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家というよりも、屋敷だった。豪壮だが、それ以上に古さが印象に残った。
先祖は江戸時代の豪農だったという。築二百年という母屋は、旅館ができそうなほどの広さがあった。庭園を巡る縁側と渡り廊下に沿って、どこまでも部屋が連なっている。人の気配などなく、自分の足音以外何一つ物音などしない。理沙はその家を歩くたび、時間をさかのぼっていくような錯覚を覚えた。
その家に二十年間、水島はたった一人で住んでいるのだった。
八畳ほどの部屋の真中に、四角く穴があいていた。かつては囲炉裏があったのではないかと思うのだが、水島はそこに石油ストーブを据えていた。
理沙が訪れたとき、水島は畳一枚ほどもある作業机に向かって座し、静かに寝息をたてていた。数ヶ月の間に、その顔は別人のように痩せた。こけた頬を透かして、歯並びがわかりそうなほどだ。左の手元には、薬局の判が押された袋が山をつくっていた。右の手元には、六本の彫刻刀が置かれていた。机の真中に据えられているのは桜材の版木で、彫りかけの画面には、鳥の翼のようなものが現れていた。
「何かしら、鳩?」
「想像上の鳥だよ」
背後から眠そうな声が響いて、飛び上がりそうになった。
「起きてるなら起きてるって言ってよ」
「黙って入ってくるからだよ」
そう言って、ニヤリと片頬に笑みを刻む。
「入院しないで、ずっとこれをやってるわけ?」
「なかなか完成しないんだよ」
「先に病気治そうよ」
理沙がそう言うと、笑顔のまま目をそらした。
「もう、東京に越したんじゃなかったのか」
「延期した」
つとめて何気ない声で、理沙はそう答えた。
「結婚式も延期したままじゃないか」
「それは、また別な事情が……」
「早く落ち着いてくれよ、俺が変な目で見られるじゃないか」
「なによお、あなたが悪いんじゃない。友達もいない、恋人もいない、誰も世話してくれる人がいないから、かわいそうに思って私が来てあげてるのよ」
じゃれあいのようなものだった。この数ヶ月、この家を訪れるたびに繰り返す会話だった。
理沙の知る限り、水島は五度倒れていた。手術をして後、体力は少し回復したが、病気を根治することはできていないらしかった。この広い屋敷で一人、医者を呼ぶことも出来ない状態で倒れている高嶋を想像すると、理沙はぞっとする。だが水島は、少しでも病状が回復すると、すぐにこの屋敷に帰ってきてしまう。
「版画って、そんなに楽しい?」
「木には木の命があって、生きてきた歴史があるだろう。俺にも俺の命があって、表現したいものがあって。それが、ノミ先でぶつかるんだ。対話があるんだよ」
何気なく使われた命という言葉に、どうしてか胸がざわついた。
「ああ、そうだ、一時から弁護士が来るからな、今日は早く帰れよ」
「弁護士?」
「ただ燃やして灰にするだけのことなんだがな、一人で死ぬっていうのは、いろいろ面倒なもんだよ」
息が止まった。氷の指で、心臓を掴まれたように感じた。
「……そういうこと、簡単に言わないで」
「気にするなよ、遅かれ早かれ……」
「お願いだから」
どうにか、涙は押さえ込んだ。水島の前では、泣くまいと決めていた。
「あっさりしすぎなのよ、昔っからそう」
自分は冷静に見えているだろうか。ちゃんと、微笑めているだろうか。
「生きようとしてる?生きたいと思ってる?」
「幸せになってほしいと思っているよ」
ほとんど聞き取れないほどの声で、水島はそう言った。
「そ、そんなことじゃ、なくて」
「まあ、聞けよ」水島は、まじめな顔をして言った。
「俺の母親だった人は、俺が七歳のときに家を出ていった。父親は、十歳のときに死んだ。そこから先は、他人に育てられた。愛したり、愛されたり、そういう練習を、子供のとき、してこなかった。俺が練習していたのは、一人で生きることだった」
水島は天井を見上げ、目をつむり、ひとつ、息を吸った。「だから」と言った。
「だから、どうしたら好きな女を幸せにできるのか、俺にはよく、わからない。俺では、無理だったんだ。そう思う。理沙がいい人を見つけてくれて良かっ……」
「やめて」
理沙がさえぎると、水島は驚いた顔をした。理沙が何故怒っているのか、水島はきっと理解していない。涙をこらえるのが、だんだん難しくなってくる。
「だいっきらい。あなたの、そういうところ……かっこつけて、馬鹿みたい……いっつも……そうやっていっつも自分のことばっかり。あなたはそれでよくても、私は、私の気持ちはどうなるのよ。一人で理屈つくって一人で納得して、私のことなんか、何にも、ちっともわかって……」
肩に触れられた。身体が、その手の感触を覚えていた。その力があまりに儚くて、涙が溢れ出した。水島の口が、ごめん、と言い出しそうになるのがわかる。怒りなのか悲しみなのかもう分からない、強い力が理沙をとらえた。
キスしていた。
水島の腕の中にいた。
遠い昔に過ぎ去っていったことが、何一つ帰らないすべてのことがよみがえって。
理沙は、声を上げて泣いた。