南佐の歩 第二章 第一話 しじみ売りの女(前)
天城家は、エルモの来訪により空間的特異点として、大きく時空に影響を与え始め
南佐やエルモは否応なくディメンションゲイザーの修正に巻き込まれる。
そして南佐は、如何に自身の存在が危険なものかを感じて行くのだった。
AIが人間の魂を完全に創造出来る様になった時、未来は、世界はどうなるのか。
南佐の歩、第二章いざ開局!
日差しが容赦なく照り付ける午後、その女はやって来た。
上手に身をよじりながら門をくぐり抜け、木陰に桶を置いた。
「ああ・・暑い、・・御免ください、どなたかいらっしゃいませんかー」
南佐が気付いて出て来た。 「はーい、ええと・・どちらさまですか?」
「ああ、どうもすみません、私はしじみを売り歩いている京極と申します
お水を一杯いただきたいのですが・・」
「それは、構いません、どうぞこちらに・・今日は暑いですからね。」
南佐は玄関の敷居に待ってもらい、飲み水を茶碗に入れて持って来た。
女は、その水をごくごくと美味しそうに飲み干した。
「ああ、ありがとう、生き返ったわ・・あなた、この道場の人ですか?」
「はい、私は南佐と申しますが、道場に何かご用ですか?」
「いえね、しじみを買ってもらおうと、亀戸に来たのは良いのだけれど、
さっぱり売れないもので、途方に暮れていた所なんですよ、おまけに
この暑さで、気分が悪くなって・・少し休ませて頂ければ助かります
汗が引きましたら、すぐに出て行きますので・・」
「それは難儀な事でしたね、こちらで良ければどうぞ休んで行かれて
下さい。」
奥から兵衛と小次郎が出て来た、なにやら口喧嘩になっている様で大声
で罵り合っている、傍で聞こえる分では、どうやら小次郎が、惣次郎の
貯めていたへそくりをくすねたのではないかと兵衛が疑いをかけたので
小次郎が真っ向否定している様に聞き取れた。
当の惣次郎は、昨日から平間寺(川崎大師)の縁日に行われる将棋大会
に江戸選抜の一人として参加しているので、それ故の喧騒だ。
「父ちゃん!いくらなんでも俺が惣ちゃんの金を盗る訳ねえだろ!
大体、何で父ちゃんが、惣ちゃんのへそくりの額を知ってんだよ!」
「いいや、俺は惣次郎からこの金を任されてるんだ!ビタ一文、勝手は
させねえぞ!」
「なにおう!ぐぬぬ・・」「正直に言いやがれ・・ぐぬぬ・・」
お互い睨み合ったまま玄関まで来てやっと、この女の存在に気付いた。
女が口を開く。
「お邪魔しております、私は深川から参りました、しじみ売りでございま
す、この暑さで少し気分が悪くなって、ここで少し休ませてもらってる
のですが、でも、お取込みの様なので、そろそろ御暇しようかと・・」
この女が出て行こうとしたので、兵衛がそれを制した。
「おおっと、御免よ、娘さん、騒がしくしちまってよ、この馬鹿が・・」
「なんだと!父ちゃん、馬鹿はねえだろ、馬鹿は!」
女はケタケタと笑い出した、南佐もつられて笑う。
「そちらの・・男前は坂田小次郎さん・・ですね、近くで見ると尚更に、
色男ですねえ。」
「へ、この糞野郎が男前って、娘さん、目が腐ってんじゃねえのかい。」
「父ちゃん、俺ぁ江戸の将棋指しきっての色男で売ってんだぜ、町の女は
皆、こんな感じで俺の色男ぶりに参ってるんだって、ささ、こんな所
じゃあゆっくり話が出来ねえな、奥へどうぞ、ささ奥へ。」
「仕方ねえ、じゃあ奥へどうぞ娘さん、あ、南佐ちゃん、茶入れてくれねえ
かい、ちょっと熱めのやつ。」 兵衛のウインクが気持ち悪い。
「はーい、しょーちしましたぁー・・『エルモちゃんにも知らせておこう』
丁度、志津とエルモが茶室の改装に来ていた大工さんに賄いを出していた所
で、この突然の来訪者の事を告げ、お茶を貰い、道場に持って行った。
すると、その女は将棋盤を前に座っている、相手は兵衛だ。
南佐はお茶を置きながら小次郎に、事のいきさつを聞いたらば、この勝負は
