席替え 中編 ~なにも手がつかない~
席替えから数日。
教室の空気は、完全に壊れていた。
主に男子たちの精神が。
「なんであんな近いんだよ……」
「ずるい……」
「松前、絶対自覚ないだろあれ……」
昼休み。
男子たちの怨嗟を背中に受けながら、マサキは購買から戻ってきた。
教室へ入る。
その瞬間、足が止まった。
自分の席。
そこに、リサがいた。
マサキの机へ身を乗り出しながら、なにかを整えている。
教科書とノートの端を揃えて。
消しゴムを真っ直ぐ置き直して。
シャーペンの向きまで合わせる。
ひとつ終わるたびに小さく頷く。
そのたびに前髪が揺れた。
「……うん、よし」
リサが静かに頷く。
満足そうだった。
そこでようやく、マサキに気づく。
「あ、松前くん」
「……」
マサキは数秒、自分の机を見る。
綺麗に揃えられた文房具に、端まで揃ったノート。
明らかにリサの仕業だった。
人の机を整えて、なにがそんなに楽しいのか分からない。
分からないのに。
妙に満足そうな顔だけは、なんとなく目に残った。
(可愛い)
席について勉強を始める。
(集中しろ)
ころ、と音がした。
マサキの消しゴムが机から落ちる。
だがマサキが動くより先に、リサがしゃがんでいた。
短いスカートがふわりと揺れる。
マサキは反射的に天井を向いた。
(……見るな)
なのに、一瞬だけ見えてしまう。
細い脚のライン、しゃがんだ拍子に浮くスカートの裾。
心臓に悪い。
「はい」
リサが消しゴムを差し出す。
笑顔だった。
「……ん」
マサキはそれを受け取った。
それだけ。
ただ、それだけのやり取りだった。
◇
体育のあと。
まだ夏の熱気が残るグラウンドは、息苦しいくらい暑かった。
マサキは首元を少し引っ張る。
(……上、置いてくれば良かった)
ジャージが暑い。
だが脱ぐのも面倒だった。
「松前くん」
後ろから声。
振り返ると、リサが小走りで追いついてくる。
暑さで少し汗ばんでいるのに、それでも綺麗だった。
頬がほんのり赤い。
ポニーテール気味にまとめた髪が揺れる。
走った拍子に胸元がわずかに上下して、マサキは瞬間的に前を向いた。
(……だから見るな)
「上脱ぐ?預かるよ」
「いや」
即答。
リサはマサキの腕を見る。
「袖まくる?」
「……うん」
するとリサは、マサキの袖へ当然のように手を伸ばした。
きっちり左右を折り返していく。
丁寧だった。
リサは満足そうに頷く。
「はい、できた」
「……ん」
リサは折り返した袖を見て、今度はマサキの顔を見る。
それからまた袖を見る。
自分でやったことなのに、なぜか満足そうだった。
胸の前で指先をそっと握る。
それを見ていた女子グループが、ひそひそ声を漏らす。
「なにあれー……」
「癒されるー……」
「かわいすぎるんだけど……」
一方男子。
「爆ぜろ」
「松前だけずるすぎる」
「なんで許されてんだよあれ……」
マサキは聞こえていても反応しない。
「……夫婦?」
ぼそっと誰かが言った。
「わかる」
「長年一緒にいる空気だよね」
「松前くん淡々としてるのがそれ」
女子たちがひそひそ騒ぐ。
マサキは無言で前を向いた。
だが隣では、リサが耳を赤くしていた。
「ふ、夫婦って……」
声が、ほんの少し嬉しそうに聞こえる。
男子たちは死んだ目だった。
◇
朝一番。
リサが登校するなり。
「松前くん」
「……なに」
「イヤホン動かなくなった」
「どれ」
マサキが手を出す。
リサは迷いなくスマホとイヤホンケースを渡した。
その動作に一切躊躇がない。
マサキはケースを開いて確認する。
「……Bluetooth切れてるだけ」
「なおるの?」
マサキは設定画面を開いた。
「壊れてないよ」
「よかったー……」
リサが本気で安心した顔をする。
頬を押さえて、目をきゅっとさせている。
こんな顔も普通に可愛かった。
「ここ長押しした?」
「した」
「ダメだろ」
「ごめんなさい」
しゅんと肩を落とす。
美少女なのに、妙に小動物っぽかった。
「なおしてください」
数秒後。
