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1深紅の薬瓶



 それは昼食の準備をしようとエラがテーブルにクロスを広げようとしたときに、起こった。

 夫のギルが、エラを遮り、木が剥き出しのままの何もないテーブルに、ことりと小さな瓶を置いたのだ。

 そうして、ギルは自分の椅子座ると、クロスを持ったままテーブル脇で立つエラを見上げ、険しい声で呼びとめた。


「エラ」

「はい」

「この瓶は……なんですか?」


 夫のギルにそう問われて、エラは息をのみこんだ。

 ギルはただエラの前に静かに座っているだけであるのに、その細い身体からこの煉瓦造りの小さな住まいをすべて焼きつくすのではないかというくらいの、燃え上がる炎のような凄みを感じたのだ。


「何って……見ての通りです」

「見ての通り、なんだというんです。言葉にしてごらんなさい」


 威圧感のある冷徹な声音。ギルが怒っていることはエラの目にも明らかだった。

 

 ――めずらしい。何年ぶりかしら……。


 エラはギルが怒っていることに委縮する気持ちはありながらも、心の半分では彼が「怒っている」熱気を感じられただけでも嬉しかった。

 身体の内部で病魔が広がっていても、シャンと伸ばした背筋とその隙のない所作の夫に、あらためてほれぼれとした視線を向けてしまう。

 エラが散髪しているギルの髪は、白と銀の髪が見事の交じっている。

 しびれがでて自由がききにくい身体になっても髪にも着衣にも緩みをみせない姿、皺はあっても弛みのない顔つき、そこにある怒りを含んだ鋭い眼差しは男らしさすら漂わせていて、エラは心の中でうっとりとした気持ちになった。

 だが、そんなエラに反して、夫のギルは寸分も眼光を和らげない。


「エラ、説明してください」


 ギルの厳しい声がとぶ。コツコツと指先でテーブルをたたかれて、もう一度説明を促される。

 剣を握ることでできたまめやたこが、化石のように同化しているギルの硬い手指。その先にあるのは、テーブルにぽつんと置かれた――深紅の小瓶。


 今、その小瓶の薬について、エラは夫から説明を求められているのだった。 

 別に夫に隠すつもりはなかったエラは、惚れこんでいる夫の目をみて純粋な眼差しのままに頷いた。


「これは、ミラ草やグルの木皮を特殊な加工をしてつけこんだ薬草酒で『ミクルゥ』と呼ばれる若返りの薬だそうです。市場の薬師の話では、肉体の時を戻してくれると」


 エラは若い頃と寸分変わらなぬ、凛とした澄んだ泉のような青い瞳を夫ギルに向ける。そんな照れも恥じらいもなく言う妻の姿にギルはいつになく眉をひそめた。


「……貴女の唇から『ミクルゥ』などという言葉が出ようとはね。……品のない」

「まぁ、そんな。若返ることに品の”有る無し”がございますの?」


 エラがそういうと、ギルは一層眉の皺を深くした。

 

「……かつて、やんごとなき姫君であった貴女の唇に、『ミクルゥ』などという妙な薬の名をのぼらせてしまったのは私の責任でしょうが……。それでも、老いた耳にも、とうてい聞き流すことはできませんね」


 ギルは夏季の頃の葉を思わせる濃い緑の瞳に、冷ややかな光をにじませたままエラを見た。

 エラはその刃物のような瞳にどきりと胸をならしつつも真正面から受け止める。エラの心に広がるのは、やはり恐怖ではなく――愛しさだった。

 四十年以上連れ添って――出会った頃の面影はありつつも、髪も肌も肉づきも随分と変化した。そんな互いに年を重ねた姿になってなお、向けられる瞳に胸を高鳴らせてしまう自分をエラは嬉しく思う。

 毎日共に暮らしてきた夫ギルの冷ややかな怒りの瞳すら、すべて胸に刻みつけておきたいのだ。 

 怒りくらいで動じる関係では……もはやない。

 それは、ギルだって承知のこと。

 すれ違うために、怒っているのではない。


「なぜ?」


 ギルはいつだって相手を理解するために、怒り、詰問するのだ。エラはそんな不器用なくらいに曲がったことが嫌いな夫を、愛しく思う。

 エラは精一杯素直な気持ちで、


「若返ると聞いたからです。これを飲めば、時を戻してくれると」

 