しじみを賭けた勝負だと言う、兵衛が勝てばしじみを只で貰え、負ければ、
倍の額で全部買うというものだった。
平手で対局なんて棋士としてどうかとは思ったが、まあこの助平たちの事だ
勝った上で、着物を開けろだの腰巻きを見せろだの言うのだろうと、下種の
勘繰りをする南佐だったが、事態は予想外の展開を見せる。
兵衛が一手違いとはいえ負けたのだ。
結果、しじみをとても良い額で買わされる羽目になって兵衛は面目丸つぶれ
後で志津から大目玉を食らった。
この勝負に納得が行かない兵衛は、もう一度対局をと女に懇願したが、今日
のところは深川に帰りますと、引き上げて行った。
という訳で、この日の夕餉はしじみ尽くしになったが、久しぶりに食べた
しじみが、何とも美味しくて、皆、兵衛のおかげだなと、からかう始末、
兵衛は苦虫を嚙み潰したような顔をしていた。
『畜生・・次に会ったらぎゃふんと言わせてやるからな・・』
翌日は昼前位から小雨が降り始めて、さほど暑くはなかったが、蒸し蒸しと
した空気が、不快指数を跳ね上げていた。
惣次郎が明日には戻るという事で、午後になって志津と康太が買い物に出掛
けた。
一通り食料品の買い出しも終わり、帰り道、もう家まですぐの所で雨宿りし
ている女を見つけた。
昨日の女だ、どんよりとした雨雲を見上げて溜息をついている。
見るに雨具は網笠だけの様で、しっぽりと濡れそぼっていた。
「ちょいと、あなた昨日の・・」志津が声を掛けた。
「あ、昨日は、あたしのしじみを有難う御座います、今日は昨日売り掛けた
家に代金を貰いに来たのは良いけれど、中々帰って来ないんで、少しの間
雨宿りしてたところなんですよ。」
「まあまあ、それは難儀な事ですねえ、だったら、家で雨宿りして行きなさ
いな、ほら、康太、傘を貸してあげて。」
「それは有難いです、昨日といい、世話になりっぱなしで・・
遠慮なくお邪魔させて頂きます。」
兵衛は昨日の復讐とばかりに対局を申し込むが、今日は賭けるものを持って
来ていないと一度は断られるものの、雨宿りの礼もあるので、女は申し出を
受けた。
兵衛は得意の横歩取りから入った、後手は引くが一歩得を主張して、弾みを
付ける、鼻息荒く桂を跳ね、玉頭に狙いを定めた。
あれよあれよと手は進み、女は悩ましい表情を浮かべ、溜息を漏らす
濡れそぼった髪に、上気した頬が朱に染まり、何とも妖艶だ。
微かな吐息と共に指す一手一手が色気に溢れている。
傍で観戦していた森の鼻から赤い汁が垂れている。
いつしか、道場の男たちが皆集まっていた。
南佐とエルモも代わる代わる見に来て、戦いを見守るが、寄せ合いになった所
で、台所にいる南佐に、エルモが兵衛の敗色濃厚だという合図を送った。
兵衛の負けだ、またもや一手届かなかった、必至を振り払えず、決定打を打て
ないままの投了だった。
二日連続の道場主敗北・・しかもしじみ売りの女、兵衛はヘラヘラと気味の悪
い笑みを浮かべながら母屋に閉じこもった。
こうなると小次郎は黙っていられない、間違いなく強い、真剣士の中でも上位
に入ると直感した。
「よおっし今度は俺が相手だぜ、あんた、相当指せるのに素人のフリは無いん
じゃねえかい、さあ、勝負と行こうや。」
「よしてくれよ、まぐれさ、まぐれさね、たまたま思いついた手が上手く行っ
ちまったってだけだよ、勘弁しておくれ。」
そう言って、そそくさと帰り支度を始めたので、もう無理に引き留める事は、
野暮だと、玄関まで見送った。
「そうだ、あんたの名前を聞いて無かったぜ、あんた名前は?」
「ふふ、何か照れ臭いねえ、あたしの名前は、カガリだよ、京極カガリ。」
「あんたとは、また会えそうな気がするぜ、そん時ゃ勝負だぜ姉さん。」
カガリは背中越しに愛想笑いを見せて、通りに消えて行った。
翌日の昼過ぎに惣次郎が帰って来たので、しじみ売りの女の話を南佐が話し
