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もうすぐ四月も終わろうとしていたが、ガレージの奥はまだ肌寒かった。理沙は、普段夫が使っている作業台から電動ドライバーやツールボックスを下ろし、きれいに台上を拭いて版木の一枚を置いた。
青の染料を溶き、一様に塗り広げる。「見当」に合わせて慎重に紙を置き、ばれんで丹念に圧着させる。版木をとりかえ、今度は緑の染料をつくる。版木六枚分その作業を繰り返して、ようやく一枚の版画が完成する。
今まで何十回、その作業を繰り返しただろう。心がざわつくたびに版木を抱えガレージに下り、版画を刷った。
染料の溶き方、塗り方、乾燥の時間、ばれんに加える圧力。心配りすべきことは無数にあって、刷り上りはそれぞれに違っていた。
結婚祝に贈られた水島のオリジナルは、永遠の時間が与えられたとしても、再現できそうになかった。
水島は、梅の咲くころに死んだ。
屋敷は県の所有となり、家財の一部は売却された。水島の作品のいくつかにも値がついた。その利益は、海外の戦災孤児を支援する組織に寄付された。
理沙のもとには、遺作となった版画の版木と、その唯一のプリントが贈られた。東京の新居で、理沙はそれを見た。
六枚の版木の組み合わせから産み出された、息を呑むような色彩美だった。浮世絵の伝統を継ぐものだったが、大胆な図案化・様式化が施されていて、織物の柄か、あるいはエッシャーを思い起こさせた。幾何学的に繰り返される、二つのモチーフの組み合わせだった。
比翼連理。
結婚を祝うものだと、すぐにわかった。
連理は、別々の木から延びた二つの枝の木目がつながっている様。比翼は、それぞれに一翼ずつを持って、雌雄一対で飛ぶ、想像上の鳥だった。
水島は、どんな思いでこれを彫っていたのだろう。
そう思うと、心が乱れた。
きれいなものが好きで、優しくて、いつも人のことばかり気にして、自分のことは、世話を焼いてやらないと気が付きもしない人だった。機会はいくつもあったのに、理沙そのものを求めてくることはなかった。理性的な人なのだと、理沙を尊重してくれているのだと思っていたのだけれど、そうではなかったのだと気づいた。あきらめていたのだと、心の底の深いところで絶望しているのだと、やがて知った。そうなる前の、ずっとずっと若い頃の、愛に飢えて苦しみもがいていたころの水島に会いたいと思った。その水島になら、理沙は必要なものを与えてやれたのに。理沙の出会った水島は、誰も必要としない人だった。水島は比翼だったかもしれない。でも、そのつがいのもう一羽は、この世ではない場所にいるのだ。水島が死んで、理沙も自分が比翼になってしまったと気づいた。もう一枚の翼は、水島が天国に持ち去ってしまった。
夫がいて、子供がいる。どれも大切だ。幸せだと感じている。それでも、飛べない鳥だった。いつか時がすべてを流し去って、夫と連理となるときがくるのだろうか。
ならなければ、と思う。
真新しいインクと古い木の匂いのなかから立ち上がる。いつか、燃やそう。自分の中の思いを写しつくしたら、原版も版画もまとめて火にくべてしまおう。煙は、天国の水島のところに昇っていくだろう。それが、水島のもうひとつの翼になってくれればいいと思う。自分の手の中には、一握りの灰が残るだろう。それを抱きしめて、泣こう。それがきっと、水島のための最後の涙になるだろう。
ガレージを出た。桜の花びらが、風に舞って目の前をよぎった。その行方を追いかけたりは、理沙はもうしなかった。
キーを出し、車に乗り込む。保育園に、子供を迎えにいく時間だった。
了