戦争開始 水野の攻撃
「準備は整ったようですね」
余裕の笑みを浮かべながら光雄は寮の前に現れた。
寮の前は代々ここの寮生が決闘の契りを交わした場所だ。審判を司るように枝を伸ばした銀杏の木が植えてある。多くの先人がここで正々堂々戦うことを誓い合った。トイレの順番を賭け、講義の代返を賭け、コンパの出席券を奪い合った。
それらすべての戦いを見届けたこの木の下で、勝負のルールを確認する。ここで誓い合ったルールは決して変更することができない。それが自らに不利に働こうとも、ここでのルールは絶対なのだ。
「では確認しよう」
俺が高らかに宣言した。すでに寮全体にこの戦いは知れ渡り、同志である他の二人が好奇な目で行く末を見守っている。
俺はそれらすべての住人の瞳を見つめた。
「一つ、プリンは必ず隠す! 二つ、制限時間は十分間とする! 三つ、勝者は至高のプリンの称号を得る!」
同志二人は。「本当に?」「まさかっ!」と驚きの声を上げた。これがただの争いではないと理解したのだろう。
どよめきの後の静寂。銀杏の擦れる音がそれを際立たせた。
………………。
………………。
………………。
……光雄よ、どうして何も話さない。今の季節を忘れたのか! お前は木の陰に隠れているが、俺は照りつける太陽がすさまじく暑い。早く建物の中に入りたい。
問題ないとか、このルールを追加しましょうとか、いくらでも話すことはあるだろう。ここでのルール確認は絶対であり、非常に重要なのだから多くを確認すべきではないか!
「……光雄が隠すプリンは俺から奪ったプッチンプリン二つ。俺が隠すのはお前から奪った牛乳プリン一つ。必ず寮の敷地内に隠していること。異論はないな」
「ええ、勿論ありません。しかし、水野さんは二つ見つけないと勝利にはなりませんよ」
「まったく問題ない」
光雄は呆れたように肩を竦めたが、そんなことはどうでもいい。早く日陰に入りたい。
「正気ですか? 至高のプリンを賭けた戦いで、自ら不利になると言うのですか?」
「問題ない。俺はプッチンプリンを、仲間の力を信じている。それとも、俺が不利になると困ることでもあるのか?」
「いえ、全く」
光雄は言い捨てると深い笑みを表情に刻んだ。すでに勝利を確信している。そんな余裕すらも感じられる。
これはただの物探しゲームではない。互いの心理を読み取る心理戦でもある。おそらく光雄は、この勝負のために綿密なシミュレートをしたに違いない。何かを企んではいる。しかし、それがなんなのか俺にはまだ判然としない。暑さでそれどころではない。
光雄を取り巻く不可解さは居心地の悪さとなって俺を包む。さながら、プリンを取り巻くプラスチック容器のように。
(光雄、貴様は何を企んでいる)
もはや光雄の手の内にあるのではないか。そんな思いが額から大筋の汗を流した。首筋はすでにびちゃびちゃだ。
「では、私からも一つ」
光雄は人差し指を立てた。優雅な手つきに俺は苛立ちを覚える。その優雅さ、羨ましい。
「探す人間が寮に一歩でも入ったらスタート。そして、制限時間が経過していなくとも寮を出たら終了です」
「その終了はプリンを探し出せていたら勝利、探せていなければ敗北と捉えていいな」
「ええ。それでかまいませんよ。どちらから探しましょうか?」
「俺から探そう。いつまでもプッチンプリンを二人にしてはおけない」
日陰に入り、一息ついてから再び寮全体を見渡した。涼しい。いや、部屋は全部で四部屋。各部屋に一人ずつ生活し、104号室はわずかに広くなっている。そう光雄の部屋だ。妖しい匂いがその部屋から漂ってくる。さながら、プリンのカラメルのような妖しさだ。
「おっと、まずは私の部屋ですか。なかなか良い勘をしていますよ」
執事を気取っているのか、光雄は自らの部屋の扉を恭しく開いた。
室内の間取りは同じだが、光雄の部屋の壁はすべて本で埋まっていた。『牛乳プリンのすべて』『牛乳プリンをおいしく食する方法』『牛乳プリンを引き立てる最高の脇役たち』。
どの本にも牛乳プリンの文字が躍る。
