7.デート2
待ち合わせの時間より少し早く着いてしまった。
王都の中央広場。待ち合わせ場所に指定された噴水の前で、私は自分の格好を見下ろした。
クローゼットの奥に仕舞い込んでいたワンピース。薄い水色で、袖口に小さな刺繍が入っている。母のものだ。
「セレス」
声がして顔を上げると、シオン様が歩いてくるところだった。
いつもと違う、仕事着ではない装い。それでもやはり様になっている。
そしてシオン様は私を見た瞬間、少し目を止めた。
「……綺麗だ」
「どうも」
「もう少し喜んでくれても」
「参りましょう」
私は歩き出した。後ろでシオン様が苦笑する気配がした。
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連れて行かれたのは王都の東側、古い街並みが残る一角だった。
「ここ、知ってる人少ないんだよね」
シオン様が立ち止まったのは、看板も小さな古書店の前だった。
店内に入ると、天井まで届く棚に本がぎっしりと詰まっていた。
「……!」
思わず足が止まる。
歴史書、語学書、自然哲学、農学、建築。背表紙を目で追うだけで胸が騒いだ。
「好きそうだと思って」
シオン様が隣で言った。
私は何も言わずに棚へ向かった。
指先で背表紙を辿る。
一冊、引き抜いた。古代語の文献集だった。原典のまま収録されている。こんなものがまだ残っていたのか。
「それ、古代語の本?」
シオン様が覗き込んだ。
「ええ。貴族の教養で習う範囲より、ずっと古い時代の文献です。この時代の古代語は現代に伝わっている文法規則とも少し違っていて」
「どう違うの?」
「動詞の活用が今より複雑なんです。時制だけで六種類あって、さらに話者の感情によって語尾が変化する。喜びと悲しみで同じ単語でも形が変わるんです」
「感情で語尾が変わる言語か。面白いね」
「この文献はその感情活用が特に豊富に記録されていて……あ、例えばこの一節など、原典で読むと翻訳では伝わらないものがあって」
私は本を開き、該当の箇所を指した。
「現代語に訳すと『星が落ちた』という一文なのですが、原典では悲嘆の語尾がついているんです。ただ事実を述べているのではなく、語り手が胸を引き裂かれるほど嘆いているという感情が、文法の中に直接刻まれているんです」
「訳した瞬間に感情が抜け落ちるんだね」
「そうなんです。だから原典で読まないと本当の意味がわからない。この文献に収録されている叙事詩も、翻訳版だと平坦な英雄譚にしか見えないのに、原典では語り手の後悔や誇りや悲しみが文法の中に埋め込まれていて……」
気づいたら話していた。
感情活用の体系がいかに豊かか。翻訳が取りこぼすものがいかに多いか。この文献がなぜ貴重なのか。
シオン様は黙って聞いていた。
最初は「へえ」とか「それは知らなかった」と相槌を打っていたのが、途中からは「その語尾変化、他の動詞にも適用される?」「叙事詩の主人公が使う活用と脇役が使う活用は違う?」と、的確な問いを投げてくるようになっていた。
いつの間にかシオン様は会話についてきていた。
教養レベルの知識から始めて、私の話を聞きながら、あっさりと。
天才たる所以を見たような。
途中まで思いかけて、ふと私は口を閉じた。
「……すみません。つい」
「え、なんで謝るの」
「話しすぎました」
本を棚に戻す。
頭の中で、声がしたのだ。
『秀才ぶるなよ』
昔、元婚約者に言われた言葉だ。古代語の話をしたとき、うんざりした顔をされた。誰が興味あるんだ、と。
知識をひけらかしたつもりはなかった。ただ面白いと思ったことを話しただけだった。
でも。
きっと私が悪かったのだ。場をわきまえなかった私が。
「セレス」
シオン様の声がした。
「さっきの話、続きを聞かせて」
「……いえ、もう十分です」
「十分じゃないよ。叙事詩の話、途中だったでしょ」
「シオン様には退屈でしょう」
「退屈だったら途中で質問しないよ」
私は顔を上げた。
