第153話:雷と火2
オーカスの考えは一つ。ラグの前では、一人の女性でいたいのだ。
ラグの心の中で葛藤が起こる。オーカスの願いを受け入れてクレアと呼ぶべきか、それとも今のままオーカスと呼ぶべきか。巨大飛空艇ノアでオーカスを女性と知ってから、ラグの瞳にオーカスは17歳の少女としか映らない。
もし少年の二十一部隊の隊長のままだったら、ラグはオーカスに思いを寄せることはなかっただろう。いや。サザーランドの王都の宿で、悲しむオーカスを抱き寄せた時から、ラグの心はオーカスに奪われていたのではないか。
ラグは振り返った。
「クレア……」
ラグにとって、とても大切で美しく崇高なる戦いの女神オーカス。ラグはアメシスト色の瞳でオーカスを見つめていたが、ゆっくりと動いて両膝を折って、片膝を床につけて、恭しく灰色髪の頭を垂れた。
「クレア・オーカス・シーライト将軍。わたくしラーグ・フルフォンド・コトックは、ローラン国のため、いかなる時もシーライト将軍を裏切ることなく、永遠の忠誠を誓い、この身をローラン国のために捧げる所存でございます」
ラグの言葉は、残酷な矢となってオーカスの胸に突き刺さった。
「それが貴方の答えなのですね」
ラグの妻、オフェーリアを知らなかった訳ではない。ラグから断られるのも予想して覚悟をしていた。だが、断られた苦しさはオーカスの予想を遥かに上回っていた。オーカスは流れ出そうになった涙を必死に堪えた。ラグの前ではシーライト将軍として立っていなくてはならないからだ。
「ラーグ・フルフォンド・コトック卿。私に対する貴殿の忠誠心、確かに受け取りました。私は将軍としてローラン国のために、コトック家の発展を願うことにしましょう」
こんな事なら思いをラグに告げなければよかったと、オーカスは心の中で叫び後悔する。
「私は少々疲れました。飛空艇が城に到着するまで部屋で休む事にします。ラーグ殿も部屋で休むといいでしょう。それでは、ごきげんよう」
オーカスは静かに歩いて部屋に向かう。見た目は落ち着いているが、心の中はぐちゃぐちゃに泣き崩れていて、将軍として今後ラグをコトック卿と呼ぶべきか、ラーグ殿と呼ぶべきか、訳が分からなくなっている。部屋に入ってからは飛び込むようにしてベッドに横たわり、枕に顔を押し当てて声が外に漏れないように泣き出した。
ラグはカウンターに手をついて椅子に腰掛けた。グラスの水を飲み干して空になったグラスを見る。最近酒を飲んでいなかったと思いカウンターの奥をのぞくと、将軍が乗る上官用の飛空艇だけあって冷蔵庫の中に上級酒が置いてある。ラグは酒をグラスに注いで口に含んだ。酔って頭の芯が痺れてくれば、心の傷の痛みも和らぐ。悪夢にうなされても、また酒を飲めば次の悪夢まで眠ることもできる。また以前の暮らしに戻れば済むだけの事。だが、ラグは酒を飲み干す事はなかった。酒が入ったグラスをカウンターに置いた。
「オフェーリア。父上。母上。セーラ。これからアルランドの英雄ラーグ・フルフォンド・コトックの、火の鍵の継承者として本当の人生が始まるのですね」
カウンターの上にあるグラスの中の酒に、ラグの涙が雫となって落ちた。
飛空艇は静かに空を移動しローラン城内に着陸した。
ラグとオーカスは、お互い会う事も無く時を別にして何事も無かったかのような顔で飛空艇を降りた。
その後、ラグとオーカスは王宮の執務で何度も出会う事になるが、二人の顔色に変化はなく、周囲の者も二人の間に何があったのか気付くこともなく、二人にとっては重苦しく、ユーフォリアの人々にとっては静かな平穏の日々が過ぎていった。
それから数ヶ月して、戦犯の前ローラン国王の裁判が始まった。
ラグは裁判を見ることもなく故郷のコトックの地へ戻るために城を出た。
同じ時、オーカスはシーライト将軍として裁判に参列し職務に勤しんでいた。無我夢中に将軍として職務に勤しむオーカスが、ラグへの思いを忘れようとしていた事は誰も知らず、当然城を出たラグ本人も知らない事だった。
それから更に数ヵ月後、サザーランド国王が見守る中、前ローラン国王に国民の判決が下された。
それは、ラグもオーカスもニックも予想しなかった、無期懲役だった。
国民は、死よりも一生涯続く前ローラン国王の労働を望んだのである。