「愛とは舞い降りることを待つものか、育むものなのか。否、愛とは深めることなのですよ。私は牛乳プリンとの愛を日夜深めているのです」
「その意見には同感だ。俺も日々プッチンプリンとの愛を深めている。だからこそ、降参する気はないか? プリンに争いは似合わない」
「何を言うのかと思えば」
と言い、光雄は天を仰いだ。そこには低い天井しかない。
「人間が二人いれば優劣を決め、互いを高め合うというものです。争いが醜いのは争いに臨む心に問題があるのではないのですか?」
「そうか、ならば何も言うまい」
俺はこの争いを受け入れる覚悟を決めた。
まずは冷蔵庫の扉を開けた。
『やはり…………』
俺は生唾を飲み込んだ。
…………涼しい。いや、そうではない。所せましと並べられた牛乳プリン。最近の牛乳プリンは様々なバリエーションがあるようで、赤、青、黄色――――。変わらないフォルムと色を貫くプッチンプリンよりも彩が美しい。
「柔軟な姿勢で様々な味を受け入れるのが牛乳プリンです。鎖国のように錆びきった伝統を受け継いでいては、勝ち目がありませんよ」
「伝統を貫けば無二な存在となることができる。牛乳プリンこそ、本来の味を忘れぬようにすべきだ」
俺は並べられた牛乳プリンの隙間を確認した。やはりというか、これほど単純な所には置いていない。
冷蔵庫の隙間や電気フードの上や靴箱の中も確認する。シンクにはよく磨かれたスプーンと、小皿が一枚あるのみ。排水管の周りも確認したが、やはりプッチンプリンは見つからなかった。
「どうしたのですか? プッチンプリンの悲鳴が聞こえないのですか?」
光雄の挑発にも俺は冷静を保っていた。卓袱台の下や、吊るされたコートのポケットも確認する。しかしプッチンプリンの姿は見つからない。本と本の隙間も丹念に確認するも、もとよりプッチンプリンが入る隙間は存在しなかった。
「私の部屋にばかり時間をかけ過ぎじゃありませんか? あなたの部屋を含めて、あと三部屋もあるんですよ」
呆れ気味に光雄は言ったが、俺は勝利の笑みを浮かべた。
プッチンプリンを愛する者は俺だけではない。すでに同志二人が他の部屋を探索し見つかれば連絡する手筈だ。同志の存在に気づかないとは滑稽だな! 光雄! ここでわざわざ教えてやるほど俺は善人ではないさ。
「孤高に価値を見出す牛乳プリンを愛するお前だ。他の場所に隠すとは思えない。信じるのは自分自身。ゆえに、お前が一番よくわかる場所に隠していると俺はふんでいる」
「ふむ、それは正解ですよ。確かに、あなたのプッチンプリンはこの部屋にあります」
俺は耳を疑い探す手を止めた。
「正気か? それとも嘘か?」
「これは真実です。もしも私の言葉が嘘であれば、至高のプリンの座は辞退しましょう」
これでは同志の意味がない。この部屋の探索に集中させるべきか。いや、同志と俺の繋がりをここで知られるわけにはいかない。ならば、ここは俺一人でやるしかないだろう。
しかし、光雄の発言の意図が読めない。…………悩む。さながら、プリンを表現する言葉が見つからない時のようだ。
光雄の余裕の笑みは崩れず、焦り始めた俺を楽しんでいるようにも見える。
ゴミ箱も確認したが、袋の中には牛乳プリンの空き容器が一つだけ。これで室内は探し尽くしてしまった。俺の額には大粒の汗が浮かんでいたが、顎を伝った汗は暑さからのものではない。
「どうして見つからない。お前はルールを破っているのか?」
「これはこれは」と言い、光雄は大仰に天を仰いだ。だから、そこにはヒビが入った天井しかないぞ。
「まさか自らの無能を他人のせいにするとは。これは至高のプリンの座を賭けた勝負です。穢れた冠など、こちらから願い下げです」
俺も口にしたいカッコいい台詞だ。
様々な色に染まっている牛乳プリンではあるが、染まってはいけない色はわかっているのだろう。
ならば、プッチンプリンはどこだ…………。
時計を確認する。残り時間は、二分を切っていた。
「そろそろ、カウントダウンを始めたほうがいいですかね」
「黙っていろ!」
