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距離感ゼロの如月さんと自己評価ゼロのオレ  作者: 空色いろはに
2学期 編

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86/110

席替え 中編 ~なにも手がつかない~

 席替えから数日。

 教室の空気は、完全に壊れていた。

 主に男子たちの精神が。


「なんであんな近いんだよ……」


「ずるい……」


「松前、絶対自覚ないだろあれ……」


 昼休み。

 男子たちの怨嗟を背中に受けながら、マサキは購買から戻ってきた。


 教室へ入る。

 その瞬間、足が止まった。


 自分の席。

 そこに、リサがいた。

 マサキの机へ身を乗り出しながら、なにかを整えている。


 教科書とノートの端を揃えて。

 消しゴムを真っ直ぐ置き直して。

 シャーペンの向きまで合わせる。


 ひとつ終わるたびに小さく頷く。

 そのたびに前髪が揺れた。


「……うん、よし」


 リサが静かに頷く。

 満足そうだった。

 そこでようやく、マサキに気づく。


「あ、松前くん」


「……」


 マサキは数秒、自分の机を見る。

 綺麗に揃えられた文房具に、端まで揃ったノート。

 明らかにリサの仕業だった。


 人の机を整えて、なにがそんなに楽しいのか分からない。

 分からないのに。

 妙に満足そうな顔だけは、なんとなく目に残った。


(可愛い)


 席について勉強を始める。


(集中しろ)


 ころ、と音がした。

 マサキの消しゴムが机から落ちる。

 だがマサキが動くより先に、リサがしゃがんでいた。

 短いスカートがふわりと揺れる。

 マサキは反射的に天井を向いた。


(……見るな)


 なのに、一瞬だけ見えてしまう。

 細い脚のライン、しゃがんだ拍子に浮くスカートの裾。

 心臓に悪い。


「はい」


 リサが消しゴムを差し出す。

 笑顔だった。


「……ん」


 マサキはそれを受け取った。

 それだけ。

 ただ、それだけのやり取りだった。


 ◇


 体育のあと。

 まだ夏の熱気が残るグラウンドは、息苦しいくらい暑かった。

 マサキは首元を少し引っ張る。


(……上、置いてくれば良かった)


 ジャージが暑い。

 だが脱ぐのも面倒だった。


「松前くん」


 後ろから声。

 振り返ると、リサが小走りで追いついてくる。


 暑さで少し汗ばんでいるのに、それでも綺麗だった。

 頬がほんのり赤い。

 ポニーテール気味にまとめた髪が揺れる。

 走った拍子に胸元がわずかに上下して、マサキは瞬間的に前を向いた。


(……だから見るな)


