南佐の歩 第一章 第六話 巴御前
エルモの天城家来訪は、多少?の混乱はあったものの、エルモの巧みな話術に
より一家の大黒柱2本が陥落、半ば強引ではあるが、家族の一員に加わった。
エルモは風呂の残り湯を沸かしてもらい、体中に塗ってあった、どうらんを落
とし、着物を洗濯して、小奇麗になったところで、改めて、皆の前で自己紹介
と今後の身の振り方が決まるまで、天城に置いて欲しいという旨を告げた。
この日の夕餉は、夏の風物詩そうめんだった、これを利用したエルモの創作話
が、兵衛と志津に突き刺さり、エルモは更なる地位拡大を果たす。
『エルモちゃん・・流石に三味子の通り名は伊達じゃないわね・・
このままでは惣次郎も危ない、惣次郎だけは何としてでも死守しないと。』
危惧する南佐だった。
このエルモ来訪をきっかけに、盆明けに茶室を改装する事になり、惣次郎は
大喜びだ。
行燈を前に、紙に希望の間取りを書き込んでニヤニヤしていた。
『早く、小次郎さんたち帰って来ねえかな・・。』
明けて、朝餉を済ませた南佐が玄関脇の草花に水遣りをしていると、辻向かい
にある、傘屋の奥さんが手招きをするので、近づいて何事か問うと、亀戸神社
の前で、読売の辰が瓦版を撒いているとの事、その内容が、箱根での三羽ガラ
スの勝利した様子を絵巻風にして刷ってあり、その出来が凄く良いので、買っ
て来て、後でじっくり見せてよ、と言っていた。
そして、それが2枚組みで、2枚目はあなたの事が書いてあったよと言うもの
だから忙しい、慌てて、家に小遣いを取りに戻り、皆には亀戸神社に行って来
ると言うなり、飛んで行った。
その瓦版を手にした南佐は、箱根そっちのけで、何事を書かれてるのかと、2
枚目を凝視した。 見出しはこうだ。
~天城ニ降臨セシ、愛染女王、箱根ノ落武者ヲ狩ル~
続けて
世モ麗シキ、好色ノ寄セニ、風林火山モ堪ラズ投了、素裸ニテ踊リ狂ウ
・・・・・・
・・・・・・
と書いてあったので、正直、この瓦版屋に火を点けてやろうかと南佐は思った
『ダメだこいつは・・早く何とかしないと・・』するっと瓦版が抜き取られた
「おお、良い見出しが付いてるじゃねえか。」小次郎だ。
「もぉ~、良い見出しじゃありませんよぉ! 勝ったから良いですけど、
負けてたらお客様の前で裸踊りに加えて、お母様から裸で吊るされる
所でしたよ!
いやいや、こんな事言ってる場合じゃないです小次郎さん、お金を置いて、
何処か遠くに逃げて下さい! 帰ったら・・帰ったら不味いです!」
「何が不味いってんだよ、早く帰って母ちゃんに金を見せてやらねえとな、
そんじゃ、先に行ってるぜ。」あっと言う間に駆けて行った。
「ひいいいいいい!ダメですってばああああ!」
「おーう、小次郎、ただ今帰りやした・・」
いきなり両脇から抑え込まれ、後ろ手に縛り上げられた。
「ちょ、ちょっとぉ!待て、待ってくれ、おい!父ちゃん、惣ちゃん!」
「済まねえ小次郎さん・・」
「俺はよぉ、お前がいつか、馬鹿やらかさねえか心配してたんだ、それが・・
ええい、信じた俺も馬鹿だった、神妙にしやがれ!この呆けナス!」
「へ、何、何言ってやがんだ、畜生めぇ!」
引きずられながら客間に移動した。
客間には志津とエルモが並んで正座し、さながら白洲に連れて来られた咎人を
待つ、お奉行様だ。
「えええええー!三味子じゃねえか!お前、安房からどっか遠くに行くんじゃ
なかったのかよ!」
「だまらっしゃい!小次郎、悦ちゃんを見て何か言う事があるでしょ。」
「え、悦ちゃんだ、と・・」
エルモが小次郎に受けた仕打ちについて涙を流し、いけしゃあしゃあと宣う。
「何を言ってやがる、この、腐れマ〇〇がぁあああああ!
