『山月記』を私の脳内フィルターを通すとこうなる
最悪だ。本当に、身の毛もよだつほど最悪な事態だった。
ぬめりとした冷気が鼻腔を突き、湿った土と腐葉土の匂いが嫌というほど脳を揺さぶる。
喉が渇いていた。からからに干からびた舌を潤そうと、俺は目の前にある静かな小川へと膝をついた。
澄んだ水面。木漏れ日を反射するその川面に、そいつは映っていた。
橙色と漆黒の、極めて美しい縞模様。
丸く、異様な威圧感を放つ黄金の瞳。
そして、今まさに俺の驚愕に合わせて僅かに開かれた口から覗く、鋭く尖った巨大な犬歯。
俺はそっと右前脚を上げてみた。
水の中の奴も、ふさふさとした毛に覆われた太く逞しい前脚を上げた。
試しに尻尾を振ってみる。背後でぶおん、と空気を切り裂く重厚な音が響いた。
「……トラじゃん。どこからどう見ても、巨大なトラじゃん」
人語を発したつもりが、口から漏れ出たのは周囲の小鳥が一斉に飛び立つほどの、低くおどろおどろしい咆哮だった。
冷や汗が背筋を吹き抜ける。いや、虎の体に汗腺があるのかどうかは知らんが、魂が冷や冷やしているのは確かだ。
もし俺の目の前に、脳内限定でもいいからステータスウィンドウ的な半透明のパネルが浮かぶとしたら、そこには間違いなくこう記載されているはずだ。
【種族】キラータイガー(人喰い猛獣)
【状態】完全モンスター化 / メンタル崩壊
なんでこうなった?
混乱で破裂しそうな頭を抱えようとしたが、前脚の肉球がでかすぎて頭を撫でることしかできない。
しかし、深く息を吐き出し、湿った草地に巨体を横たえて冷静になってみれば、理由は嫌というほど思い当たるのだった。
原因は他でもない。全部、俺自身だ。
◇
かつての俺――李徴という人間は、そりゃあもう絵に描いたようなハイスペック男子だった。
生まれはちょっとしたインテリ家系。幼少期から「賢い子だ」とチヤホヤされ、唐の超難関国家試験である進士に、若くして一発合格。速攻でエリート官僚としてのキャリアをスタートさせた。
周りの同期や上司たちは、口を揃えて「李徴は将来、大臣クラスまで登りつめるだろう」と持て囃したものだ。
だが、当の俺の腹の中は違った。
職場に並ぶ同僚たちの顔を見るたび、俺の胸には黒々とした優越感と、それ以上の鬱屈が渦巻いていた。
(おいおい、こんな凡庸な連中と一生ヘラヘラ笑い合いながら、くだらない書類仕事に追われて人生終えるのか? 俺のこの類稀なる頭脳と感性が、こんな矮小な役人仕事で消費されていいはずがないだろ)
俺にはもっと高い使命がある。そう、文章だ。詩だ。
歴史に名を残すレベルの、不朽の大詩人になることこそが、この俺・李徴に与えられた真の天命なのだ。
そう思い立った俺は、周囲の「もったいない!」「正気か!?」という制止の声を鼻で笑い、あっさりと公務員生活を捨てた。いわゆる「早期退職してフリーランス宣言」である。
故郷である江南の地に引きこもり、人付き合いを一切断って、俺は詩の創作に没頭した。「凡人どもと交わっていては、俺の感性が腐る」と本気で思っていた。
だが――現実は、反吐が出るほど甘くなかった。
何年経っても、俺の詩は一向に世間に届かなかった。
今で言えば「投稿してもPVが全然伸びない」「評価ポイントが二桁から動かない」「出版社からの声がかかる気配が微塵もない」という状態だ。
焦った。当然焦る。生活費はどんどん削られ、着るものはボロボロになり、痩せこけていく妻や子の姿が目に入るようになった。
なら、どうすればよかったのか?
他の有名詩人の作品を研究し、流行の作風を学び、時にはプライドを捨てて先輩作家に批評を仰ぎ、読者のフィードバックに謙虚に耳を傾けるべきだったのだ。
でも、俺にはそれが絶対にできなかった。
もし頭を下げて誰かに教えを乞うたら?
もし「君の詩はここが駄目だね」と具体的に指摘されてしまったら?
もし本気で学び直しても、やっぱり才能がないと突きつけられてしまったら……?
