で、天城でも少し持て余し気味だった。
何か立ち直るきっかけがあればと、天城の皆が心配していた矢先の事だった。
残暑の残る長月の二日の午後、さっきまで照り付けていた日差しが嘘の様に雲
が分厚く広がり、雨を降らせ始めた。
南佐とエルモは洗濯物の回収におおわらわで、黄色い声を上げながら、物干し
と縁側を行ったり来たりしている、一通り回収した後、志津が、夕餉に使う魚
の買い出しに行って欲しいと、南佐にお使いを頼んだ。
玄関を出て、表の木戸をくぐり、傘を広げる。
ふと横を見ると、女が雨宿りしていた。
女は申し訳なさそうに編み笠を取って南佐に話しかけた。
「あ、御免なさい、いきなり雨が降って来たんで雨宿りさせて貰ってます。」
南佐は驚いて、一瞬声が出なかった。
雰囲気は違えど、女はカガリだった、焼け死んだとばかり思っていたカガリが
そこにいた。
「いえ・・構いませんよ・・」言いながら南佐は理解した。
管理者の蔵人が、カガリを殺さずに、再調整して、天城にまた寄越してくれ
たのだと。
『うふふ・・ありがとう・・蔵人さん、ありがとう・・』目から涙が零れた
怪訝な表情で、見つめるカガリに南佐は聞いた。
「お姉さんはどちらから来られたのですか? お名前は?」
「・・・それが、あたしってば何にも覚えてないんですよ・・
自分が何処の誰かも分らなくて・・
ここに来たのも、神田の辺りから、見覚えのある様な景色を辿って・・
只、雨が降り始めた時、この木戸が何か懐かしく感じてつい雨宿りをさせて
もらいました・・
御免なさい、初めて会ったのにこんな話聞かせて、雨が弱くなったらお暇し
ますんで、もうちょっと雨宿りさせてくださいな。」
「ええ、ええ、構いませんとも、折角なので道場に上がって休んで行かれては
どうですか? いや、上がって行って下さい、ささ、どうぞ。」
戸惑うカガリに有無を言わせず手を引いて行き、玄関先で待ってもらった。
どたどたと道場に駆け込む南佐に皆が驚き、何事かと手を止める。
「皆さーん!カガリひゃん、カガリさん生きてみゃひた!」興奮して噛んだ。
「何だってえええええええええ!」
「今、玄関先に待たせています、が、理由は分からないのですが、
記憶を失くしている様です。」
「何だってえええええええええ!」
この突然の報告に一番驚いたのは小次郎だろう、だが生きていてくれた事が
小次郎にとっては何より嬉しくて、立ったまま男泣きしていた。
「南佐っち・・早く、早く会わせてくれ・・」
「ちょっと待って下さい、小次郎さん、この状況は好都合ではないですか、
カガリさんは死んだ事になっている、
だったら新しくやり直す良い機会だと思いませんか?
小次郎さんには申し訳ないですが、玄関先で待ってる女性はカガリさんでは
無いという事で接して頂きます、じゃあ呼んできまっす!」
カガリは道場の廊下をきょろきょろと物珍しそうに眺めながら皆の待つ大広間
に入って来た。
南佐が手招いて上座に誘った。 ちょこんと座って照れた風に目を伏せる仕草
が何とも可愛い。
エルモがお茶を運んで来た。 エルモの表情が変わる、そして少し手が震えて
る様に見えた。
エルモはすぐさま南佐に目配せして台所に呼びつける、そして興奮気味に口を
開いた。
「カガリのソウルコード、はっきりとは分からねえけど、あたしの姉ちゃんの
コードが上書きされてるみたいだ、
何か凄く懐かしい感じがしたんだ・・どうしてあたしの姉ちゃんのコードを
上書きしたのか・・蔵人ってやつ何考えてんだろうな。」
「ひらめきましたぁ!
悦ちゃんのお姉さんはもう亡くなってますよね、そして奉行所の方々には、
亡くなった事は知られていない、だったらカガリさんを、本当に悦ちゃん
のお姉さんにすればいいんですよ!
奉行所から問われても、これなら大丈夫じゃないですか!
ああ、私ってば天才!早速全体会議ですよぉ!」
ニコニコしている志津と向き合って、訳も分からず茶を飲むカガリを置き
緊急会議が客間にて行われた。
南佐が提案するエルモの姉という設定を基に、今後の対応が検討された。
会議で決定された内容は以下である。
① カガリの記憶が戻る戻らないに関わらず、〔井英子〕と名乗ってもらい
悦子の姉という体で天城に住まわせる
② 身の振り方が決まるまでは、道場の女中として働いてもらう
③ 住み込みするとして母屋は危険なので、茶室を今後は女子寮として使う
④ 口裏合わせを完璧に行う
⑤ カガリ・しじみ・辻斬り、が禁句
しばらく天城で面倒を見るとの提案に、最初は遠慮気味だったカガリだったが
皆の懐の深さに甘える事となり、女中として天城道場に住み込みで働く事と相
成った。
彼女本来の性格なのか、カガリだった頃の妖艶さは鳴りを潜め、素朴で朗らか
な印象に変わって、残念そうな森以外は皆が、こっちの英子が良いと、口々に
褒めていた。
雨も上がって、夕暮れの縁側に座ってる英子の横に、小次郎が座った。
「英子さんよ、天城の家はどうだい、 上手くやっていけそうかい?」
「ええ・・、やるしかないと思ってます。
ここは、何か昔から知っているみたいに自然に溶け込める・・
なんとも居心地が良いんです、 凄く、幸せな気分になる。
それでね坂田さん・・これからお世話になります、どうぞ宜しく。」
向き直って三つ指を付き、深々と頭を下げた。
「いやいや、頭を上げなって英子さん、こっちこそってやつさ、
宜しくな。」小次郎も向き直って頭を下げる。
二人共合わせた様に笑いが込み上げて来て、くすくすと笑い合う。
「抜け駆けはよくねえぜ、小次郎。」森が割り込んだ。
「ちょ、おい森さん邪魔すんじゃねえよ、今良い所なのによう。」
「ま、なんだ、英ちゃん、宜しくな。」
「え、英ちゃんんんん?! 馴れ馴れしいんだよ、全く!
なあ、英子さん。」
「堅苦しいのはキライだよな、英ちゃん。」
「うふふ、そうですね、森さんの言う通り、坂田さんも英子って呼び捨てて
下さいな、私も小次郎って呼んでみたいから。」
「あ、ああ、小次郎で構わねえ、改めて宜しく英子。」
「こちらこそ、小次郎。」
その優しく微笑む顔が夕焼けに映えて、とても綺麗で、小次郎は心から神に
感謝せずにはいられなかった。
『カガリが英子になって、人生をやり直す・・か
俺もしっかりしねえと、英子に愛想尽かされちまうな。』
小次郎にとっても、新しい棋士人生の始まりを告げる日になった。
続く