へ、へへへ、そこまで誤解されてちゃあしょうがねえや、
おい、惣次郎、俺の風呂敷をここで、広げて見せてやれ。」
「お、おう分かった・・」
惣次郎が、やたらと重たい風呂敷を広げると、小判で30両、2分金で20両
あと、おひねりで3両ぐらいの銀が出て来た。
「ん、まー、小次郎、御免なさいね、
ほら、あなた、惣次郎、早く縄を解いて、ね、早く!」
「やれやれだぜ・・、ったくよう、何で三味子がここにいるかは分からねえが
つまりこれから俺たちゃ同じ屋根の下で暮らすって事で合ってんだよな。」
予想外の展開にエルモの生体CPUが高速回転する。
『ちいい、お母様がここまで金に弱いとは計算外だったぜ・・ここは一旦収め
て徐々に懐柔するしかねえ・・』
「あたしは、こんなけだものと一緒は嫌ですが、お母様が小次郎を許すと言う
ならば是非もありません。」
「悦ちゃん、良く言いました、これにて一件落着!」志津もノリノリだ。
小次郎は、少々納得が行かない様子だったが、取り敢えずエルモが無事である
という事実に安堵した。
エルモが何故、天城家に来たかは色々と理由があるが、一番の理由は例の船頭
と船上で様々な賭けをして、路銀を全て巻き上げられたのが一番の原因である
素寒貧で安房に降ろされても路頭に迷うのが関の山だ。
無理言って、隅田川の入口付近で降ろしてもらった。
しかし、惣次郎と南佐の甘酸っぱい関係を見てると、無性に邪魔をしてやりた
くなるエルモ、小次郎への淡い想いは、何処へやらだ。
他人の物は欲しくなるのが世の常、天城にいる間にどうにかして惣次郎を我が
物とすべく、行動を開始するのであった。
既にイコライザーとしての役目など、どうでも良くなって、人としての人生を
普通に生きる気でいる。
只、懸念はある、三島の追手や借金返済等の問題が解決出来ているかは、この
時点ではエルモの知る所では無いので、天城に世話になるにせよ、問題解決ま
では大人しくしておく必要があると感じていた。
『この家にだけは、厄介事を持ち込みたく無え・・、
今こうして生きているのは、ここの連中のお陰だ、恩を何らかの形で返して
堂々とお天道様の下を歩くんだ、頑張れエルモ!お前なら出来る。』
性根はとても優しいエルモだった。
その日の夕餉はとても賑やかで、瓦版を中心に、箱根の事、南佐の富士乃湯で
の事、話題が尽きる事なく続き、酒も入って皆心地よく酔っていた。
遅くまで、どっちが強いかという定番論争を、小次郎とエルモがぐだぐだと、
やり合ってはいたが、力尽きて二人共寝落ちしてしまい、小次郎を客間に寝か
せ、エルモを惣次郎が茶室に負ぶって行き、三人で川の字になって寝た。
「ねえ、惣次郎、力也さんも、森さんも家に帰っているんですよね。」
「ああ、盆だし、森さんは久しぶりの実家で、ゆっくりしてるだろうな。」
「惣次郎は実家には帰らないんです?あの石浜のおそば屋さん・・
武蔵そば、でしたっけ。」
「ああ・・あの家は良いんだ、父さんも母さんも分ってくれてるさ、
それに帰ろうと思えばいつでも帰れるしな・・
それと、誰にも言ってなかったんだけど、南佐にだけは教えるよ、
そば屋の両親は、本当の親じゃないんだ。」
「ーっ、え?本当にですか?」
「ああ、生まれたのは多分、本郷の菊坂ってとこだと思う、うっすらと記憶が
あるんだ・・上水の土管伝いに手を引かれて歩いた事、抱っこしてもらって
手にしたびわの実が凄く大きく感じた事・・初めて将棋を指した時の事。」
「初めて将棋を・・どなたとですか?」
「それは、お袋だと思う・・とても綺麗な女性だったな、
赤くて艶のある長い髪、吸い込まれそうに大きい緋色の目
ここ最近、鏡を見る度に思い出してたよ、自分の特徴と瓜二つなんでね。」
「その方は今どちらに住んでいるのです?」
