南佐の歩 第一章 第五話 エピローグ
港に着いたエルモは、小次郎から手紙を預かっていたのを思い出した。
桟橋の脇で手紙を開くと
悦子へ
港に着いたら 丸森と帆に書いてある船を探して
船頭に 同封の手紙を渡す事
万一見付からぬ際は箱根宿 碧水楼にて翌日まで待機願う
と、書いてあり、慌てて丸森の字を探す。
旅客用の桟橋に、大きな弁財船2隻と廻船が4艘、停泊していたが、丸森の
文字は見当たらない。
丁度、弁財船の貨物を、何人かの船員が降ろしている所だったので、その一人
に、丸森の字が帆に書いてある船を知らないかと尋ねたら、その船員は知らな
かったものの、別の船員が、それならと教えてくれた。
その船は、安房の海産物問屋の船で、まだ港に居るなら、漁船の船着き場に居
る筈だと、だが盆の入りで、今から船は出さないだろうとの事、急いで反対側
の入り江に向かった。
停泊している漁船は、全て帆が畳んであり、どの船かも分からない。
その上、辺りに漁師はおろか、人影は無し。
『もう出ちまったのかよ・・分らん、どれだ、どの船なんだよ・・』
諦めかけていた時、なんだか良い匂いが漂って来た。
イカを焼いている匂いだ。
匂いの元を辿って行くと、結構な歳のおじいさんが、船の上に七輪を置いて
イカの干物を焼いていた。
「じいさん、ちょいと聞くが、ここの港に丸森と帆に書いてある船を
見なかったか?」
「おお、あんたが坂田って将棋指しの連れかね。」
「じゃあ、この船が丸森の船って事かい?」
「そうじゃ、あんまり遅いんで来ないかと思ったよ。
でもな、もう船を出せる時間じゃあ無いんだわ、諦めて、明日にしなよ。」
「そこをなんとか出して欲しいんだよ、じいさん・・」
同封の手紙の事を思い出して、手紙を渡した、おじいさんがそれを広げて、
うんうんと頷きながら読んでいる。
「3代目・・いや升平さん、元気みてえで安心したよ・・
そう言う事なら船を出さない訳にはいかねえな、さ、乗んなよ!」
おじいさんに手を取ってもらい桟橋から、飛び乗った。
乗ってみて分かったが、意外に大きい船だった、伝馬船の3倍くらいか、甲板
も人が5人位は乗せられる、エルモ一人には少し広すぎる程だ。
手際良く七輪を片付け、繋留縄をするすると解く。
櫂を使って離岸すると、歳の割りに力強く漕ぎ始めた。
あっと言う間に入り江を出る、ゲソを嚙みながら生き生きと船を操る姿は、海
の漢そのものだ。
『・・っ、この爺い、粋じゃねえかよ・・こいつは頼もしいぜ』
櫂を上げ、帆を下ろすと、帆の真ん中に大きな丸があり、その丸の中に森とあ
った、ぱんぱんに張った帆が風を掴んだと言っている。
「俺ぁ、安房の木屋昴ってもんだ、よろしくな。」
「あたしは、井悦子、将棋指しさ、道中よろしく頼むぜ。」
「あんた、運が良いね、こんなに良い風は滅多にお目に掛かれ無え、亥の刻ま
でには三崎の関をを抜けて安房まで一気に行けるぜぇ。」
正に順風満帆だ、港を横目に船は沖合を目指す。
もう日が陰り始め、港町全体がオレンジ色に輝き始めていた。
ふと桟橋を見ると、2,3人の男がこっちを見ているではないか。
何かに気付いた様で、伝馬船を出そうとしている。
咄嗟にエルモは身を隠した。
『まさか、三島の奴らに気付かれたか・・追いつかれたら、この爺さんまで沈
められちまう・・なんとかしねえと。』
黙っていても、埒が開かないので事情を正直に話すと、大笑いされた。
「はははは!嬢ちゃん心配してくてるのかい、けどな、俺を舐めちゃいけねえ
俺は、若い頃、安房の彗星って呼ばれてたんだぜい、その辺の漁船よか、
3倍は速いから安心しな!