「なおった」
「わーい」
本気で嬉しそう。
その笑顔を見て、マサキは別の場所を見る。
(……そんな喜ぶことか)
でも、悪い気はしなかった。
リサはケースを受け取ると、その場でイヤホンを耳につける。
音が聞こえたらしい。
ぱっと顔が明るくなる。
分かりやすい。
本当に分かりやすい。
学校一の美少女だとか。
読者モデルだとか。
そういう肩書きを全部忘れるくらいには、喜び方だけ妙に子供っぽかった。
◇
「松前くん、これ合ってる?」
ノートを差し出しながら、リサが顔を覗き込んでくる。
マサキはページを一瞬だけ見る。
「……違う」
「どこ?」
「全部」
「え」
リサが固まる。
「全部?」
「全部」
リサは机へ突っ伏した。
その拍子に、胸元が机へ押しつけられて形が変わる。
マサキは即座に問題集へ目を戻す。
(だから見るなって……)
自分で自分に呆れる。
だが隣にいるのがリサである以上、意識するなという方が無理だった。
◇
「松前くん」
「……」
「これ押してくださいって出た。押した方がいい?」
スマホ画面を見せてくる。
マサキは一瞬で理解した。
(ポップアップ広告)
「やめとけ」
「押してくださいって出てるよ?」
「押したら爆発するぞ」
「ひぇ」
リサが真顔でスマホを引っ込める。
両手でしっかり抱えるようにして守っていた。
マサキは肩をわずかに揺らした。
呆れを含んだ息が漏れる。
でもリサは気づく。
「……今ちょっと笑った?」
「笑ってない」
「笑ったー」
「気のせいだろ」
リサは嬉しそうだった。
可愛いと思う前に問題集を見る。
◇
「松前くん、わいふぃの設定得意?」
「Wi-Fi」
「松前くん間違ってるよー」
「合ってる」
「松前くんが間違ってるんだよー」
マサキは自分のスマホでWi-Fiを検索してリサに見せた。
リサは数秒止まり。
「あっ」
耳まで赤くなる。
「……忘れて」
「わいふぃ」
「やめてー!」
教室に笑いが広がる。
リサは耳まで赤くなったまま机へ伏せる。
それでも数秒後には顔を上げていた。
ちらり。
様子をうかがうみたいにマサキを見る。
笑われていないか確認したかったのだろう。
目が合うと、今度は自分から前を向いた。
リサはずっと楽しそうだった。
◇ ◇ ◇
放課後前の教室は、まだ昼の熱を引きずっていた。
窓際では風がカーテンを揺らし、遠くで運動部の掛け声が聞こえる。
そんな中、マサキは珍しく机に肘をついたまま眠っていた。
完全に突っ伏しているわけではない。
片肘で体を支えるような、不安定な姿勢。
開いた問題集。
シャーペン。
書きかけの数式。
最近のマサキは、目に見えて勉強量が増えていた。
昼休みも、放課後も、家でも。
何かに追いつこうとするみたいに、ずっと机へ向かっている。
そのせいだろう。
今日はついに、限界が来たらしい。
「……寝てる」
隣で、リサが静かに呟く。
そっと覗き込む。
マサキの寝顔は、普段よりずっと無防備だった。
いつもの警戒感がない。
眉間の力も抜けている。
長い睫毛、少し乱れた前髪、静かな寝息。
普段は近寄りがたいくらい淡々としているのに、寝ている時だけ妙に幼く見える。
(……かわいい)
リサは周囲をちらりと見た。
男子たちが、遠巻きにこっちを見ている。
女子たちは「またやってる……」みたいな顔で笑っている。
なんだか急に嫌だった。
見せたくない。
この寝顔、自分だけが見ていたい。
リサはそっと椅子を寄せた。
マサキの前へ少し身体を入れて、外から見えにくい角度を作る。
(えへへ、独り占め……)
頬が緩む。
その時だった。
ぐらっ。
マサキの身体が傾いた。
机についていた肘が、完全に外れる。
「あぶな……」
反射的に、リサが両腕を伸ばした。
次の瞬間。
どすっ。
「……………………え?」
教室が静まる。
マサキの顔が、真正面からリサの胸元へ埋まっていた。
しかも勢いのまま倒れそうになったマサキを、リサが抱え込む形になっている。
細い腕が、マサキの肩と背中を支えていた。
(え、待って、え?)
