蝶が五月蠅い
虫の話。
「蝶の悲鳴って五月蝿いわ」
そうつぶやくと、ヒロスエさんは苦笑した。長い脚をぐうっと伸ばして、
「珍しいな。聞いたのか?」
ヒロスエさんが面白がる理由も何となく解る。私たちは何かと様々な事柄を忘れ、けれど最終的には、秋が深まった頃、からだのつながったツガイ、私にとってのヒロスエさん、たる生命をばらばらにして食い、腹を痛めながら、ぷちぷちと泡を産まねばなるまいという思考に辿り着く(それは女としての視点である)。
私のツガイ、はヒロスエさんという、私より三日も早く生まれた男の人だ。なぜ出会ったのかも、もう覚えちゃいない。生きるたびに、忘れていく。
私たちは一つの目的のために生きる。生きるのは一つの目的のためだ。その目的に添うように、他の数十個の行動をこなす。
「この間ね。今の時期、蝶なんてあまり見ないから、思わず聞きほれてしまったの。甲高くて、でもきれいな音よ」
「ほう」
「ヒロスエさんは、聞いたことある?」
「ない。それに、蝶が舞うのは春だろ。幼い頃に兄弟達と聞いたかもしれんが、覚えているわけがない」
ふふ、と私は笑い、右の腕を前を往く芋虫に向ける。成長すれば、さぞうつくしい羽を広げて空を舞うのだろう。
芋虫は草を食みながら、ゆっくりと進んでいく。ゆっくり、ゆっくり。
私は自分の身体を見る。ああ、腹が減った、腹が減った、と全身のすべてが訴えてくる。ああ、食べねば、食べねば。ヒロスエさんを食べねば。泡を、残さねば。
「きれいだから、きれいな悲鳴をあげるのかしら。それとも、逆なのかしら」
「解らないよ」
「私、蝶になりたいわ。うつくしい悲鳴をあげて、死にたいわ」
「そうだな。蝶になれば、ツガイ、を殺さなくてもいいのだから」
ヒロスエさんは物知りだ。どこから来たのかと聞いたら、ぞっとするほど冷たい海を渡ったと返された。海の名前は覚えちゃいない。覚えられやしないのだ。今の私にあるのは、ツガイ、ツガイ、というヒロスエさんを、食べ、泡を、産む。それだけ。
「私、蝶の悲鳴は忘れないわ」
食べ、産む。ツガイ、を食べる。泡、を産む。何の意味合いがあるのかも解らない。でも、泡が、腹にある。泡を植え付けた、ツガイ、を食べねば。
食べねば。
「五月蝿い悲鳴」
「けれど、きれいだった。ヒロスエさんも、来世で聞いてみなさいよ」
「来世も、すぐに忘れてしまうよ。結局、俺たちには、この目的しかない。目的以外のことは、すべて、消し去ってしまうんだ」
「それでも、忘れたくないわ。蝶の悲鳴を聞きながら、死にたいわ」
「俺の悲鳴は、どうなんだろうな」
「解らない。もう、じきに聞くけれど」
「そうだな」
「だって、私のツガイ、なんだもの」
私の右腕は、あの芋虫のようにのろのろとヒロスエさんの背に走る。
ヒロスエさん、ツガイ。
ツガイ、ヒロスエさん。
泡を。
次の、私たちを。
見えないなにかが訴えるのだ。
我々は繰り返さねばなるまい。粛々と繰り返さねばなるまい。
「蝶の悲鳴は、透き通っているのよ。秋空に飛行機雲が一筋、走るみたいに」
「ああ。今みたいな空だな」
「ああ、そうねえ、あれは、空よねえ……ねえ、ヒロスエさん。頭が痛くて、どうしようもなくて、どうしようもないのだけれど」
「蝶の悲鳴を、聞いてみたかったなあ」
「ヒロスエさん」
「ああ」
「蝶の悲鳴は、透き通っているのよ」
私はもう繰り返さねば、で頭がいっぱいいっぱいで、溺れたことなんかないのに、これがきっと溺れるという感覚なのだと理解していた。じきに終わる。すべてが終わる。ヒロスエさんが終わり、私は泡を産み出し、産み出した誰かはツガイ、を犠牲に誰かを産み出していく。
「ああ」
「私の泡のなかの誰かも、蝶の悲鳴を聞くことになるのかしら」
「ああ」
「そしてツガイ、に話すのね」
「ああ」
「ねえ、ヒロスエさん」
「ああ」
「このことも、このことも、もう、ねえ、あるいは、もう、生まれたときから」
言葉は出てこない。言葉はあるのに、出てこない。表せない。
気がつけば、私の右腕は緑まみれになっている。私の顎はいつものように動く。
ああ、機構、だ。私はぼんやり思う。ツガイ、の血肉にまみれ、思う。
機構。
ツガイ、の悲鳴を聞いて、泡を産み出して、死ぬ。あるいは、蝶の悲鳴を聞くことも。
無機質に、食べていく。
蝶の悲鳴。ヒロスエさん。私の、ツガイ。透き通ったきれいな悲鳴。
機構にない、私だけの、記憶。
消えて往く、消えて往く。
私のヒロスエさんが、私に食われて往く。
ヒロスエさんが、泡に還って往く。
私の記憶が消えていく。泡を、泡を、産まねば。泡を、子孫を。機構を、守れ。
頭のなかで昔日がよみがえり、くるくると廻りながら、抜け落ちていく。甲高く、吹き抜けるような悲鳴が聞こえる。きれいな悲鳴は、存在するのだ。悲鳴が輪唱して、輪唱が耳鳴りになり、耳鳴りはこだましていく。
ああ。
蝶が五月蝿い。
かまきりの話。