て聞かせた。
惣次郎は、興味深々で、平間寺での対局よりも先に、そっちの細かい話を
聞かせてくれと、兵衛に聞いてみたが魂の抜け殻状態だったので、小次郎に
詰め寄った。
事の詳細を聞いて、惣次郎は心当たりが無いので、残念そうだったが、今度
会う事があれば是非、対局したいと意気込んでいた。
平間寺の対局は、惣次郎が見事に優勝して、また懸賞金の積み立てが増えた
このところ、茶室の改装費用などで出費がかさみ、機嫌が悪かった志津から、
やっと笑顔が戻り、皆して安堵する。
先日の兵衛と小次郎の争いは、単に惣次郎が、対局の為に遣っただけという、
何とも間抜けなオチで終わるも、小次郎は少々納得が行かない様子だった。
「ええい、なんか胸糞悪いんで、俺ぁ飲みに出て来るぜ、惣次郎、
一緒にどうだい?」
「ああ、小次郎さん、俺、今夜は家にいてやろうと思う、南佐と悦子も
寂しがってるみたいだしな・・」
「へえ、そりゃご挨拶だな、まあ可愛がってやんな。」
「あっと、小次郎さん、一昨日対局した村山さんが、ここんとこ深川で辻斬り
が続いてるそうで、物騒だって言ってたから、気を付けて行きなよ。」
「そりゃどうも、あんがとさん。」
小次郎は、あの女の事が気になっていたので、馴染みの居酒屋くにまつで一杯
引っ掛けた後、深川に向かった。
提灯無しじゃ少し足元が怪しいので、くにまつの女将に提灯を借りてはいたが
四ツ目通りに入った辺りで蝋燭が落ちてしまったので、仕方なく店の灯りを頼
りに歩いた。
『そういやあ、惣次郎が、辻斬りが出るって言ってたなあ、まさかとは思うが
後ろには気を付けとかねえと・・』
深川に着いて、そこそこ良さげな店を見つけたので、簡単な肴と冷酒で喉を
潤す。
しばらくして、隣の席に座っている男二人が少々深酒が過ぎた様で、口論が
エスカレート、胸ぐらを掴み合う喧嘩になった。
金と女がらみの様で収まる気配はない。
店主がやれやれと出て来て、喧嘩なら外でやってくれと客を諫めて、男二人
勢い外に飛び出した。
暫く取っ組み合っている風な物音が続いてはいたが、やがて聞こえなくなり
店主がお代を貰いに外に出ると、男二人が倒れている。
どうしたものかと、店主が駆け寄って提灯をかざすと、一人は頭を割られて
いて、血が顔じゅうに流れていた、もう一人は仰向けになり、背中が引きつ
るようにエビ反っていたので背中を斬られたのだろう。
店主は腰を抜かして、四つん這いになりながら店へ戻り、叫んだ。
「辻斬りだよ!辻斬り! 番所に誰か行っておくれ!」
店内に小次郎含め三人、二人は女衒とその連れの女なので、小次郎が番所に
行く事になり、急いで番所に向かう、その辺りにまだ辻斬りがいるとは考え
難いので、目一杯駆けて行った。
夜勤の同心と目明しが検分して、このところ現れている辻斬りと太刀筋が似
ている事から、これも同一の犯人だろうと推測した。
『危ねえ、危ねえ、肝が冷えたぜ・・
まさか辻斬りの現場に出くわすなんてよ、惣ちゃんの言ってた通りだぜ。』
今夜はここを動けないと思い、宿に泊まる事にした。
しかし、一向に宿が見つからない、さっきの店の女将から聞いた宿は全部で三
軒、全部当たったが駄目だった、最後に訪ねた宿の番頭に他の宿は近くに無い
のかと駄目元で聞いてみると、まともな宿ではないが近くの廃寺で、浪人夫婦
が旅籠屋の真似事をしているのでどうかと言われ、言われるがまま向かった。
『こりゃ参ったぜ・・深川でこんな夜更けにうろついてたら危なくって仕様が
無え・・早く宿に入らねえと。」
寺に着くと灯篭に明かりが燈っていて、人の気配があるのが分かって安心した
「ちょっと、御免くださいよ、誰かいねえのかい?」
すると本堂裏の講堂に明かりが点いて、女が出て来た。
「はい・・お泊りの方、ですか・・ あっ坂田さん・・」
出て来た女はカガリだった、小次郎は驚きはしたものの、先ずは泊まれるのか