と答えた。

 すると、ギルは口元を歪めて笑った。

 冷酷さが一層増す。

 かつて――……今の国王の前代の若き頃、新進気鋭の剣士として、名のある猛者達をつぎつぎに倒していった、少年剣士ギルドラード。

 名を馳せた若き頃の姿を彷彿とさせる、研ぎ澄ました刃そのもののような冴え渡った雰囲気が、今、目の前の杖を脇に置き、血管の浮き出た痩せた腕となった男を覆っていた。


 あぁ、この雰囲気は、たしか”殺気”とよばれるものだった……と、エラは久しぶりに思い出した。そして懐かしくなった。



 ――ギル……ギルドラード。吟遊詩人に歌われるほどの、名のある騎士。私の愛する人。今も、昔も。



 エラの夫、ギルドラードは、少年から青年へと成長していくのと同時に、一介の少年剣士から騎士位をたまわるまでに力をつけ、成人後には王直属の白泉の騎士と呼ばれる最高位までのぼりつめた男。

 しかし吟遊詩人に歌われるには、ただの騎士としての栄華の道のためだけではなかった。

 その道には、人知れぬ秘めた恋の情熱があったからだ。

 貴族諸侯らすら圧倒させて巻きこんで、前代未聞の速さで実力と権威を身に付けた理由とは――ギルドラードが幼き日に恋をした姫君と再会するがため。

 そのことを皆が知ったのは、白泉の騎士位を賜る際、『褒賞は何をのぞむか』と王が問うたときであった。

 

 『王の末姫、美しき金の髪と熟れた果実のような赤き唇、清き泉のような澄んだ瞳のイビエラ姫との再会が願いである』と――婚約ではなく、まずは純粋に「再会」であると真摯に言った、青年となりしギルドラード。


 たった一人の姫を想う情熱を秘めた姿がどれだけ輝いていたか――……海を渡って隣国に届くほどの大恋愛恋物語として、吟遊詩人により広まってゆくほどの大注目。

 王はギルドラードの願いを叶えた。二人の再会は姫にも再びギルドラードへの恋心へとつなぎ、二人は婚約、結婚と順調に進む。

 そうして、ギルは騎士として名を馳せ続けたのだった。

 だが、壮年を過ぎ老年に差しかかる一歩手前に、表舞台から去る。『白泉の騎士』の位を自ら引退し、後は夫婦で領地のかたすみでひっそりと暮らしていると言われている。

 実はわけ合って王国中心からは離れ、人の少ない田舎を選んだのであるが……すでに田舎住まいの二人を深く追求する者もおらず、今ではかつての英雄剣士ギルドラードとイビエラ姫の物語は一種の昔語りに近い恋愛譚となっている……そのギルドラードとはギルであり、イビエラ姫とはエラである。

 


 昔、国民をうっとりさせた恋愛譚の主人公たる二人が、互いに老いて真剣に見つめ合うテーブル。

 そこに置かれる「ミクルゥ」と呼ばれる若がえりの薬。

 


「エラは……この薬が名実ともに、若返りの薬だと思って?」

「はい。もちろん、薬師のお話しでは、効果があるかどうかは賭けに近いものであるとのことでした。いったん失った肉体の時を取り戻すことは容易ではないゆえに……けれど、効果がでる者もいると……」

「……若返り、ね」


 ギルは呟いた。

 そして禍々しさすらともなう深紅の小瓶にギルは一瞬視線を投げ、それまで身体から漏れ出ることを止めていなかった殺気を、すべて納めるようにして沈黙した。


 真なる静寂が、質素な二人暮らしの家に落ちる。

 エラもまた、黙ってギルの前に立つ。

 

 小さなため息をギルがついた。

 次いでギルの年老いてもなお形の良いきりっとした口元が動く。


「……エラは、私と市井の暮らしに入って随分になりますが……まだまだ、お姫様だ」

「まさか! そんな風に言われるのは心外です。そのお薬も、きちんと私の刺繍した布で稼ぎました硬貨を貯めて来たもので、お支払いいたしました。なんでも貰えると思って市場に出ていた頃とは違いますわ!」