シオン様は棚に肩をもたせかけ、こちらを見ていた。笑ってもいない。からかう様子もない。
「続き、聞かせてくれる?」
私はしばらくシオン様の顔を見ていた。
きっと彼は私の話を遮らず聞いてくれるだろう。
質問も的確で、私の言葉を吸収してものにしてくれる。
でも、それでも、元婚約者の言葉が離れない。
私は黙ったまま、別の棚へ向かった。
シオン様は何も言わなかった。
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帰り道、私は本を数冊抱えていた。
夕暮れが石畳を橙色に染めている。
「楽しかった?」
シオン様が聞いた。
「……充実はしてました」
それ以上は言わなかった。
シオン様は笑った。
しばらく歩いて、別れ際になったとき、シオン様が言った。
「次は、さ」
「一回だけと言いましたが」
「服を選ばせて欲しい」
「は?」
「今日のワンピース、すごく似合ってたよ。だから次は僕に選ばせて」
「何を言ってるんですか」
「一回だけって言ったのはデートの話でしょ。服選びはデートじゃないから」
「それは詭弁です」
私は息をついた。
「……シオン様」
「うん」
「貴方は本当に何を考えているのかわかりません」
シオン様は少し間を置いて、穏やかに言った。
「セレスのことが好き。それだけだよ」
「なぜそこまで」
シオン様は少し黙った。そして口を開いた。
「最初はね、仕事ぶりが気になったんだよ」
歩きながら、シオン様は続けた。
「今まで来た部下は全員途中でいなくなったから、セレスも当然そうなると思ってた。でも全然そうならなかった。弱音も吐かないし、愚痴も言わない。淡々と、ただ的確にこなしていく」
「それは……仕事なので」
「そうだけど、できない人の方が多いよ。激務なのは事実だし」
シオン様は少し間を置いた。
「で、決定的だったのはあの北部の税収の話をしたときかな」
「……あの雑談ですか」
「セレスが資料室の文書まで読み込んでて、僕が気づいてなかった角度から話してきたでしょ。」
シオン様は笑った。
「あのとき初めて思ったんだよね。この人は純粋に知ることが好きなんだって。そういう人に会ったのが初めてで、それからずっと気になってた」
私は何も言わなかった。
ただ前を向いて、歩いた。
「で、今日」
シオン様の声が少し柔らかくなった。
「感情が文法に刻まれた言語、って話、もっと聞きたかった。叙事詩の原典も、続きを読んでみたい。今日セレスと話して、そう思った」
さらりと言った。
押しつけがましくない、でも確かな言葉だった。
「セレスが話してくれるたびに、僕はもっと知りたいと思う。それが積み重なって、今に至る感じ。気づいたら好きになってた」
私はしばらく、手の中の本を見つめた。
古代語の文献集。感情が文法に刻まれた言語の本。
「……そうですか」
うまい返しが見つからなかった。
ただ、胸の中で何かがじわりと動いていた。
「シオン様」
「うん」
「好きな分野は、何ですか」
我ながら唐突だと思った。
シオン様が少し目を瞬いた。
「え?」
「今日は私ばかり話してしまいました。次は、シオン様の好きなことを聞かせてください」
言ってから、少し恥ずかしくなった。
自分から次を提案してしまうとは。
でも、本当に楽しかったのだ。
否定しないですべて聞いてくれて、最低限の知識しかないはずなのに、私の言葉から学んでくれて、質問も的確で。
私も、返したいと思ってしまった。
シオン様はしばらく私の顔を見ていた。
それから、今日一番嬉しそうな顔で笑った。
「……それ、次のデートの約束だよ」
「そ、そういうつもりでは」
「僕はそう聞こえた」
「……好きに解釈してください」
私は歩き出した。
後ろでシオン様が小さく笑う声がした。
「おやすみ、セレス。今日楽しかった」
シオン様は軽く手を振って、夕暮れの中に歩いていった。
私はしばらくその場に立っていた。
胸の中に、何か小さくて温かいものが残っていた。