「さあな・・俺と同じで目立つから、何処かで会えるんじゃないかって思って
いたけど、会えないって事は、もう江戸にはいないのか、死んだかじゃない
かな・・へへ、誰にも言っちゃ駄目だぞ、これはお前と俺の秘密だ。」
「はい、秘密・・です。」
天城家にいつもの日常が戻り、弟子たちも連日の様に道場を訪れる様になった
南佐とエルモの女流2枚看板は、それはもう大好評で滅多に顔を出さない旗本
や、御家人の格好の暇つぶしにもなっていた。
箱根帰りの力也は、エルモの存在に驚きはしたものの、以前にも増して足を運
ぶ様になり、森に至っては戻ったその日に夜這いをかけて、惣次郎から簀巻き
にされた挙句、外に放り出された。
しかし、兵衛は心配していた、江戸は町民の風紀取り締まりに、かなり神経を
尖らせていたので女子が多数の男衆と交流を持つ将棋道場など、すぐに奉行所
に知れて、お咎めを受けるのではないだろうかと。
その懸念はまんまと的中する。
葉月に入って直ぐに、伊澤が天城家を訪れて、エルモを一旦、番所に連れて行
くという事態になり、兵衛は頭を抱えて狼狽、惣次郎や小次郎も番所に取返し
に行く算段を巡らす。
エルモは被害者とはいえ、三島の手先としてあこぎな凌ぎに手を染めていた、
本来なら何某かの沙汰があって然るべきなのだ。
だが、天城の今後を考えると、力任せにとはいかないのも事実だ、時間ばかり
費やして、結局の所は沙汰を待つ他、無かった。
南佐の時は何とかなったが、今回は事と次第では天城が御用将棋衆から追放さ
れるかもしれない、もっと慎重に事を運ぶべきだったと、兵衛以下、皆で反省
するが、後の祭りである。
夕刻、伊澤がエルモと戻って来て、与力の橘からの書状を読み上げる。
内容はこうだ、
一、 歩南佐、井悦子の道場における対局時間を一刻までとし、亀戸より
外出する際は届け出をする事。
二、 弟子の人数を五十名までとする。
三、 賭け金が5両を越える真剣は禁止。
四、 御三家の対面上の儀礼を欠かさず行う事。
五、 著しく風紀を乱す様な振る舞いが見受けられれば、歩南佐、井悦子の
両名を江戸より追放する。
という内容だった。
思いの他、厳しいものでは無く、天城の皆がほっと胸を撫でおろす。
エルモは伊澤から厳しく注意を受けた様で、少し落ち込んでいたが皆に謝罪を
して、これからも世話になりたいとの意思を告げると、また元の元気なエルモ
に戻り、兵衛以下、これからは、先の条文の事を忘れずに皆、頑張って行こう
と、気を引き締め直すのだった。
それからのエルモは前にも増して家事や弟子の世話を行う様になり、すっかり
天城に無くてはならない存在になったのだが、南佐は心配だった。
何か、がむしゃらというか、無理をしているのではないかと、夏場とはいえ痩
せ方が酷く、本人をたしなめるが、大丈夫の一点張りで、聞く耳を持たない。
『エルモちゃん・・頑張り過ぎだよ・・』
十日程が経ち、宗家の棋士が交流試合に来訪する日がやって来た。
朝から皆、準備に追われていたが、志津がエルモがいないと言い出したので慌
てて、辺りを探すと、エルモが門の脇でうずくまる様に倒れていた。
熱中症だった、医者の桃里が言うには食事が十分じゃないのに、過度の家事を
した事が原因だろうと。
意識が戻るまでは、安心できないので、皆で協力して看病してくれと薬と対処
の仕方を書いたものを置いて帰った。
宗家の棋士をないがしろには出来ず、天城の棋士たちはエルモが気掛かりでは
あったが対局を優先せざるを得ないので、南佐が看病を請け負った。
体を拭いて、うちわで扇ぎ、体の熱を取ってやり、抱き抱える様にして水を飲
ませる事を繰り返す。
茶室の工事は一旦中止してもらい、茶室を病室代わりに使って看病を続けた。
意識が中々戻らないエルモに、南佐は涙を拭きながら話しかける。