見せてやるぜ・・丸森の船頭の実力って奴を・・」
『こ、この爺い、盛り過ぎだろ‥』
このエルモを追って、船を出した男たちは、エルモの予想通り三島の手の者だ
名は久住、八坂と同じく手下2人持ち、上野の歓楽街を任されている、かなり
危ない男で、今回は八坂の後方支援と、上りの確認役をする為に、港の船宿で
待機していた。サンゾウとマンボウが上りを持って来る刻限を過ぎても現れな
いので、業を煮やして塔の澤に向かおうと、宿を出た際、エルモらしき女子が
船に一人乗って港を出て行くのが見えて、こいつは怪しいと船を出したのだ。
「手前ら、急ぎやがれ!もっと速く漕ぐんだよ!
逃がしたら只じゃ済ませねえからな!」
懐からまだ珍しい片手式の火縄を取り出して、エルモの乗っている船に向けて
1発発砲した。
船の上から2、3百メートル先の的に当てるなど無理に決まっている。
「止まれ!止まりやがれ!この腐れ共が!」 止まる奴はいない。
「あの連中、火縄を撃ちやがった、この俺に向けて・・」
爺さんの目の色が変わって行く、咥えていたゲソを海に吐き捨て、懐から仮面
を取り出して、顔に装着した。
「俺は、船頭を辞めるぞ、お嬢ちゃああああああん!」
「アッ、ハイ」 もう好きにしてくれ。
港の灯りが遠ざかって行き、もう辺りは暗くなり始めていた。
執拗に追って来ていた追手の船も見えなくなり、何発か発射した火縄の音が、
遥か遠くに聞こえて、この逃走劇が成功した事をエルモに告げる。
「爺さん、やったぞ、もう大丈夫だ、あいつら見えなくなったよ・・
爺さん!」
舵を取っていた筈の爺さんがいない、慌てて船尾に向かった。
舵の前で突っ伏して、もがいている、エルモは声を荒立てて、安否を問う。
「大丈夫か!しっかりしろ、流れ弾に当たったのか、返事してくれ!」
「あ、ああ・・済まねえ、ちいと、しくっちまったよ・・
このままじゃ、三崎の関を抜けれねえ・・
ちょっと、そこの提灯に灯を点けてもらえねえか・・」
「分かった、分かったから、しっかりしろ!爺さん。」
提灯に灯を点けて爺さんを照らした。
「すまんが・・その竿を握ってくれんか・・」
「どの竿だ!爺さん、何処にあるんだ!」
「ここに、あるじゃ・・・」エルモは渾身の一撃をボディにお見舞いした。
『あたしは何を見せられてやがんだ・・
まさか、これが安房まで続くのか、ダメだ、助けてくれー、小次郎!』
遠くに消えて行くエルモの船に、もう追跡は不可能と、久住は諦めた。
手下に港に戻る様に支持を出すが、手下が声を震わせて言う。
「兄貴、済まねえ・・港がどっちか分からねえんだ・・」
港の灯明も全く見えなくなっていた。 月や星を読む事など出来る筈もなく
もう当てずっぽうで船を漕ぎ始める、しかし、一刻、二刻と過ぎても何一つ
見えない、夜間の航行の難しさが、ここにあった。
目印の無い夜の海の上では、陸の灯りが頼りなのだが、その陸が何処にあるか
も分らないでは進みようが無かった。
潮の流れに翻弄されて大きく沖に流されてしまう。
十日後、ようやく大島の漁船に発見されるものの、三人共、脱水症状で衰弱が
酷く、しばらくの後、大島の民家で息を引き取った。
箱根宿の番所に連れて行かれた八坂は、サンゾウとマンボウの変わり果てた姿
に恐怖した。
散々、人を殺めて来たが、自分が今、正にこれまでの罪の重さを認識した瞬間
だったろう。
伊澤が声を掛ける。
「よう、八坂さん、あんたにゃあ済まねえが、この俺に匕首を突き立てようと
しやがったんで、つい斬っちまった、ここの寺で火葬してくれるらしいんで
骨は神田に送っておくよ。」
「て、手前、何て事、し、しやがんだ!ええ!二人共斬りやがって、
御家人だからって、誰かれ構わず斬って良いってのかよ!」
番所に来ていた道中奉行の同心と、その岡っ引きが八坂に十手を向ける。
「伊澤さまに無礼な口答え、非礼にも程があるぞ!図が高い!直れ!」
八坂は十手を首根っこに押し付けられて地面にひれ伏した。
『地方に来ると何だか気持ち良いぜ・・』 伊澤はほくそ笑んだ。
しばらくして橘が番所に現れた。
「おう、伊澤よ、思った通りだ、こいつら相手にゃ十手より刀が一番効くのさ
で、どうするかね・・今からじゃ江戸に引っ張って行くのも骨だ、今日の所
は、この辺りの宿で、もう一泊するかね。」
「組頭、そいつは名案だ、昨夜は散々、あいつらに振り回されて、ゆっくりと
