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白い天井に、細長い蛍光灯が二本ずつ埋め込まれている。
見た事のない天井だ。
窓の外の景色は、都市高速からの眺めに似ていた。色とりどりのビルがびっしりと並び、夏の烈日を受けてぎらぎらと輝いていた。
知らない部屋の、知らないベッドの上で、水島は目を醒ましたのだった。
クリーム色のベッドのヘッドボードから吊るされたナースコールを見て、やっと、そこが病室だとわかった。
はっと、息を呑む声に、入り口のほうを振り返った。理沙が、そこに立っていた。花を活けた花瓶が、手から落ちそうになっている。
「落ちるぞ」
「えっ」
言ったとたんに、甲高い音が響いた。陶器の破片と水しぶきが、床に放射線を描く。
「どうしました、大丈夫ですか」
廊下の奥から、看護士の声が近づいてくる。
「すいません、手がすべっちゃって」
あたふたとした様子で、理沙が答える。
「怪我、なかったか」
苦笑いで、水島は尋ねた。
看護士が二人来た。一人は床をかたづけ、一人は水島の体温を測ったり脈をとったりして、去っていった。
「俺は、どうしてここにいるんだ」
誰もいなくなってから、理沙に尋ねた。
「どこまで、憶えてる?」
言われて、記憶を探ってみた。深い穴があいているみたいに、頭のなかは真っ暗だった。
苦笑いし、首を横に振った。
枕もとに椅子を寄せて座っていた理沙は、唇を噛み、目を伏せた。
「県立美術館で、倒れたのよ。あなた気を失う前に、自分で救急車呼んだのよ」
言われてみると、記憶のカケラのようなものが浮かんでくる。だが、他人のアルバムの写真を見ているみたいに、まるで実感がない。
「理沙も、一緒だったのか」
理沙は立ち上がり、窓の外を見た。
「偶然よ」
どこかひび割れたような声で、そう言った。
「ルオー、だったな」
少し思い出してきた。小展示室で、ジョルジュ・ルオーの版画を展示していた。
黒一色の版画なのに、光の表現が素晴らしいんだ。あれは、画集やPCの画面じゃ伝わらない、現物を見なきゃだめだ。
ずいぶんまえ、理沙が他の男と付き合い始める以前、そんな話をしたことがあった。
美術展に行くなら、平日の午前中だ。
そんな話もした。最終日より少し前の平日の、会館直後がいい。人が少ないから、会場を独占できる。
「憶えてたのか」
理沙は答えもせず、うなずきもしなかった。
「良かったろ、ルオー」
水島を見ないまま、理沙は言った。
「どうして黙ってたの」
「何が」
「病気、そんなにひどくなってるなんて、知らなかった」
担当医か誰かが、話してしまったらしい。妻だと思ったのだろう。皮肉な気がして、苦笑いが浮かんだ。
「結婚式は、いつだ」
理沙の背中に向かって尋ねてみた。なんでもない声を出せたことが、少し嬉しかった。
理沙の背中が、少しこわばったように見えた。答えが返ってくるまで、少し時間がかかった。
「お盆過ぎてからよ。彼の転勤の話もあるから、しばらく延びるかもしれない」
「でも、順調なんだな」
「私のこと心配してる場合じゃ……」
「答えてくれ。安心させてくれ」
理沙が、大きくため息をついた。言いたいことは別にあったのだろうが、
「順調よ」
振り返って、泣き笑いのような顔で、そう言った。
「じゃあ、帰れ」
癖になってしまった苦笑いで、水島は言った。
「俺は、眠る」
天井に顔を向け、目を閉じた。理沙が動き出す気配はなかった。鼻をすするような音がかすかに聞こえたが、目を開けなかった。
ため息が聞こえた。窓から離れるのがわかった。歩き出す。つい、呼びかけてしまった。
「理沙」
立ち止まる。
「髪に、触らせてくれ」
目を閉じたまま、手を伸ばした。肘が、持ち上がらない。
腕の中に、理沙が入ってきた。垂れた髪が、頬をくすぐる。掌に、滑らかな感触。洗い立てのような、シャンプーの香り。
ああ、理沙の匂いだ。そう思った。
「もういい。行け」
理沙の匂いが、体温が、遠ざかった。理沙がまた、小さく鼻をすすった。カツカツと、怒ったようにヒールを鳴らして、理沙は出ていった。
「ありがとう」
小さく呟いた。理沙にはもう、とどきはしなかったけれど。