『俺の詩が理解されないのは、世間の連中のレベルが低すぎるからだ』
そうやって自分に言い訳をし、殻に閉じこもることでしか、俺は己の自尊心を保つことができなかった。
そう。俺は「自分の才能に絶対の自信がある天才」なんぞではなかったのだ。
その正体は、「自分には才能がないのかもしれない」という残酷な現実を突きつけられるのが死ぬほど恐ろしい、ただの臆病者だったのだ。
他人に嘲笑されるのが怖いから、傷つくのが怖いから、最初から誰とも交わらない。
作品をまともに批評されて撃沈するのが怖いから、試行錯誤の努力すら投げ出す。
原作者の格調高い言葉で表現するなら、これこそが『臆病な自尊心』であり、『尊大なる羞恥心』というヤツである。
自分は磨けば光る原石(玉)だと信じ込みたいがために、刻苦努力して磨こうとはしない。
かといって、自分が瓦礫と同等かもしれないという恐怖から、完全に凡人の中に混ざり込むこともできない。
結果として、俺は己の内に潜む歪んだプライドという猛獣をすくすくと育てることになってしまった。
当然、そんな甘い考えで食っていけるほど世間は優しくない。
ついに貯金が底をつき、家族を餓死させるわけにもいかず、俺は泣く泣くプライドをドブに捨てて、再び地方の小吏(役人)として復職することになった。
そして、そこからが本当の地獄の始まりだった。
数年ぶりに職場へ戻った俺を待っていたのは、かつて俺が「凡小で何の面白みもない奴ら」と心の底から見下していた元・同僚や元・部下たちが、遥か上の管理職に昇進しているという事実だった。
かつての部下「あ、李徴さん? 久しぶり。あ、これ今日の書類の整理、定時までにやっておいてね」
俺「……は、はい。承知いたしました……」
死ぬかと思った。
いや、胃に穴が開いて物理的に死ぬかと思ったのではない。俺の肥大化した自尊心が、毎秒ごとに万力で押し潰されるような屈屈と恥辱に苛まれたのだ。
相手には悪気すらないのが尚さらキツい。彼らはただ、真面目に、愚直に自分の仕事を積み重ねてきただけなのだ。
プライドばかり高くて努力を怠り、勝手に飛び出して勝手に挫折して戻ってきた俺とは違う。
ある夜、公務の旅先で宿に泊まっていた時、俺のメンタルはついに限界を迎えた。
消えかかった燭台の火を見つめているうちに、頭の奥で何かがブツリと弾けた。
自分のこれまでの人生の惨めさ、格好悪さ、どうしようもない自尊心と恥ずかしさが、激流となって脳内を駆け巡る。
気がついた時には、俺は夜風が吹き荒ぶ暗闇の中へ飛び出していた。
「うわあああああっ!」と叫びながら、靴も履かずに走った。山道を、森を、ただひたすらに走り続けた。
誰の目にも触れたくない。こんな無様に失敗した自分を、誰にも見られたくない。人間社会から消え去りたい。
そう強く願った瞬間――俺の体は人知を超えた変化を遂げ、気がついたらこうして、森の中で一匹の巨大な虎になっていたというわけだ。
◇
「……はあぁぁぁぁぁ……」
俺は重い溜息を吐いた。水面に広がる波紋が、虎の顔をゆらゆらと歪ませる。
笑うしかない。異世界転生・モンスター化のテンプレみたいな展開だが、チート能力もなければ無双できる爽快感もない。あるのは、身を削るような自業自得の自己嫌悪だけだ。
虎になって初めて理解できた。
この恐ろしい姿は、怪異の呪いでも何でもない。俺の内にあった「人間と交わることを拒み、他人を見下し、傷つくのを恐れて暴走した醜い自尊心」が、そのまま外見として肉体化したものなのだ。
内面のバケモノが、外側に溢れ出てしまった。
だから俺は、人間をやめることになった。
「全部俺のせいじゃん……自業自得の極みじゃん……」
泣きたいのに、虎の目構造のせいか涙が出てこない。
ただ、胸の奥(あるいは胃のあたり)が絞られるように痛むだけだ。
知性や意識が残っているのが、余計にタチが悪い。
自分がどれほど痛い奴だったか、どれほど愚かだったかを、この冴え渡った脳で延々とセルフ自己分析させられるのだ。一種の拷問である。
いっそのこと、完全に理性を失って本物の野生の虎になれたらどれほど楽か。
だが、時折訪れる「完全に野獣と化す時間」から正気に戻るたび、自分の口のまわりに付着した獣の血や毛を見て、俺は激しい恐怖と自己嫌悪に震えるのだ。
俺はもう、人間には戻れない。
こ のまま人間の心を少しずつ失っていき、いつか完全に『ただの人喰い猛獣』になって消えていくのだろう。
「悲しすぎるだろ、俺の人生……」
ポエマーらしく(?)黄昏れながら、俺が前脚で地面の落ち葉をシャッシャッと引っ掻いていた、その時だった。
――ジャラ……ジャラッ……。
静まり返った早朝の森の奥から、不穏な金属音が響いてきた。
落ち葉を踏みしめる複数の足音。馬の蹄の音。そして、ピンと張り詰めた気配。
俺は耳をピクピクと動かし、身を低くして茂みの影に潜んだ。虎の野生の本能が、危険を察知して背の毛を逆立てる。
「……おい、全員、武器を構えろ! この付近の街道に、最近『人喰いの凶悪な虎』が出没するという報告がある!」
朗々と響く、凛とした男の声。
隊列の先頭で馬に跨り、立派な鎧を身に纏っている人物の顔が見えた。
(……え?)
