3願えども、夢見ても
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棚の奥に隠すように置いた若返りの薬、『ミクルゥ』。
どうしてそこまでして若返りたかったのかと問うギルに、エラの答えは、自分の若返りではなく「ギルが若返ること」を望んだという言葉。
その理由はといえば、ギルの肉体の時が戻れば、呪いを受ける前の身体に戻れるのではないかというエラの望みがあったから――……。
エラは、ギルを見つめた。
「先日、城からお越しになった薬師様と魔術師様に言われたのでしょう?……あと、長くもって三年だと」
エラがそう告げると、ギルは片眉をあげた。
「どうしてそれを」
「いつも薬師様と魔術師様だけですのに、王城の魔術師長様までいらっしゃるのですもの、異変に気付かぬわけありませんわ。私が、お帰りになった魔術師長様を馬で追いかけて問い詰めたのです。そうして聞きました。ギル様のお身体の状態を」
エラの言葉にギルは呆れた顔をした。
「……貴女が相当なおてんば姫であったことを忘れていました」
「馬くらい、まだ乗れます。それよりも、貴方の口から話してくださるのを待っておりましたのに。いつまでたっても言ってくださらないんですから」
ギルは黙った。そんなギルに、エラはふっと笑みを浮かべる。
「……私が心配すると、泣き暮らすとでもお思いになったのでしょう、だからお隠しになったのでしょう。本当にギルは心配性なんですから」
「……」
「しかも自分の死後、私のことをまかせる貴族の手配をなさってるんですって? セルディ伯爵から情報を得ましてよ?」
「……あいつの口まで割ったんですか」
「私をみくびらないでくださいな?」
「……」
「でも、だからこそ私、そんなに追い詰められてるあなたの……その病魔さえ小さくなって消えてくれたらと思って、この『ミクルゥ』を求めたんです」
「エラ」
「私は浅はかでした……でも、本当に媚薬だなんて知らなかったんです。時が戻り、若返ると信じてしまったんです」
二人は黙って、瓶を見つめた。
しばらく沈黙ののち、ギルがふと気付いたかのように顔をあげてエラにたずねた。
「夏季の大市の時に買ったのであれば、もう一カ月も経つ。なぜ、すぐに私に飲ませなかったのです?」
ギルの問いに、エラは苦笑した。
「……この薬を手にしたあの夏の大市場の帰り、家にたどり着いてから、ギルは少しお疲れになったご様子で早めにお休みになったでしょう? そんな貴方を目にして、冷静になったんです」
「冷静?」
「ええ。この胸に隠し持つ若返りの薬が、たとえば逆に貴方にかかった魔術にもっと悪い作用を起こして、余計に病気が悪化する可能性も秘めてることを。考えだしたら、封をあけるのも怖くなってしまって戸棚の奥に隠していました」
ギルは瓶をテーブルに置きながら、エラを見た。
「私にこれを飲ませる勇気はないけれど、捨てられもしなかったのですか」
ギルの言葉にエラは深く頷いた。
「えぇ……だって、貴方が……貴方が治るかもしれない……ほんの少しでも希望のある薬でもあるんですもの」
そこでエラは言葉を切った。
しんと静まりかえる、二人の間。
深紅の小瓶の影がちいさくテーブルに伸びている。
黙りこくっている二人だったが、ふいにエラが言った。
「捨てることなんて、できません……」
それまで苦笑と自嘲をたたえていた皺のある目元から、するりと透明な滴が流れる。
「捨てるなんて。あきらめるなんて……。子を授かることはあきらめなければならなかったとしても……今、生きているあなたの命をあきらめることなんて……私、わた、くし……」
そのとき初めて、エラは涙あふれる自らの顔をかくすように両手で覆った。
その仕草を見て、ギルは――動揺を顔にあらわすことがほとんどないギルが、明らかに顔をこわばらせた。
エラはイビエラ姫……目を伏せて涙をこぼすことはあっても、手で顔を覆って泣くなど、ギルの前でもしたことがなかったからだ。
それは王族ゆえの幼き頃から教え。
表情を手で隠すということは、遮るということ。
民から顔を隠すということは、王族には許されぬこと。
けれど、今、そこにいるエラは、”エラ”であった。
