1
ノートのHDDから出てきた過去作品を現代にあわせて一部修正。ベタな話をベタに書いてるのに引き込まれる、というのを目指してた時期の一品。本当は、冒頭にもう一節あったんだけど、どうせ後付だし(最初は、この第1話だけで独立した掌編だった)、なくても成立するので、あえて補完せず。どうということのない話だけど、ちょっと自信あり。まあ、読んでみたまえ。
病院からの帰り、突然の雨に追い立てられて、近くのコーヒーショップへと駆け込んだ。
この季節には珍しい、激しい雨脚だった。
アスファルトに叩きつける雨音が、自動ドア越しに漏れ聞こえてくる。傘を持って出なかったことを、水島は悔やんだ。
トレイにエスプレッソと灰皿を受け取り、ガラスで囲まれた喫煙席に座った。煙草をくわえ、火をつけたとき、ガラスのむこうに理沙がいることに気づいた。
水島と同じく入り口を向いて座っているから、視線が交差することはない。白いブラウスの肩が濡れていた。今席についたばかりなのだろうか、湿った髪を苦労してまとめているところだ。
理沙の姿を見るのは一年ぶりのことだった。水島が病気で会社を辞めてからも、二、三度外で会った。メールのやりとりもしばらく続いたが、ここ半年ほどは、連絡が途絶えていた。
同じ職場で五年過ごした。休日のほとんどを一緒に過ごした。だが結局、抱くことはなかった。つきあっていたといえるのかどうか、わからない。
灰が一かたまり、煙草の先から落ちた。我に返った。ずっと理沙を見つめていたと気づいた。今の自分を、理沙に見られたくはなかった。水島は何も気づかなかったふりをして、雨の降り止まない外を眺めた。
暗い空だ。このまま夜になってしまいそうに暗い。傘を差した人々が、うつむきながら通り過ぎていく。
スマホが震えた。
ラインが来ている。
>久しぶり。痩せたね。ちゃんと食べてる?
理沙からだった。
理沙は頬杖をつき、スマホを握り、外を眺めている。
>そんなに痩せちゃいない。まだ標準体重だよ。元気だった?
理沙が画面を確認する。ちらりと、視線をこちらに投げる。頬杖をついていて、口元の表情はわからない。親指がすばやく動き、メールを送信。
>そういうとこ、変わってないね。いっつも「大丈夫」ばっかり。ちょっとは心配させてよ。
これがほんとのやせ我慢ってやつだ。そう返そうと思ったが、自粛した。
病気が仕事を続けられないくらい悪化していたことも、理沙にはぎりぎりまで黙っていた。弱さを見せれば、離れていくような気がしていた。
>ごめん。
そう打ち込んで、続く言葉がなかった。
理沙の頬杖が外れた。こちらに顔を向けて、少しだけ微笑んだ。
(俺の人生には先がない。病気が治らなくて、このまま駄目になっていくだけかもしれない。そんな人生に、君を巻き込みたくなかった)
伝えたいと思ったのは、そんな気持ちだった。いざ言葉にしてみると、くだらない独り善がりのように思えた。
結局、ただ謝るしかないような気がした。
はっきりと恋人どうしではなかったが、お互いの気持ちはいつも近くに在った。曖昧なまま、振り回して、何年も待たせて、結局放り出した。あのとき、一歩踏み出していれば、そう悔やむ瞬間が何度か在った。でも、踏み出していれば、どうだったというのか。理沙を幸せにできていたのか。
スマホが震えた。
>でも、久しぶりに顔が見れてよかった。ずっと心配してたんだよ。このまま会えなくなるなんて嫌だなって、思ってたから。
胸にこみあげるものがあった。
ずっと押さえつけてきた気持ちが、溢れ出しそうになった。衝動的に返信していた。
>俺も、ずっと理沙に会いたかった。
スマートフォンの画面を見つめる理沙の口元に、笑みが広がるのがわかった。理沙が立ち上がった。
喫煙室を仕切るガラスに手を触れ、何か言った。聞き取れない。理沙の手のひらが裏返った。
薬指に、指輪が光っていた。
水島は両手をひろげ、大げさに驚いて見せた。「おめでとう」
唇で読み取れるように、はっきりと口を動かしてそう言った。
ばいばい、と手を振り、理沙は店を出て行った。
気がつくと、雨は止んで、雲の隙間から陽光が刺しこんでいた。彼女は、光の中に消えていった。
水島は背を丸め、冷めかけたエスプレッソをすすった。
がつんとくる苦味だ。それがいいのだ。
水島は苦笑を浮かべ、しばらく外を眺めていた。