出来ず終いだ、今夜くらい箱根を満喫しましょうや。」
「お前がそう言うと思って、もう頼んであるんだ、とびっきりの宿を、
同心向きのな。」
小次郎一行は直筆を一通り済ませた後、祝勝会を兼ねた落成式典に参加した。
懸賞を何本も掛けてくれた本館の建築に携わった業者、温泉協会の役員等との
顔合わせも終わり、晴れて自由の身だ。
今夜は温泉フルコースを満喫すべく、三人は露天に向かった。
程良く込んでいて、中に入ると周りの温泉客が寄って来て、対局の話や私生活
についても色々と質問攻めに遭った。
その内、女湯との仕切りの向こうから、女子も何人か入って来て、遂には仕切
りは外され、今夜の元湯本館は混浴での入浴と相成った。
興奮冷めやらぬまま部屋に戻ると、地酒に酒の肴が用意され、芸者も待機して
いた。
当然の如くその内一人はサキだ。
もう芸者三人の塔ノ澤での役目は終わり、横に居る色男の接待に夢中だ。
「サキ、お前には本当に、感謝しか無え、悦子の事良くしてくれて有難うな」
「嫌だよ、改まっちゃって・・あたしも人助けなんてガラにも無い事、只、
あんたの役に立ちたかった、それだけさね。
でもね、何故かあの娘の為に動いてる時は、不思議と生きてる実感って言う
のかね・・そんなの今まで感じた事も無かった、あんたと出会って、あんた
を失くして、ずうっと虚しい日々だったんだなって思ったのさ。」
「ああ、俺は三味子の体に付いていた無数の傷跡を見た時、こいつが、虐げら
れながらも、必死に生きようとしている証だと思ったのさ・・、
それが逆に眩しく見えたのかもしれねえな。
今、どうしているかは分からねえが、きっとあいつの事だ、笑って前を向い
てるだろうさ。」
森が、ちょっと蒸し風呂に行くと、キヨという芸者を連れて部屋を出て行った
すると、力也も千鶴という芸者を連れて、外を歩いてくると言って出て行く、
気を利かせたというのが丸分かりだ。
「おいおい・・でも今夜は寝かせねえぞ、サキ、覚悟は出来てるかい?」
「あんまり優しくすると江戸に付いて行くかもだよ、そしたらどうすんのさ、
今度こそ所帯持ってくれるのかい?」
「へへ、俺はお前を満足させる程の器じゃねえよ、俺の行く先は、こじんまり
とした家庭じゃない気がするんだ、俺はまだ女も将棋も極めて無えからさ。
でもよ、今、この時ばかりは、お前を死ぬほど愛してるぜ。
天地神明にかけて。」
「相変わらず上手い事言うのね・・今日は思い出したよ、あんたと二人、長屋
で三味線弾きながら、じゃれ合ってた頃を。
あんたは団十郎にぞっこんで、いつもあたしに伴奏させて歌舞いてたね・・
あの頃は本当に楽しかったな・・。」
「俺も、同じさ、お前がもう少し色気が無けりゃあ、続いてたのにな、
一日、5回も、6回も勃たねえよ、ははは。」
「あら、今日は抜かずの7発で勘弁してあげるわね・・ふふ・・」
元湯本館の、八坂が泊まっていた部屋に残っていた荷物を道中奉行が検分した
所、幾つもの債権を記した帳面が出て来た。
その中にもエルモの父親が残した借金も記載されていたが、3年程前に完済し
てあった。
八坂にとっては金づるを手放したく無かったのだろう、偽の証文まで用意して
エルモの目を誤魔化し続けていた。
八坂の身柄は、山本が老中に上申せず伝馬町牢屋敷に一時預けとし、半年ほど
の服役の後、蝦夷に流刑とした、八坂は蝦夷への流刑を言い渡された時、あま
りの絶望に小便を漏らす有様で、かつてのマムシが見る影も無かった。
三島組の屋台骨を揺るがすこの騒動に関して、三島権蔵は一切の関りを否定し
て、咎めを逃れるも、山本直属の隠密同心が目を光らせる事となり、あこぎな
商売や、みかじめの徴収が制限される羽目になる。
ここに、一連の騒動は終結を見た。
富士乃湯での対局を終えた南佐は、芳賀の裸踊りをお腹一杯見る羽目になり、
少々不機嫌だった。
それでも、現状、塔ノ澤での結果が分らないので、この勝ちが天城にもたらす
意味は大きい。
「南佐ちゃん、俺はまだ止めたが良いって言ってたんだよ、それを惣次郎の奴
が南佐なら大丈夫って・・
だけどほら、凄かったじゃねえか、あの芳賀相手に横綱相撲だよ、俺でも、
あんな将棋は指せねえや、全く流石、愛染女王だぜ。」
「あいぜんじょおおおおおおう、ですってえええええ!」まるで阿修羅だ。
「大体、誰ですか、あんな通り名考えた人は!