俺はじっとしていられず、再び冷蔵庫を開けた。涼しい。広がるのは牛乳プリン。プッチンプリンは、やはりない。やはり、涼しい。
『俺が光雄ならどうする? どこにプッチンプリンを隠す? 少なくとも目に見える場所には隠さない。必ず盲点を突くはずだ。この部屋の中で盲点と言えば…………』
「冷蔵庫を閉めてもらえませんか? 牛乳プリンの食べごろを維持できません」
「ん? ああ、すまん」
やや乱暴に俺の肩を掴むと、光雄は一番手前にあった牛乳プリンを取り出して扉を閉めた。
「こんなときに食べるつもりはなかったのですが、仕方ありませんね」
冷蔵庫に腰かけシルバースプーンを牛乳プリンに突き立てた。暑さに苦しむこの俺を前にして、キンキンに冷えた牛乳プリンを食す。なるほど、残り時間が少なくなっても手加減がない。この俺に心理からも揺さぶりをかけるとは。
「ではカウントダウンと行きましょうか」
思わず時間を確認した。もう、いくばくもない。
弾かれるように部屋の中を駆けた。
何度も確認した本棚や、トイレのタンク。窓の外を見て外壁にへばりついていないか、隠し扉の存在、さらには床下が空洞になっていないことも確認済みだ。
胸の奥が冷たくなり、焦りから内股で歩きたくなる衝動を恥ずかしく思い、そうせざるを得ない悲しさが俺をさらに焦らせる。
パタリっ…………。
思わず顔を上げたが、ただ光雄が冷蔵庫を閉めた音だった。
内股歩きを見られていた? その思いが俺の顔を熱くさせた。それを振り払うように握った拳で中空を殴る。見えない敵を打ち払うこの行動に意味などない。しかし、胸に宿るこの気持ちは少しも振り払えない。さながら、プッチンプリンの誘惑に打ち勝とうと修業していたときのように。
光雄は冷蔵庫を閉めただけだ。俺のことなど眼中になかった。なにしろあいつは牛乳プリンを食していたのだ。それは魅力的な誰にも邪魔されない時間。そんな時間に他のことをする余裕などない。
拳を止めた。
光雄は奇妙な生物を見る目で俺のことを見ている。無理もない。できれば何も聞かないでほしい。口笛でも吹いて冷静さをアピールしよう。…………しまった! 俺は口笛が吹けない。いや、落ち着こう。まだ焦る時ではない。重要なのは、そう、冷蔵庫を閉めたということは、再度冷蔵庫を開けたということだ。
温度の低下を嫌っていた矢先のことだ。二個目? いや、この争いのさなかに甘美な時間など堪能できるはずがない。光雄が牛乳プリンを食したのは俺が冷蔵庫を開け放っていたことが原因だ。
取り出したのでなければ、答えは一つ。
「光雄、そこからどいてもらおうか」
ゆっくり近づくと、光雄の表情は困惑から恐怖の色を帯び始める。
「水野さん、あなたは何を考えているのですか?」
「知れたことを。その冷蔵庫を開けるのだ」
そう、貴様は冷蔵庫の中にプッチンプリンを隠した。
プッチンプリンは最初から光雄自身が隠し持っていた。それをさも部屋の中に隠しているかのように思わせていたのだ。寮の中にあるのだからルール違反にはなっていない。他の部屋に隠していないという発言も真実だ。
そして、俺が動揺を隠して……もとい、思考に集中している隙をついて冷蔵庫に隠した。
「どうだ! 光雄!」
「いや、どうだと言われましても、何を言っているのですか?」
そうか、すっとぼけるとはいい度胸だ。ならば、
「実力で排除してやろう」
光雄の肩を掴もうと手を伸ばすが、その手が振り払われた。
「……なるほど、残り時間の少なさにやけになったというわけですか。もはやプッチンプリンを探すのは叶わない。ならば牛乳プリンを壊滅させ一矢報いようと。先ほどまでの奇妙な行動に得心がいきましたよ。私と牛乳プリンとの邂逅を見せつける行為が! あなたをここまで狂わせたというわけですね!」
光雄が何を言っているのかわからない。
ただ、俺が真相に近づいているのは確かだ。
俺は拳を握り直し、光雄は両手を広げた。
「残り時間はもうわずかです。私はここを死守してみせる!」
「ええい! ならば、俺は押し通るだけだ!」
ピピピピピピピピピピ