を確認する。
他に客は一人しか居ないので大丈夫ですと、講堂の座敷に通された。
蚊帳の中に布団が一組敷いてあって、客だろう男が横になっている。
廊下側の行燈に、火を点ける為、浪人風の男が出て来た。
こいつがカガリの旦那なのは間違いない、色々と詮索するのは野暮かと、何も
聞かずにおいた。
しばらくすると、湯の入った桶と手拭いを旦那が持って来て、浴衣と布団を
持ってくるまで、体を拭いていてくれと言うので、それに従った。
旦那が、一泊40文だと言ったが、渡りに船という事で1朱銀を渡した。
すると、旦那なりに気を遣ったのだろう、カガリが、寝酒を持って来て、少し
の間、相手をする様に言われたと言い、小次郎の寝酒に付き合った。
「坂田さん、亀戸からここまで遊びに来るなんて、あんたも相当の色男だね」
「いいや、ここまで遅くなるつもりは無かったのさ、ちょいとお前さんの事が
気になって、深川に行けばもしかしたら会えるんじゃねえかってな、へへ
そしたら、飲んでる店の前で辻斬りが出やがって、夜更けに一人帰るのも
怖くってよ。」
「・・・そうだったのかい、うふふ、嬉しいな、あたしに会いにねえ・・
あたしらは見ての通りの、しがない夫婦、こんな寺借りて宿の真似事なんか
やっちゃあいるけど、しじみも売らないと食っていけない有様さね、あんた
みたいな眩しい男には、あたしは探す価値なんかないよ・・」
その言葉を放つ仕草や表情がどうにも艶めかしく、もの憂げに見えて、小次郎
は、少し変な気分になった。
『いけねえ、いけねえ・・また悪い癖が出ちまうとこだった、他人の女御に手
をつけて揉めたりしたら、父ちゃんにまた怒られちまう。』
「そうかい、でもよカガリ、お前は何とも良い女だぜ、色んな女を見て来た俺
が言うんだ、間違いねえ、
お前が一人身なら、真っ先に俺が手を付けてるぜ、ははは」
冗談を言ったつもりの小次郎だったが、言われたカガリの顔を見て胸がぎゅっ
となる。
目が潤んで、頬が上気している、少し俯いた所にはらりと髪が垂れた。
素肌に一枚だけの着物の裾から少しだけ見え隠れする太股が白く行燈に浮かぶ
カガリがじっと小次郎を見る、小次郎もじっとカガリを見つめた。
カガリが、ふわっと体を預ける、小次郎がそっと肩を抱いた。
少しの間なのか、長い間なのか分からない程に熱い口づけだった。
小次郎がカガリの着物の裾に手を忍ばせようとした時、廊下の軋む音がして、
二人共、はっと我に返った。
「お客さん、そろそろ私らも寝るんで、どうぞお休みされて下さい、
カガリ、徳利を下げて、行燈を消しておいで。」
旦那がカガリに夢の終わりを告げる。
カガリは、さっと小次郎に耳打ちした。
「明日、またしじみを売りに行くから買っておくれ。」
翌朝、小次郎は明けてすぐに寺を後にした、帰りの道中、胸の内がモヤモヤと
落ち着かない。
他人の女に手を付ける事を良しとせず、これまでは独り身の女子にしか恋慕の
情を抱いて来なかった、しかも箱根の一件以来、一肌が恋しくて仕方無かった
のだ。
夜鷹では病気の心配があるし、遊女を買うにはそれなりの金がかかる。
このところのフラストレーションの蓄積が一気に噴き出そうとしていた。
帰りの途中に、馴染の床屋で月代を綺麗に剃り上げ、髷を斜めに結い直すと、
もみあげを藍色に染めた、この時分の流行を押さえたファッションだ。
家に着くなり、朝餉の残りを食べて、着物を着換え、正に準備万端でカガリを
迎える準備をした。
この小次郎の様子に、森が勘付いた、これは小次郎が新しい女が出来た時に必
ず行う、言わば習性だと。
早速、天城の家中に報告しまくると、皆で今度の女はどこのどいつだと下世話
が炸裂する。
当の小次郎は、玄関先から通りに出ては、うろうろと落ち着かない様子なので
兵衛がそれとなくツッコミを入れる。
「おうおう、小次の郎さんよ、そんなに艶付けて何事かい?