「上脱ぐ?預かるよ」


「いや」


 即答。

 リサはマサキの腕を見る。


「袖まくる?」


「……うん」


 するとリサは、マサキの袖へ当然のように手を伸ばした。

 きっちり左右を折り返していく。

 丁寧だった。


 リサは満足そうに頷く。


「はい、できた」


「……ん」


 リサは折り返した袖を見て、今度はマサキの顔を見る。

 それからまた袖を見る。

 自分でやったことなのに、なぜか満足そうだった。

 胸の前で指先をそっと握る。


 それを見ていた女子グループが、ひそひそ声を漏らす。


「なにあれー……」


「癒されるー……」


「かわいすぎるんだけど……」


 一方男子。


「爆ぜろ」


「松前だけずるすぎる」


「なんで許されてんだよあれ……」


 マサキは聞こえていても反応しない。


「……夫婦?」


 ぼそっと誰かが言った。


「わかる」


「長年一緒にいる空気だよね」


「松前くん淡々としてるのがそれ」


 女子たちがひそひそ騒ぐ。

 マサキは無言で前を向いた。

 だが隣では、リサが耳を赤くしていた。


「ふ、夫婦って……」


 声が、ほんの少し嬉しそうに聞こえる。

 男子たちは死んだ目だった。


 ◇


 朝一番。

 リサが登校するなり。


「松前くん」


「……なに」


「イヤホン動かなくなった」


「どれ」


 マサキが手を出す。

 リサは迷いなくスマホとイヤホンケースを渡した。

 その動作に一切躊躇がない。

 マサキはケースを開いて確認する。


「……Bluetooth切れてるだけ」


「なおるの?」


 マサキは設定画面を開いた。


「壊れてないよ」


「よかったー……」


 リサが本気で安心した顔をする。

 頬を押さえて、目をきゅっとさせている。

 こんな顔も普通に可愛かった。


「ここ長押しした?」


「した」


「ダメだろ」


「ごめんなさい」


 しゅんと肩を落とす。

 美少女なのに、妙に小動物っぽかった。


「なおしてください」


 数秒後。


「なおった」


「わーい」


 本気で嬉しそう。

 その笑顔を見て、マサキは別の場所を見る。


(……そんな喜ぶことか)


 でも、悪い気はしなかった。


 リサはケースを受け取ると、その場でイヤホンを耳につける。

 音が聞こえたらしい。

 ぱっと顔が明るくなる。


 分かりやすい。

 本当に分かりやすい。


 学校一の美少女だとか。

 読者モデルだとか。


 そういう肩書きを全部忘れるくらいには、喜び方だけ妙に子供っぽかった。


 ◇


「松前くん、これ合ってる?」


 ノートを差し出しながら、リサが顔を覗き込んでくる。

 マサキはページを一瞬だけ見る。


「……違う」


「どこ?」


「全部」


「え」


 リサが固まる。


「全部?」


「全部」


 リサは机へ突っ伏した。

 その拍子に、胸元が机へ押しつけられて形が変わる。

 マサキは即座に問題集へ目を戻す。


(だから見るなって……)


 自分で自分に呆れる。

 だが隣にいるのがリサである以上、意識するなという方が無理だった。


 ◇


「松前くん」


「……」


「これ押してくださいって出た。押した方がいい?」


 スマホ画面を見せてくる。

 マサキは一瞬で理解した。


(ポップアップ広告)


「やめとけ」


「押してくださいって出てるよ?」


「押したら爆発するぞ」


「ひぇ」


 リサが真顔でスマホを引っ込める。

 両手でしっかり抱えるようにして守っていた。


 マサキは肩をわずかに揺らした。

 呆れを含んだ息が漏れる。

 でもリサは気づく。


「……今ちょっと笑った?」


「笑ってない」


「笑ったー」


「気のせいだろ」


 リサは嬉しそうだった。

 可愛いと思う前に問題集を見る。


 ◇


「松前くん、わいふぃの設定得意?」


「Wi-Fi」


「松前くん間違ってるよー」


「合ってる」


「松前くんが間違ってるんだよー」


 マサキは自分のスマホでWi-Fiを検索してリサに見せた。

 リサは数秒止まり。


「あっ」


 耳まで赤くなる。


「……忘れて」


「わいふぃ」


「やめてー!」


 教室に笑いが広がる。


 リサは耳まで赤くなったまま机へ伏せる。

 それでも数秒後には顔を上げていた。


 ちらり。


 様子をうかがうみたいにマサキを見る。

 笑われていないか確認したかったのだろう。

 目が合うと、今度は自分から前を向いた。


 リサはずっと楽しそうだった。


 ◇ ◇ ◇


 放課後前の教室は、まだ昼の熱を引きずっていた。

 窓際では風がカーテンを揺らし、遠くで運動部の掛け声が聞こえる。


 そんな中、マサキは珍しく机に肘をついたまま眠っていた。

 完全に突っ伏しているわけではない。

 片肘で体を支えるような、不安定な姿勢。


 開いた問題集。

 シャーペン。

 書きかけの数式。


 最近のマサキは、目に見えて勉強量が増えていた。

 昼休みも、放課後も、家でも。

 何かに追いつこうとするみたいに、ずっと机へ向かっている。

 そのせいだろう。


 今日はついに、限界が来たらしい。


「……寝てる」


 隣で、リサが静かに呟く。

 そっと覗き込む。


 マサキの寝顔は、普段よりずっと無防備だった。

 いつもの警戒感がない。

 眉間の力も抜けている。


 長い睫毛、少し乱れた前髪、静かな寝息。


 普段は近寄りがたいくらい淡々としているのに、寝ている時だけ妙に幼く見える。


(……かわいい)