リサの思考が止まる。
(松前くんの顔……乗って……え?)
柔らかい感触、近すぎる体温、制服越しに伝わる重み。
頭が一気に熱くなる。
頭の重みでマサキの顔が沈んでくる。
(あ、危ない、落ちちゃう……!)
咄嗟に腕をマサキの頭の下へ差し入れる。
支えようとした腕がそのまま胸側へ入り込んで、マサキの顔が左右からぎゅっと挟まれる形になった。
(お、起こさないように……っ)
ずり落ちそうになるマサキの頭を、リサは必死に抱え込んだ。
だが、その時。
「…………っ、……ん、んんっ」
眠っていたはずのマサキの喉から、苦しげな声が漏れる。
息苦しいけど柔らかい。
最初に脳へ届いた情報は、それだった。
マサキの意識がゆっくり浮上していく。
(……なんだこれ)
頬から額、顎のラインに至るまで。
顔の輪郭全体が、圧倒的な質量を持った「何か」にすっぽりと隙間なく包み込まれている。
そして、顔の皮膚越しにじわじわと伝わってくる、生々しくて心地よい体温。
ぼやけた思考のまま。
柔らかい。
いい匂い。
あたたかい。
(枕……?)
いや、こんなところに都合よく枕があるわけない。
左右から深く挟み込まれているせいで、鼻と口が塞がれかけている。
一呼吸するごとにその奥から、フローラル系のシャンプーと、どこか甘い体温が混ざったような匂いが、鼻先へ届いた。
極めつけに、密着した耳のすぐそばから、トクン、トクンと、やけに早鐘を打つ心音まで聞こえてくる。
その沈黙の中、マサキがゆっくり目を開ける。
ぼやけた視界。
白い。
視界の全面が「見覚えのある夏服の白いブラウス生地」で完全に塞がれている。
そして、自分の顔の左右を挟み込んでいる、圧倒的な「谷」のかたち。
脳がぼんやりと現実を読み取る。
(あぁ、これ…前もあったな。如月の胸だろ)
まずは、呼吸の確保。
位置を調整するために顔を左右に動かす。
右に振れば、ふにっ。
柔らかい感触が押し返してくる。
左に振れば、むにっ。
頰を優しく包み込むように形を変える。
「……」
(いや、違う違う違う違う)
頭の奥で警報みたいな音が鳴る。
本来なら「顔を上げる」という一手で終わるはずなのに、柔らかさを確認するみたいな動きになっていた。
一拍遅れて、自分のさっきの動きがまずい類のものだったと理解する。
(今の、完全にアウトだろ)
やがてマサキは、リサの腕を掴んだ。
バランスを取りながら、ゆっくり身体を起こす。
リサはもう限界だった。
耳まで真っ赤で、目が泳ぐ。
「お……おはようございますぅ……」
「……」
マサキは数秒止まる。
それでも、ぽつりと返した。
「……おはよう」
動きだけは、妙に丁寧だった。
「……………………」
一瞬の静寂。
そして。
「いやいやいやいや」
男子の絶叫が教室に響いた。
「それで終わりか!?」
「なにも言わないのかよっ」
「今のなんだよ!」
女子たちまで騒ぎ始める。
「リサちゃん完全に抱えてたよね?」
「守ってた守ってた!」
「ほんとに事故?」
リサは顔を真っ赤にしたまま、必死に言い訳する。
「だ、だって顔からいったらヤダかったし!顔大事だから!」
「そこ?」
「顔なの?!」
教室は完全に崩壊していた。
一方。
マサキだけは無言だった。
(なんでああなった)
理解が追いつかない。
感触が残っている。
めちゃくちゃ残っている。
さっきの状況が、何度も頭の中で巻き戻される。
(止まれたはずだろ)