俺は物陰から目を丸くした。黄金の瞳が、その男の顔を凝視する。
整った眉、誠実そうな目元、どこかお人好しそうな口元。
間違えるはずがない。
「袁傪……!?」
かつて、俺が人間だった頃――プライドばかり高くて周囲から浮いていた俺に対して、唯一、分け隔てなく接してくれた数少ない親友だった男。
官僚としての出世レースを愚直に歩み、今や地方の監察御史(エリート巡察官)として立派な一行を率いている、あの袁傪じゃないか!
懐かしさが胸に溢れかけた――次の瞬間、冷や汗が全身(毛皮)から噴き出した。
待て。待て待て待て。
袁傪は今、何と言った?
『人喰いの凶悪な虎が出没する』『武器を構えろ』と言わなかったか?
そして、今の俺の姿は?
橙色と黒の縞模様、体長三メートル超えのキラータイガー。
察しの良い読者なら、もうお分かりだろう。
今の俺、完全に「討伐対象のネームドモンスター」扱いされてるーーーっ!?
「よし、慎重に進むぞ。発見次第、射殺しても構わん!」
「ハッ!」
袁傪の部下たちが、一斉に鋭い矢を番え、弓を引き絞る。カチリ、と弓弦が限界まで張り詰める音が聞こえた。
やばいやばいやばい!
このままだと、久々に再会した親友の手によって、挨拶を交わす前に一瞬で討伐されてしまう!
「待て! 討伐しないで! 俺だ! 元同僚の李徴だ! 今はちょっと事情があって虎の姿をしてるけど、中身は知性派の元エリートなんだ!!」
喉を震わせて叫ぼうとしたが、口から出たのは――
「グゥオオオオオオオンッ!!!」
森全体を揺るがすほどの、恐ろしい威嚇の咆哮だった。
「出たぞ! 人喰い虎だ! 射て――っ!」
「だから違うって言ってるだろがあああああっ!!」
親友との感動の(?)再会。
しかし俺は、弓矢の雨が降り注ぐ中、己の命と遺作の詩を守るため、必死の思いで草むらから飛び出すのだった――!
【あとがき】
『山月記』は中島敦の作品で、1942年(昭和17年)に発表された作品。国立国会図書館の資料でも、現在「著作権保護期間満了」と明記されています。
日本では原則として著作者の死後70年で著作権が切れるので、中島敦の『山月記』は現在パブリックドメインとして扱えると書かれていました。
私は、『山月記』が大好きです。中学か高校の国語の授業で習った時に心臓を撃ち抜かれました。自宅で周囲に誰もいないのを確認してから、もう一度読んで盛大に笑い転げました。
笑って、嗤って、哂って最後に大泣きしました。情緒がジェットコースターでした。それから山月記が大好きです。
中島敦は漢学者の家系に生まれて、本人も東京帝国大学の国文学科で学んでいる。だから中国古典・漢文の素養が、作品の骨格にかなり深く入っていると考えます。
実際、『山月記』は中国・唐代の伝奇小説『人虎伝』を下敷きにしているとのこと。
出来れば、良かったら、興味が向いたら、娘や息子たちにも読んでくれないかな、一緒に語りたいなと考えています。
ただ、原文が、
隴西の李徴は博学才穎、天宝の末年、若くして名を虎榜に連ね、性、狷介、自ら恃むところ頗る厚く、賤吏に甘んずるを潔しとしなかった。いくばくもなく官を退いた後、故山、虢略に帰臥し、人と交を絶って、ひたすら詩作に耽った。下吏となって長く貧窮するに堪えなかったからである。
こんな感じなので、子どもたちでも気楽に読めるにはどうしたら、どうやったら布教できるか模索しています。