 リサは周囲をちらりと見た。

 男子たちが、遠巻きにこっちを見ている。

 女子たちは「またやってる……」みたいな顔で笑っている。


 なんだか急に嫌だった。

 見せたくない。

 この寝顔、自分だけが見ていたい。


 リサはそっと椅子を寄せた。

 マサキの前へ少し身体を入れて、外から見えにくい角度を作る。


(えへへ、独り占め……)


 頬が緩む。

 その時だった。

 ぐらっ。

 マサキの身体が傾いた。

 机についていた肘が、完全に外れる。


「あぶな……」


 反射的に、リサが両腕を伸ばした。

 次の瞬間。

 どすっ。


「……………………え?」


 教室が静まる。

 マサキの顔が、真正面からリサの胸元へ埋まっていた。

 しかも勢いのまま倒れそうになったマサキを、リサが抱え込む形になっている。

 細い腕が、マサキの肩と背中を支えていた。


(え、待って、え?)


 リサの思考が止まる。


(松前くんの顔……乗って……え?)


 柔らかい感触、近すぎる体温、制服越しに伝わる重み。

 頭が一気に熱くなる。

 頭の重みでマサキの顔が沈んでくる。


(あ、危ない、落ちちゃう……!)


 咄嗟に腕をマサキの頭の下へ差し入れる。

 支えようとした腕がそのまま胸側へ入り込んで、マサキの顔が左右からぎゅっと挟まれる形になった。


(お、起こさないように……っ)


 ずり落ちそうになるマサキの頭を、リサは必死に抱え込んだ。

 だが、その時。


「…………っ、……ん、んんっ」


 眠っていたはずのマサキの喉から、苦しげな声が漏れる。

 息苦しいけど柔らかい。

 最初に脳へ届いた情報は、それだった。

 マサキの意識がゆっくり浮上していく。


(……なんだこれ)


 頬から額、顎のラインに至るまで。

 顔の輪郭全体が、圧倒的な質量を持った「何か」にすっぽりと隙間なく包み込まれている。

 そして、顔の皮膚越しにじわじわと伝わってくる、生々しくて心地よい体温。

 ぼやけた思考のまま。


 柔らかい。

 いい匂い。

 あたたかい。


(枕……?)


 いや、こんなところに都合よく枕があるわけない。


 左右から深く挟み込まれているせいで、鼻と口が塞がれかけている。

 一呼吸するごとにその奥から、フローラル系のシャンプーと、どこか甘い体温が混ざったような匂いが、鼻先へ届いた。

 極めつけに、密着した耳のすぐそばから、トクン、トクンと、やけに早鐘を打つ心音まで聞こえてくる。


 その沈黙の中、マサキがゆっくり目を開ける。

 ぼやけた視界。


 白い。

 視界の全面が「見覚えのある夏服の白いブラウス生地」で完全に塞がれている。


 そして、自分の顔の左右を挟み込んでいる、圧倒的な「谷」のかたち。

 脳がぼんやりと現実を読み取る。


(あぁ、これ…前もあったな。如月の胸だろ)


 まずは、呼吸の確保。

 位置を調整するために顔を左右に動かす。


 右に振れば、ふにっ。

 柔らかい感触が押し返してくる。

 左に振れば、むにっ。

 頰を優しく包み込むように形を変える。


「……」


(いや、違う違う違う違う)


 頭の奥で警報みたいな音が鳴る。

 本来なら「顔を上げる」という一手で終わるはずなのに、柔らかさを確認するみたいな動きになっていた。

 一拍遅れて、自分のさっきの動きがまずい類のものだったと理解する。


(今の、完全にアウトだろ)