顔を上げれば終わっていた。
それだけだったはずなのに、なぜか左右に動いた記憶だけが妙に鮮明に残っている。
(なんで確認してんだよ、あそこで……)
違う。
あれは確認じゃない。
呼吸の確保だ。
でも状況的には、どう見ても余計なことをしている側だ。
(あれは触った判定になるやつだろ)
一気に熱が上がる。
顔の内側だけがやけに騒がしい。
(忘れろ)
無理だった。
温かくて、あと匂いがした。
脳が勝手に情報を再生してくる。
問題集を見る。
文字が全く頭に入らない。
(最悪だろ……いや、むしろ最高なんだが)
マサキは問題集を見たまま、静かにシャーペンを握り直した。
(だから、その思考がダメなんだ…)
◇ ◇ ◇
(終わった……)
マサキは机に突っ伏したまま、体を起こせずにいた。
指先だけがわずかに動いて、シャーペンの位置を確かめている。
(柔らかかった)
視線は机の木目に落ちたまま止まる。
(いや違う、思い出すな)
すぐに別の記憶が重なってくる。
(温かかった)
呼吸の間に、また別の感触が割り込む。
(あの匂い)
机に額を押しつける力が少し強くなる。
(自分から当たりにいった……)
喉の奥で息が詰まり、顔を横に押しつけたまま動かない。
(頭から離れない……)
左右からの圧。
頬に残った感触。
呼吸のたびに混ざったフローラルの香り。
どれも薄れずに残ったままだった。
授業の空気が切り替わる音がして、教科書が開かれる気配が広がる。
マサキはゆっくりと上体を起こし、ノートを開いた。
シャーペンを指に挟んで、問題に目を落とす。
『次の英文を……』
視線がそこで止まる。
単語が形を持たないまま散っていく。
『important』
(大事)
(顔大事だから)
「っ……」
マサキはシャーペンを机に置き直し、少しだけ肩を落とした。
ページの上で視線が行き場を失う。
それでも隣の動きだけは入ってくる。
リサがこちらをちらりと見て、すぐ前に向き直る。
そのたびに頭の中で別の場面が差し込まれる。
(抱え込まれてた)
(完全に守られてた)
(挟まっていた)
思考が順番を持たずに重なっていき、区切りが消えていく。
教室の後ろで男子たちの声が続く。
「いやあいつ絶対起きてた」
「如月さんが受け入れすぎ」
「顔が乗るでかさってやばいよな」
「普段からああいうのやってる?」
マサキは無言のまま両手で顔を覆った。
指の隙間から教科書だけが見えている。
無理だ。
今日はもう無理だった。
◇ ◇ ◇
英語の授業終了を告げるチャイムが鳴った。
教室の空気が一気にほどける。
教科書が閉じられる音がいくつも重なる。
椅子が引かれて、机が軽く揺れる。
「次なんだっけ?」
そんな声があちこちで上がる。
数分後にはまた授業が始まる、短い休み時間特有のざわつきが広がっていく。
窓際では午後の風がカーテンをゆっくり揺らしていた。
その動きだけが妙にゆっくり見える。
けれど、マサキの席だけは音が薄いままだった。
机の上には開きっぱなしの問題集。
シャーペンは途中の位置で止まっている。
そこから動いていない。
(……無理だろ)
問題集を見下ろしたまま、マサキは息を吐く。
頭に入らない。
二次関数のグラフも、英文法の並びも、どこかで途切れてしまう。
そのたびに、別の記憶が割り込んでくる。
柔らかかった。
近かった。
あの匂い。
制服越しの感触まで、やけに細かく残っていた。