「悦ちゃん、早く元気になってね・・また一緒にお酒飲もうよ・・
こないだの将棋も指し掛けたままだよ・・まだまだ話したい事一杯あるから
目を覚ましてよ・・ううう・・」
倒れて二日目の夜、やっとエルモが寝ざまにうなされる様に口を開いた。
「はあ・・はあ・・ 御免よ・・御免よ・・ あたしのせいで皆が・・
何でもするからさ、ここに置いてくれよ、もう行くとこなんて無いんだ・・
お願いだよ・・どうか・・見捨てないで・・」
南佐はしっかと手を握りしめてエルモに応える。
「え、悦ちゃん、大丈夫だから、大丈夫! みんな悦ちゃんが大好きだよ、
心配いらないから、心配いらないからね・・ううう・・」
茶室に水を持って来ていた惣次郎は、戸の陰で聞きながら、ある決意を固めた
翌朝、ようやくエルモが目を覚ました。
皆、茶室に駆け付けてエルモに声を掛けていく、どれも温かい、心のこもった
ものだった。
志津がお粥を炊き、卵を溶いて混ぜながら、ゆっくりと食べさせると、人心地
付いたエルモは、目に涙を溜めて「すまねえ、すまねえ」と言うばかりだった
これに、志津が声を荒げ、涙ながらに言った。
「悦ちゃん!あなたは何も悪い事をしてないでしょ、何故謝るの、天城の家に
住むなら、あなたは私の子同然、あなたを私等が守って当たり前なの!
これから、こういう無茶をしたら、その時は何処へでも行くと良い、そして
二度と天城の敷居は跨げないと覚悟なさいね!」
言いながらエルモの体を志津が抱きしめる。
「あ゛い・・もう無茶じません・・お母様・・」体を預け泣きじゃくる。
「分かったら良いの、分かったら・・だから、もう少し横になっていなさいね
元気になってから、また頑張りましょう・・」
その日の夕刻になって自力で厠に行ける様になり、四日ぶりに皆で夕餉を囲む
事が出来た。
小次郎が昼に快気祝いにと鰻の蒲焼きを買って来ていて、そこら中に良い匂い
を漂わせている。
久しぶりの鰻に、皆大喜びだ、森と力也は、どっちが大きいかで揉める有様で
炊き立てのご飯に乗せては食べ、食べては乗せをして、喜々として頬張った。
エルモにはまだ、皮が消化に良くないので、志津が皮から外した身を、ご飯の
上にまぶして、鰻のお茶漬けにして食べさせた。
尾張ではひつまぶしと言うんだと小次郎が自慢気に言うのでエルモは少し可笑
しかったが、天城家の面々の心遣いがとても胸に沁みた。
『ありがとう・・ありがとう・・こんなに美味しいご飯は食べた事ねえよ・・
絶対にこの恩は忘れねえ、死ぬまでずっと・・』
食べ終わった後、片付けようとする南佐や志津を制して、惣次郎が口を開いた
「みんな、聞いて欲しい事がある、
俺は南佐と悦子を妾にしようと思う、口入れ屋の伝さんには通すつもりなん
で明日、行ってくる。」
「えええええええええー!!!」
大騒ぎだ、しかしこれは、よくよく考えれば確かに理にかなっている。
口入れ屋を介し愛人契約をして、惣次郎が給金を支払うならば、それは世間的
に堂々と二人が天城に住む事が許されるし奉行所も、文句の言い様も無くなる
一石二鳥の名案だ。
兵衛も、もう笑うしかなかった、小次郎も同じだ。
当の二人は顔を見合わせて、くすくすと笑う、しまいには皆で笑い合った。
「茶室が完成したら三人で一緒に住むつもりだ、親父殿、母上どうか俺の我儘
を許してくれ、棋士の皆も、これから協力頼むぜ。」
「よおし!景気付けに一杯飲るか!」「良いねえ、三味子も飲もうぜ!」
「僕にも下さい!」康太も参戦した。
余りにも和やかな宴会は続く、皆の心が南佐とエルモを囲んで一つになる。
南佐は、人間という生物の清々しさに胸を打たれた。
それはエルモも同じだったろう、人の醜い部分しか見て来れなかったエルモ
は、箱根の一件以来、目から鱗が落ちた様に感じ、愛と言う物の存在を、生