もっと可愛らしいのにして下さいよお!
桃姫とか麗亜姫とか春麗とか!」 もうメチャクチャだ。
「どしたい、そんな赤くなってよ。」
惣次郎が横から顔を出した。 南佐の顔が緩んでいく。
「惣次郎、意地悪です!
今日のお風呂は私の背中流してもらいますからね!」
「えええー!待ってくれよ、そりゃないぜ・・
というよりも母上が首を長くして懸賞金を待ってる、早く帰ろうぜ。」
「誤魔化さないでくださーい!」
「ははは、つうか恰好良かったぜ、南佐の一気の寄せ、俺でもあそこから寄せ
切るのは無理だ、お前の力は完全に大衆将棋の横綱位はあるぜ。
俺は今日の将棋を見て滾っちまった、帰ってから風呂の後、研究に付き合っ
てくれ。」
「良いですよ、その代わり前も流して下さいね。」
「・・・親父殿・・何か南佐がおかしいんですが・・」
「俺ぁ、知らねえよ!」
志津が赤飯を炊いて迎えてくれた、勝つと信じていたのだろう。
南佐を交えて、この四人での夕餉は初めてだなと惣次郎は思った。
惣次郎は、兵衛と志津を実の両親の様に慕ってはいても、どこかまだ遠慮がち
な部分を捨てきれずにいたが、南佐はそんな自分の負い目の様な物を、一緒に
抱えてくれ、家族としての振る舞いを、教えてくれている気がして、凄く有難
みを感じていた。
『神様、有難うございます、この家に南佐を寄越してくれて・・本当に。』
研究は夜更けまで続いた。
惣次郎は、そろそろ寝ようかと、明け放していた戸を閉めに行き、ふと夜空を
見上げた。
『 ー凄えー 』
満天の星空だ、天ノ川までハッキリと見える。
「南佐、ちょっとこっちに来てくれないか。」
「ええ、何ですか?・・・・・・・・・わあ、凄い・・」
南佐もこの星空に見とれている。
しばらくして、お互い目が合った、惣次郎が、はにかんで微笑む、
南佐も優しく微笑んだ。
向き合って、顔が近づいて行く、南佐は目を閉じた。
その時、垣根の木が折れる音がして、その直後、どすんと何かが落ちる音が
聞こえた。
「南佐、下がって茶室に入ってろ、俺が見て来る。」
恐る恐る、音のした方へ近づいて行く。
「惣次郎、気を付けて下さい・・」戸の陰から声を掛ける。
「あ痛ててて・・」女の声だ。
「誰だ、こんな夜更けに!」惣次郎が吼える。
「惣次郎か、あたしだよ、悦子だよ、ちょっと邪魔するぜ。」
「ええええええー!!!」見事にシンクロした。
茂みから面倒臭そうにエルモが出て来た。
「そう大きな声出すなよ、びっくりするだろ。」
「そりゃこっちの言い分だぜ、いやいや、驚かせねえでくれよ、つうかお前、
箱根で対局だった筈だろ? 何でこんな所にいるんだよ。」
「あー、いやいや・・色々あったのさ、しかしまあ疲れた、少し寝かせてくれ
ねえか。」
と、言いながら茶室に入って行った。
「ちょっとお!悦子さーん、コラ、待てって・・」慌てて南佐も茶室に入る。
エルモの侵入に起こされた兵衛と志津が、母屋から出て来た。
「何事だよ、こんな夜中によう、誰か来てんじゃねえのか?」
「ああ・・明日、つうか朝から話すよ、
親父殿も母上も今夜はもう寝ててくれ」
惣次郎が茶室に戻ると、座敷の真ん中にエルモが大の字で寝ていて、すやすや
と寝息を立てていた。