 やがてマサキは、リサの腕を掴んだ。

 バランスを取りながら、ゆっくり身体を起こす。

 リサはもう限界だった。

 耳まで真っ赤で、目が泳ぐ。


「お……おはようございますぅ……」


「……」


 マサキは数秒止まる。

 それでも、ぽつりと返した。


「……おはよう」


 動きだけは、妙に丁寧だった。


「……………………」


 一瞬の静寂。

 そして。


「いやいやいやいや」


 男子の絶叫が教室に響いた。


「それで終わりか!?」


「なにも言わないのかよっ」


「今のなんだよ!」


 女子たちまで騒ぎ始める。


「リサちゃん完全に抱えてたよね?」


「守ってた守ってた!」


「ほんとに事故?」


 リサは顔を真っ赤にしたまま、必死に言い訳する。


「だ、だって顔からいったらヤダかったし!顔大事だから!」


「そこ?」


「顔なの?!」


 教室は完全に崩壊していた。

 一方。

 マサキだけは無言だった。


(なんでああなった)


 理解が追いつかない。

 感触が残っている。

 めちゃくちゃ残っている。

 さっきの状況が、何度も頭の中で巻き戻される。


(止まれたはずだろ)


 顔を上げれば終わっていた。

 それだけだったはずなのに、なぜか左右に動いた記憶だけが妙に鮮明に残っている。


(なんで確認してんだよ、あそこで……)


 違う。

 あれは確認じゃない。

 呼吸の確保だ。

 でも状況的には、どう見ても余計なことをしている側だ。


(あれは触った判定になるやつだろ)


 一気に熱が上がる。

 顔の内側だけがやけに騒がしい。


(忘れろ)


 無理だった。

 温かくて、あと匂いがした。

 脳が勝手に情報を再生してくる。

 問題集を見る。

 文字が全く頭に入らない。


(最悪だろ……いや、むしろ最高なんだが)


 マサキは問題集を見たまま、静かにシャーペンを握り直した。


(だから、その思考がダメなんだ…)


 ◇ ◇ ◇


(終わった……)


 マサキは机に突っ伏したまま、体を起こせずにいた。

 指先だけがわずかに動いて、シャーペンの位置を確かめている。


(柔らかかった)


 視線は机の木目に落ちたまま止まる。


(いや違う、思い出すな)


 すぐに別の記憶が重なってくる。


(温かかった)


 呼吸の間に、また別の感触が割り込む。


(あの匂い)


 机に額を押しつける力が少し強くなる。


(自分から当たりにいった……)


 喉の奥で息が詰まり、顔を横に押しつけたまま動かない。


(頭から離れない……)


 左右からの圧。

 頬に残った感触。

 呼吸のたびに混ざったフローラルの香り。

 どれも薄れずに残ったままだった。


 授業の空気が切り替わる音がして、教科書が開かれる気配が広がる。

 マサキはゆっくりと上体を起こし、ノートを開いた。

 シャーペンを指に挟んで、問題に目を落とす。


『次の英文を……』


 視線がそこで止まる。


 単語が形を持たないまま散っていく。


『important』


(大事)


(顔大事だから)


「っ……」


 マサキはシャーペンを机に置き直し、少しだけ肩を落とした。

 ページの上で視線が行き場を失う。


 それでも隣の動きだけは入ってくる。

 リサがこちらをちらりと見て、すぐ前に向き直る。


 そのたびに頭の中で別の場面が差し込まれる。


(抱え込まれてた)


(完全に守られてた)


(挟まっていた)


 思考が順番を持たずに重なっていき、区切りが消えていく。


 教室の後ろで男子たちの声が続く。


「いやあいつ絶対起きてた」


「如月さんが受け入れすぎ」


「顔が乗るでかさってやばいよな」


「普段からああいうのやってる?」


 マサキは無言のまま両手で顔を覆った。

 指の隙間から教科書だけが見えている。


 無理だ。

 今日はもう無理だった。


 ◇ ◇ ◇


 英語の授業終了を告げるチャイムが鳴った。

 教室の空気が一気にほどける。


 教科書が閉じられる音がいくつも重なる。

 椅子が引かれて、机が軽く揺れる。


「次なんだっけ?」


 そんな声があちこちで上がる。

 数分後にはまた授業が始まる、短い休み時間特有のざわつきが広がっていく。


 窓際では午後の風がカーテンをゆっくり揺らしていた。

 その動きだけが妙にゆっくり見える。


 けれど、マサキの席だけは音が薄いままだった。

 机の上には開きっぱなしの問題集。

 シャーペンは途中の位置で止まっている。

 そこから動いていない。


(……無理だろ)