(忘れろ)
マサキはシャーペンを握り直して、問題文に目を落とす。
三行ほど進んだところで、また止まる。
真正面。
視界の端じゃなく、正面に出てくる。
甘い匂いだけが残る。
(だからなんで覚えてるんだ……)
額に手を当てたまま、マサキは動かない。
嫌だったわけではない。
むしろ逆で、それが一番厄介だった。
もし嫌なら、ここまで残らない。
ここまで繰り返し浮かばない。
ただ、どう扱えばいいのかが分からない。
整理の仕方がないまま、思考だけが止まる。
(勉強しろ……)
せっかくやることを決めて、前に進めていたはずだった。
それなのに今は、問題集より先にリサの体温の記憶が浮かぶ。
終わっていた。
◇
リサもまた、全く手が止まっていた。
ノートは開かれたまま。
ペンも握られたまま。
それでも、ページには何も増えていない。
(やばいやばいやばい……)
耳の先まで熱が広がる。
頬も熱い。
胸の奥だけが落ち着かない速さで鳴っている。
さっきの光景が、何度も勝手に再生される。
マサキが倒れてきて。
慌てて支えて。
気づいたら、顔が胸のあたりに触れていて。
(きゃーーーっ)
思い出した瞬間、机に額を押しつけたくなる。
けれど体は動かず、ペンだけが指の中で固まったままだった。
意識すればするほど、残っている。
マサキの重さも、体温も、そのまま引っかかるように残っている。
そして。
一番引っかかるのは、そこじゃなかった。
(ど、どうしよう……気まずくなってたら……)
そっと横を見る。
マサキは問題集に目を落としている。
いつも通りの無表情。
声も出さないまま、ページだけを見ている。
静かすぎる。
避けられているのか。
怒っているのか。
それとも、もう何もなかったことにされているのか。
マサキは言葉が少ない。
だから余計に分からない。
(このまま変な空気になるのやだ……)
ノートの端をぎゅっと握る。
せっかく最近、普通に話せるようになってきた。
短い会話で笑えるようになってきた。
隣にいるのが、当たり前みたいに感じられるようになってきた。
それがここで途切れるのは嫌だった。
リサは息を吸って、マサキへ顔を向ける。
ペンを持ち直す指先に、ほんの少しだけ力が入る。
そして、声を出した。
◇
「松前くん、昨日眠れなかったの?」
マサキの目が少しだけ横に動く。
問題集の上で止まっていた手が、一拍遅れて動いた。
「……んー、勉強」
短い返事。
それでも、返ってきたこと自体がリサには嬉しかった。
同時に少しだけ安心だった。
「え、家で? えらーい」
「如月、家で勉強しないの?」
返しが来て、リサは肩をわずかにすくめる。
机に置いた指先を一度引っ込めて、ノートの端をつまんだ。
「家で一人でやってもすぐ止めちゃう」
「……そういうのはあるな」
「でしょー?」
リサが笑う。
その動きに合わせて、肩までの髪が軽く揺れた。
午後の光が差し込んで、白い頬に淡く色が乗る。
もともと目立つ存在だったが、近くで見ると本当に完成度が高い。
睫毛が長い。
肌が綺麗。
しかも今日は体育後だからか、少しだけ頬が赤い。
机へ身を寄せた拍子に、制服の線がわずかに形を変えた。
マサキの目がそこで止まりかけて、すぐ問題集へ戻る。
(……可愛いな)
その直後。
(胸でかい……)
思考が終わっていた。
マサキは無言で問題集へ目を落とす。
だが集中はできない。