南佐がその脇に布団を敷きながら、何かニヤニヤしている。
「惣次郎、今夜は一緒に寝ましょう!」
「はあ?何でそうなる・・いやいいよ、俺は雑魚寝するから南佐は布団で。」
「ダメです! さあこっちに、はい、はい、はい。」
「わーったよ、わーったから、ちょこっと向こうに行ってくれ。」
南佐をエルモ側に少しずらして、布団に体半分出る位置に横になった。
「惣次郎・・悦子さん、何かあったんですかね・・」
「さあ・・分らねえけど、この様子じゃ大丈夫じゃないかな・・」
「惣次郎・・手を握って下さい。」
「え゛、ああ・・しゃーねえな、ったくよ。」
惣次郎は南佐の手を握る。
少し汗ばんでる気がした、南佐とて緊張してるのだ。
何となく見つめ合った 惣次郎が口を開く。
「さっきは悦子に邪魔されたな・・続きをするかい?」
「はい、お願いします。」南佐は目を閉じた。
「がっ!ぐはぁっ!」
瞬間、エルモの右かかと落としが、南佐の脇腹に突き刺さる。
「絶対・・起きてますよね・・この白桜鬼わぁ・・ぐふっ・・」
夜が明けて南佐は、母屋から聞こえてくる、朝餉の支度をする音で目覚めた。
「いけない、寝坊してしまった・・急がなきゃ。」
エルモはもう出て行ったのか、布団が畳んであった。
顔を洗い、口を漱ぎ、急いで台所へ向かう、勝手口から入って挨拶をした。
「おはようございます、お母様・・・あああいいいえええ悦子さん!?」
「遅かったな、南佐、昨夜は張り切り過ぎだ、この淫乱娘がっ。」
「あら南佐さん、おはようね、でもゆっくりしてて良かったのに、今朝は
悦っちゃんが手伝ってくれて随分助かってるから。」
「え、悦っちゃんんん・!?」
「あ、お母様それはあたしが切っておきますね、この気の利かない淫乱娘の
代わりに。」
「お母さま、だ、と・・」
南佐は失念していた、志津が天城一のお人好しだという事を。
『こんなに簡単に篭絡されるなんて・・お母様、情に脆過ぎでしょ、もお!』
半刻ほど前、夜が明けて直ぐに、エルモは母屋の台所で志津の起床を待ち、
ここに至った自らの身の上話を志津に告げた。
「突然にお邪魔しまして申し訳ありません、私の名は、井 悦子と申します」
「あら、あなたは確かこの間、南佐さんのかんざしを届けてくれた・・」
「はい、その節は・・、実はお母様に折り入って聞いて欲しい話があるのです
私は、こちらの天城三羽ガラスの方々と箱根で将棋の対局をして参りました
そこで、坂田小次郎さんに【初めて】を奪われたのです・・ううっ・・
その前日は無理矢理に芸者の真似事をさせられ、体中を撫で回されるという
恥辱をも味わいました。
将棋にも、その事で集中出来ず、負けてしまい、私の飼い主からも見放され
行く当てを失くしてしまい、責任を取ってもらう為に、ここに来たのです。
親切な船頭さん?にも助けてもらわなければ、今頃は凶悪な男どもの餌食と
なっていたでしょう・・。
どうか、しばらくここに置いていただけませんか! ううう・・(涙)」
「ん、まー、他人行儀はお辞めなさい悦子さん、あなたはもう天城の家族、
誰が何と言おうと私はあなたの味方よ! (抱擁+涙)
小次郎が帰ったら、京の都で壬生の狼と呼ばれた私が、とっちめてあげる!