まれて初めて認識した。
翌日、医者の桃里さんに快気の報告がてら、惣次郎は口入れ屋の伝介の所へ
今後の段取りを打ちに行った。
伝介は女子二人を囲う程の甲斐性があるのかと心配はしたが、口入れ料が貰
えれば損は無い取引きなので、奉行所からの詮索に対しての口裏合わせを済
ませた後、契約書を作ってくれた。
晴れて、南佐とエルモは惣次郎の妾となったのだ。
家に帰りついた惣次郎を一家総出で出迎え、道場に用意された宴席へと誘う
鯛のお頭付きと赤飯が用意されて、もはや結婚式だ。
惣次郎を中心に、着飾った南佐とエルモが両側に座って、皆に深々と頭を下
げた。
「天城惣次郎、今日これより、歩南佐、井悦子の両名を妾として養って行く
所存でございます、温かい目で見守って頂ければ幸いですので、どうか、
宜しくお願い致します。」
大きな拍手が鳴り響いた。
詰めている弟子を含め、道場に偶然来ていた弟子たちや、近所の人たちまで
集まって祝ってくれたので、道場は大賑わいだ。
小次郎が祝いの舞として鶴亀の舞を披露した後、森が腹芸を炸裂させたので
皆から袋叩きに合った。
南佐は思う
『夢が叶うというけれど、人として本当にこんな気持ちになるなんて思って
もみなかった・・ 何て素晴らしい、美しい心・・何故こうも愛おしい、
惣次郎、あなたに会えて良かった、人間になって良かった。』
エルモが南佐を横目で見て惣次郎に体を預ける、負けじと南佐も体を預ける
惣次郎が照れた様に微笑んだので、二人は惣次郎の頬に口づけた。
三日後の朝から、伊澤がやって来ると事の顛末を確認して、苦笑いしながら
二口、三口と嫌味を飛ばして、惣次郎にしっかり面倒見る様に釘を刺す。
それから、奉行所の用事を頼まれてくれと言い、南佐に重箱サイズの桐箱を
渡した。
「こいつは山本様から、宝善寺に住まわれている巴御前様に届ける様に頼ま
れている物だが、山本様から、南佐、お前に任せろとの含みがあった、
責任持って、届けてくれ、届けるだけで構わないのでな、頼んだぞ。」
「はい・・承知しました、しかし、何故私なのでしょう?」
「私にも分からん。」 そう言って帰って行った。
何はともあれ南佐は宝善寺に向かう事にした、寺の所在は志津が知っていて
簡単な地図を描いてもらった。
『巴御前様・・私を知っている・・とすればイコライザーの可能性が高い、
少し警戒しておこう・・』
寺の門をくぐると、大きな楠の木が立ち並んでいて、少しひんやりした風が
心地良い。
正面の扉の前で、まだ若い尼さんが掃除をしていたので、巴御前様に取次を
と、お願いすると、快く案内してくれた。
本堂の裏手に尼僧の住む屋敷があり、屋敷の玄関から居間に上がり、待ってい
ると、巴御前が現れた。
髪は短く刈ってあり、鮮やかでは無いものの、うっすらと赤く染まっていて、
優しく微笑むその瞳は緋色に輝いていた。
南佐は、巴御前を見てすぐに分かった、惣次郎の実の母親だと。
「こんにちは、私は山本巴と申します、あなたは?」
「はい、私は歩南佐と申します、訳あって天城家の食客となり、今は天城家の
後継、将棋棋士・天城惣次郎が妾として住まわせて頂いてます。」
瞬間、巴の眉が動くが、あえて動じない様に振る舞っている様に見えた。
「そう・・、そうなのね、天城惣次郎の妾ですか・・留次郎はもう妾を取る程
の棋士になったのですね・・」
「はい、私ともう一人妾を囲っております。」
「うふふ、それは豪気な事です、そうですか、そうですか・・
あら、あなたのかんざし・・見せて下さるかしら?」
南佐はかんざしを手渡した、巴はかんざしを一通り見つめて、懐かしむ様に
微笑んだ。
「このかんざし、私が出家の際に侍女に差し上げたものですね、縁とは本当に
摩訶不思議、人と人、物と物とを巡り合わせる・・魂の成せる業・・」