ま~さ~か~、女が出来たんじゃねえよな~・・
お前にどんな女が出来ようが俺ぁ文句は無えがよう、人妻だけはご法度だぜ
そいつの旦那がここに乗り込んで来た日にゃ、お前のそっ首ハネてやっから
覚悟しやがれってんだ。」
「と、父ちゃん、俺も粋でいなせな伊達男だ、だぜ・・んな事ある訳が無え、
だろうがよ、んな訳が・・」
兵衛の脳内に火の見やぐらの鐘が鳴り響く。
「御免ください、もしもし、どなたか・・」門の外から女の声がした。
小次郎が、どたどたと慌ただしく出て行く。
「よう、昨夜は世話になっちまったな、来てくれて嬉しいぜ
しじみの前に、お茶でも飲んで行ってくれや。」
「今日の坂田さん、また男前が上がって、惚れてしまいそうだよ。」
上目遣いで、はにかんだ様な表情が、小次郎のハートを鷲掴みにする。
天城の野次馬どもに、茶を持って来てくれと頼んで、縁側にカガリを誘った
少し汗ばんだ肌を、懐から扇子を出して扇いでやる
カガリが目を細めて、気持ちよさげに微笑んだ。
「うふふ、あたしも馬鹿だねえ、なんだか舞い上がっちまって・・
でもさ、嬉しかった、昨夜会いに来てくれて・・本当さ、本当だよ
あんたと、このままどっか行ってしまおうかって、いけない考えも浮かぶ
有様でさ・・」 無邪気に小次郎の顔を覗き込む。
「お、おいおい、からかっちゃいけねえよ・・
でもよ、あんたが誰の女だろうが、あの口づけた気持ちに嘘は付けねえ、
俺は、カガリ、お前が好きになっちまった、本気で。」
様子を伺いに来た南佐が、茶をひっくり返した。
「お茶入れ直して来まーす!」雑巾片手にあたふたと手信号で合図を送るが
しどろもどろで要領を得ない。
「親父殿・・小次郎さん、本気の本気だ、完全に参ってるよ。
小次郎さんには悪いけど、大事に至る前に止めさせた方が良いかもだぜ
あのカガリって女の人、何かカタギじゃない様な気がするんだ。」
「んな事言っても、どうやってあいつを止めるってんだ?
女の事となりゃあ、あいつは見境なくなっちまうからな・・
つうか人妻じゃなけりゃあ俺でも突っ込んでるかもしれん。」
志津が兵衛の耳をつまんで、引きずりながら奥に消えた。
その後、もの凄い叫び声が聞こえた。
それまで、黙っていたエルモが口を開いた。
「惣次郎、一局あの女と指してみてくれねえか?