あ、という事は、うちのカラス三匹は勝ったのね、よしよし。
悦子さん、もう堅苦しい言葉遣いはやめて、私も悦ちゃんと呼ばせてもらう
わね。」
「ありがとうございます、お母様。」 ニヤリ
南佐はエルモの狡猾さにドン引きだったものの、未だ正体の知れない、自分に
害をなそうとしているイコライザー達の情報も欲しかった。
ここはエルモを引き込んで、取り入っておいた方が得策だと判断、この流れに
身を任せようと決めた。
「それじゃあ、これから宜しくね、悦子さん。」笑いが引きつっている。
「おう南佐っち、こちらこそ宜しく哀愁!」
「南佐っち・・まあいい、まあいいわ、それじゃあお椀を出して・・」
「おはようございます、母上えええ!三味子おおお!」惣次郎も混乱している
「お前、一晩だけ泊まったんじゃなかったのかよ、で、母上は良いんです?」
「惣次郎!悦ちゃんはもう、我が天城の家族です、
お前の姉と思って接しなさい、いや待て・・花嫁候補にしましょう。」
「え、悦ちゃん?はああああ?母上、何か薬でも盛られたんじゃないですか、
大体、こいつはとんでも・・ぐはっ!・・」
志津の死角から、凄まじいボディが惣次郎のみぞおちに炸裂した。
惣次郎の耳元でエルモが囁く『それ以上言うと、コ・ロ・ス。』
「いや親父殿が何て言うか・・」そこに兵衛が顔を出した。
「悦ちゃーん、手伝おうか?」兵衛もやられた様だ。
南佐は思った、『もう頼れるのは自分しかないわ・・しっかりしないと・・』
「おい、何か文句でもあんのか、淫乱娘。」
「ありませんよぉーだ!、悦ちゃん。」 娘二人笑った。
同日、一刻ほど後
塔ノ澤を後にした小次郎達は小田原に向かう。
宿の客も、大半が今朝方、江戸に戻るので東海道は大名行列の様だ。
馬を使う者、贅沢にも駕籠に乗る者もいる。
小次郎達は、馬を一頭、小田原まで荷物運びに使った。
港に着いて直ぐに、丸森の船が出立しているかを確認した、すると船員の
一人が、三味子らしい女子が船で出て行ったと教えてくれた、しかし、
やくざ者が、後を追って出たので、その後は分からないとも言っていた。
だが、やくざ者は戻って来ていないので下手をすれば遭難した可能性が強
いと、笑い飛ばしていた。
『なんとか逃げおおせてるみたいだな・・へへ、何処に行くかは三味子次第
風の吹くくまま、気の向くままってね。』
「森さんよう、一昨日、ここに来た時に手配しといた船頭ってのは、腕は確
かなんだよな。」
「ああ、俺が生まれた時から務めてる凄腕の船頭だ、風と潮を読ませたら、
右に出る奴はいねえよ、
けどな・・少々悪ノリが過ぎるっつうか、性格が豪気すぎるっつうか・・
三味子に海に落とされてなけりゃあ良いがな、ははははは。」
「そりゃ違いねええや、ははは。
でもよ、こんだけ頑張ったんだ、きっと三味子のこれからの人生に良い風
が吹くんじゃねえかな・・なあ力也。」
「へっ、あいつにはいつか将棋できっちりお返ししてやらねえとな、
負けたままじゃあ、腹の虫がおさまらねえ、将棋は続けて欲しいぜ。」
「けど、赤子に良い土産が出来たな、懸賞金とおひねりの山分け分で12両っ
てとこか、森さんも実家に何か持って帰ってやれよ、三崎の関で乗り換えて
帰るんだろう?」
「ああ、でもな、俺が帰っても喜ばれないのさ・・」
「そう思ってんのは自分だけだって、なあ、ははは。」
「小次郎こそ元湯から幾らか弾んでもらったんじゃねえのか?」
「へへへ、散々苦労して、たったこれぽっちさ。」
手の平には、香車が2枚乗っていた。
後に、「塔ノ澤の香車」と呼ばれ、将棋愛好家が10両の値をつけるも、
小次郎は手放さなず、生涯、大切にしまっていたという。
続く