 エラが否定すると、ギルはもう怒りを霧散させたいつもの淡々とした眼差しでエラをみた。


「売買について言ってるのではないのです。そもそも、買い物は市場でも出来るようになっているではありませんか。そうではなく」

「そうではなく? ……偽物をつかまされていると?」

「その可能性もありますが、私がここまで追求しているのは、偽物かどうかという問題ではありません。そもそもエラはどうして私が怒っているのだと思っていますか」


 ギルの問いかけに困惑し、エラは眉を寄せた。


「勝手に薬などを買って……貴方に言わず、戸棚の奥においていたからではないのですか」


 エラがそういうと、ギルはすっと目を細めた。そして一度呼吸してから、あらたまった声で「エラ」と名を呼ぶ。


「はい」

 とすぐにこたえるエラに、ギルは驚くべきことを告げた。


「ミクルゥ……若返りと謳っている薬。この”若返り”とは、遠まわしな表現なのですよ」

「遠まわし?」

「……つまり、閨事を指すのです」

「え……」


 エラが戸惑いの表情を見せる瞬間、たたみかけるようにギルが言い放つ。 


「夜の寝台で滾らせるための薬ってわけですね。若いころのように、異性に飢えた獣のようになれる、と」


 ふだん使わないようなきわどい言葉をわざと吐いたギルは、妻に冴え冴えとした瞳を向ける。さらに追い打ちをかけるようにエラに言った。あきらかに揶揄するように。


「そして、巷では……一夜の遊びの夜のためにも多様されますね。言い換えれば、惚れ薬、とも」


 エラは驚きのあまり、瞬きも忘れショールを握る手の力も抜けていた。息をするのすらわすれたかのように、茫然と立ちつくす。

 ギルは目を細めた。

 愚かしくも愛おしい妻――白髪を上品に編み込み、ほっそりした身体をショールで重ねて包む、老いてなお可愛らしさと気品を失わないエラの、あまりの驚きよう。

 それは「ミクルゥ」の売り文句の「若がえり」の本当の意味を、少しも疑っていなかったとわかる表情だった。


「よく無事で……こんないかがわしい薬を買えましたね」


 ギルの呆れかえったような呟きにエラはカッと頬を染める。

 そんなエラに、ギルは先ほどよりも落ち着いた少し柔らかみを取り戻した声で話しかける。 


「……これは、表通りでは扱われていない薬です。裏通りの、薬店の看板など出していないような闇で扱われるもの」

「び、や、く……」

「そうです。若返りとは、肉欲の若返りを示すもの……。私も騎士であった頃、闇市を取り締まった際に存在をしりました。媚薬……それも相当に強力なものだと、当時、城の薬師からも説明を受けた薬です。……これが戸棚の奥にあったときの私の驚きが、エラにはわかりますか」


 エラは恥じ入るように目を伏せながら、震える手をぎゅっと握りしめるようにして「わかります」と頷いた。

 そんな妻を見つめながら、ギルは目を細めた。


「いいえ、エラ。貴女は少しもわかっていません」

「ギル……」

「互いに老境ではある――けれど、貴女は私にとって、まだ可憐なお姫様だ。そして同じように貴女を見る男どももこの世には、たくさんいる。いくつになっても、老いた身で恋に身を投じたい者どもも、ね。このような薬を使ってでも」

「そんなっ、わ、私は! 違います! 貴方以外の殿方に目を向けたいなどと!」


 エラは、必死に首を振った。


「知らなかったのです。本当に、身体が若返るという意味だと思ったのです。時を戻してくれる魔術でも仕込んであるのだろう……と。ましてや、そんな、この薬を他の殿方と使おうだなんて……そんな……」


 ギルはエラの純粋で少女のような答えを黙って聞いていた。エラは自分の無知への恥じらいで真っ赤になりながら、必死にギルの瞳を見つめる。

 しばらくの沈黙の後、言葉を放ったのはギルだった。


「貴女が私を裏切るとは思っていない。けれど、いくつになっても無邪気なところを残すあなたに付け入る者、甘言でだまし私から貴女をかすめ取ろうとする者はいるかもしれない――と、私はいつも警戒している。……皆に愛されし、末姫イビエラ姫であった貴女ゆえに」


 ギルの静かな言葉に、エラは息をのんだ。叱責されるよりも身にしみてくるような痛みだった。

 ギルが言葉を続ける。


「それに、エラ。……貴女が何者かに騙されこれを掴まされたのだとわかっていても、この媚薬というものを貴女が手にしたことそのものに嫉妬し苛立ちを覚える……それが、私だ。貴女のことになると、老いぼれてもなお、私は我を忘れる」

「ギル……」

「だが、貴女はそういうことをわかりはしないでしょう? エラ。貴女は単に、私が、このいかがわしい薬を見つけてしまったから、貴女が騙されたことに怒っていると勘違いしている」