 問題集を見下ろしたまま、マサキは息を吐く。


 頭に入らない。

 二次関数のグラフも、英文法の並びも、どこかで途切れてしまう。

 そのたびに、別の記憶が割り込んでくる。


 柔らかかった。

 近かった。

 あの匂い。


 制服越しの感触まで、やけに細かく残っていた。


(忘れろ)


 マサキはシャーペンを握り直して、問題文に目を落とす。

 三行ほど進んだところで、また止まる。


 真正面。

 視界の端じゃなく、正面に出てくる。

 甘い匂いだけが残る。


(だからなんで覚えてるんだ……)


 額に手を当てたまま、マサキは動かない。


 嫌だったわけではない。

 むしろ逆で、それが一番厄介だった。


 もし嫌なら、ここまで残らない。

 ここまで繰り返し浮かばない。


 ただ、どう扱えばいいのかが分からない。

 整理の仕方がないまま、思考だけが止まる。


(勉強しろ……)


 せっかくやることを決めて、前に進めていたはずだった。

 それなのに今は、問題集より先にリサの体温の記憶が浮かぶ。


 終わっていた。


 ◇


 リサもまた、全く手が止まっていた。


 ノートは開かれたまま。

 ペンも握られたまま。

 それでも、ページには何も増えていない。


(やばいやばいやばい……)


 耳の先まで熱が広がる。

 頬も熱い。

 胸の奥だけが落ち着かない速さで鳴っている。


 さっきの光景が、何度も勝手に再生される。

 マサキが倒れてきて。

 慌てて支えて。

 気づいたら、顔が胸のあたりに触れていて。


(きゃーーーっ)


 思い出した瞬間、机に額を押しつけたくなる。

 けれど体は動かず、ペンだけが指の中で固まったままだった。


 意識すればするほど、残っている。

 マサキの重さも、体温も、そのまま引っかかるように残っている。


 そして。


 一番引っかかるのは、そこじゃなかった。


(ど、どうしよう……気まずくなってたら……)


 そっと横を見る。


 マサキは問題集に目を落としている。

 いつも通りの無表情。

 声も出さないまま、ページだけを見ている。


 静かすぎる。


 避けられているのか。

 怒っているのか。

 それとも、もう何もなかったことにされているのか。


 マサキは言葉が少ない。

 だから余計に分からない。


(このまま変な空気になるのやだ……)


 ノートの端をぎゅっと握る。


 せっかく最近、普通に話せるようになってきた。

 短い会話で笑えるようになってきた。

 隣にいるのが、当たり前みたいに感じられるようになってきた。


 それがここで途切れるのは嫌だった。


 リサは息を吸って、マサキへ顔を向ける。

 ペンを持ち直す指先に、ほんの少しだけ力が入る。


 そして、声を出した。


 ◇


「松前くん、昨日眠れなかったの?」


 マサキの目が少しだけ横に動く。

 問題集の上で止まっていた手が、一拍遅れて動いた。


「……んー、勉強」


 短い返事。

 それでも、返ってきたこと自体がリサには嬉しかった。

 同時に少しだけ安心だった。


「え、家で? えらーい」


「如月、家で勉強しないの?」


 返しが来て、リサは肩をわずかにすくめる。

 机に置いた指先を一度引っ込めて、ノートの端をつまんだ。


「家で一人でやってもすぐ止めちゃう」


「……そういうのはあるな」


「でしょー?」


 リサが笑う。

 その動きに合わせて、肩までの髪が軽く揺れた。

 午後の光が差し込んで、白い頬に淡く色が乗る。


 もともと目立つ存在だったが、近くで見ると本当に完成度が高い。

 睫毛が長い。

 肌が綺麗。

 しかも今日は体育後だからか、少しだけ頬が赤い。


 机へ身を寄せた拍子に、制服の線がわずかに形を変えた。

 マサキの目がそこで止まりかけて、すぐ問題集へ戻る。


(……可愛いな)