ギルは初めて痩せた肩をふるわせ、手で顔を覆って泣く妻を目の当たりにした。
顔を隠す妻を。
ギルは一度グッと目を瞑り、一呼吸するとおもむろにテーブルに置いた瓶をふたたび手にとった。
そして、一気に封を切った。
「ギルっ!」
ギルの動きに気付いたエラは悲鳴のような声をあげた。
だがエラに止める間はなかった。
ギルは、すでに瓶を煽り、その中身を飲み干していた。
「味は、薬草酒と思えばまぁ悪くない」
さらっとそんなことを言って、ギルは驚くエラの前で、テーブルに空の瓶を置いた。
「ギル、今すぐ、吐き出してくださいっ」
叫ぶようにエラが言うと、ギルは杖をテーブルに立てかけて、一度自身の力だけで立つようにと一歩を出した。しかし、思い通りに動かなかったためか、ふたたび杖に手を伸ばした。
それから小首をかしげてエラにむかって、ほんの微かに笑んでみせた。
「身体の痺れもとまりませんし……残念ながら、”男”としても熱が滾る予感もなさそうです」
「ギルっ、悪ふざけはよしてっ、あぁ、本当にどうか吐き出してくださいっ」
「貴女が私のことを思って買い求めてくれたものでしょう? もったいない。……それに、どちらにせよ、三年もつかどうかわからない身です」
「ギルっ!」
「どうも、『ミクルゥ』には若返りの即効性はないようですね……手もしびれたままだ」
すがるようにしてエラがギルを見つめると、ギルはいつも厳めしい表情をほんの少し和らげた。
「エラ……泣かないで。ほら、大丈夫です」
「ギル……どうして、こんな無茶を……」
「貴女が見た夢を、私が飲み干しただけです。……あなたの本当の夢は、叶えてあげられなかった私だから」
ギルの言葉にエラは目を見開く。
そして、首を横に振った。
「そんな、そんなことっ!私、わたくし、しあわ、せで……」
「えぇ、私もです。けれど、エラには……夢があったでしょう。叶わなくても見ていたい夢が。けれど、あの魔物の呪いは”それ”すらもあきらめさせた。”もしかしたら、いつか”と夢を見る心を奪った」
「いいえ、いいえっ!」
泣きぬれた顔をさらし、今のエラはギルの前で首を横に振り続ける。
先ほどのように顔を隠しはしない。
そんなエラを、ギルはじっと見据え、言った。
「今のんだ『ミクルゥ』は効くかもしれません。貴女が願ったように」
「ギ、ル……」
「飲まないで置いたままではただの飾りでしょう? でもこうして飲めば、奇跡は起こるかもしれない」
「媚薬ですのに」
「若返りの薬でしょう?」
しれっと言って、ギルはエラの手をふいにとった。
「貴女が心配するほどに、呪いのはびこった私の身体には影響がないようだ。媚薬の効用としても皆無の様子です。……ま、それもまた寂しいことなんですけれどね」
「ギル」
エラはギルの手を握り返した。
互いの手の肌に張りはない。けれど、剣を持ち鍛えてきたギルの手は――騎士としてエラを護り、引退しては指導者としても剣の稽古欠かさずにきたギルの手の平ら硬く厚く、そしてあたたかい。
――やはり、ただの健やかな者が一夜を夢見るための薬だったんだろうか。
若返りの薬……馬鹿げたものだったかもしれない。信じようと信じまいと、そもそもわけのわからぬ薬に頼ろうとしたことが。
でももし少しでも効いて、この人の命が一日でも長らえるならば――そう夢を見た。
すべて売り払って得た薬だった。その対価にはなんの未練もない。
ただ……ただ、薬が効いて欲しかった。
この人に一日でも長く生きて欲しい。
ギルの言うように、この呪いがギルの身にかかる前は、もっと違う夢を見ていた。
最初はギルドラードとの恋を。
恋の成就の次は、婚姻を。
そして、夫婦になったあかつきには、母となれることを。
けれど、少しずつ夢はかなわなくなり、あきらめざるをえなくなった。
「ギ、ル……」
一人になりたくないから、ギルに長く生きて欲しい……そういう自分のための”都合”で想う気持ちも存在する。
でも、それだけではなかった。
ねぇ、ギル。
あなた、私を守ってくれたわ。
ずっとずっとずっとずっと、守ってくれたわ。
そばにいてくれたわ。
世間では私がギルについて田舎住まいになったなんて言うみたいだけど、違う。
私がいることの方がきっと、ギルには足手まといだった。
