くまさん
帰り道。
好きでもないし、特にやりがいもない仕事をこなし、稼いだ金で冷えきった飯を食い、死んだように眠るだけの毎日。
家に帰っても出迎えてくれる人なんていないし、趣味もない、夢も希望もない、生きている意味がわからない。
住む場所があって、食べるものもあるのに、この世界から消えてしまいたいと思うのは、贅沢なことなのだろうか。
下を向いて歩く。できるだけ何も考えないようにして、歩く。アスファルト、足、足。
『ご主人様?おつかれですかあ??』
アスファルト、足、足、
『ちょっと、したばっかりみてると、ころびますよお?』
アスファルト、スカート、メイド服。
『やっときづいてくれたあ!ほらほら、そんな疲れた顔してないで!』
唖然として立ち竦む俺の腕を無理やりとって、なにやら眩しい世界につれていく、女。少々強引に引きずり込まれ、足を踏み入れると。
『お帰りなさいませ!ご主人様!!!』
無数の甲高い声が一気に耳に飛び込んでくる。
そこにいたのは、ふりっふりの服に身を包んだ女たちと、今にもよだれをたらしそうな表情の男たち。うん、わかったぞ。
…メイドカフェというやつか。
下を向いて歩いていたせいで、変なところに来てしまったようだ。帰ろう。
『すみません、帰りま…』
『ご主人様、今日もお勤めごくろうさまでしたあ!いまお席にごあんないしますね〜!』
…か、かわいいじゃないか。
会社の人間以外に話しかけられることなんて滅多にないせいか、なんだか妙に胸が高鳴ってしまう。
案内されるがままに席に座り、適当にメニュー表を眺める。
『ご主人様、ご注文はお決まりですかあ?』
店の前で声をかけられたあの子だ。いくつだろう、かなり幼い顔をしている。まんまるの目と高い位置でふたつに結ばれた黒髪が印象的だ。
『あ、』とか『う、』とか訳の分からない言葉を発しながらもなんとか注文を済ませる。
『かしこまりましたあ!少々お待ちくださいませ!』
彼女は大きな目をぱちくりさせながらそう言うと、なにやら紙のようなものを俺の手のひらに押しつけた。
『これ、うけとってください。』
照れたような小さい声でそう囁くと、スカートをひらりと翻して去っていった。
『もえ❤︎090-7785-3423❤︎ぜったい電話してください(/ω\)』
手のひらに握られていたピンク色のメモ帳を見ながら、俺は思う。
…人生、捨てたもんじゃないな。
ここは。
目の前に広がるピンク色の世界にめまいを覚える。
そもそも俺はなぜ今ここにいるのか。
あの日の深夜、勇気を振り絞って電話をしたら、ある場所の住所を告げられた。何もわからないまま、期待半分、不安半分でたどりついたのは、なんと彼女が一人で暮らす部屋だった。
『ようこそ、わたしのお部屋へ!』
玄関のドアを開けた彼女は、そのまんまるの目で俺を見つめた。ふりふりの服は、店にいるときとあまり変わらない。
…これはどういうことなのだろうか。一度だけ店に来た程度の男を、こんなにほいほい部屋に招き入れて、つまりこの子はそういう子なのだろうか。
俺はどうすればいいのだ。そういうのはやっぱり、もっと親交を深めてからのほうがいいのではないか。
そんなことを思っているうちに部屋に通され、今俺は、ピンク色の世界でお茶を飲んでいる。
女の子の部屋って、本当にピンクなんだな〜と間抜けなことを考えながら。
隣にすわった彼女が口を開く。
『今日はきてくれてありがとう!』
『え、いや、うん。』
『あなたがきてくれて、おともだちもよろこんでるよ!』
『おともだち?』
『このこ!』
そう言いながら彼女は近くに置いてあったくまのぬいぐるみを抱き上げた。
『このこも、あなたがきてくれて、うれしいって!』
『…へえ…』
あれ、この子、ちょっとヤバい系?
少し引いている俺をよそに、彼女は続ける。
『ね〜!うれしいよね?ほらあ、うれしいって!』
『そ、そうか〜、よかったよかった〜』
『ぼく、うれしいっ!』
『え?』
『ぼく、あなたにあえてうれしいっ!』
聞こえてきたのは妙に甲高い声。どうやら彼女の裏声らしい。くまがしゃべっている設定らしく、彼女自身は人形のように感情のこもっていない顔をしていた。
『うれしいっ!とってもうれしい!』
『はは、ははは』
『うれしいうれしいうれしいうれしいっ!!!』
甲高い声を発し続けながら彼女は、俺を押し倒して馬乗りになる。あまりのことに声を発することもできない。
『とってもうれしいっ!うれしいっ!』
彼女の手によって口が無理やり開かれ、なにかが押し込まれる。ぬいぐるみだ。くまのぬいぐるみが喉の奥に向かってみしみしと入っていく。
もはもはとしたくまの足が喉の粘膜を刺激して咳き込みたくなるが、口いっぱいにぬいぐるみが詰め込まれているために、それもできない。
涙目で彼女に訴えかけようとするが、なにかに取り憑かれたように動きを止めない。
『あなたにあえてうれしいっ!!』
ピンク色の部屋、甘ったるい匂い、部屋中に響くアイドルソング。
息が、できない。
『次は、あなたの番だよ。うさぎちゃん、次はあなたが仕事をする番。あなたの仕事はね、生きていくことに疲れた男の人を癒してあげることだよ。わたしが働いているお店にはね、たまに、どうしようもない男の人が来るの。』