「このかんざしは浅草寺で惣次郎に買ってもらったものです
私はこれを一目見てとても気に入ってしまい、少し無理を言ってみました」
うんうんと巴は頷いた後、ふっと縁側へ目を遣った。
少し遠い目をして、中庭の松の木をずっと眺めていた。
「巴御前様、こちらは山本様から預かったものです、こちらに届けよとの事で
お持ちしました、どうぞお受け取り下さいませ。」
桐箱の中には、位牌と幾つかの書状が入っていた、巴は全て確認すると、その
幾つかに押印して名を記した。
「この年になると、色々面倒な事がありますねえ・・
山本周五郎は私の主人です、そして留次郎は、その息子になります。
惣次郎と名を改め、棋士になったという話を耳にして以来、密かに応援して
参りました。
参拝者の中には惣次郎・・烈火の棋士ですか、存じている方も少なからず、
いまして、少しはその活躍ぶりを耳にしてきましたが、まさかお妾さんに会
えるとは思ってもみませんでした。
時に惣次郎、あの子はどの様に過ごしていますか? しっかり食べているで
しょうか? 皆に優しく・・ううっ・・」
嗚咽を漏らす巴に南佐は優しく答えた。
「惣次郎は、とてもとても素敵な方です、人を思いやり、何より一生懸命に己
の道を進んでいます、誰にも恥じる事のない生き様だと思います
どうぞご安心下さいませ。」
「ええ、そう、そうなのですね・・有難う・・有難う・・。」
「そうだ、巴御前様、将棋を一局指しませんか、惣次郎があなたに将棋を教え
て貰ったと言っていましたので、是非、私にも教えて下さい。」
「ええ、構いませんよ、ですが、もう何年も指してないので、あなたの相手に
なるかしらねえ・・」
若い尼僧が奥から将棋盤を持って来てくれたので、それでは始めようかと駒箱
に巴が手を伸ばすと、南佐が袂から、あの駒を出して盤上に広げた。
「この駒は、惣次郎が書いた字を彫って作られた駒です、お母様はご存じ無い
でしょうが、とても達筆なんですよ。」
「まあ、これを惣次郎が・・とても良い駒ですね・・あの子はこんな字を書く
様に・・ うふふ、ならば、お手合わせと行きましょうか。」
すらすらと駒が動いて行く、数手進んだ所で巴が少し考えた、そしてまた駒が
動いていく、また数手進んで、巴が南佐を見た。
「これ・・この指し手・・私が、留次郎と初めて指した将棋・・
あの子はずっと、忘れないでいてくれて・・」
「惣次郎は十一才で大きな挫折を体験しました、
その時、記憶の中にあった棋譜を全て喪失したそうです。
でもこの一局だけは
お母様と指されたこの局だけは忘れていなかったそうです。
この棋譜を再現している時の惣次郎はとても嬉しそうで、でも切ない顔をし
ていました。」
巴は涙をこらえながら指し続ける、南佐も合わせて指し続ける。
ー終局ー 惣次郎の負けは分かっているが、なんともがむしゃらで、楽しくて
嬉しいという気持ちが伝わってくる、清々しい局だ。
「南佐さん、有難う・・あの子が私を忘れないでいてくれた事を教えてくれて
とても感謝します。
山本からは会う事を禁じられてるので会えませんが、この駒で、あなたと
将棋を指して、留次郎に会えた気がします。 本当に有難う。」
南佐は寺を後にした、振り返ると、巴がずっと頭を下げて見送ってくれていた
山本は巴を、息子を愛していたのだろう、でなければ南佐を巴に会わせる事も
無い、多分、巴はイコライザーとしての使命から離れて、息子を手放したくな
いと山本に懇願したのだ、その無理を山本は聞き入れる事が出来なかった。
南佐の為に、この世界の理を守る為に。
南佐は菊坂を回って帰る事にした。
武家屋敷の石畳、上水の土管に沿って歩く。
ふと見上げた垣根の上に、びわの実が眩しく輝いていた。
第一章、完 第二章に続く




