3.仕事
宰相候補の補佐として働き始めて三ヶ月ほどが経った。
最初は戸惑うことも多かったが、今では大分慣れてきた。
文句を言いに来る侯爵家の対応、利権を求める商会との面談などなど、普通に生きていたら経験しないようなことも一通り経験した。
それも喉元過ぎれば何とやら。流石に慣れてしまった。
さて、今日は書類整理だろうか。男爵家との面談調整は昨日終わった。発言記録の整理も終わった。今日は提出書類の処理と整理をして、午後には……
「セレスおはよう。早速だけど陛下に提出する資料まとめるよ。今日中に」
前言撤回。
この仕事はまだ慣れそうにない。
---
「……何の資料ですか」
「税制改正案。各領地の税収データを引っ張って、現行制度との比較と、改正した場合のシミュレーションまで」
「今日中に、ですか」
「うん、今日中に」
シオン様はにこやかに繰り返した。
私は一度だけ目を閉じて、覚悟を決めて開いた。
「わかりました」
嘆いても仕方ない。やれと言われたらやるしかないのだ。
まず必要なデータの洗い出しから始める。
各領地から提出された直近五年分の税収報告、昨年の農業収穫高、商業取引記録、それから人口動態。
データの種類だけで既に相当な量になる。
「領地報告の原本はどこですか」
「棚の左から三番目。年度別に分けてあるよ」
私は棚へ向かい、必要な年度分を一気に引き出した。並べて、まず数値の確認から入る。
税収データを書き写しながら、頭の中で同時に比較軸を組み立てていく。
現行税率と改正案の差分、領地規模ごとの影響度、歳入全体への波及。
シミュレーションの条件も複数パターン用意しなければ。
「セレス、農業系の領地と商業系の領地は分けて集計して。影響の出方が全然違うから」
「既にそのつもりです」
「……あ、うん」
シオン様が少し間を置いた気がしたが、気にせず手を動かした。
昼食は手元で軽く済ませ、一切の休憩も取らずに作業をしたが、それでもまだ半分も終わっていない。
窓からは夕日が見える。
今日は確実に残業だな、と私は悟った。
手元の資料を見ながら考える。
改正案が領地ごとの実情に合っているかの検証も必要だ。抜け漏れがあれば陛下への提出資料として使えない。
一瞬、机に向かっているシオン様に目を向ける。
珍しく顔から笑みが消えていた。
眉をわずかに寄せ、手元の資料を食い入るように見ている。
こんな顔もするのか、と思った。
三ヶ月、隣で仕事をしてきたが、こういう表情は初めて見た気がした。
私はすぐに視線を戻した。
今夜中に仕上げなければならない項目はまだある。余計なことを考えている暇はない。
---
「お、わった……」
最後の数値を書き込んで、羽ペンを置いた。
「お疲れ、セレス」
顔を上げると、シオン様も資料から目を離し、背もたれに身を預けていた。
いつもより少しだけ疲れた顔をしている。
机の上には、今日一日かけてまとめ上げた資料が積まれていた。
各領地の税収データ、現行制度との比較、複数パターンのシミュレーション。
シオン様と協力したという前提はあるが、我ながらよくこれだけのものを一日でまとめたと思う。
達成感があった。
仕事をしていてこれほど充実した感覚を得たのはいつぶりだろう。
シオン様は資料をぱらぱらとめくりながら、苦笑した。
「使われるといいな、これ」
「え……、使われないことがあるんですか」
「よくあるよ」
あっさりと言った。
「政策って、作るだけ作って結局お蔵入りになることが多いんだよね。上の判断が変わったり、情勢が動いたり。今日みたいな資料も、陛下の一言でなかったことになる場合もある」
私は少しの間、手元の資料を見つめた。
今日一日かけた膨大な作業。積み上げたデータ。検証したシミュレーション。
それが使われないことがある。
ふと、別のことを思い出した。
婚約が決まった幼い頃から、ずっと続けてきたことがあった。
手紙を欠かさなかった。イベントがあれば一緒に参加した。
婚約者の興味のある分野を勉強した。
婚約者の領地のことを調べた。
学園を卒業するその間近まで、何年も積み重ねてきた。
それが全部、一言で終わった。
『すまない。婚約は解消してほしい』
たったその一言で、幼少期からのなにもかもが崩れ去った。
一日かけた資料が使われないことがある。
でも、あの努力に比べたら
「そういうこともありますよね」
今日の事はあっさりと受け入れられた。
「使われなくても、今後の判断材料になることもあるでしょう。私たちの仕事の糧にもなりますし。無駄にはならないと思います」
まぎれもなく本心だった。
それを聞いたシオン様は少し黙った。
顔を上げると、シオン様がこちらを見ていた。さっきまでの苦笑ではない、少し違う表情で。
「……セレスって、あっさりしてるね」
「そうですか」
「普通もう少し落ち込むよ、今日これだけやったんだから」
「何年も続けた努力がすべて無駄になるよりずっとましです」
シオン様はしばらく私の顔を見ていた。
「……そうだね」
結局そう言って、シオン様は資料を揃えて立ち上がった。
「今日はありがとう。助かった」
「仕事ですから」
シオン様は笑った。
でもその笑い方は、いつもの飄々としたものとは少しだけ違う気がした。