さっきから理性が全然仕事をしない。
「勉強できるようになって楽しくなっちゃった?」
「……まぁ、それもあるな」
半分は本当だった。
問題が解けるのは嫌いじゃない。
積み上がっていく感じもある。
でも。
一番大きい理由は言えなかった。
焦っていた。
リサはモデルとして前へ進んでいる。
ミオも教師になるという目標を持っている。
自分だけが、ずっと止まっていた気がした。
だから今は、とにかく積むしかない。
そう思っていた。
「松前くん勉強できるんだし、寝不足になってまですることなくない?」
「……如月」
「ん?」
「やけに普通にしてるけど……さっきの、気にしてないのか」
その瞬間。
リサの肩がぴくっと動く。
「き、気にしてないわけじゃないけど……」
声が少し裏返る。
目が机の上を行ったり来たりする。
「今までも何回かあったじゃない」
「……なにが」
「えと……ネカフェで、あたしが…寝ぼけて…」
「やめろ、思い出させるな」
「松前くんが聞いたんじゃん」
リサが顔を真っ赤にしたまま、肩をわずかに動かす。
マサキは短く息を吐いて、机の端へ目を落としたまま固まる。
思い出す。
だから困る。
しかも相手がリサだから余計にダメだった。
距離が近い。
触れてくる。
笑いながら普通に入ってくる。
そのたびに変な音が胸の中で鳴って、呼吸のタイミングがずれる。
そのたびに心拍数がおかしくなるのに、本人はたぶん半分くらい無自覚だ。
いや、最近は少し自覚してやっている気もする。
どっちにしろ心臓に悪い。
一方リサは、普通に話しかけてくる。
ちゃんと会話できている。
避けられてはいない。
それだけで、胸の奥が少し軽くなる。
でも次の瞬間、また不安が戻る。
「てゆーかさ……」
リサはノートの端を指でいじりながら、ちら、とマサキを見る。
落ち着かない仕草だった。
目も少し泳いでいる。
「そんなトラウマ扱いされるとショックなんだけど」
「……」
「ちょっとは嬉しいとかないの?」
マサキの手が止まった。
教室の喧騒が遠くなる。
数秒。
沈黙。
(……嬉しい?)
マサキの思考が止まる。
<嬉しい>と思っていいのか、と言われると。
(いや待て)
急に変な方向へ思考が滑る。
あれを。
あの柔らかさとか距離とかを。
嬉しい側で処理していいのか。
リサはそれを許可してるのか。
(……だめだろ)
なにを考えているんだ。
しかも目の前には、その原因となる本人がいる。
午後の光を受けた横顔。
少し不安そうな目。
机へ寄せた身体のライン。
(…でかい)
意識するなと言う方が無理だった。
マサキは前を向く。
でも、誤魔化すのも違う気がした。
ゆっくり言葉を探す。
「……悪い。トラウマとかじゃない。ただ」
「……ただ?」
リサが静かに聞き返す。
マサキは少しだけ眉をひそめた。
うまく言語化できない。
「……なにも手がつかなくなる」
「……え」
「だから困ってる」
その瞬間。
リサの思考が真っ白になった。
心臓が跳ねる。
それって。
つまり。
(ずっと意識してるってこと……?)
マサキはもう問題集へ目を戻していた。
逃げるみたいに。
でも耳だけ少し赤い。
リサはそれを見て、完全に動けなくなる。
嬉しい。
恥ずかしい。
苦しい。
全部が一気に押し寄せてくる。
「……そうなんだ」
声が出た。
けれど、その口元は。
どうしても隠しきれないくらい、嬉しそうに緩んでいた。