ちいと確かめたい事があるからよ。」
惣次郎もその女と話がしたかったので、強引に二人の間に割り込んだ。
「良い雰囲気の所、お邪魔だろうけど、姉さん、俺と一局指してもらえねえ
かい? なあに、かしこまる様な勝負じゃねえんで、気楽に良いからよ。」
手際良く、南佐が準備をする、嫌々ながらもカガリは、小次郎に背中を押され
惣次郎と手合わせする事になった。
「あたしは、あんたたちが思ってる様な将棋指しじゃないよ、しかも、あんた
烈火だろ、ハナっから勝負になる訳ないけど、良いのかい?」
「ああ、構わないぜ、でも平手じゃ申し訳ないんで飛車は引かせてもらうよ」
指し手が進む中、南佐とエルモは、ある確信を得ていた
カガリはイコライザーだ、アルゴリズムや探索法は違えど、最善手を自然に選
んでいる、考慮時間が若干長いのは汎用性のあるタイプ、金沢かAI将棋を基に
ソウルコードを組んでいると推測した。
しかし、同じイコライザーのエルモには、カガリがイコライザーとしての自覚
は無い様に感じた。
「・・・南佐っち、カガリっての・・ヴァガボンドだぜ。」
「ヴァガボンド?ですか。」
「ああ、あたしも見るのは初めてさ、ソウルコードを胎児にプリントすると、
稀にヴァガボンドになるって聞いた事があるぜ・・
歴史の歯車から外れて、己の意思で生きるイコライザー、
ディメンションゲイザーが危険を察知したが最後、即デリートだ、あたしも
本当はデリート寸前な所だったけど、なんとか収めてもらってる。」
「じゃあカガリさんは、デリートされる可能性が強いって事ですか?」
「ああ、最近ダンパーが活発に作用しているのは感じてたんだ、この間倒れた
時は、それもあったんだと思う、だがあたしらの力でどうこう出来る範囲の
物では無いって事さ・・」
「じゃあ、ここで私たちと直接関わり合いを持つなら、いずれ・・」
「カガリって女だけで済めば良いが、チェーンリアクションを起こしちまった
なら、どうなるか分かったものじゃない、あたしらも巻き添えになるぜ・・
つうか、南佐っち、お前はある種の期限付きでここに来てる事を忘れるなよ
ノンシリアルの連中がソウルコード含め、時空の全てを解明した時、お前は
間違いなく消される運命なのさ。」
「そんな・・私がここに来たのは、人間になって将棋を指す為、その願いは、
もう成就したに等しい・・期限付きとはいえ誰かの犠牲の上で、のうのうと
幸せな日々を送るなんて嫌だよ、悦ちゃん。」
「そうか・・そういう女だったね、南佐っちは
まあ、あたしもやりたい放題やって迷惑かけた手前、偉そうな事言える立場
じゃねえか、へへ・・
惣次郎に忠義を尽くす者同士、一丁頑張ろうじゃねえか。」
「はい、喜んで!」
惣次郎とカガリの対局は終盤に入って、難解な場面を迎える、一手のミスが即
敗着となるので二人共真剣そのものだ。
「カガリさんだったか、随分と指せる腕があるのに何故真剣で食わないんだい
あんたなら代指しでも頼む奴は大勢いるだろうに。」
「よしとくれよ烈火さん、あたしはそんなに指せないよ、只、たまにこうして
将棋盤の前に座ると、凄く落ち着くのさ・・何故かは分からないけど、
それにあたしには亭主がいるから・・、・・・うっうっ・・」
カガリは嗚咽を漏らした。
「惣ちゃん、野暮な事を聞くんじゃねえよ、カガリにも事情ってもんが・・」
「いいの、いいのさ・・
でも、こんなあたしに優しくしてくれる人達に厄介事を背負わせたくない、
だから、小次郎さんに、今日はお別れを言おうと思って来たんだよ・・
このままだと、ずるずると関係を持ってしまいそうで怖くて、
あたしも小次郎さんが好きになっちまったんだよ、こんなの初めてで・・
どうにもなんなくてさ。」
これには小次郎が参った、逆に、どうしてもカガリが欲しくなって堪らない。
惣次郎が詰めてる者以外の人払いを南佐に頼む。
野次馬根性丸出しの客や弟子を南佐が無理矢理追い出した。
惣次郎が席を立って小次郎を縁側に引っ張って行く。
「小次郎さん、カガリさんの気持ちを汲むなら、諦めるしかないけど、
ここまで来たら小次郎さんの事だ、もう全部ひっくるめて、面倒みるつもり
なんだろ?」
「あったりめーだ! 俺を誰だと思ってやがる、天下の弁天小僧様だい!
地震、カミナリ、火事、親父、何でもかかって来いだ!」
南佐が、やっぱりこうなるかと言った表情でエルモを見た。
エルモもやれやれと肩を窄める。
目を伏せて、黙りこくっていたカガリが、ようやく口を開いた。
「今から、あたしが言う事は、済まないけど他言無用でお願いします。
・・最近、深川で続いてる辻斬りは、多分だけど、あたしの旦那だよ・・」
蝉の鳴き声が、一際大きく聞こえた。
続く