 その直後。


(胸でかい……)


 思考が終わっていた。

 マサキは無言で問題集へ目を落とす。

 だが集中はできない。

 さっきから理性が全然仕事をしない。


「勉強できるようになって楽しくなっちゃった?」


「……まぁ、それもあるな」


 半分は本当だった。

 問題が解けるのは嫌いじゃない。

 積み上がっていく感じもある。


 でも。

 一番大きい理由は言えなかった。


 焦っていた。

 リサはモデルとして前へ進んでいる。

 ミオも教師になるという目標を持っている。

 自分だけが、ずっと止まっていた気がした。

 だから今は、とにかく積むしかない。

 そう思っていた。


「松前くん勉強できるんだし、寝不足になってまですることなくない?」


「……如月」


「ん?」


「やけに普通にしてるけど……さっきの、気にしてないのか」


 その瞬間。

 リサの肩がぴくっと動く。


「き、気にしてないわけじゃないけど……」


 声が少し裏返る。

 目が机の上を行ったり来たりする。


「今までも何回かあったじゃない」


「……なにが」


「えと……ネカフェで、あたしが…寝ぼけて…」


「やめろ、思い出させるな」


「松前くんが聞いたんじゃん」


 リサが顔を真っ赤にしたまま、肩をわずかに動かす。

 マサキは短く息を吐いて、机の端へ目を落としたまま固まる。


 思い出す。

 だから困る。

 しかも相手がリサだから余計にダメだった。


 距離が近い。

 触れてくる。

 笑いながら普通に入ってくる。


 そのたびに変な音が胸の中で鳴って、呼吸のタイミングがずれる。


 そのたびに心拍数がおかしくなるのに、本人はたぶん半分くらい無自覚だ。

 いや、最近は少し自覚してやっている気もする。

 どっちにしろ心臓に悪い。


 一方リサは、普通に話しかけてくる。


 ちゃんと会話できている。

 避けられてはいない。

 それだけで、胸の奥が少し軽くなる。

 でも次の瞬間、また不安が戻る。


「てゆーかさ……」


 リサはノートの端を指でいじりながら、ちら、とマサキを見る。

 落ち着かない仕草だった。

 目も少し泳いでいる。


「そんなトラウマ扱いされるとショックなんだけど」


「……」


「ちょっとは嬉しいとかないの?」


 マサキの手が止まった。

 教室の喧騒が遠くなる。

 数秒。

 沈黙。


(……嬉しい?)


 マサキの思考が止まる。

 <嬉しい>と思っていいのか、と言われると。


(いや待て)


 急に変な方向へ思考が滑る。

 あれを。

 あの柔らかさとか距離とかを。

 嬉しい側で処理していいのか。

 リサはそれを許可してるのか。


(……だめだろ)


 なにを考えているんだ。

 しかも目の前には、その原因となる本人がいる。

 午後の光を受けた横顔。

 少し不安そうな目。

 机へ寄せた身体のライン。


(…でかい)


 意識するなと言う方が無理だった。

 マサキは前を向く。

 でも、誤魔化すのも違う気がした。

 ゆっくり言葉を探す。


「……悪い。トラウマとかじゃない。ただ」


「……ただ?」


 リサが静かに聞き返す。

 マサキは少しだけ眉をひそめた。

 うまく言語化できない。


「……なにも手がつかなくなる」


「……え」


「だから困ってる」


 その瞬間。

 リサの思考が真っ白になった。

 心臓が跳ねる。

 それって。

 つまり。


(ずっと意識してるってこと……?)


 マサキはもう問題集へ目を戻していた。

 逃げるみたいに。

 でも耳だけ少し赤い。

 リサはそれを見て、完全に動けなくなる。

 嬉しい。

 恥ずかしい。

 苦しい。

 全部が一気に押し寄せてくる。


「……そうなんだ」


 声が出た。

 けれど、その口元は。

 どうしても隠しきれないくらい、嬉しそうに緩んでいた。

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