 夫の言葉は一直線でごまかしを許さなかった。それは夫がかつて騎士の時にふるっていた剣の如く、鮮やかで鋭い。

 エラはギルの男としての誇りと情熱を揺るがすような心配をかけたのだということを、あらためて悟った。


「……ごめんなさい。知らなかったとはいえ、その……ご心配をおかけしてしまって」


 エラがそういうと、ギルは息をついた。

 それから立ちあがると、小さく立ちすくむエラに寄り添うように傍に立った。

 不自由になっている左手足を杖で支えるようにしながら、少し上体をかがめエラを覗き込む。


「……エラ。私もきつく言いすぎました。あやまらせるために詰問したわけではない」

「そんな……ご心配をおかけすることをしでかしてしまったのは、私です」


 首を横に振りエラは悲しげな笑みをうかべて、目を伏せた。


「私、勘違いしてたのですね。……本当に恥ずかしい……」


 ギルは机の瓶に手をのばして、ラベルを確認した。


「……これは『ミクルゥ』としては私の見る限り本物。瓶の透かし彫りの小細工も、封の印章も正確です。だからこそ私も、つい貴女が何かに問題に巻き込まれたのだと思いましたが……。そうではないのですね?」

「えぇ」

「これは表通りの薬品店には売っていないもの。しかも高価だ。いつ手に入れたのです?」

「昨年の夏季の大市場が開かれたとき……はぐれてしまいましたでしょう? あの時、さまよっていると路地の奥に魔術具を扱っている店を見つけて……」

「あやしい薬師にでもつかまりましたか。まさか、無理矢理に買わされた?」


 ギルの質問に、エラは首を横にふった。


「いいえ。私が、望んで求めたのです」

「のぞんで?」

「はい。路地裏で、朽ちかけた机に布を敷いて並べている魔術具や薬は不気味ではありました。けれど……」


 エラは、一度唇を小さく噛み、それから泣きだしそうな声で言った。


「フードをかぶった店主に……『これを飲んだら若返るよ。時を戻す魔法をかけてあるからね』と声をかけられて……。迷いましたけれど、この深紅の小瓶を見つめていたら、この薬の『若返り』に賭けてみたい気持ちにかられてしまったのです」


 そこまで言って、エラはふいに寂しげに笑った。


「……あの店の者からすれば、私が老いた寂しげなおばあさんに見えたのでしょうか。だから、このような媚薬で一夜の夢でも見て慰めよ……とでも言いたかったのでしょうか」

「エラ」

「私、そんな、老いて一夜の恋を求め、一人媚薬を求めるような浅ましい姿に思われていたのですね」


 自嘲的な物言いに、ギルは眉を寄せる。けれど、ギルが言葉を口にするまえにエラは言った。


「でも、私……本当に愚かだったのですけれど……恥ずかしいけれど、後悔していませんわ」


 エラの涙が滲む潤んだ瞳が、ギルを見つめた。 


「”若返り、時を戻す”という言葉を”そのまま”信じたこと、後悔していません。だって、心から願ったのですもの」


 その言葉にギルはいぶかしげに問う。


「……どうしてそこまでして若返りたかったのです。貴女は、今のままで……幸せなのだと思っていました」


 ギルの言葉、語尾は、ほんのかすかに震えていた。

 だがエラは、首をまたもや横に振った


「いいえ、私が若返りたかったのではないんです……貴方がこれを飲めば……若返るのではないかと思って」


 エラの言葉に、今度ははっきりとギルの顔が強張り、杖に頼る左手が小さく揺れた。


「……今の私では不満足ということですか」

「まさかっ!……そうではなく」


 エラはうつむいた。そして、一度だけ心を決めるように深呼吸した。


「……身体全体が若返るなら、あなたの病巣も小さくなり消えてくれるかもしれないと思って……」


 妻の言葉にギルは目を見開く。

 そんな夫の前で、エラは祈るように目を瞑った。手を胸の前で組み、過去を思い出し、それを変えるよう心の底から願うように。 


「……あなたは私を守り、傷と呪いを負いました……。魔物が己の死と引き換えにした呪いは、どんな手をつかっても解呪できない。あなたは呪いによる病が身体に広がってゆくばかり……。その病は世の人間の薬も効かない。ならば、身体そのものが若返るなら……時を戻すならば、呪いが全身に広がる前に戻る可能性があるのではないかと思ったんです。貴方の時が戻るならば、と」


 エラはそう言い切ったあと。

 涙をこらえるかのように、閉じていた目をさらにぎゅっと硬くつむったのだった。


 

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