そんなこと、わかってるの。
だって、私は、お財布から自らお金をだして使ったことすらなかった。ギルの妻と言っても、貴族の妻で、侍女にすべてをしてもらう生活のままで暮らしてきた。
そんな買い物ひとつできない”年だけいったお姫様”のまま、この田舎についてきてしまったんだもの。
庶民育ち、少年剣士の頃は他の強者と共に国中を巡ったこともあるギル一人の方が、よっぽど生きやすかったに違いない。呪いを抱えた身体では特に。
なのに、あなたはいつも私を必要としてくれた。
私に存在意義を与えてくれた。
だから、ねぇ。
ギル。
私は、あなたに、若返って欲しかったの。
自由になって欲しかったのよ……
病魔から、元姫の妻という私から――……
でもその夢見がちな願いすら、”年のいったお姫様”のわがままな願いなのね。
たくさんの想いが去来する。
けれど、エラはそのすべてをのみこみ、口元に優雅な笑みをつくった。
「ギルドラード様」
昔のように呼びかける。
長身の夫は、顔をこちらに傾けるようにして「どうしました」と答えてくれる。
――ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい――……
「――……愛しています」
イビエラのことばにギルはほんの少し目を細めた。
厳しいその表情は、微笑みといったあからさまな柔和な表情を保つことは、もうほとんどない。
また、今のギルに、若かりし頃の大きな体躯に白基調の近衛騎士の正装に身をつつみ、金の髪に日差しをたっぷりうけて全身輝いているようにすら見えた華やかさもない。
色の抜けた白髪と引き締まったけれども張りはない肌。まるで水の枯れた岩場のような厳しい雰囲気を纏っているだけだ。
けれどエラは、ギルを心底素敵だと思う。
こうしてただたたずんでいるように見えても、エラを護る立ち位置で、とっさにエラをかばえるように利き手の右を空けている。痺れがでる脚であってさえも、敵がいない今でも、弱点を悟られぬようにピシリと立つ。
自分の永遠の騎士なのだ――。
こんな自分からも、病魔からも自由にしてあげたい。
けれど実際にはそうできずにいる。
若返りを夢見て『ミクルゥ』を買い求めたのに、戸棚にしまっていたように。
夢見ることと、実際に行うことがちぐはぐになっている。
自由にしてあげたい。なのに傍にいたい。
病気を癒してあげたい。でもできない。
何もできなくて、無力で――……
ただ。できることは……。
「愛してます、ギル」
エラはもう一度言う。言葉が空気に溶け込むように、ギルに溶け込むようにと願いながら。
――どうかどうか……私のためでなく、ギルドラード自身のために、命が輝くように……
ふたたびエラの言葉を受けたギルは、片眉を上げた。
そして、
「少し、お待ちください、姫」
と言うと、ギルは杖をテーブルにかけた。
そうしてゆっくりと痺れ自由のききにくい片足をゆっくり後ろにぐっとずらしていくと、テーブルの脚を支えとしながらも片膝立ちとなった。
「ギル……」
おもわず名を呼ぶエラの手を、宝物のようにギルは手に取る。
昔、騎士として仕えていたときのように。
膝まずいたギルは、痺れ震える手でエラの手をとりなおすと、甲に口づけを落とした。
「エラ。イビエラ様。私の、たった一人の姫君」
その声は……渋く枯れているはずなのに、どこか甘く艶めいていた。
――何が姫君、何が騎士だ。
年老い枯れた夫婦のとんだ茶番と世間は笑うかもしれない。
かつて皆の羨望のまなざしを受けた騎士ギルドラードとイビエラ姫のなれの果て。
でも、それでも良いと、エラは心の内で思う。
若返りの薬が偽りであろうとも。
姫とはいえない皺苦茶のおばあちゃまに、白髪の元騎士が老いぼれた足を折ってひざまずくのであっても――……。
そこに、流れる想いがあるのだと二人には感じ取れれば、いつだって、吟遊詩人の語る騎士ギルドラードとイビエラ姫の恋物語に戻ることができる。
ただ。
ただ、物語の中に病の治癒の奇跡がなかったことが――……ギルの身体の時が戻らなかったことが――……哀しいだけ……。
エラは、笑みを浮かべたまま、心にこぼれた涙をのみこんだ。
「ギルドラード。私の唯一の騎士、ただひとりの愛しい人」